倒錯は誰のせい(鍾タル) 誰も彼もが寝静まる深い夜の頃。鍾離先生の自宅を訪れると出迎えてきたのは、つくりもののように美しい女だった。
その女は、赤い紅を引いた薄いくちびるで、「ああ、公子殿か」といつも通りの低音で紡ぐものだから。すごく、混乱した。視覚情報と音声情報の不一致でおかしくなったのかとさえ思うほどに。
「……は?」
「どうした。随分と愉快な顔つきになっているが、入らないのか」
俺の頭がおかしくなってしまったのだろうか。あまりにも当然のような顔をする。俺はどんな間抜け面をしていたなど考えたくはないけれど。
「……入るよ。おじゃまします」
「ああ、」
招き入れられるまま室内に足を踏み入れる。一人暮らしには広すぎる彼の自宅の中でも俺が入ったことがあるのは寝室と浴室ぐらいのものだった。そのまままっすぐ寝室に向かう。俺よりも先んじて進む鍾離先生の後ろ姿に、妙に意識が向いた。
一般的な璃月の長袍を身に纏う背中はどう見ても男のそれだが、ゆったりとしたラインが骨格を隠している。誤魔化しようのない肩はストールを被ればわからなくなる。身長は相変わらずだが。仙術だとか非凡人的な手段は用いない、きちんとした技術のある女装のようだった。人間の美醜なんてまともに頓着したことはないし、関心もさほどない方である自覚はあるが、それでも美しい後ろ姿だと思った。贔屓目どころか厳しい目で見ても、すらりとしたその立ち姿は目を惹かれるものがある。
「どうしたのその格好。女装趣味なんてあったんだね」
寝台に腰を下ろす。鍾離先生の肩からするりと上等そうなストールが落ちて、椅子に掛けられた。やはり肩が見えると男の身体つきをしているのがよくわかる。かっちりとした普段の衣服や、逆にそれらを全部取っ払った裸よりも、ずっと。じわりと背中が熱を持っていた。こんなことで劣情を刺激された実感を持ちたくなどなかったのだけれど。不思議だった。からだを見た程度で刺激される性欲が己のなかにまだ眠っていただなんて。とうに、どこかに捨てたと思っていたのに。
神の目と仮面、ピアスを取り払って、寝台の傍にあるサイドチェストに置く。あとは好きなように脱がせるほうがこの男の好みなので手は付けない。良い趣味とは言えない。何が楽しくてこの面倒な衣服をひとつひとつ丁寧に脱がせたがるのかと問うたことがあったけれど、あのとき鍾離先生は何と言っていたのだったか。
「趣味ではない。往生堂の講義で少しばかり、必要があった。参考資料のようなものだ」
「参考?」
「璃月の古い風習として、葬儀では異性装をするべきではない、というものがある。理由は陰陽の秩序が乱れるからだ。葬儀の場でなければ、あえて自らに陰と陽、すなわち男と女という要素を両立させることによって――」
引き金を引いたのは確かに俺だったけれど、流石にここで話を聞きはじめるとセックスどころじゃなくなりかねない。面白い話を聞くことは嫌いじゃないから、一度好奇心が刺激されるとそちらに気が持っていかれることは目に見えている。
「待った。ここでも講義を始めるつもりかな?」
「ふむ。興味はないか」
「なくはないけど、今じゃないかな」
そうか、と鍾離先生は首肯して、踵を返した。少し待っていてくれ、と言葉を添えて。服の裾がひらりと靡くのにまた視線を奪われて、思わずそれを掴んだ。くん、と服を引っ張られた男は珍しく姿勢を崩して、怪訝な顔で振り返った。
咄嗟のことだったので気まずい。ひらひらとしたもの、揺れるものに意識が向きやすいのが人間の性質だという話は聞いたことがある。それにしたって、振り返る女性の服を毎度引っ掴むような無作法はいつぶりだろう。子供の頃に姉のスカートの裾を引っ張りすぎて怒られたことがある。それぶりかもしれない。思い出すと尚更恥が勝った。
「な、にかな、と思って?」
「化粧を落としてくる。公子殿の愉快な顔を見たら満足したからな」
悪趣味。そう吐き出すと囁きにも似た薄い笑い声が降ってくる。声と気配はしばらく動かなかったが、またその影が離れようとする。こちらの無言を許しと受け取ったようだった。
なんだろうか。喉に小骨が引っかかったような。ふつりと泡が弾けたような。妙な気がかり。なんてことはない、無視できる程度の心残り。無視しても良かったけれど、そうだ、ちょうどそのとき思い出した。
あのとき鍾離先生が言っていた言葉。面倒な服を脱がせる理由。それは綺麗な梱包をひとつひとつ丁寧に剥ぎ取ることに似ているのだと。それゆえの達成感があるのだと。俺をプレゼントの中身扱いなどしないで欲しかったし、まったくいい趣味とは言えないなと思ったのだったか。今もそれに異論はない。異論はない、が。
悪趣味は俺も同じだったらしい。
待って、とその背中に投げかける。
「あのさ、今日はこのまましない?」
「一応、この衣服は往生堂の所有なのだが、」
「弁償するよ」
汚さないという選択肢は初めから捨てている。剥ぎ取って、汚して、めちゃくちゃにしてやりたい。今の格好はそれが随分と似合うような気がした。白粉が汗で溶けたどろどろの顔をして、まるで普通の男のような顔をして腰を振る姿を見てみたい。この男がどう考えているのかは知らないが、俺の欲望はきっとそういうかたちをしている。欲望には逆らわない。それが信条だ。理由はそれだけで十分だった。
鍾離先生の大きな溜息に笑って返す。そうやって仕方がなさそうな顔をしているくせに、目はしっかり欲望にぎらついているのだから愉快で仕方がなかった。
あ、っという間に寝台の上にひっくり返される。どこか粉っぽくて油っぽい匂いに混じった、男のいつも纏う香のかおりに頭の奥がじわりと痺れる。ああ、たまらない。
うつくしいおんなの顔が、おとこの目をして俺を見下ろしていた。