だってそんな目をするから(鍾タル) 手に届きそうで手が届かないときが一番欲しいと思う。触れられそうで触れられないものに触れたいと思う。焦らされるほどそそられる。人間の欲望はそういう風にできている。あの時、そんな当たり前に気が付かなかった自分が恨めしくて仕方がなかった。
「公子」タルタリヤは後悔していた。あの日、鍾離先生にキスをしてしまったことに。それもただのキスではない。あの記憶力が良すぎる男に何も残さないようにだなんて馬鹿な配慮をして、水越しに唇を合わせた。今思えば魔が差したの一言に尽きるが、あの瞬間の自分としては、別れのキスのようなニュアンスがあったのだと思う。まったく、相当酔っていたとはいえ女々しいことこの上ない。馬鹿野郎が。明日別れるならまだしも、いつ別れの日が来るかだなんて数日後か、数か月後か、数年後かなんてわかりもしないのに。
後悔は苦手だ。基本的にすべての自分の行動とその結果については割り切ることに慣れていたし、後悔しないように生きることを信条としている。だから後悔をするなど何年ぶりのことだろう。それほど慣れていないことだった。完全に持て余している。子供の時分ならば、寝て起きればすっかり忘れてしまえたが、今はそうもいかない。寧ろひどくなっていく一方で。
つまり、有り体に言えば、俺は鍾離先生とキスをしたくて仕方がなかった。それが愛や恋と名のつくものかどうかはさておき、互いに相手を憎からず思っているというのにキスのひとつもできないだなんて、滑稽な話だ。でも知ってしまえば戻れなくなる。俺も鍾離先生も、きっとそれを理解できる程度には利口だったのだ。だから割り切ったふりをしている。
事故のようにキスをしたあの夜から数日経っても俺たちの関係は何も変わらなかった。相変わらず鍾離先生の出費の多くを北国銀行が引き受けていたし、食事を共にすれば楽しく話しながら杯を傾けた。今この時だってそうだ。だが、今も――無性にキスがしたくてたまらない。
それが正しいのかそうではないのかの区別など碌にできたものではないけれど、それでも鍾離先生の箸の持ち方が美しいことはわかる。彼は岩港三鮮の皿から松茸を箸で器用につまんで口に運んでいた。いつもの俺なら、いつまでたっても上達しない箸の扱いにあくせくしながら食事をそれなりに楽しめていたはずだ。今はどうだろう。目の前でかたちのよい唇が開いて、食事を口にする。赤い口内、白い歯がちらりと覗く。ただそれだけのなんでもない日常の動作に目が行って仕方がなかった。
この男はどんなキスをするのだろう。そもそもそういった経験はあるのだろうか。ぎこちなく唇が合わさるのか、それともまるで食事の時のようにきれいに喰らわれてしまうのか。(生憎、俺はそういった経験が皆無に近いのであまり具体的な想像はできたものではないけれど。なにせ興味がなかったものだから。)
そんな考えに耽っていると、公子殿、と窘めるように呼ばれてしまった。視線を少し上げると眉間に皺を寄せた鍾離先生がこちらを見つめている。そんな露骨に嫌そうな顔しなくてもいいじゃないか。減るものじゃあるまいし。
大きな溜息と共に、箸は置かれてしまった。
「あまり、そういう目をするものじゃない」
「ええ? 先生が手合わせしてくれたらやめるかも」
「む、……」
基本的に鍾離先生に求めることがあるとすればそのひとつだけだった。いつも渋って槍を手に取ってはくれないし、今も考えてくれているということは相当の葛藤はあるらしいがきっと首を縦には振らないだろう。
それに、手合わせがしたい、あわよくば本気で死合いたいと思わないわけではないが、今の己の腹の奥で渦巻いている欲望はそれで発散できてしまうものとは思えなかった。めちゃくちゃにしてもいい、されてもいい。美しく孤高が似合う男を引きずり降ろして、欲望塗れの獣に仕立て上げてやりたい。しのぎを削るのではなく、溶け合いたい。そういう欲望だった。闘争に対するものとは、きっと少しだけ違っている。
まあ気を付けるけどさ、と折れてやって視線を落とした。たぷんと液体で満たされた、まだ一度も口を付けていない杯のふちに指先を滑らせる。くるり、くるりと指の腹でなぞって気を逸らせるよう努めている、つもり。
「璃月って色街とかあるんだっけ」
つまるところ、性欲には性欲を。満たすにはとても足りないものだとしても、同種のものなら渇きを癒す程度にはなるだろうという寸法だ。杯を取って、口を付ける。今日の酒は花酒らしく、ふわりと甘く上品な花の香りがした。
「なくはないが」
「いい店あったら紹介してよ。先生が知る店なら変なところじゃないだろうし」
「それはできかねる」
顔を上げた。そんなにも、ああいう目を向けられるのが嫌なら別の発散方法を提供してくれたっていいだろうに。そんな抗議の意味を込めて。
ええ、と思わず声が漏れた。むっつりと引き結ばれた唇はいかにも不機嫌そうである。だが、想起されたのは龍の逆鱗ではなく、不貞腐れた弟だった。あれは、そう、久方ぶりに帰郷が叶ってはしゃぐトーニャに構いすぎて、つい他の弟たちを後回しにしてしまったときのことだったか。
「断固として断る」
こうなっては白旗を上げるしかない。頑固さに関しては折り紙付きのこの男をどうにかできる術はとても思いつきそうになかった。
だったらキスしてよ、と思わず零した。ああ、あれ、キスしてはいけないんじゃなかったか。キスしたくないからあれだけ見ていたんじゃなかったっけか、とか。思考が形を成す前に腕を取られる感覚に気を取られた。いつの間にそこに。ていうか顔近くない。やっぱり先生キス上手いんだ――。浮かんだ言葉は、あれほど焦がれた唇に喰われてしまった。
ああこれ、どうしようか。開口一番の言葉だけを準備しながら、一度だけで済まないらしいやわらかな感触に目を閉じた。