処女雪を踏み荒らして踊る(鍾タル) はじめてというものはいつだって喪失と隣り合わせだ。まっさらな新雪の上に足を踏み入れるように、踏みつけた場所はもう元には戻らない。永遠に失った「はじめて」を惜しむことも、振り返ることも今更したりはしない。俺は前だけを見て進むことを信条としているから。ただ、それでも。だからこそ、かもしれないが。人より多くの経験を重ねたこの身に残された数少ない初体験というものを見つけると、どこかくすぐったい気持ちになってしまう。
だから鍾離先生が泥酔というものを知らないと話したとき、「俺もだよ」と思わず零してしまったのだ。食後の茶を啜る男はぴくりとも表情を動かさずに、意外だな、と呟いた。だったらもう少し意外そうな顔を作ってほしいものだが。
「酔っ払い慣れているように思われていたなんて、すこし心外だなあ」
「スネージナヤでは比較的幼い頃に酒の飲み方を親から教わる、と書物で読んだことがある。あるいは、寒冷地において暖を取るために有効とも。泥酔する機会には事欠かなかっただろう」
間違いではなかった。実際、十三歳の誕生日の日にはちいさなグラスにラズベリーの甘い酒を入れてもらって乾杯をした。ファデュイでの雪山に籠る訓練や任務では、決まって皆が酒を持ち込んで暖を取った。璃月のことは知らないが、多くの国を渡り歩いてみれば自国の習慣の一般的でない部分ぐらいは見れるようになってくる。
「まあそうだね。ただ、うちの家系はスネージナヤ人の中でも強いほうだったし、あとは訓練とか試薬の所為かな。薬もアルコールもあんまり効かないんだ」
「なるほど」
互いの前に置かれた食前酒のグラスはとうに空になっていた。花を漬け込んだ香り高い酒だった。鍾離先生との食事は少量の、質の良い酒をすこしだけ飲むことが多い。酩酊感をもたらさない飲酒にさほどの魅力は感じないが、少し変わった味わいのするものは楽しめるからやぶさかではない。やはり璃月での食事の面は鍾離先生に任せれば間違いがなくて助かる。
冷めはじめている茶に手を伸ばして一度だけ口をつける。話題も程よく尽きてきた頃合いだ。そろそろお開きとするべきだろう。
ふと、視線を上げると何故だか視線が重なった。感情の色がまるで窺えない黄金の瞳がじっとこちらを見据えている。
「ときに公子殿、」
「うん、なにかな?」
「その機会があると言ったらどうする」
淡々と述べた男はそうやって首をすこしばかり傾けてみせた。少しばかり興味があってな、とそう続けて。
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お互いに所かまわず醜態を晒せる身の上ではないので、鍾離先生の自宅にお邪魔することになった。酒を買い込み、つまみにちょっと料理のテイクアウトをして。しかしアルコールが効かない体質の男と、そもそも酔うことができる体のつくりをしているのかすら怪しい魔神とが揃って何を試そうというのか。その仕組みの詳細は理解できなかったが、要するに普段この男が使用するシールドの原理を応用して人体のアルコール耐性を下げているのだとか。そんないんちきが通用するのかと疑ったけれど、実際、さほど杯を開けないうちに身体の調子が狂ってきたので間違いではないのだろう。
妙に体幹が落ち着かない。頭が、胴体が、手足が、普段何食わぬ顔で居座っているのが不思議なほどぐらぐらしている。うわついているのに、身体のパーツひとつひとつはずっしりと重い。思考がまとまらない。浮かんだ先から解けてかたちにならない。それなのにおかしなほど愉快で、箸が転がっても笑えるという比喩がまさにしっくりくるような。――つまるところ、俺は、ものの見事に泥酔しているらしかった。
重い頭は手のひらで支えなければいつくずおれてもおかしくない有様だった。空いている方の手で、残り僅かになった料理の皿を空けてしまおうと箸を握る。
感じる視線。その元を辿った先には鍾離先生の笑顔。こんな花が綻ぶような笑顔をこの男が俺に見せたことが今まであっただろうか。穏やかに下がる眦にどこか居心地が悪くなって、不貞腐れた声が出る。
「なんだよ、鍾離せんせ、」
「ふ、っふふ、」
「そんなにおれの箸のもちかたが、おかしいって?」
「ああ、――」
「あ? なんて?」
「――、」
聞き取れなかったのは俺の耳がおかしくなったのか鍾離先生の呂律がもうだめになっていたのか判別がつかなかったが、どちらでもないらしい。発音がどうやっても耳慣れない。テイワットの共通語にはない音のような気がした。璃月の古い言葉なのだろうか。
まったく。浮かれるのは結構だが、意思疎通が取れなくなるのは面倒だ。あの鍾離先生がそこまで酩酊する様を見られるのは貴重で大変愉快極まりないけれど、そういう面倒をみてやるほどの無償の優しさの持ち合わせは尽きている。
そろそろお互いに水を飲んで、酔いを冷ましたほうがいいかもしれない。すこし遠い距離にあるグラスと水差し。立ち上がるのは少し億劫で、箸を置いて代わりに手を伸ばした。
「はあ、……鍾離先生、グラス取ってくれる?」
「……」
鍾離先生は何故だか目を丸くしてこちらを見ていた。普段は怜悧に研ぎ澄まされた瞳がそうも色を変えられると胸の奥がざわついて仕方がない。ときめき、とは違うと思う。どちらかというともっと物騒で危うげな感じ。なぜだかこっちが急所を晒しているときのようなひやりとした感覚に近しいかもしれない。とにかく落ち着かなかった。ごにょりと何か言われたが何を言っているのかよくわからない。
「グラス、取ってくれってば、」
「……――、」
静かに何事かが告げられる。木製の椅子の足が床を擦る音。酔っているとはいえ、不覚を取られた。状況を理解したのはその感触のやわらかさを認識してから、ようやくのことだった。
鍾離先生に、キスされている。音も立てずに柔らかな唇が離れて行って、どこか現実逃避に走った頭の隅で、ああこの男もやわらかい場所があるのだなとぼんやりと思った。あと、これがファーストキスだな、だとか。
嫌悪感はあまりなかった。別段よくもなかったが。そもそもこういったことに興味がなければ好いも悪いも感じないのだろうか。惚けているうちにもう一度重ねられる。今度はちゅ、と可愛らしい音を立てて軽く下唇が吸われて、食まれる。一度、二度、三度。角度を変えて、強弱を変えて、幾度かそれが繰り返される。息継ぎの呼吸もすかさず喰らわれる。飲んでいた酒の香りと、鍾離先生が元々身に纏っている香りが混ざって肺がいっぱいに満たされる。あまったるいような清涼なような、それでいて妙に、くらりとするような。
押さえつけられはしなかった。強いて挙げるなら添える程度に後頭部に手があてがわれていたけれど、容易く拒める程度の強さだ。でも、拒まなかった。心地がよくて。それと、ひとかけらの好奇心。それはきっと猛毒になる。一滴で致死量の好奇心。でも抗い難いものだった。幾万の人々に崇められてきた男が、自分にくちづけをしている。意味が分からない。理解ができない。公平で公正で、万人の一般的な尺度を誰より知っているはずのこの男が! 理解不能な、暴挙としか言いようのない行動に出ているのがどうにもおかしくて。
「ッは、あははっ、」
「……ん?」
鍾離先生の反応にも構わず、笑いながら目の前の男の肩に頬をすり寄せた。ふふ、あはは、と引かない笑いに身を任せていると、瞼が重くなってくる。後頭部の髪を撫でられる感触も決して悪くはなくて、眠気が雪崩れ込んでくる。ああ、もうすこし、このまま――……。
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目を覚ますと、見知らぬ天井がまず目に入る。反射的に身体を起こすと、ぐらりと鈍痛と共に昨晩の記憶が頭蓋を揺らした。ああ、そうだ、昨日は。その場の気分で鍾離先生の自宅で飲み明かして、見事に泥酔して、キスされて、そのまま寝落ちたのか。指折り数えればその失態の数に我ながら呆れてしまう。溜息をつくと、同時に寝室のドアが開いた。
顔を出したのは鍾離先生だった。普段着ではない、室内着らしいゆったりとした黒地の簡素な衣服を身に纏っている。同時にふわりとドアの隙間から漂ってくる、薬っぽい、ハーブティーのような匂い。
「目を覚ましたか」
「おかげさまでね。おはよう、鍾離先生」
「ああ。ちょうど頃合いかと思って茶を淹れたから飲むといい。二日酔いに効く」
じゃあ有難く貰おうかな、と返しながら身体を起こす。幸いにも頭が僅かに痛む以外の身体の不調はどこにも見当たらなかった。ぐるんと肩を回し、膝を曲げ伸ばしする。いつだって正常で万全に動く自慢の肉体。起きて間もなく頭をよぎった、酒の勢いで性行為に及んでしまったというよくある失敗談が到底ありえなさそうだということも実感できて一安心する。キスだけならまだしも、合意無く、しかも記憶も曖昧なままセックスしてしまうだなんて耐えられそうにない。もし、万が一が起こるのだとしても、それはお互いに理解と合意の上で為されるべきだ。色恋沙汰への興味はないけれど、意思と判断能力を失うことはあってはならない。それが何であろうとも。
鍾離先生の背中を追って簡素な台所まで足を運ぶ。四脚の椅子と、大きめのテーブル。とりあえず人並みのものを揃えてみました、みたいな。お手本のような一揃いが微笑ましい。さほど使ったこともなさそうなそのひとつに腰を下ろす。
ほどなくして上等な茶器に注がれた茶が目の前に置かれた。鍾離先生も同じものを飲むつもりらしく、同じ杯が並び、テーブルをはさんだ向かい側に彼も腰かけた。早速口をつけると、ほろ苦いが渋くはない味、独特なすこし薬っぽい香りが鼻を抜けていく。寝起きでぼんやりとしていた頭がすっきりと冴えわたるような味わいだった。
鍾離先生は茶に一度口をつけてから、ところで、と口を開いた。
「昨晩の感想を訊いてもいいか」
「あまり頻繁に体験したいものじゃなかったかな」
「はは、公子殿は気に入らなかったか」
「まあ、面白くはあったけどね。鍾離先生が酔うとキス魔になることも知れたし」
普段の宴席で話をするときのように、どこか物珍しげな好奇心と愉快そうな色を含んでいた鍾離先生の表情が曇る。眉間に皺が寄って、いかにも心外だと言いたげな顔をしていた。なんだ。まさか記憶にありませんなんて言うつもりじゃないだろうな。あんな熱烈なキスをしておいて。
「何を言う。口付けを乞うてきたのは公子殿のほうだろう」
「え? 勘違いだろ。鍾離先生ともあろう人が、記憶が混濁しているなんてらしくないね」
「俺の記憶を疑うとは、よほどの自信があるらしい」
「いやだって、まともに喋れてすらなかったくせによくそんなに自信満々でいられるね? あれは何、璃月の現地語みたいなもの?」
「うん?」
斜め四十五度に傾く鍾離先生の首。売り言葉に買い言葉で、事情を知らない人間が見れば喧嘩を危ぶまれてもおかしくはないやり取りをしていたはずが、突如、流れが堰き止められる。やはり覚えがないのだろうか。記憶を辿り、昨晩、彼が口にした言葉のうち辛うじて発音できそうな音をなぞって口にする。
「……ああ、なるほど。それは璃月ができる以前の、旧い言葉だ。それならば合点がいく。昨晩、確かに公子殿にどうにも言葉が通じていないような気がしていた」
「あははっ、鍾離先生も酔うとそういう風になったりするんだね」
「どうやらそのようだ」
確かに、酔うと気が緩んで地元特有の訛りが出るのは珍しくない話だ。したたかに酔っていたとはいえ、鍾離先生が自分相手に気が緩んでいたのかといえば疑問は残るけれど、まあ、似たようなものだったのだろう。
なるほど、――それはいい。それはいいが、キスの件は解決していない。このままでは俺が先生にキスしてくれとせがんだという記憶がこの男の中で事実として残ってしまう。それはよろしくない。普通に癪だ。だがどうやって言い返したものか。何かに記録を残しているわけでもなく、証人はお互いのみ。
どこか気まずく、言葉を探したまま掴みきれずに沈黙が続いた。時折、茶器を置く音が響くのみで、あたたかだった茶ももう人肌程度にはぬるくなっている。
「公子殿、――――と聞いてどういう意味かわかるか」
腕を組んだまま、鍾離先生がぼそぼそと耳慣れない言葉を口にした。耳慣れないけれど、否、近しい言葉を俺は知っていた。思案を挟まず、そのまま形を成した言葉を口にする。
「Возьми стакан?」
「なるほど。それはどういう意味だ」
「グラスを取って、って意味だけど」
「なるほど。今俺が話したのは、古代の言葉でくちづけを乞う意味を持つ。そして昨晩の公子殿は、そう言っていた」
「ああ、……そういうこと? うん、ああ、理解はできたよ。すっごくバカみたいな話で認めたくはないけどね」
つまり、俺はスネージナヤの現地語を、鍾離先生は古代の言葉を使ってめちゃくちゃな言葉のぶつけ合いをしていた結果、偶然にも似たような発音の言葉が見つかってしまった、と。そして俺は「グラスを取って」と言ったつもりが、鍾離先生には「キスして」と聞こえてしまった。――いや、待て。何かがひっかかる。
「……ん?」
「どうした」
「いや、でもさ、鍾離先生はどうして言われたからって俺にキスしちゃったんだよ」
「ああ、そのことか」
空になった茶器を置いた男は、それはもううつくしく笑って、「きまぐれというものを起こしてみたくなった」とのたまった。
ひくりと口角が引き攣る。数刻前、この男は万人の一般的な尺度を知っているはずだと思っていたのを撤回したい。何もわかっていないじゃないか。
「それ、誰にでもやらないほうがいいよ。ファーストキスとか、大事にしてる人だっているんだからさ」
「ふむ、……公子殿は初物だったか。それは失礼した」
「別に俺は構わないよ。そりゃあ鍾離先生のファーストキスは何千年前に済ませたのかはわからないけれどね。一般的に、短い人生の最初の一回は誰しも大切にしたいものさ」
「ならば俺も大切にするべきだっただろうか」
「うん?」
「俺も、これがはじめてだ。確かに一度目を大切にしたいという感情は理解ができる。それに倣うのならば、もう少し……味わっておくべきだったか」
すり、と自分の唇を親指でゆっくりとなぞる男の所作はそれだけで待ち行く女性が見たら赤面してしまいそうな有様だった。伏せた視線が物憂げにみえるのは尚良くない。まあ、俺はそれに惑わされるほど惚けてはいないけれど。
「俺は二度と御免かな」
「そうか、それは残念だ」
「心にもないこと言うなよ」
だが、そうだ。事故とはいえこの男の「はじめて」を踏み荒らすことができたのはそう悪いことではないと思う。どうせ奪って奪われてしまったのなら、俺とのファーストキスを忘れられないままでいればいい。この男がいつか、どこかで、他のいとしい誰かをその腕に抱いてくちづけようとしたときに俺の顔が脳裏によぎってしまえばいい。
そのときの渋面を想像しながら、唇についたままの茶の雫を舌先でそっとぬぐう。あのやわらかな感触は、俺も当分、忘れられそうになかった。