その唇で教えて(鍾タル) はじめて触れた唇の感触は想像以上に柔らかで、少しだけ乾いているのが意外だった。もっと硬いと思っていた。あるいは、柔らかであるならば若芽のように艶やかであるのかとも思われた。実際はいずれとも違う。若々しいけれど危うくはなく、輪郭の形が定まっている。それがきっとこの男のてざわりなのだろう。――いや、待て。俺は一体、何をした。
はじめて触れ、確かめた感触の情報量を取り込むことに気を取られていた頭に、己のしでかした問題が追い付いてくる。くちづけてしまった。この男に。よりにもよって、公子に。ああ、惜しい。もう一度重ねた。そのあたりで、漸く我に返る。
その回数は合計三度に及んだ。口を吸ってから三度目に迅速に顔を離す。公子の顔は、あろうことか、笑っている。その唇がなにごとかを紡ぐ前に、手で塞いだ。平時から手袋を身に着けていることに安堵したのはこれがはじめてだ。素手だったら何をしていたか、想像するだけで頭痛がする。
何か言いたげに手の内の唇がうごめく感触がする。極力気を払わずに、公子殿、と呼んだ。
「すまない。忘れてくれ」
男の目が見開かれた。異国の瞳が何を映しているのか、それが何を意味するのか、理解ができなかった。しかし力というものは雄弁である。己の手首の関節が軋む感覚が走った。このまま続けられれば脱臼しかねない力加減だ。そうなったところで問題はないが、場を選ばない暴力は振るわない武人が、タルタリヤという男だったので。黙って手を離す。
「そんなことできると思う?」
「公子殿が難しいと感じるのであれば、……できなくはない。忘却の術はそう難しいものではないからな」
力は雄弁だ。しかし何より、気配というものはそれ以上に多弁だった。とりわけ、彼に関しては。
頬の産毛を殺気が掠めた。彼が作り出す水流の刃のように鋭い気配。彼は眉間に皺を寄せていた。自分の前で、こんなにも不機嫌を露わにしたことがあっただろうか。天真爛漫とは程遠いが、世渡りには長けている男だ。何が彼をそうまでさせている。
ふらりと思わず持ち上がった腕を振り払われた。
「公子殿、」
「俺を侮辱するのも大概にしろよ。カミサマ気分が抜けていないようだから言うけどね。俺はそんなものに頼らないし、願いもしない。鍾離先生相手に膝を折るなんて真似は絶対しない。俺の心の自由を差し出す気はないよ」
まるで用意されていた口上を述べるような言いっぷりだった。ここが舞台の上であれば、拍手を送っていただろう。ここは瑠璃亭だが。
「……公子殿、」
「なに」
「あまり殺気立つな。千岩軍を呼ばれたくはないだろう」
ひとまずその殺気を納めて貰わなければと口にしたが、返ってきたのは溜息だけだった。どうにか殺気は納めてくれたようだったが、不愉快そうな表情は何一つとして変わっていない。
「はあ、……いいよ。先生がそのつもりなら忘れたふりをしていてあげてもいい。金輪際、俺から何かをしかけたりはしない」
彼は卓上から、とうに冷めているだろう茶の杯を手に取ってぐいと飲み干した。俺たちはオトモダチのままだ、と続く。顔がこちらのいる場所からは反れていて何も読み解くことができなかった。
そうだと口にすることは容易いはずだ。そうするべきだった。彼はもとよりそのつもりだったはずだ。敏い男だった。思慕をこちらに向けながらも、情を交わすべきではないと知っていた。彼の意思を汲むのであれば、なかったことにしてほしいと願うのは彼の方ではないかと思ったのだが。それゆえに、公子の今の言動が理解し難かった。
普段は軽薄に笑ってみせるが、その意思には鍛え抜かれた鋼のような一本の芯が通っている。そんな彼が、国のために滅私を選ぶのならばそれも構わないと思っていた。そんな男が眩しいと思っていた。だから、今も彼が場を整えたのならばそれに乗るべきだった。
それなのに口が動かずにいる。気が進まない、とでも形容すればよいのだろうか。しかし何がこうも己の足を引っ張っているのかが名状しがたい。
是とも非とも口にしないことを、彼は肯定と受け取ったらしい。俺は先に行くけどもし払った分が足りなければツケておいて、とモラの準備だけはこんな時でも忘れないらしくそう言い置いて席を立った。まっすぐに個室から出ようとする背中。躊躇った手が重く、持ち上がりきらずにぶらりと身体の横で揺れる。
「公子殿、」
ちらと振り返った彼は、困ったような顔をして首をわずかに傾けた。
「……そんな顔をしてもダメだよ。俺から答えを出してなんかあげない。あと、凡人に出来ない手段を取るのも論外。俺に言いたいことがあるならちゃんと考えてくれよ。考えるのも、喋るのも得意だろ」
己の頬に手を当てる。触れたところでわかるものでもないが、「そんな顔」というものが理解できなかった。
「時間をくれ」
想定よりも低い音が出た。まるで痛みに呻くような声をしている。残酷なのだか優しいのだかわからない男は、俺の寿命が尽きる前にしてくれよ、と笑った。