ようこそ! ここは君の家 1(ENN組同軸リバ) ナワーブ・サベダーは気高い高位の吸血鬼である。
ナワーブ・サベダーは吸血鬼の伝統を誰よりも重んじている。吸血鬼と人間が争うことを止め、自身の血族の多くが人間と混じって生きることを選んでも尚、木々の鬱蒼と茂る山奥の居城を一人守り続けている。
建付けが悪い玄関のドアは、今日も開きが悪かった。
「うっわ。勘弁してよ」
ノートンは乱暴に開いたそれが鈍い音を立てて半ばで静止すると、苛立ちを持って視線を下げた。そしてそこに転がる物体に、これでもかと言わんばかりに顔を顰めてみせた。
かつては"流浪者"だなんて呼ばれていた半端者の自分にすら分かる臭いがする。これは、強い吸血鬼の臭いだ。
ノートンはドアを塞ぐように転がる物体にそんなことを考える。そして強引にドアを開くと、その場にしゃがみ込んで転がるそれをしげしげと眺めた。
ノートンのよく知るもう一人の吸血鬼よりやや淡く長さのある茶色の髪。そしてかっちりと着こなされた白のシャツに黒のベスト。その背中から胸元を覆うベルトはどこか重々しく、威圧感すらある。
しかしかなり乱暴な扱いをしたもののピクリともしないところを見るに、相当弱っているらしい。それならば今頃リビングでテレビを観ているだろう"もう一人"が気付かぬ内に食べてしまおうか。
ノートンは少しずつ気が大きくなってくると、玄関から躍り出た。そしてこんなところで死に掛けている方が悪いのだと誰にするでもなく心の中で言い訳をして、転がる物体に手を伸ばした。
掴み上げるように起こした身体は小柄なように見えて重く、筋肉質で硬かったが文句は言うまい。ノートンは大きく口を開くと、自身のコンプレックスでもある吸血鬼にしては小さな牙をその首筋に押し当て──。
「……へ……?」
ノートンは気付く。
──餌だったはずの物体が、自分を見ている。
ノートンは蛇に睨まれた蛙のように震え上がった。そして食事のために開いたはずのその口から、大きな悲鳴を吐き出した。
長らく野うさぎの血とぶどう酒だけで食い繋いでいた身に、久方振りの長時間の移動は相当堪えたようである。
ナワーブはラウンジだろう一室で勧められるがままソファーに腰を掛けた。そして転倒したせいか未だに痛む頭を摩ると、目の前で給仕の真似事をする男を注意深く眺めた。
男は白いシャツに目の覚めるような青いベストをかっちりと着込んでいる。その格好は、給仕を務めるには少々上等過ぎるように思われた。
「いやあ、ウチの者がすまないね」
ナワーブの視線に気付いた男がティーポットを傾けながら口元に笑みを浮かべる。しかしその顔は目元を中心にほとんどが黒い布で覆われており、男の感情は口角の高さとそこから響く穏やかな声色でしか推し量ることができない。
一方、分かり易いのはその後ろに隠れるように立つもう一人の男だ。元々血色の悪そうな白い顔は青褪め、先程玄関先で大口を開けてナワーブに喰らい付こうとしていた者の顔とはとても思えない。
ナワーブはそんな二人を交互に眺めると、静かに息を吐いた。
ナワーブは高位の吸血鬼である。強い力を持っていたもののある日突然棲家を追われ、いけ好かない旧知の仲を頼って訪れた先がこの家であった。
「俺が言えた義理ではないが、ペットの躾くらいはきちんとしておけ」
「ノートン。拾い食いをしてはいけないよ」
男の物言いは穏やかなようでいて少しずれていたが、ナワーブは敢えて指摘するようなことはしなかった。
男は三人分のティーセットの用意を終えると、ナワーブの目の前のテーブルにそれを並べて向かいのソファーに腰を掛けた。
部屋の中には奇妙な沈黙があった。ナワーブはベストの胸ポケットから一枚の封筒を取り出すと、目の前の男に向かってそれを差し出す。
真っ白なその身に一際目立つ赤い封蝋が押されたそれは、吸血鬼であれば知らない者はいないと言っても過言ではない代物であった。
「ああ、伯爵かい?」
「……どうやら、お前がイライ・クラークで間違いないようだな」
それを受け取った男の反応はどこまでも呑気で気が抜けている。しかし、それはその男自身がナワーブの探していたイライ・クラーク──自らと同じ高位の吸血鬼であると確信するには十分だった。
「伯爵からの手紙なんて久し振りだなあ」
「どうせロクな話じゃないですよ」
イライはその口元を更に緩ませてにこにこと笑い、その後ろからそれを覗き込む男──ノートンは、まだ内容を見もしない内から苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「伯爵からは何も聞いていないのか?」
「うん。何も」
イライが緊張感のない顔で頷く。その言葉に、ナワーブは不安になった。
続けて素手でその封を切るイライの手付きがあまりに覚束ないので、ナワーブは更に不安になった。
イライの手によって元の格調高い風合いは見る影もなくなった封筒から、二つ折りの手紙が取り出される。
イライはそれを開くと、少しの間、何も言わずその内容に目を向けていた。
ナワーブは用意された紅茶を飲みながら大人しく待つ。
「君、ここに住むの? いいよ。部屋なら余ってるし」
──やっぱりロクなことじゃない! 間を置かずイライの後ろでノートンが叫んだ。
ナワーブも自身すら知らなかった手紙の内容に驚嘆の声を漏らしたが、それはノートンの叫びの前に掻き消えた。
ナワーブは規律と上下関係を重んじる古き吸血鬼である。だからこそナワーブは今すぐにでもこの奇妙な空間を飛び出したい気持ちだったが、イライが口にしたそれはナワーブのにとっても逆らうことのできない決定事項だった。
頭に思い浮かぶのはこの封筒を差し出してきた時のいけ好かない伯爵の顔である。白くつるりとした仮面に覆われている割に妙に表情豊かなその顔は、親身になって話を聞く素振りをしながらずっと気色の悪い笑みを浮かべていたように思う。
してやられた。ナワーブは頭の痛む思いに眉間を揉んだ。しかしこの事態に自分ができることなんて、まるで思い付きやしなかった。
何よりあの伯爵に逆らえる吸血鬼なんて、そうそう居はしないのだ。
「では早速だが部屋へ案内しようか。二階に使ってないゲストルームがあるから、今日からあれを君の部屋にしよう」
「お前はそれでいいのか?」
イライを見る。その問い掛けは口をついて出たものでありながら、ナワーブとしてはこの突飛な状況でイライが何かしてはくれないかと藁にも縋る思いもあった。ただし、ここを追い出されたところでナワーブに行く当てはないのだが──。
「彼にはちょっとした恩があるからね。彼がここを君の家だと言うのなら、ここは最初から君の家だったのさ」