暗い海。海岸。新月。ふたりの男が歩いている。横に並び立つことなく、前に後ろに、やや距離をあけて歩いている。けれども手をつないでいるのがいかにも、アンバランスで物ありげ。歩みは遅い。疲れが滲んでいるのだ。
前を歩く男のほうを見ようともせずただ暗闇でさざめく海に顔を向けながら、背の小さいほう、後ろを歩いているほう、新伍、葵、真っ白いスーツを、ウェディング・タキシードを、新郎の衣装を着ているほう、葵新伍、が口を開く。
「こんな真似できるならせめてきのう言えばよかったでしょ」
暗いささやき――これがまったくその通り。
葵新伍でないほう、ジェンティーレに、いままでいくらでもチャンスはあった。自分の気持ちを伝えることの。けれどその度ためらって、言い訳して、棚上げて、遠慮して、うそをついて、ごまかして、下を向いて、手離して、振り払って、そうやってここまで来た。
蓄は悪だ。それはこの男の所業――結婚式から新郎を奪い去った!――が証明している。滞留してやがてどこかから放り込まれた黴で腐り始め、鬱屈により 憎悪する。精神的苦痛、手紙、欲望、義務感だって、愛情でさえ、結局はすべて同じ運命をたどるときまっている。
「そうしてたらどうなった。おまえはおれと揃いにしてくれたのかよ」
「あのさあ、なんでジェンティーレが怒ってんの? 怒っていいのおれだけだよね」
それは少年とショー・ウィンドーごしのオルゴールのような、一方的な恋だった。おとなしく財布をすっからかんにすればよかったものを、ガラスを叩き割ってしまったわけだ。あるいは、それを指差した客を――それも白いドレスが似合う淑女だ――殴り倒して奪うような真似をしたのだ。あての外れた怒りと癇癪の爆発、それがこの顛末。
ただ、オルゴールは物言わぬけれど――予め決められた音にコミュニケーション上の有形的意味はない――ジェンティーレが奪おうとしたものは手と足の生えた人間で、故に考え、拒絶の自由を所有する。
葵に手を振り払われないのは、干からびた砂浜をただ後ろに付いてくるその訳が、受容でないことくらいは、ジェンティーレもわかっていた。「おれが悪い?」葵が言って手を引けば、ジェンティーレの歩みは茫洋たる砂漠の旅人のようにはかなげだったから、つんのめって、それで目を合わされる。「おれが悪いの?」
「違う」
「いいよ、もう」葵の声は平坦に、「はっきり言ってあげないおれが悪かったんだろ」突き放す。
「気づいてるよずっと前から。おまえは知らなかったんだろうけど」
「じゃあおまえ、おれに好かれてるってわかってて他のやつとデートしたっていうのか」結婚の話ができるって、キスを、‥‥を、
(おれがしたかったことぜんぶ?)
頭に血はのぼるし、わなわなくちびるが震えるし、さんざんだ。ジェンティーレには、もう自分が怒っているのか悲しいのかもわからない。ただ激情があり、それに付随して虚しさによく似た冷たい気配を覚えている。
「だからさ、そういうこと言っちゃうのがダメだってわかんないかなァ」わかんないか。無理だよね。おまえ、ぜんぜん変わらないもんな。
畳みかけてくる言葉に息をつく隙はない。顔どうしが近くって、それこそまるで恋人みたいな距離で、おたがいの温度さえわかるような気がした。
「きのうのジェンティーレ、なにか言いたそうだったのに聞かなかったおれも悪かったんだと思う。だからちゃんと言おうかな、おまえのぶんも」
柔らな牙を抜いた。
目眩を切り裂いて、頭蓋を殴りつけた。
「おれがおまえのことを好きになることなんか絶対にないよ。おまえの望んだことは、一生かなわない。おまえに好きって言われれば、たぶんね、すごく、逃げ出したくなる」
ジェンティーレは葵の肩を掴み海へと投げ出した。踏み込んで足の甲が見えるか見えないかというような干潮の浅瀬はそれでも水飛沫をあげた。そしてその首に手をかけようとして、やめた。言い表せないような深いところで隠れていた、自分がこの男に焦がれたわけをいまこの時になってやっと思い出したから。若い性欲にかまけるあまりとんと最近顧みなかった、あの青い情熱。色がない、名前もない、与える必要のないもの。
ジェンティーレにとって、この恋は熱病だった。
間違いなく。
「ずっと、そういう顔してたらよかったのにな」
膝をつき嗚咽する男の体重を受けながら、葵は呟く。