空いた隙間に綺麗に嵌まるものだから(鍾タル) 公子殿、と唐突に名を呼ばれて手が止まった。外しかけた神の目に指を添えたまま、視線だけを男に向ける。なんだ、気が変わりでもしたのだろうか。
「俺を抱いてくれないか」
「えっ、いいの?」
「……待て。性行為の話ではないぞ」
露骨に目を輝かせた俺にすかさず否定が入った。まるで俺が非常識なことを言ったかのような胡乱な目つきに逆に言い返したくもなってくる。今このタイミングで言うそっちの方が悪いんじゃないだろうか。肉体関係を持っている男二人。いつも性行為に及ぶ鍾離先生の自宅の寝室で「抱く」といえば連想するべきものはひとつに決まっているのに。
なぁんだ、と肩を竦めた。どこかで断るのが面倒になってきたり、変な気を起こしたりしてその気になってくれやしないかと何度か戯れに持ち掛けたことはあった。だが、一度も承諾を得たことはない。何がそこまで拘るのかはよくわからない。無理矢理とか、何かしらの手段を用いることは考えなかったわけじゃないが、後が怖いので実行したことはなかった。強者に挑むことは好きだが負け戦がしたいわけではないので。
「抱擁のほうだ」
寝台に腰を下ろしていた鍾離先生は手にしていた書物を置くと、いつでもどうぞと言わんばかりに軽く腕を広げてみせた。どうやら本気で言っているらしい。全く理解はできないが。
「なんで俺? ハグされたいならさ、ほら、往生堂の人とかにでも頼んだらどう。あとは相棒とか」
「未婚の女性に抱擁してくれなどと言うわけがないだろう……」
「なんで俺が非常識みたいになってるのかなあ。じゃあ男は。確かいたよね?」
「そんなに嫌か」
「別に嫌ってほどじゃないけれど、進んでしたいわけでもないよ」
鍾離先生とは何度もセックスはしているけれど、「抱き合った」とはなんとなく言い難い。しがみつくならこの男よりもシーツや枕だし、べったりくっつきあうようなやりかたはしてこなかった。特別嫌なわけではないが、する理由もなかった。それに汗ばんだ肌を密着させあうのは何となく、気が引ける。
見下ろした男は依然として動かなかった。無言のまま、じ、とこちらを見つめてくる。落ち込むふりのひとつやふたつして見せてくれればちょっとは考えてあげてもいいのだけれど。――まあ、いいか。意固地になるのも変な話だし、別に嫌なわけではない。
「はあ、……わかったよ」
隣に腰を下ろしてそう告げた。男の身体がこちらに向く。腕はそのまま広げられていた。肩幅も胸の厚みもさほど変わらない男の身体。なんとまあ無防備な懐だろう、としか思えないがそこに刃を振るったところで通用する未来は描けない。まったく、隙があるんだかないんだか。
広げられた脇に両腕を差し込む。身体を寄せて、ぎゅう、と回した腕に力を込めた。こんな風に誰かを抱き締めるのはいつぶりだろう。ちいさな弟妹にするハグは抱き締めるというよりも抱き上げるというほうが正しくて。多分、一番最近に帰郷したとき、姉と交わした別れのハグが最後だったかもしれない。あたたかい温度が不思議だった。この男の人肌を知らないわけでもあるまいに。だが、あたたかい、ひとの温度をしていることが無性に不思議で、可笑しかった。懐かしいようでいて、まったくの未知のような。不思議な感覚になんだか笑えてきて、ふ、と呼気を漏らす。
しかし、不意に抱き返されて一瞬息が止まった。姉なんかのものとは比べ物にならない、力のある男の腕だ。でも痛くも乱暴でもなく。なんだろう、「抱き締められている」ってきっとこういう状態を正しくそう呼ぶのかもしれない。無性に居心地が悪かった。でも嫌じゃない。座りの悪くなるあたたかさだった。心の隅を撫でまわされるような、落ち着かない感じ。
鍾離先生は何も言わなかった。笑っている気配もしなければ、欲情しているわけでもないし、それ以外の何の情動も感じなかった。ただ黙って、俺と抱き合っている。まるで味わっているみたいに。
とうとう焦れったくなってきて、鍾離先生、と呼んだ。想定以上に不貞腐れた音が出たのが少し気まずい。
「……ふむ、」
「満足したかい?」
そうだな、とぽつりと呟きながら背筋を不意に撫でられた。喉から上擦った音が出る。こいつ、そういう触りかたをしやがった。俺の反応がお気に召したらしく、愉快そうに笑う声。腹が立ったので拳を作って軽く背中にぶつけてやろうかと掌を握り込んだそのとき。
「存外、悪くないな」
あんまりにもやわらかな声で呟くものだから。力が抜けた。なんなんだ。何がしたいんだ、と思わなくはないけれど。まあ、もうすこしぐらいはこのままでいてやってもいいかなと思う。
男の肩に頬を預ける。シャツ越しの体温はあたたかだった。