【冰秋】恋ぞ変じて愛となす万物において変わらぬものは何もない。
一粒の種が芽吹きやがて大木になるように、人の心も変化する。
それを教えてくれたのはずっと追い求めた彼の人だった。
* * *
――ふう、と小さなため息が聞こえてくる。
新しい茶を用意していた手を止めて視線を向ければ、疲れた表情の師が片手で肩を揉んでいた。既に寝衣に着替え就寝の準備を整えているが、師の手元には未決裁の案件がしたためられた文書がある。
峰主としての執務に日々勤しむ師の忙しさは以前から理解していたつもりだが、最近になり恐れ多くも竹舎の離れに居し誰よりも傍に侍る許可をいただいてからはこれまでにも増して強く実感するようになっていた。先日に受けた“無可解”による不調からはまだ快復しきれてはいないだろうに、日夜嫌な顔ひとつ見せず勤めを果たす師の姿には尊敬の念しか浮かばない。
「師尊、お疲れ様です。僭越ながら、もしよろしければ肩をお揉みしましょうか」
「ん? しかし冰河、そなたも日々の修行や師の身の回りのことで疲れているだろうに。……よいのか?」
「もちろんです。師尊のお役に立てるのは弟子の望外の喜びですので」
「うーん……ではすまないが少し頼めるか。実はここ数日肩こりが酷くてな」
「お任せください。失礼いたします」
牀の縁に腰を下ろした師の背後に回り、長く艶やかな髪を軽くひとつに束ねる。それから両方の肩を静かに揉むと細い肩はとても張っていて、確実な疲労の蓄積を感じさせた。
「たしかに、大分お疲れのご様子ですね。少し強めにお揉みしますので、力加減がお気に召さなければおっしゃってください」
「うむ、ありがとう。……んっ」
「! 申し訳ございません、強すぎましたか?」
「いや、大丈夫だ。すまない、心地よかったのでつい声が出てしまったのだ。続けてくれ」
「でしたらよかったです」
不快ではなかったことにほっと安堵しつつ、肩のこりを揉みほぐしていく。幸い上手くほぐせているのか、師の体から徐々に力が抜け表情も穏やかな表情に変化していく。
「ん……冰河、そなたなかなか上手いな。ツボを押さえているというか、刺激する場所も力加減も絶妙だ」
「お褒めいただき光栄です。昔はよく義母(はは)の肩を揉んだりしていたので、その頃の経験が活きているのかもしれません」
「そうか……。そなたは親孝行な子どもだったのだな」
「いえ。当然のことをしていただけです」
義母は自らも決して裕福ではなかったが、それでも拾い子の自分を養い愛情を与えてくれた。幼い自分にはそれに対する感謝を返すすべがなく、せめて仕事に疲れて帰る彼女の疲れを癒すことくらいしかできなかったのだ。
そして今も、まだまだ未熟な自分では師に対して役立てることはあまり多くはない。そのことがたまらなく歯がゆく、肩を揉む手に思わず力がこもった。
「冰河、もうよい。ありがとう、随分と楽になった。助かったぞ」
「もうよろしいのですか? もし師尊が他にもどこか気になっておられる部分があれば、そちらもお揉みしますが……」
「ん? いや……それはありがたいが、そなたをこれ以上煩わせるのも……」
「お気になさらないでください。今の私がお役に立てるのはこのくらいしかございませんので」
「……では、その言葉にもう少しだけ甘えてもよいか?」
「もちろんです! 次はどちらをお揉みしましょう?」
「うむ、実は今日少しの間立ち続けていたので足が疲れてな。そちらを頼みたいのだ」
「……っおみ足を、ですか……」
「ああ。あ、だが嫌ならばよいぞ。自分でやるので、気にしな――」
「いえ、嫌だなどとはまったく! どうぞ横になってください、お揉みします」
思わず師の言葉を遮るように叫んでしまい、師の表情が驚きに変わる。我ながら慌てすぎたと頬が熱くなったが、幸い師はすぐにいつもどおりの優しい微笑みを浮かべてくれた。
「そうか? ではすまないがよろしく頼む」
「はい……」
自分でもどうして先ほどあんなにも動揺してしまったのかよく分からない。けれど乱れ始めた鼓動は治まることがなく、牀にうつ伏せで横になった師の姿を見ると何故か余計に速さを増した。
足という部分は普段は衣に隠されていて見えず、先ほど触れた肩よりもさらに私的な場所だからだろうか。そこに触れさせていただくというのは妙に緊張が伴う。
「ええと……師尊、それでは失礼いたします」
「うむ」
無防備に伸ばされた足に衣越しに触れる。そう厚みはないが衣を隔てた感触ゆえに正確な按摩ができないのか、はたまた緊張で手が強ばっているからか。とにかく先ほどのようにはなかなか上手く揉みほぐせていないのを感じる。揉まれている師も同じように感じているのか、どうにも惜しがっている様子が伝わってくる。
「うーむ、悪くはないのだが……。冰河、試しに衣越しにではなく直接揉んでみてはもらえないか?」
「えっ。直接……ですか?」
「ああ、衣をめくりあげてしまって構わないから試してみてくれ。その方がそなたも揉みやすいのではないかと思う」
師からそう言われては従わないという選択肢はない。失礼します、と囁いた言葉は何故か少し掠れていた。
無意識に震える手で衣を少し上げると、すらりと伸びた形のよい足と細く滑らかなふくらはぎが現れる。うっすらと皮膚の下の血流が透けて見えるほど青白いのは、普段はほとんど日に晒されていない場所だからだろう。幼い頃住んでいた街の人々の色濃く焼けたそれとは違う、磁器のように白い肌につかの間見惚れてしまう。
「……冰河? どうかしたのか?」
「あ、いえっ。何でもありません」
声をかけられ、慌てて按摩を始める。降り積もる雪の中で凛と咲く花にも似た風情の足は見た目には冷たそうだが、触れるとたしかな温もりを持ってこちらの指を押し返す。直接の按摩は先ほどよりも心地よいのか、師の唇から満足そうな吐息が漏れた。
「ん……やはりこちらの方がよいな。とても気持ちがいい……。あっ、冰河……そこはもう少し強く……はあ……そなたは本当に上手だな……」
「あ、ありがとう……ございます」
囁くように返事をしながら、師が今うつ伏せでいてくれてよかったと心から思う。そうでなければ、きっと今とても赤くなっているであろう自分の顔を見られてしまうところだった。
何故こんなにも頬が熱いのか、何故こんなにも鼓動が乱れてしまうのかは自分でも分からない。こんな気持ちは生まれて初めてで、はたしてこの感情に何と名前をつければよいのかまるで見当がつかなかった。
そう、つかなかったのだ――あの頃は、まだ。
* * *
窓から差し込む穏やかな午後の陽光の中、書を読む師の横顔に声もなく見惚れる。
柔らかな光に輪郭を溶かし、白い頬に長いまつ毛の影を落とす彼の人の姿は例えようもなく美しく、世界中のあらゆる宝物を集めたとしても敵いはしないだろう。そんな人が自分の傍にいてくれるという幸福を今更ながらに噛みしめ、幸福感が胸を満たした。
「……ん」
ふと、文字を追っていた師の視線が止まり眉がわずかに寄った。それだけで何があったのかを察し、素早く駆け寄る。
「師尊、お疲れですか。よろしければ肩をお揉みいたします」
「ん? まあたしかに少し肩がこっている感じはあったのだが……そなたよく分かったな。まだ何も言っていないのに」
「師尊のことでしたらこの弟子がいちばんよく理解しておりますから。ええ、どこぞの負け犬よりも誰よりもです」
「目が笑っていないぞ、それとなく対抗心を剥き出しにするんじゃない。――それはそうと、気遣いはありがたいが大丈夫だ。気持ちだけもらっておく」
「そんな、遠慮などなさらずともよろしいですのに……。私は師尊のお役に立ちたいだけなのです」
「そうは言うが……そなたの場合、それだけで済むのか?」
「え?」
「だから、その……按摩だけで済むのかと言っている」
「は……」
視線を逸らしどこか言い辛そうに紡がれた師の言葉を聞いて、彼の言外の含みを察する。要するに、今の自分が無防備に晒された彼の体に触れてはたして按摩のまま踏みとどまれるのか――そういうことだろう。
正直なところさっきまではまったくそのようなことは考えていなかったのだが、そう恥ずかしげに口に出されてしまうと否が応にも意識してしまう。だが一瞬言葉に詰まったこちらの反応をどう取ったのか目元を赤く染めた瞳でじろりと軽く睨まれ、慌てて否定する。
「もちろんです。私はただ、師尊がお疲れのご様子でしたので少しでもその疲労を癒してさしあげられたらという一念で……本当に、それだけなのです」
「……」
「信じていただけませんか……?」
しゅんと眉尻を下げ、真摯にそう訴える。するとしばらくこちらを黙って見つめていた師は、ふっと瞳を伏せ視線を逸らした。その下の円やかな線を描く頬が見る間に赤く染まっていく。花が咲きほころぶかのごとく色を増していく様に思わず目を奪われていると、扇で隠された口元から小さくため息が漏れるのが聞こえた。
「そうか。……すまない、私の勘違いだったようだ」
「いえ、信じていただけて嬉しいです。ですが師尊、按摩でしたらこの弟子は清静峰にいた頃にもしておりましたが、以前は気軽に身を委ねてくださいましたよね。何故急にそのようなことをお気になされたのですか?」
「何故って――分かるだろう。そなたはもう……“ただの弟子”ではない。師が弟子に按摩をしてもらうのと今の状況とは話が違う」
「と申しますと……」
「あー、だからその……“ただの弟子”ではなくそなたの――“洛冰河”の指だと思うと、どうしても……意識、してしまうのだ」
「……っ」
恥ずかしかったのか、消え入りそうな声で囁く師の姿に愛おしさがこみ上げる。
胸を満たす幸福感に涙が浮かび、視界が柔らかく揺らいだ。
「師尊。そんなことをおっしゃっていただいたらこの弟子は――私は、貴方に今以上にもっと恋をしてしまいます」
床に膝を突き、彼の手を取って指先に口づけながらそっと見上げる。この世の誰よりも愛おしい想い人はつかの間はにかみ瞳を伏せたが、ふとこちらを見つめ返すとため息をついて口元を隠していた扇を下ろした。
何の覆いもなく見えるようになったわずかに唇を尖らせた表情は拗ねた子どものようにどこか幼げで、“師”としてのそれではなく彼が時折見せてくれる“娘子”としての表情だった。
「恋などと、そんな目をしておいてよく言う……。そなたのそれはそんな生易しいものではないだろう。こちらの全てを喰らい尽くすような――もっと激しいものだよ」
こちらを見る師の瞳の中には、ひざまずく自分の姿が映っている。彼から見た自分は、はたしてどんな表情をしているのだろう。
「でしたら師尊、それは貴方が栄養を与え育てたものです。私の恋情も愛も欲も、全て貴方のためのものですから」
「……ふう。参ったな、どうやら私は随分と恐ろしいものを育ててしまったようだ。だが――そんなそなたを愛いと思ってしまうのだから、この師もなかなかの重症だな」
ふふ、と瞳を細め微笑んだ彼のもう片方の手が頭を撫でてくれる。まだ恋心を自覚できていなかったあの頃のような優しい仕草だけれど、今その行為によって生まれてくるのは敬慕の念だけではなくもっと違う何かだ。
――万物が変化していくように、恋が変じてやがて愛となるのならば。この狂おしいほどの愛はこの先一体何に変ずるのだろう。
ふと脳裏を掠めた問いかけに答えは見つからず、今はただこの愛おしさを味わうようにもう一度静かに彼の指先へ唇を寄せた。