【冰秋】琴瑟相和す「――ごちそうさま」
食事を終え、ふうと息を吐く。自分好みの味付けで用意される料理はいつ食べても絶品で飽きることがない。すっかり満腹になった腹をさすっていると、温かい湯気の立つお茶が手元に置かれた。
「たくさん食べていただけて嬉しいです。師尊、お茶をどうぞ」
「うむ、ありがとう」
気の利く弟子に微笑み茶を飲む。彼の手に掛かると料理だけでなく茶も美味い。自分が同じ茶葉を使って淹れても同じようにはできないから、恐らく何かしら淹れ方に違いがあるのだろう。
「今日の料理はいかがでしたか? 何かお気に召したものはありましたでしょうか」
「そなたの作ってくれる料理で気に入らないものなどないさ、どれも絶品だった。……だが、あの魚料理は特に美味かったな」
「ああ、あれですか。実は以前にも召し上がっていただいたことがあって、そのときに気に入ってくださっていたようでしたので久し振りに作ってみたのです」
「そうなのか? 記憶にないが……」
「昔、まだ私が清静峰にいた頃ですからね。そういえばあのとき……ふふっ」
「どうした?」
「いえ。そのとき、師尊に言っていただいた言葉を思い出しまして」
そんなに笑うようなことを自分は言ったのだろうか。思い出せず首を傾げると、やけに幸せそうな顔で冰河が教えてくれる。
「覚えていらっしゃいませんか? 師尊はそのとき料理を褒めてくださるのとあわせて、将来私の伴侶になる相手は三国一幸せだろうなと仰ったんですよ」
「ほう? すまない、覚えていないな。ああでも……たしかに言ったかもしれない」
目の前の男は家事も雑務もそれはもう器用にこなせるのだ。その中でも料理の腕は特に優れていて、世間に名を馳せる有名店の料理人でさえ冰河には敵わないだろうと自信をもって言える。これまで彼の数多の手料理を味わってきた自分が言うのだから間違いはない。そもそも洛冰河の手料理といえば、元々の作中でヒロインたちを陥落させるための重要なキーアイテムのひとつでもあるのだ。だから、それほどの料理の腕を持つ男を夫にできる女性はきっと誰よりも幸せだろう――当時の自分がその考えを口に出していたとしても不思議はない。
「何せ、そなたの料理の腕は素晴らしいからな。そなたの作ったものを食べてしまうともう並の料理では満足できなくなる」
「ありがとうございます、お褒めいただき光栄です。……では、師尊は今幸せでいらっしゃいますか?」
「ん?」
「私の伴侶になる相手は三国一の幸せ者だと仰ってくださったので。私は、その方のよき伴侶となれておりますでしょうか」
「……っ」
質問の意図に気付き、うっすらと頬が熱くなる。そうだ――一応自分は彼と婚姻の儀を交わした身。ならば、三国一の幸せ者は他ならぬ自分自身……ということになるのだろう。
きらきらとした瞳でこちらを見つめる冰河の視線に耐えきれず、目蓋を伏せて扇で顔を覆う。それから小さく咳払いをして動揺を隠し、小さな声で答える。
「……そう、だな。そなたの伴侶は……三国一の幸せ者だと思う」
顔を隠しても、扇の外に出てしまっている耳の赤さからこちらが照れていることは丸分かりだろう。扇を少し下げてちらりと視線を上げてみれば、白蓮華時代を思い出す無垢な瞳で嬉しそうに微笑む冰河が見えた。
「よかった、嬉しいです。……師尊?」
「……なんだ」
「実は他にも、ずっと聞いてみたかったことがあるのです。もうひとつ質問をさせていただいてもよろしいですか?」
「随分と改まった聞き方をするな。まあいい……なんだ?」
「その……師尊が私に対して、他の弟子たちとは違う感情を抱いてくださったのはいつ頃のことだったのかなとずっと気になっていて。……教えていただけませんか?」
「う……っ」
まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかった。思いがけない質問で言葉に詰まったものの、こんなにもわくわくとした目で見つめられると適当なことを言って煙に巻くのも心苦しい気がした。とはいえどう答えたらいいのかも分からず、時間稼ぎにもう一口茶を飲む。
「そ……そういうことはまずそちらが先に話すのが筋と言うものだろう。そなたの方こそどうなのだ?」
「私ですか?」
これで冰河が答えなければそれに乗じて自分も答えをはぐらかすつもりでいたのだが、相手は恥ずかしそうに目元を薄赤く染めた後、はにかんだ笑みを浮かべる。
「そう、ですね……。はっきりと自覚したのはもう少し後でしたが、今となって思えばあれがきっかけだったのではと思います。師尊は剥皮魔の事件解決へ向かう際に私を馬車に同乗させてくださり、そして――私にほんの一瞬でしたが微笑みかけてくださいました。その笑顔があまりにも優しく、美しく――それまでも崇敬の念は持っておりましたが、恐らくあの瞬間に私は……恋慕の情も抱いたのだと思います」
「……ふうん」
感情を抑え、さりげない相づちを返す。だが正直なところ心中は大分乱れていた。素直に答えられてしまったことに対してもそうだが、こちらが思っていたよりも大分早くそんな感情を抱かれていたことに少し動揺してしまう。そんな何気ない、ほんのわずかの微笑みだけで相手の恋の種を芽吹かせてしまっていたとは思いも寄らぬことだった。……しかし驚きだけではなくほのかな喜びを感じてしまったことも事実で、そんな自分に気恥ずかしさを感じる。
今の話を聞くに、冰河が恋情を抱いた“沈清秋”はつまり転生後の自分だ。転生前の自分のことを当然彼が知るはずはないのだが、“沈清秋”に対して向けられている愛情の幾ばくかは“沈垣”であった自分自身にも向けられているのではないかと少し嬉しくなってしまう。
「さあ、弟子はお話ししましたよ。次は師尊の番です」
「えっ。あ、あー……」
そう言われて、再び自分が窮地に陥ったことを理解する。先ほど以上に期待に満ちた目で答えを促され、返答を探して視線を泳がせる。そのまましばらく悩み続け、最終的に出た言葉は――。
「……分からぬ」
「えっ」
眉を寄せてそう呟いた自分に、答えを待っていた冰河の顔が驚きに変わる。
「そんな……。師尊、ずるいです。私は素直にきちんとお話しいたしましたのに……」
「ま、待て待て。そんな泣きそうな顔をするな、まずはもう少し話を聞きなさい」
落胆の色を浮かべ悲しげに瞳を潤ませた彼に慌てて首を振り、言葉を探しながら続ける。
「分からないと言ったのは、別に誤魔化そうと思ったわけではない。そうではなく……本当に分からないのだ」
「と言いますと……?」
「だから、その……いつからそなたに対してそういう想いを抱いたのか――私自身、はっきりとは分からないのだ」
それはずっと後だったのかもしれないし、初めて会ったあの瞬間だったのかもしれない。それとも、もしかしたらこの世界に導かれる前――画面越しに作品を追っていたあの頃からか。とにかく、自分でもそうと気付かぬうちに……しかし確実に心惹かれてしまっていたのは確かだった。
「恋愛事に関して、師はそう聡い方ではない。なのでいつ頃からなどとはっきりしたことは分からないが……とにかく、気がついた頃にはもうそなたを、その……恋しい、と思っていた。それは嘘偽りなく確かなことだ。……こんな返答で許してくれるか?」
曖昧な返答しかできなかった気まずさと照れくささに頬を熱くしながら、ちらりと上目遣いで相手の表情を窺う。すると先ほど落胆に潤んでいた瞳は、今度は幸福そうに細められ別の涙が滲んでいた。
「……はい、充分です。師尊が私を恋しいと思ってくださっているのなら、それだけで私はこの上なく幸せです」
「うん。……冰河、私からもひとつ質問してよいか」
「師尊から私に? もちろんです、なんなりと」
「では……もしも、もしも、だが。私が――“沈清秋”ではなく誰か他の姿になってしまったとしたらどうする?」
自分でも何故こんなことを尋ねてしまったのか、理由はよく分からなかった。けれど何故か、冰河の口からこの質問の答えを聞いてみたかった。
「それは――師尊の魂だけが他の誰かの元へ行ってしまったら、ということでしょうか?」
「そうだ。しかも、以前一度死んだあのときのように再びこの体に戻ることはなく、完全に別人の姿になってしまったとしたら。そなたは……私の内と外、どちらを持った相手を愛する?」
「それはもちろん、あなたの魂を持ったその人を。私が愛しているのは師尊の外見ではなくあなたの魂ですから。私が師尊の姿を誰よりも好ましいと思うのは、あなたという魂があってこそのことです。そうでなければ何の意味もない」
「……っ」
少しの迷いもなく、間髪入れず返された答えに軽く瞳を見開く。同時に喉の奥から何か熱いものがせり上がってくる感覚がして、目の奥が熱くなった。
「……そうか」
平静を装い返したつもりだったが、声がわずかに上擦り震えてしまう。その変化を敏感に感じ取った冰河が心配そうにこちらを見つめてくる。
「師尊? 私は何か間違った答えを言ってしまいましたか?」
「……いいや」
それこそが聞きたかった答えだ。
続く言葉は口には出さず、彼の手を取る。温かく大きな手のひらを自分の頬に添え、その手の上に自らのそれを重ねた。触れ合った場所は温かく、その熱の心地良さにじわりと涙が滲む。
「師尊……?ㅤどうかなさったのですか」
「なんでもない。ただ、そなたをとても愛おしいと思っているだけだ」
頬の手を少しずらして唇に寄せる。くすぐるように口付けを落とすと冰河の白い頬に赤みがさした。いつももっと深い口付けも交わしているというのに、これくらいのことで頬を染める夫が可愛らしく、自分でも気付かぬうちに柔らかな笑みが零れる。
――やはり自分は三国一の幸せ者だ。
心の中を温かな愛情が満たしていくのを感じながら、そんなことを思った。