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    sakura__cha

    @sakura__cha

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    sakura__cha

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    ある朝目覚めると、俺があいつであいつが俺でした。……って一体これどういうことー⁉

    TwitterでUPしていた魂入れ替わりネタ冰秋をまとめました。
    師尊の心の声がとてもうるさいのと若干OOCかもなのでご注意ください。

    ##SVSSS##冰秋
    ##人渣反派自救系统

    【冰秋】ある日突然入れ替わった冰秋の話 ――どこかでけたたましいエラー音が鳴り響いている。

    (んん……? うるさ……俺、目覚ましのアラームかけてたか……? こっちはまだ眠いんだよ、もうちょっとだけこのまま寝かせて……)
    『エラー、エラー。原因不明の異常事態が発生しています。エラー、エラー。原因不明の異常事態が発生しています……』
    「……ん?」
     相変わらず鳴り響いているその音に、ようやく寝ぼけていた頭が覚醒してきた。同時に、久しく目覚ましのアラーム音など聞いていなかったことも思い出す。そうだ、この世界にそんなものがあるはずはない――何せここは仙師もいれば魔族も未知なる妖怪もいる、華麗なるハーレム小説【狂傲仙魔途】の世界なのだから。
    (じゃあさっきまでのエラー音は夢……?)
    『――ています。エラー、エラー、原因不明の異常事態が発生しています』
     ……夢、ではない。この音は系統の発しているエラー音だ!
     そう気付いた途端一気に目が覚め、慌てて起き上がる。そうしてきょろきょろと寝台を見回し、視線が凍り付いた。
    (……な、なんでそこに俺が寝てるんだ……?)
     視線の先には、健やかな寝息を立てて穏やかに眠る自分自身がいる。信じられない光景に愕然とし、それから血の気が引いた。
    (嘘だろ待って! これってもしかして幽体離脱ってやつ マジかよ、もしかして俺今生霊になってる つかもしかして死んだ ふざけんなよせっかく死亡フラグも回避して人棍になる未来を回避したってのに! あーこんなことならやりたいこと全部やっとくんだったー……って、ん?)
     パニックになった頭で、ふと視界の端に映った手に気付く。どうやら今の自分は霊体ではなく生身の人間らしい。
    (となると沈清秋はここに今ふたりいるってことか? ……いや、違う。昨夜の俺の記憶が確かなら、ここにいるはずのもうひとりがいない。ということはまさか、もしかして……)
     もう一度自分の手を見つめる。その手は見慣れた自分自身のものより少し大きく、しっかりとしている。震えるその手で髪や顔、体に触れ、もしやと思ったことが事実であることを理解した。
    (俺が……冰河になってる ってことは、この”沈清秋”は……)
    「っお、おい冰河、起きなさい。起きなさい、洛冰河!」
    「……ん……」
     慌てて隣の”沈清秋”の肩を掴んで揺さぶる。むずかるような声を上げ、少し寄せられた眉の下でゆっくりとまつげが上がった。
    「おはようございます師尊、もう朝ですか……? 申し訳ございません、すぐ朝餉の支度を……、……え?」
     こちらを見上げ微笑んだその顔が呆然とした様子で固まる。そうだろう、気持ちは分かる。つい先ほど自分もまったく同じだった。
    「私……? いえ、もしや師尊……なのですか?」
     さすが主人公、こんな異常事態でも呑み込みが早い。こくりと頷いたこちらを見つめ、沈清秋――の外見をした洛冰河は目を見開いた。

    「……なるほど。では、今朝目覚めたら我々が入れ替わっていた……ということなのですね?」
     こちらの話を一通り聞き、冰河は真面目な顔で頷いた。正直こちらもまるで状況が掴めておらず説明もあまり要領を得ないものであっただろうに、この聡明な弟子は一を聞いて十を知ってくれた。
    (さっすが俺の愛弟子! 外見は俺だけど、中身は変わらず聡いな)
    「うむ。異常を察し目覚めたときには既にこうなっていた。昨夜までは確かに不審な様子などなかったはずなのだが……」
    「何か呪いなどを受けた記憶もありませんしね。遠隔からのものであれば可能かもしれませんが、師尊も私も察知できないほどの呪いをかけられる者などそうはいないはず……」
     難しい顔でぶつぶつと呟いていた冰河は急にはっとした表情でこちらを見、突然頭を下げた。
    「申し訳ございません師尊、この弟子がついていながらこのような事態になってしまい……。師尊は異常を察知しお目覚めになられたというのに、この弟子はまるで気付かず――本当にまだまだ未熟でお恥ずかしい限りです」
    「ん……いや、何。私もふとかすかな違和感を覚えただけのこと。そう恥じる必要はない」
    (俺も系統のエラー音で気付いただけだし……)
    「それより、頭を上げなさい。そなたの体は今この師のもの。そなたが頭を下げるということは、この師が頭を下げているということだぞ?」
    「っ! はい、失礼いたしました」
     慌てて頭を上げた冰河に微笑み、それから小さくため息をつく。ひとまず、原因も戻り方も分からない以上このまま寝台の上でただ向かい合っているわけにもいかない。
    (入れ替わりネタなんてこちとら長年のオタク人生で何度も見てきたし、こういうのはラッキースケベが付き物ってのがお約束だけど、男同士じゃそういうのも起こりそうにないしな。どうにか原因と戻る方法を見つけないと)
     こういう展開が没プロットにあったというのならば分からないが、原作ではこんなネタは恐らくなかったはずだ。首を捻り懸命に原作のサブエピソードを思い出していると、心配そうな声がこちらを呼んだ。
    「あの……師尊。大丈夫ですか?」
    「ん、ああ、問題ない。ただこの先のことを考えていただけだ。ひとまず、着替えを終えてこの後は――」
     真面目な顔で言いかけたそのとき、不意に腹からなんとも間抜けな音が響いた。真剣な雰囲気を一気にぶち壊す腹の虫の音にかっと頬が熱くなり、頭を抱えたくなる。
    (あああ、どうしてよりによってこんなシリアスな感じの時に鳴るわけ くそー、ものすごく恥ずかしい……)
     けれど冰河は呆れるでもなく表情を緩ませ、寝台を下りていく。
    「冰河? どこに……」
    「朝餉の支度をしてきます。何にせよ、腹ごしらえは必要ですから」
     すぐにお持ちします、と微笑み冰河は部屋を出て厨房へと向かった。その背中を見送り、自分の情けなさに改めてため息が漏れる。
    (まあ、鳴っちまったものは鳴っちまったんだしこの際仕方ない。それよりもこの状況だよ! マジで一体何なんだ?)
     系統自体が原因不明の異常事態とエラーを鳴らしていたのだから、恐らく今回はあれの仕業ではないのだろう。そこまで考えて、そういえば……とふと気付く。
    (そういや、今は冰河の体になってるわけだけどこの状態でも系統って呼び出せるのか? もし系統が冰河の入ってる俺の方に話しかけたら色々厄介なんだけど……)
    「……おい。系統、系統?」
     声を潜めこっそり呼び出してみる。途端、聞き慣れた翻訳音声が脳内に響いた。
    『はい、お呼びですか? 系統はただいまアクティブモードです』
    (あ、よかった。体は別人でも精神に紐づいてるんだな。でさ、単刀直入に聞くけど今回のこれは本当にそっちの不具合とかバグじゃないわけ?)
    『当該現象に系統は関知しておりません。原作にも関係がありません。よって当該現象は明らかにこちらの把握範囲を逸脱した原因不明のエラーです』
     この系統に対しては、言うべきことをきちんと伝えてこなかったり重要なアイテムをすぐに落とさなかったりとカスタマーとして色々と不満もある。だが、少なくとも嘘はつかない。だからこうもはっきり言い切るということは恐らく確かなのだろう。
    「となると……まずは蒼穹山に戻って師兄に知恵を借りるか。冰河にも話をして――」
     ふわり、と鼻を掠めたいい香りに思わず言葉が途切れる。匂いの元に誘われるように足が厨房へと向いた。
    「……」
     厨房を覗き、忙しそうに炊事する姿をじっと見つめる。艶のある長い黒髪を後ろでひとつに結い器用な手さばきで料理しているのは、中身は冰河だが外見は自分――沈清秋だ。
    (我ながら言うのもなんだけど……改めて、こうして傍から見た沈清秋って整った顔してるよなあ)
     洛冰河のような男性らしい凛々しさはないが、線の細い横顔はかつての悪役とは思えないほど穏やかで優美だ。加えて、今は中身が冰河だからかさらに華のある魅力が増しているような気がする。これも主人公パワーなのかと感心していると、視線に気付いた冰河がこちらを向いて微笑んだ。
    「師尊、お待たせしてしまい申し訳ありません。もうすぐ出来上がりますので」  
    「いや、大丈夫だ。焦らずともよい。……それより、その姿を見るとやはり違和感があるな。私が厨房に立つ姿を見るのは一体何年ぶりか……いつもそなたにばかり炊事を任せてしまってすまないな」
     在宅中に自分が口にするものは基本全て冰河の手作りだ。冰河と暮らし始めてからこの数年間、三食に加えおやつ、夜食まで全て彼の絶品料理を味わわせてもらっている。いわば自分の体の全ては血液から細胞の一つに至るまで彼の料理によって形作られているようなものだ。
    「何を仰るのです、手料理を師尊に召し上がっていただけるのはこの弟子の喜びであり生き甲斐です。ですのでどうかそんなことはお気になさらないでください」
    「冰河……ありがとう」
     嬉しそうに笑う冰河に微笑みを返し、ふと先ほど彼に伝えねばならないことがあったのを思い出す。
    「そうだ。冰河よ、食事を済ませたらまずは蒼穹山に向かおうと思う。この不可解な現象の原因と解決法について、師兄に助力を願おう。なのでそなたも食事の後すぐに準備を――冰河?」
     言葉の途中で冰河の顔を見て、思わず続く言葉を飲み込んでしまった。先ほどまであんなににこやかだった表情が、ほんの瞬きの間に随分と苦いものに変わってしまっている。
    「冰河、どうした? 何か気になることでもあるのか?」
    「……いえ、何も。弟子はもちろん師尊の御心のままに従います。それでは、すぐに食事をお持ちしますので師尊はどうぞあちらでお待ちください」
    「うむ……」
     冰河の表情は既に先ほどまでの穏やかな微笑みに戻っていて、少し気にはなりながらも言われた通り大人しく部屋へと戻ったのだった。

     そうして朝食を終え、数刻も経つ頃には既に蒼穹山に到着していた。
    (やっぱ御剣の術は速いよなあ。本当はあんまり乗るの好きじゃないんだけど、今回は急ぎだったしな)
     その後は長い階段を上り頂上を目指す。すると、心なしかいつもより上る力が強いように思えた。洛冰河の体になっていることで身のこなしが軽くなっているのか、それとも……もしや足の長さの違いなのか。後者の理由が思い浮かんだ途端、妙に腹立たしくなったのでそれ以上は考えないようにする。
     やがて頂上に到達したとき、そこによく見覚えのある弟子が立っているのが見えた。彼はこちらに気付くとぱっと表情を明るくする。
    「師尊! お久しぶりです」
    「明帆、久しいな。元気そうで何よりだ」
     嬉しそうに駆け寄ってきた明帆に微笑み一歩踏み出す。だがもう一歩踏み出す前に剣呑なまなざしに睨まれた。
    「洛冰河、師兄に対してその口の聞き方はなんだ? 師尊のお傍に侍らせていただいているからっていい気になるなよ!」
    「えっ」
    (あ、そうか。ついいつもどおり声をかけちゃったけど、今の俺の見た目は冰河なんだった。そりゃ急にこんなフレンドリーに話しかけられたらビビるよな)
     しかし常に敬意を払われていた明帆からこんな目で見られることには当然ながら慣れてなく、なんだか少し悲しくなった。同時に、洛冰河は常にこんな目を向けられているのかとちくりと胸が痛む。これでも清静峰の弟子たちは他に比べれば歓迎してくれている方だが、そうはいっても辛くないわけではないだろう。
    (これからは冰河にもうちょっと優しくしてやらないとな……)
     心の中でそう決意していると、明帆は傍らで沈黙していた“沈清秋”に満面の笑顔を向けた。
    「師尊、本日はどうなさったのですか? 弟子一同いらっしゃるのを心からお待ちしておりました。さ、どうぞ中へ――」
     そう言って明帆の手がわずかに“沈清秋”の衣に触れた途端、ぱしりと乾いた音がした。呆気に取られる明帆の前で、ひどく冷たい表情をした“沈清秋”は先ほど明帆の手を打ち払った自らの手を煩わしげに軽く振る。それから何の感情も浮かんでいない暗い瞳で目の前の男を睥睨する。
    「軽々しく師尊に触れるな」
    「……」
     心が凍るような、というのはまさしくこういうことをいうのだろう。地獄の底から響くような低音と永久凍土よりなお冷え切ったまなざし。正直、自分の体からここまでの不機嫌なオーラが出せるとはこれまで知らなかった。あまりの恐ろしさに一瞬言葉をなくしたが、明帆が顔を青ざめさせ泣き出しそうに震えているのを見てはっと我に返る。
    「こら、冰河! 駄目だろう、明帆に謝りなさい」
    「ですが師尊……」
    「ですがじゃない。今のは完全にそなたが悪い。謝りなさい」
    「……、……師兄、申し訳ありませんでした」
     いかにも渋々と言った様子の言葉に謝罪の気持ちはあまり滲んでいない。聞き分けのない弟子に小さくため息をつき、自分でも明帆をフォローする。
    「すまない明帆、今のは気にするな。その……とある事情で今冰河は多分少し気が立っているのだ」
     子どもを宥めるように優しく声をかけると、真っ青だった顔に少しだけ血の気が戻る。しかしすぐに何かがおかしいことに気付いた様子で、明帆はじっとこちらを見つめた。
    「冰河? 洛冰河はこっちで、でも今師尊は洛冰河の方を師尊と呼んで……。……もしかしてこちらの洛冰河が――師尊ですか?」
    「うむ。まあその……我々にも何故こうなったかは理解できていないのだが、とにかくそういうことだ。すまないが急ぎ穹頂峰に行って掌門師兄に取り次いでもらえるだろうか。この状況で我々があまりふらふらと歩き回るのもよくない気がしてな……頼めるか?」
     我ながら曖昧な説明だと思ったが、明帆は目を見開き大きく頷くと全速力で師兄の元へ駆けていってくれた。

         ***

     明帆から話を聞いた岳清源はすぐに清静峰へ駆け付けてくれた。本来ならば自分たちが出向くところを申し訳ないと恐縮する沈清秋を前に、彼は笑顔で首を振る。
    「構わないよ。恐らく師弟は今回の件を清静峰以外にはあまり知らせたくないのだろう? この状況を知れば多くの峰主たちが面白――いや、心配して清静峰へやってくるだろうからね」
    「はい……」
     言い直されはしたものの、恐らく十二峰のうち大多数の峰主は前者の心持ちで訪れることだろう。見世物になるのはごめんだったから、沈清秋は師兄の心遣いに感謝し改めて今回のことについて事情を説明する。
    「……というわけで、原因についても解決策についても皆目見当がつかず……。恥ずかしながら師兄のお力を借りにきたのです。忙しい師兄のお手を煩わせてしまうのは非常に心苦しいのですが、どうか未熟な私に知恵をお授けいただけませんでしょうか」
     これまでの経緯を簡単に説明し頭を下げた沈清秋――外見は洛冰河だが――に、岳清源は穏やかに微笑み頷いた。
    「なるほど……事情は分かった。頭を上げなさい、もちろん私はいくらでも協力するよ」
    「ありがとうございます、師兄」
    「ありがとうございます」
     さすがに師が敬愛する掌門師兄の前でまで失礼な態度はとれないのか、沈清秋の外見をした洛冰河も礼を言う。入り口付近に控えその様子を見守っていた明帆は、先ほど外で向けられた鋭い視線を思い出し恐怖に肌を粟立たせた。そう強い力で叩かれたわけではないはずの手の甲も、まだぴりぴりと痛みが残っているような気がする。怖気の立つ感覚にもう一度ぶるりと体を震わせていると、室内で岳清源が立ち上がる気配があった。
    「しかしながら、このような不可思議な現象には私もあまり覚えがないな。少し過去の資料を探してこよう。師弟たちはゆっくりお茶でも飲んで待っていておくれ。明帆、すまないがお茶の用意を頼むよ」
    「っ! は、はいっ、ただいま!」
     慌てて茶の準備をし明帆が部屋に戻ると、岳清源は既に退席していて室内には二人の姿だけがあった。指先が震えそうになるのをどうにか抑えお茶を注ぎ洛冰河の顔をした師尊へ茶器を差し出す。すると温かく柔らかな声で礼が返ってきた。
    「ああ、ありがとう明帆。そなたの淹れてくれた茶を飲むのも久しぶりだな」
    「い、いえ……」
     不思議だ。外見は自分たちの元から師尊を奪っていったあの憎らしい洛冰河なのに、口調や穏やかな話し方、慣れた様子で扇子を使う仕草、人好きのする笑い方はたしかに師尊のものだ。
    (くそ、見た目は洛冰河なのに中身は師尊だと思うと……どうも胸が苦しい)
     向けられた微笑みに鼓動が跳ね、少し頬に熱が上るのを感じる。だが笑顔を返そうと視線を上げた瞬間、その隣から射殺すようにこちらへ強い視線を向けているもう一人に気付いてひゅっと喉が鳴った。
    「……」
     見られている――それはもう、ものすごーく見られている。静かなまなざしでありながら、底の見えないほど暗いその瞳には確かな殺意が滲んでいた。もし師尊とこれ以上会話を交わそうものなら、明帆にとって何か絶対よくないことが起こる――そんな予感がした。
     ごくりと息を飲み、もうひとつの茶器に茶を注いで押し出すと慌てて立ち上がる。急ぎすぎて足がもつれそうになったが、明帆はこれ以上あの視線に晒されることが耐えられず逃げるように部屋を後にした。

         ***

     今日の修行を終えたばかりの寧嬰嬰は、逸る気持ちで森を勢いよく駆け抜ける。
    (師尊と阿洛が帰ってきてるなんて! 今日は最高の日だわ)
     その話を聞いたのは、先ほど帰り道で出会った明帆からだった。何故かひどく青い顔をした彼から師尊たちが帰ってきているのを聞き、話が終わるのも待たず飛び出していた。そういえば去り際に明帆が何か言いかけていたような気もしたが、あれは一体何を言おうとしていたのだろう。
    (まあいいわ、お会いすればそれも分かるだろうし! 今どちらにいらっしゃるんだろう)
     そのとき、ふとどこかから誰かの話す声が聞こえた気がした。足を止めて周囲を見回すと、竹林の隙間から見慣れた人の姿が見える。仲睦まじく寄り添っている二人の人影――間違いない、ちょうど今探していた人たちだ。思いがけず会えたことに喜んで早速近づこうとしたが、じきに何やらただならぬ雰囲気を察して足を止めた。何故か向こうの彼らに気付かれてはいけない気がして、気配を殺してそっと近づく。
     彼らならすぐこちらの気配など察知してしまうだろうから、あまり近づきすぎてはいけない。そう思いじりじりと少しずつ距離を詰めたが、どうやらあちらの二人は今取り込み中のようであまり周囲の気配に意識を尖らせてはいないようだった。竹林を吹き抜ける風に乗って、二人の会話も先ほどよりはっきりと聞こえてくる。
    (何を話してるのかしら。というか、なんだか二人ともいつもと少し雰囲気が違うような……?)
     目を凝らし、竹の隙間からじっとあちらを見つめる。どうやら一方は涙を流して静かに何かを訴えているようで、もう一方は困ったようにそれを宥めているらしい。師尊と洛冰河の間でそれはよく見る光景だった。他者がいる前では洛冰河は決して涙を流さないが、師尊とふたりきりのときはその限りではない。寧嬰嬰も何度かその光景には遭遇しているから特に不思議ではないはずなのだが、今日のやりとりは普段とは正反対のものだった。
    (どういうこと? 師尊が泣いていて、阿洛がそれを宥めてる……)
     あまりにも希有なその光景に、寧嬰嬰は息を飲み瞳を見開く。瞬間自分が幻でも見ているのではないかと疑ったが、何度か瞬いてみてもその光景は変わらず視線の先にあった。
    「……冰河、もう泣くでない。たかがあれだけのことでそんなに泣くのはおかしいぞ。ただ茶を注いでもらっただけではないか。そしてそれに礼を言っただけのこと。何をそんなに妬く必要がある?」
    「いいえ師尊。どんなに短い間でも、私の前で私以外の弟子に笑顔など向けないでください。彼は師尊の微笑みを見て瞳を潤ませ、頬を染めておりました。私以外の誰かが師尊をそのように見つめるなど、この弟子は我慢ならないのです。……ああ、やはり思った通りでした。ここに来ると師尊の慈愛に満ちたお心に多くの者が惹きつけられてしまう……」
    「もしや出かける前にそなたが少し行き渋っていたのはそれが理由か? しかしなあ、そなたではあるまいし明帆がそんな風に師を見ているわけがないだろうに。まったく、さすがにやきもちが過ぎるぞ。少し心配になる」
    「お言葉ですが、弟子は師尊の無防備さの方が心配です。それでなくとも師尊は多くの者の心をその気もなく容易く奪っていくのですから、さらに愛想など振りまいたらそれこそ恐ろしいことになりますよ。どうかご自身の持つ魅力をもっと自覚なさってください」
    「それは私よりもそなたの方だと思うがなあ……」
     洛冰河が沈清秋を冰河と呼び、沈清秋が洛冰河を師尊と呼んでいる――その奇妙さに寧嬰嬰は首を傾げる。だが胸を満たしたのは不可解な状況への怪訝さよりも、何か説明のつかぬ激しい高揚感だった。鼓動が速く脈打ち、彼らから視線が離せない。
     いつも冷静で高潔な師尊がまるでたおやかな乙女のようにはらはらと真珠の涙を流し、洛冰河はいつも以上に凛々しく男らしい表情でそれを慰めている。しかし口調は優しさと細やかな愛情に満ちていて、相手を深く想っていることが伝わってきた。
    (どうしたんだろう、私今すごくどきどきしてる……。いつも二人を見てもここまではどきどきしないのに、どうしてこんなに……)
    「――それはね、ときめきと言うのですよ」
    「っ」
     突然耳元で囁かれた声に驚き、危うく悲鳴を上げそうになる。だが口から声が飛び出す前に後ろから伸びてきたほっそりとした手に口を塞がれ、そのまま少し後ろへ下がった。幸い、草を踏む足音はその瞬間急に吹いてきた強風に紛れて消える。それに師尊と冰河はまだ取り込み中のようでこちらに気付くこともなかった。
     ぱ、と手が外され慌てて振り向くと、そこには顔の半分を優美な布で隠した女性が立っていた。顔の上半分しか見えなくとも、目元の涼やかさや扇のように広がる長いまつげ、すっと通った鼻梁でその美しさは十分すぎるほど伝わってくる。
    「柳師妹……! いつのまに清静峰に?」
     声を潜めて尋ねた寧嬰嬰に、柳溟煙は立てた人差し指を布の上からそっと唇に当てる。それから寧嬰嬰よりもさらに声を抑え、小さく答えた。
    「つい先ほど。何やら興味深いことが起こっている予感がして、疾く参りました。ですが予想以上にネタになりそうな……いえ、珍しい状態になっていますね」
     竹林の向こうの二人を見つめる柳溟煙の澄んだ瞳は熱を持ってきらきらと輝き、ほんのわずかの瞬間さえ見逃したくないと訴えるかのように片時も視線を離さなかった。その熱心さにつられ、寧嬰嬰も同じように視線を向ける。
     少し距離を取ったために言葉は聞こえなくなったが、姿は変わらずよく見える。やがて洛冰河の力強い手が広げられ、その胸に師尊を優しく抱いた。ようやく涙を止めた師尊は幸福そうに微笑み――それからゆっくりと洛冰河の唇に自らのそれを寄せた。
    「「…………っ」」
     寧嬰嬰と柳溟煙の声にならない声が重なる。見つめる四つの瞳の先で数度唇を触れ合わせた二人は、手を取り合い静かに竹林を去っていった。完全に人影が消えるのを見送り、無意識に止めてしまっていた息を吐き出す。
    「柳師妹……」
    「寧師姐……」
     頬を染めた寧嬰嬰と柳溟煙はお互いに顔を見合わせ、それからこくりと大きく頷く。言葉はなくとも通じ合った――なんだかそんな気がして、二人は無言のまま固い握手を交わしたのだった。

         ***

     冰河を宥め竹林から戻ると、ちょうどいくつかの巻物を抱えた掌門師兄と出会った。再び部屋に戻り、改めて話を聞く。
    「調べてみたところ、これが原因ではないか……というものが一点見つかったよ。見てごらん」
     促され視線を落とした先には、数百年に一度出現するという紅きほうき星についての事柄が書かれていた。いわく、このほうき星は出現する際に多くの不可思議な事象を引き起こすのだという。
    「どうやら前回出現した際にも、師弟たちのように人格が入れ替わってしまった者がいるらしい。恐らくそのほうき星の妖力に霊脈が乱されることで、近しい間柄の者たちの肉体と魂に何らかの干渉が起こってしまうのではないかな」
    「はあ……近しい間柄、ですか」
    「ああ。なんでも、前回同じことが起こったのは一組の男女だったそうだよ。二人はとても仲睦まじい道侶だったそうだ」
    「……」
     掌門師兄はあまり深い意味もなく言ったのだろうが、妙に気恥ずかしさを覚えてしまう。思わずちらりと隣を見れば、自分の顔をした冰河はうっすらと頬を染め口元へわずかにはにかんだ微笑みを乗せていた。師兄からは見えないところで指先で軽く冰河の手の甲をつねり、表情を引き締めさせる。哀れがましくこちらを見た冰河から視線を逸らし、扇子の下で小さく咳払いをしてから言葉を続ける。
    「んんっ。……それで師兄、その者たちは結局どうなったのですか? 無事元に戻ったのでしょうか」
    「ああ、そうらしい。入れ替わりが起こったのは紅きほうき星が出現する数日前で、ほうき星が消えた後は再び元通りの体と魂に戻ったと記録があったよ。だから恐らく師弟たちも同じようになるのではないかな」
     それを聞いて、不安だった心が少し落ち着く。少なくとも一生このままというわけではなさそうだ。
    「そうなのですね……。ではその紅きほうき星というのは、今回いつ頃出現するのでしょうか」
    「うーん、残っている記録と先ほど占ってみた結果を鑑みるに、予測は三日後といったところかな」
    (三日か。よかった、そのくらいならまあ何とか……)
     しばらくこの状態だったらどうしようかと心配していたから、思いのほか短い期間で安心した。ほっと胸を撫で下ろし師兄に感謝する。
    「師兄、本当にありがとうございました。おかげで胸を塞いでいた不安が取り除かれました」
    「なに、大切な師弟のためなら当然のことだ。気にすることはないよ」
     優しいまなざしに心が和らぎ、微笑みを向ける。だがそのとき机の陰で冰河がそっとこちらの手を握ってきたのが分かった。ちらりと向けた視線の先には、少し不満そうな顔をした冰河がいる。
    (師兄にすら微笑むなって? ったく、本当にわがままな奴だな)
     内心呆れつつも手は振り払わない。するとそれに安堵したのかさらに手を強く握られ、指と指を組み合わせ手のひらをぴったりくっつけられた。
    (見えない位置とはいえ、なんで師兄の前で恋人繋ぎしなきゃならないんだよ……まあいいけど)
    「ひとまず、ほうき星が消えるまでの数日間はこのまま清静峰に滞在するといい。その方が万一何かあったときも安心できるだろう。弟子たちも久しぶりの二人の滞在に喜ぶだろうしね」
    「それでは、お言葉に甘えさせていただきます。師兄、何から何までお心遣い感謝いたします」
    「……」
     礼を言うこちらの隣で、冰河は無言のまま手に力を込める。重ね合った手のひらがさらに近くなり、混ざり合った体温で表面がしっとりと湿るのを感じた。

     その後は事情を聞いた弟子たちの歓待を受け、竹舎に戻った頃にはすっかり夜になっていた。
     魂が入れ替わるという不可思議な状況に陥ってしまった自分たちをいつもどおり受け入れてくれた同門たちの心遣いに思わず感謝のため息が漏れたが、それはそれとして気にかかることがあり、少し前から黙ったままの冰河を振り返る。
    「冰河、そなた先ほどから随分険しい表情をしているようだがどうかしたのか?」
     掌門師兄からほうき星の話を聞いた辺りから段々と口数が少なくなり、時間を経るほどその眉間のしわも深く刻まれるようになっていた。“沈清秋”の顔でそんな不機嫌面をしているから余計に近寄りがたい雰囲気を放ち、あの寧嬰嬰ですら不用意に近づくのを躊躇っていた。
    (そういや何故か嬰嬰の隣に柳溟煙の姿もあったな。いつの間に仙妹峰から来てたんだ? しかも妙に熱く『しばらく兄は清静峰に近づけさせませんのでご安心ください』って言われたけど、なんで?)
     まあ、今のこの状況を柳師弟に見られたらいろいろ面倒なことになりそうだし、自分の体にしても冰河の体にしても喧嘩を売られては困るので実際そうしてもらえると助かるのだが。
    「……」
    「冰河……?」
     しばらく待っても返事はなく、そっと冰河の肩に触れて顔を覗き込む。するとどこか沈んだ瞳がこちらを見つめた。元気のない様子にますます心配が募る。
    「こんな状況になってやはり不安か? だが三日もすれば元に戻るだろうと師兄も仰っていたではないか。だからそんなに心配せずともよい。……それとも、もしや体に何か不調でも起こっているのか?」
     自分に不調が起こっていないからといって冰河もそうとは限らない。もしかしたらほうき星の引き起こした不可思議な事象は、魔族の血が混じった冰河には人間である自分とはまた何か違った変化を起こしているのかもしれない。冰河はしばし沈黙した後、小さくため息をつく。それから静かにこちらの肩に額を預けた。
    「冰河? 大丈夫か?」
    「……師尊。家に……私達の家に戻りませんか」
    「え? 何を言い出すのだ、万一のことを考えてほうき星が消えるまではこちらに滞在するようにと言われただろう。家に戻り、もしも何かあったらどうするのだ?」
    (それに、もし戻ったときに冰河と対立する魔族の襲来とか受けたら超ヤバいし……。今は俺が洛冰河だから狙われるのは絶対俺だし、冰河は助けてくれるだろうけど俺の体じゃ本来の力が全部出せるか分かんないし。……っつーか今の状況の場合、『絶対に死なない』っていう主人公補正はどっちに有効になるんだ? 系統は中身にひも付いてたし、やっぱりそれも中身なのかな)
    「師尊……」
     思わず考え込んでしまっていたところを、か細い声で呼ばれてはっと我に返る。ふと見ると、冰河はいつの間にか顔を上げてこちらを見つめていた。
    「と、とにかくだ。私はこのまま清静峰に滞在した方がよいと思う。冰河よ、そなたは何故ここを離れ家に戻りたいのだ? 何かそれほどの理由があるというのか」
     不思議に思い尋ねると、冰河は何故かショックを受けたように瞳を見開く。それからまつげを伏せて瞳を潤ませた。
    「……師尊は、今日が何の日か覚えていらっしゃらないのですか。私たちにとって、とても大切な日ですのに……」
    「大切な日……?」
     そう言われてもまるで心当たりがない。
    (なんだっけ、お互いの誕生日……は今日じゃないよな。無間深淵に落とした日? それともそれから三年ぶりに再会した日? それか俺が一回死んだ日とか復活した日とか……? いや、なんかどれも違う気がするな)
     思い浮かばず考え込んだこちらを見て冰河はますます涙を滲ませ、やがて小さい声で教えてくれた。
    「今日は――三日ぶりの約束の夜だったのですよ」
    「三日ぶり……って、あ……っ!」
     その言葉の言わんとしていることを理解し、ぱっと顔が赤らむ。それはつまり――二人が体を重ねる約束をしている日だ。
    (あー……そっか、そういや今夜だったっけ。朝から衝撃的すぎてすっかり忘れてたわ)
     完全に失念していたことを少し申し訳なく思いつつ、ちらりと冰河を見やる。原則としてこちらの希望に添わないことはしない彼は、三日ごとのこの日のためにいつも我慢をしている。同じ寝台で寝て抱き合ったりキスをすることはあっても、こちらが駄目だと言えばきちんと――まるで捨てられた子犬のような目で何かを訴えながらも――引き下がる。だからこそ三日ごとの晩は冰河にとって非常に重要な夜で、できることなら誰の邪魔も入らない二人だけの家に帰りたかったのだろう。――とはいえ、だ。
    「しかし冰河。家に帰ったところで、それはその……今夜は少々難しいのではないか?」
    「何故ですか?」
    「何故って……今我々はお互いの体に入れ替わっているのに、どう……あー……致す、つもりだ?」
    「あ……っ」
     そこには気付いていなかったのか、冰河ははっとした様子で短い声を上げた。それから先ほど以上に表情を暗くしてがっくりと俯く。
    「そんな……」
    「いやその、そなたがどうしてもと言うなら試してもいいが……。この場合、冰河の体の私がそなたに“する”のか、それとも……私の体のそなたがそなたの体の私に……“して”みるか?」
    (もし後者でってなったら、これは俺の肉体的には童貞卒業ということになるのでは……?)
     沈九の頃はともかく、自分が入ってからのこの体は男としては見事に清いまま――童貞である。転生前にしてもキスまではどうにかこぎつけたもののその先に行くことはできなかったので、つまり自分は二つの人生のどちらでも可愛いチェリーボーイのままのわけで……それは少々不本意だ。
    (この先俺が他の誰かと寝るなんて冰河は絶対許してくれないだろうし、そもそも俺も他の相手と……ってのはあんまり気が進まないし。これはもしや、俺にとって童貞喪失の最後のチャンスなんじゃないか? 相手は男だけど!)
     このまま童貞非処女として人生を終えるのかと諦めていたが、不意に機会が巡ってきた。だが思わずそわっとしてしまった自分とは対照的に、冰河はひどく難しい顔をして考え込んでいる。しばらく悩み抜いた後、彼から返ってきた答えは否定だった。 
    「……いえ、やめましょう」
    「な、何故!」
    (二回目――いや、あれは冰河にとっては最初か、とにかくここで初めてしたときは挿れてみるかって譲歩してくれたくせに!)
    「師尊のご希望にはできる限り沿いたいと思っておりますが、それだけは……。やはり、私は師尊に抱いていただくよりも抱かせていただきたいので……」
    「……そうか」
    (別に残念じゃないし。やっぱり一生童貞のままかーなんて思ってないし!)
    「ならば諦めるしかなかろう。別に三日ごとに体を重ねなければ死ぬわけでもなし」
    「私の心は死にます」
    「……」
     食い気味にはっきりと言われて、一瞬言葉に窮する。そうは言ったってやりようがないのだからどうにもならないだろうに。
    「冰河、仕方のないことだ。諦めなさい。三日もすれば元に戻るはずだから、もうしばしの辛抱だ」
    「ですが、弟子は既にこの三日間心の底から辛抱しておりました……」
    「ならば修行だと思ってもう少し辛抱を長引かせなさい。さ、今夜はもう寝よう。今日は色々とあって疲れたし、そなたも寝てしまえばすぐ朝になる。寝台はどうする? 今はそなたが私の体だからこちらのものを使ってもよいが、やはり離れの自分の寝台の方が使い慣れているからよいか?」
    「えっ、同じ寝台では駄目なのですか? 私は……師尊と一緒に眠りたいです」
    「それならそれでも構わないが、そなたが辛くないか?」
    「……」
     こちらが言うのもなんだが、一緒に寝たところで何もできないのは却って蛇の生殺し状態だろう。想像して納得できたのか、悔しそうに歯を食いしばり冰河が頷く。
    「はい……」
    「そうであろう。で、どちらの寝台がいい?」
    「離れのものを使います……。いくら師尊の体であっても、師尊の寝台を使わせていただくなど恐れ多くて……」
    「分かった、ではそうしよう。ふわぁ……私も今日は疲れた。そろそろ眠る。そなたももう行きなさい」
    「はい……おやすみなさい……」
     肩を落としとぼとぼと離れへと向かう冰河を見送りかけて、ふとあることを思いだし引き留める。
    「そうだ。待ちなさい冰河」
    「はい?」
    「ほら、私の寝衣だ。今夜はこれを使え」
    「えっ! し、師尊の寝衣をお借りしてよいのですか? ですが私は自分のものがありますので……」
    「その体にそなたの寝衣では大きすぎるだろう。反対にそなたの体では私の寝衣は小さすぎる。だから交換だ。あとでそなたの寝衣も貸してくれ」
     冰河とは身長自体はあまり変わらないのに、体つきを見ると大分違う。筋肉の付き方が違うのか、肩も腕も腰回りも彼の方が力強くしっかりとしている。洗濯の後に並んで干されている衣を見るたび、その体格の違いも実感して内心悔しい思いをしていた。
    「……私が、師尊の寝衣を……」
    「冰河? 聞いているか?」
    「っ! は、はい! 分かりました、すぐにお持ちします。では……その、ありがたくお借りします……」
    (? なんでそんなに赤くなる必要があるんだ?)
     ぺこりと頭を下げ足早に離れへと去っていく冰河の顔は耳まで真っ赤で、首を傾げながらその背中を見送った。

    「はー……今日はマジで疲れた……」
     一人きりになった室内で、寝台の端に座り大きく息を吐く。今朝から色々なことがあったせいで気力も体力ももう限界寸前だ。
    「やっぱさっき冰河が断ってくれたおかげで助かったな……もしヤりたがってたとしてもこれじゃ無理だわ。冰河の元気さに付き合ってたら多分俺、朝までに死んじゃう」
     もう三日間我慢しろと伝えたときの絶望的な彼の顔を思い出して少し心が痛んだが、それよりも安堵感の方が勝っていた。入れ替わった今の状況ならば万一にも無体をされる心配はないし、朝まで安眠確実だ。いつものように意識を朦朧とさせながら朝日を拝むまで求められる心配もない。
    (安眠絶対保証なの最高じゃん! これならあと三日と言わずもうちょっとくらいこのままでもいいかも……)
     けれどその途端、涙を浮かべ哀れがましい目でこちらを見つめる冰河の顔が頭に浮かぶ。
    (もし冰河の前でうっかりこんなこと言ったらさめざめ泣かれそうだな……気をつけよ)
     気持ちを切り替え、冰河が持ってきてくれた寝衣に着替える。衣を脱ぎ寝衣を着ようとしたところで、ふと視線が下に向いた。
    「やっぱ……いい体してるよなあ。全体的にバランスよくしっかり筋肉ついてる」
     着痩せするタイプなのか、服を着ている状態ではここまでの体つきだとは分からないだろう。まじまじと体を見つめ、その肉体美に惚れ惚れする。
    「同じ男としてはやっぱ羨ましいっていうか、ちょっと悔しいよな……。俺ももうちょっと鍛えたらせめてこの何割かは筋肉つくかな。……いや、難しそうだな」
     転生から早幾年、“沈清秋”の体型に大した変化は見られていない。だからきっとあの体は元々筋肉がつきにくい体質なのだろう。断じて自分が筋トレをさぼっているからではない……はずだ。
    (にしても、冰河の裸なんて見慣れてるはずなのに何故か新鮮な感じがする……なんでだ?)
     その理由を考え、普段はこんなにじっくり見ている余裕などないからだと気付き顔が赤らむ。風呂や着替えのときだって見るには見るが、それよりも多い機会はつまり……アレのときだ。欲望を滲ませた熱いまなざしで自分に覆い被さってくる相手の裸をそうじっくり見つめ返すほどの余裕は自分にはまだ会得できていない。
    「考えてみれば、原作じゃハーレムのヒロインたちがいっぱい見てたけど今の冰河の体に関しては見たことがあるのはほとんど俺だけなんだよな……」
     こんなにいい体をしているのに、誰もそれを知らないなんてもったいない。そう思う一方で自分しか知らないということに無意識に優越感を覚えてしまい、そんな自分の考えに恥ずかしくなる。
    (ああくそ、何考えてるんだ俺は! さっさと着替えて寝よう)
     顔に上った熱を散らすように大きく首を振り、乱暴な手つきで寝衣を着て寝台に横になる。勢いよく寝転がった拍子に髪や寝衣からふわりと慣れ親しんだ冰河の香りが鼻を掠め、一度落ち着いたはずの顔の熱が再び戻ってくるのを感じた。

       ***

     竹舎の主室の騒がしさとは対照的に、離れはとても静かだった。寝台には既に寝衣に着替え終えた氷河が横たわっている。しかし眠りに落ちてはおらず、先ほど脱いだばかりの衣を抱きしめ顔を埋めていた。
    (はあ……師尊の香りがする……)
     本人の代わりのように抱きしめている衣からも今身につけている寝衣からも、さらには寝台に広がる長く艶やかな黒髪からも、至るところから愛する人の香りがする。とても穏やかでありながらどこか甘さも含んだその香りを、深く息を吸い込み思うまま味わう。だがそれに幸福を感じる一方で、今自分の傍らに愛おしい相手の香りしかないことに切なさも募った。
    「師尊……娘子……」
     想いを滲ませ吐息混じりに呟くと、寂寥感に胸が塞がれる。せめてもの慰めにと自分で自分自身を抱きしめたとき、ふと感覚が自分の体のそれとは違うことに気付いた。もちろん別人の体である以上多少の違いはあるものだろうが、これはそういうのとも少し異なる気がする。
    (……? なんだ? 右の二の腕の辺り……なんだか他の場所に比べて感覚が違うような……)
     今度は注意深く、先ほど違和感を覚えた辺りへ慎重に手のひらを滑らせてみる。するとある特定の部分だけぞわりと肌の粟立つ感覚があった。しかし決して嫌な感じではなく、これはむしろ――。
    「……」
     その感覚の正体に気付いた途端、不意に体温が上がり脈拍が速くなる。念のためもう一度指先で同じ部分をなぞり、自分の推測が間違っていないことを確信した。
    「……知らなかった。師尊はこんな場所もお好きだったのか」
     彼は常に理性的で慎み深く、よほど我を忘れて乱れたときでもなければどこが好ましい場所なのかをあまり教えてはくれない。体を重ねてすぐの頃は恥ずかしがりながらも教えてくれたが、お互いに慣れてきた最近はすっかり教えてくれなくなった――もっとも、近頃はこちらもコツを覚えてきたので教えてもらわずとも相手に悦んでもらえるようになってきていたし、ある意味ではこちらを信頼しこちらのしたいように身を任せてくれている証しかと思い満足していたのだが。
    (まさか、師尊のお体のことでまだ知らないことがあったなんて……)
     愛しい人についてまだ自分の知らないことがあったという事実に瞬間忸怩たる想いを抱いたが、その後すぐにあることに気が付きぱっと瞳が輝いた。
    (……ということはつまり。この師尊のお体になっている間に隅々まで調べてみれば、師尊がどこを好みその場所をどのように触れれば快感を覚えてくださるのか、全て如実に分かるのでは……?)
     まさに悪魔的着想。天啓を受けたが如くの自らの発想に、今まで以上に興奮が抑えきれなくなる。だが血の沸くような感覚の一方で脳内でもう一人の自分の訴えも聞こえてきた。
    (いやでも、師尊の了承もなくそんな勝手なことをしていいのだろうか。親しき仲にも礼儀ありというし、いくら道侶の関係であっても私の一方的な思いつきだけでそんなことをするのは……。そもそも師尊はどう思われるだろう)
     体を起こし、そっと主室側の壁を見つめる。あちらでは既に師は眠りについただろうか。きっと健やかな寝息を立て穏やかに眠っている師を想像すると、勝手なことをして裏切ってはいけないという想いが強くなる。だが――。
    (……でも、師尊は行為の中盤からはともかく最初の方は未だに痛がっておられる……。これは全て私の不徳の致すところ、充分な技術が備わっていないせいだ。ならば――師尊の感じる痛みを最大限取り除き快楽を得ていただくためにも、これは必要な行為なのでは?)
     至極真面目な大義名分を振りかざし、それは言い訳ではないかと訴えるもう一人の自分から目を逸らす。そう、これは愛する人の苦痛を取り除くための探求である――それならば、だ。
    「師尊……」
     もう一度じっと壁を見つめ、その先にいるであろう人の姿を思い浮かべる。それから長い息を吐き、寝衣にそっと手をかけた。
    「申し訳ございません、師尊。私は悪い弟子です……」
     細く長い指でゆっくりと寝衣の紐をほどき胸元をはだけさせる。明かりの元にあらわになった白い肌は陶器のように滑らかで、静かに指先を這わせるとぞくりと震えが走った。瞳を潤ませてさらに指を寝衣の奥へと忍ばせると、何ともいえぬ背徳感に鼓動が大きく高鳴り、唇からは抑えきれない熱い吐息が漏れた。

       ***

     ――翌朝。あの後すぐに眠りにつき一晩誰にも邪魔されない快眠を満喫してすっきりと目覚めると、嗅ぎ慣れた冰河の料理の匂いが漂ってきていた。やがて軽い足取りでこちらにやってきた人影が上機嫌に姿を現す。
    「あ、師尊おはようございます! お目覚めでしたか」
    「ああ冰河、おはよう」
    「まもなく朝餉の支度が整いますので、もう少しだけお待ちくださいね。できたらすぐにお持ちします」
     にこやかにそう言って、自分の姿をした冰河は再び厨房へと戻っていく。朝から機嫌の良さそうなその様子を怪訝に思いながらもほっとする。
    (あれ、昨夜お預け食らったからてっきり今朝も落ち込んでるかと思ったんだけどな。ま、しょんぼりされるよりは元気にしてる方がいいか。……にしても、なんか妙にご機嫌だったな。なんでだ?)
     首を傾げるも、当然その理由が分かるはずもない。昨夜自分が寝入っていた隣で遅くまで何がなされていたかも――もちろん知る術はない。
    「師尊、お待たせしました!」
     結局、わずかに感じていた違和感も届けられた朝餉への食欲によってあっという間に思考の外へと追いやられてしまった。
     
     ――そうして早いもので、ついに迎えた三日目の晩。生憎その日は薄曇りで、普段ならばよく見える星も今夜は見られそうになかった。これでは目的のほうき星が本当に今夜流れたのか確認するのは難しい。仕方なく祈る気持ちで竹舎に戻り、眠りについて朝を待つことにした。寝台に寝転がり、窓から覗く曇った夜空を見る。
    (明日の朝には戻ってるかな……。なんだかんだで三日間ってあっという間だったな)
     最初こそもう少し長くこのままでもなどと思ったが、いざ明日となるとほっとした気持ちになった。と、不意に人が近づく気配を感じて視線を入り口の方へ向ける。
    「師尊……」
    「冰河? こんな時間にどうした」
     見れば、薄暗がりの中に冰河が立っていた。その姿に、時折悪夢を見たと心細そうに訪ねてきたまだ子どもだった頃の彼が重なる。
    「今夜がほうき星の出現する日だと思うとなんだか眠れなくて。その……今夜はこちらで一緒に寝かせてもらえませんか?」
     眉を下げおずおずと懇願する様は昔と一緒だ。もう立派な大人なのに、まだまだ子どものようなところがある彼が可愛くて、思わず愛おしさを感じ口角が上がる。 
    「仕方のない子だな。……構わない、おいで」
     体を起こして手招いてやると、冰河は嬉しそうに頭を下げ傍へ寄ってくる。喜びでぱっと花を咲かせているようなその様子に、ないはずの耳としっぽが見える気がしてくる。
    (冰河が犬だったら、今頃千切れんばかりにしっぽ振ってるんだろうな)
     なんだかとても想像ができてしまってついつい噴き出す。するといそいそと寝台に上がってきた冰河が不思議そうに瞳を瞬かせた。
    「師尊? どうかなさったのですか」
    「ああいや、なんでもないよ。さあもう寝よう」
    「はい」
     横になるとすぐ、伸びてきた手に抱きしめられる。“沈清秋”の体では“洛冰河”の体全てをその腕の中に抱くことはできないが、数日ぶりの間近での温もりは心地よかった。
    「明日には戻れるでしょうか」
    「そうであることを祈っているがな。……そなたはこの三日間どうだった?」
    「そうですね……最初は驚きもしましたしいろいろ不服なこともありましたが、案外悪くないこともありました。今となっては少し名残惜しい気もいたします」
    「そう……なのか?」
    (この三日間俺に近づいてくる人間に対しても、何も知らずに“沈清秋”に近づいてくる人間に対してもものすごい剣呑な目を向けてたように思うけど……冰河にとって悪くないことってなんかあったっけ?)
    「師尊はいかがでしたか? 私の体で、何かお気に障ることなどはありませんでしたか」
    「そなたの体自体は特に不便もなく快適であったよ。ただ――」
     そこまで言ってふと言葉に詰まる。すると心配そうな瞳がこちらを向き、温かな手がそっと頬に触れた。
    「ただ……? 何かあったのですか」
    「いや。そなたに――普段“洛冰河”に向けられているまなざしはこのようなものだったのだなと実感して少し心苦しくなった。……実際に体験してみないと分からぬなど、未熟な師ですまないな」
     全員がそうというわけではないが、中には畏れを滲ませたまなざしでこちらを見る者もいた。冰河自身はあまり気にしていないようだったが、こんな視線を向けられるというのはやはり気分の良いものではない。
    「そんな、師尊に謝っていただくことなど何も。大丈夫ですよ、弟子は全く気にしておりません。どんな目を向けられたところで他の者の視線など気にはなりませんし、私には師尊がいてくださいますから」
    「だが……」
    「よいのです。私は師尊さえお傍にいてくださるなら、どんなものも怖くはありませんし気にも留めません。……師尊を奪おうとする輩には決して容赦はいたしませんが」
    「ん? 今何か……」
     言葉の最後、何かを呟いていた気がしたがよく聞こえなかった。しかし問いに返ってきたのはいつもどおりの微笑みだけだ。
    「いいえ、何も。ただの独り言です。……とにかく、私はこうして師尊がいてくだされば平気です」
     抱きついてくる腕にまた少し力が込められる。目を閉じ安堵した表情を浮かべる冰河はとてもリラックスして見えて、思わずすぐ近くにあった額にそっと唇を落とす。途端、驚いた様子で目を開け冰河がこちらを見た。
    「師尊、今額に触れたのは……」
    「ふふ、そなたの体のよいところの一つは、こうして額に口づけがしやすいところだな。普段の体ではそなたの方が背が高いからこんなことはしづらい」
     瞳を見開き頬を染める姿が愛らしく、くすくすと笑みが零れてしまう。するとしばしの間視線を泳がせていた冰河の唇からやがて小さく呻き声が漏れた。
    「……師尊。後生ですから、そう無邪気に弟子を誘惑するのはおやめください。本当に我慢ができなくなってしまいそうです」
    「私は誘惑などしたつもりはないぞ? それに、この体のままでは何もできないであろう」
     いつもなら流されてしまうところだが、入れ替わっているこの状況なら無体をはたらかれる心配もない。普段とは違い彼より優位に立てている感覚が面白く思わずからかうと、少し悔しそうなまなざしがこちらを見つめた。
    「いつものようなことはできませんが……このくらいのことならば今の状態でもできるのですよ」
    「ん……っ」
     突然近づいてきた唇に口を塞がれ、素早い動きで口内を貪られる。こうして深く舌を絡められるのも数日ぶりで、普段とは違う感覚にぞくりと背中が震えた。
    「……っ冰河!」
     唇が離れた瞬間、不意打ちを仕掛けてきた弟子を軽く睨み小さく叱責する。けれどこちらが本気で怒っているわけではないことは相手にもしっかり伝わっているようで、抱きついている腕が緩むことはなかった。
    「先に誘惑なさったのは師尊の方です」
    「……っ」
     熱のこもった瞳に見つめられ、言葉が出なくなる。“沈清秋”の目がこんなにも熱く欲望に眩んだ目をできるとは思っていなかったけれど、もしや――快楽を追い求めているときの自分もこんな瞳をしていたのだろうか。そうだとしたらあまりにも貪欲で鮮烈で正直で――気恥ずかしい。
    「……もう寝る」
     照れくささから逃げるように目を瞑り、眠る体勢に入る。暗くなった視界の向こうで小さく笑う声が聞こえ、もう一度唇に温かなものが軽く触れた。
    「はい。おやすみなさい、師尊」

    『――が解消されました。おめでとうございます、エラーが解消されました』
    「んぁ……?」
     目の前が白む感覚と共に、聞き覚えのある機械音声が近くで何かを伝えているのが分かった。寝起きの聞き間違いでなければ、エラーが解消されたと……今たしかにそう言っていた気がする。
    (解消されたっ)
     咄嗟に目を開くと、まず自分が相手を抱きしめているのと同じように、いつの間にか相手からもしっかりと抱きしめ返されていることに気付いた。視界に映っているのは、よく鍛えられた広い胸板と国宝級の美しい寝顔――洛冰河の顔だ。
    「戻って……る」
     思わず呟いたその声に気付いたように、冰河の長いまつげが上がり澄んだ瞳がこちらを向いた。そうして目の前にいるのが自分の師――昨日までの数日間、自分の魂が入っていた相手だと理解して、芸術的なほどに整った顔がふわりと嬉しそうにほころぶ。
    「おはようございます、師尊」
    「……うん。おはよう、冰河」
     無事に戻れたことにほっと息をつき、目の前の温もりに頬を寄せる。額に口づけしやすいあの高さも悪くはなかったが、やはりこちらの方が自分にはしっくりくる。数日ぶりの慣れた感覚に安堵が溢れ、抱きしめられるまま目の前の相手にそっと体を預ける。すると、こちらを抱いていた手がゆっくりと背中を滑り腰へと落ちた。同時に髪に唇が触れる感触とそこから漏れる熱い吐息を感じ、慌てて名前を呼ぶ。
    「こら冰河。それ以上は駄目だぞ」
    「……何故ですか?」
    「何故も何も、場所を考えなさい。ここは私たちだけの家ではないのだから、もしも誰か来たらどうする」
     それとなく距離を取り、体を起こす。すると悲しげに潤んだ瞳が哀れがましくこちらを見つめた。
    「師尊……」
    「そんな目をしても駄目なものは駄目だ。さ、早く着替えて師兄に無事に戻れたことを報告しに行こう」
     あまり目を合わせているとこのうるうるとした瞳に絆されてしまう。目を逸らし断固とした態度を貫いていると、ようやく諦めたのか冰河は渋々起き上がり離れから衣を持ってくる。
    「師尊、お持ちしました。どうぞ」
    「うむ。ほら、これはそなたの着替えだ」
    「ありがとうございます。私もこちらで着替えてよろしいですか?」
    「ん? ああ、別に構わな――……いや、やはり向こうで着替えてくれ」
     別に同性同士、ひとつの室内で着替えることにそう問題はない。ないのだが……先ほど寝衣に手をかけた瞬間から、どうにも冰河からの視線が気になる。
    (ちらっと見るくらいならまだしも……さすがにちょっと見すぎじゃないか?)
     覗き見どころか、これでは完全に凝視されている。
    「こちらではいけませんか?」
    「そなたの視線が気になる。別に私の着替えなどこれまで何度も見ているのだから、そう物珍しいものでもないだろう。何故今日に限ってそんなに見つめてくる?」
    「え? いえ、普段お気づきになっていらっしゃらないだけで別に今日に限ってということではないのですが」
    「……冰河よ。何か今、師は聞いてはいけないことを聞いた気がするのだが?」
     普段、寝起きのまだ覚醒しきれていない状態で着替えていたからあまり気にしたこともなかったが、もしかして……。
    「そなた、いつも私が着替えているときにもそんなにじっと見ていたのか?」
    「……どうかお許しください。この弟子は師尊の一挙手一投足を一瞬も余さず目に焼き付けていたいのです」
     そう言って頭を下げこそしたものの、声には悪びれた様子がない。だが叱ろうとしたところできらきらとしたまなざしで見つめられてしまい、それ以上言葉が出なくなった。
    (ぐうぅ……っ! くっそー、俺がその顔に弱いって分かっててやってんな っつーか本当に顔がいいな この顔面偏差値頂点突破野郎!)
    「……っも、もういい。とにかく、そなたは離れで着替えてきなさい。早く行け!」
    「……はい」
     残念そうに去っていく冰河を見送り、大きく息を吐く。
    (まったく……。ようやくこれで落ち着いて着替えができる)
     気配がなくなったのをもう一度確認し、ようやく寝衣を脱ぐ。三日ぶりの自分の体はやはりしっくりと馴染んで改めて安堵感がこみ上げた――しかし。
    「ん……?」
     なんだろう、何かふと違和感を覚えた。寝衣の前を開いたまま視線を落とし、自分の体を一通り確認してみるが特におかしな部分はない。
    (……? 三日ぶりだからなんか変な気がするだけか)
     きっと気のせいだろう、そう納得してさっさと着替えを終える。そうして服装の乱れがないか確認しようと軽く体を捻ったとき、突然電気が走るような感覚がして全身にかすかな痺れが走った。
    「……っ な、なんだ今の……」
     大したことではない、体のとある部分に衣が一瞬触れただけのことだ。たったそれだけのことなのに、過剰な反応をしてしまった自分自身に思わず顔が赤くなる。
    (なんでだ? 今までこんな風になったことないのに)
     混乱しつつ、もう一度恐る恐るその場所を確認しようとする。だがその瞬間、足音が近づいてくるのが聞こえて慌てて姿勢を正した。
    「師尊、お待たせいたしました。……どうかなさいましたか?」
    「ん……い、いや。なんでもない」
    「ですが少しお顔が赤いようです。もしや熱でも?」
    「本当に大丈夫だから気にするな。では師兄に報告へ行こう」
     冰河の気遣わしげな視線にいたたまれなくなり、逃げるように竹舎を出て穹頂峰に向かう。まだ朝の早い時間だったにもかかわらず、師兄は快く面会に応じてくれた。無事に元の体に戻れたことを報告し、蒼穹山を辞すための準備をする。師兄からは『念のためもう少し滞在して様子を見た方がいいのでは』とも勧められたが、一刻も早く二人の家へ帰りたいと訴えてくる冰河の無言の圧を感じ断るしかなかった。案の定、帰ると決まった後の冰河はとても上機嫌で、手早く荷物をまとめ驚くほどの速度で帰り支度を整える。
    「師尊、私の準備は終わりました。師尊はいかがですか?」
    「ああ、もう少しで終わる。せっかく来たので、ついでに書物をいくつか向こうに持ち帰ろうかと思ってな」
    「そうでしたか。では、私は寧師姐に呼ばれたので少し行って参ります。申し訳ございませんが少々お待ちください」
    「構わないよ、ゆっくり行ってきなさい」
     冰河を見送り荷物をまとめる。最後にもう一度忘れ物がないか確認をして、ついでにと離れも覗いてみる。寝台の上には既に荷物がきっちりとまとめられていたが、ふと床に何かが落ちていることに気付き近づく。
    (なんだ? 紙……なんかのメモか?)
     丁寧に折り畳まれた紙を拾い、広げてみる。するとそこにはいくつかの不可解なものが箇条書きで羅列されていた。
    「えーと、右の二の腕の上から三寸部分……好?」
     紙には他にも鎖骨や首筋、手の指の付け根や腰の黒子、太股の裏側などいくつかの体の部位と、その下に“好”――良いと書かれている。さらにそれだけではなく、所々に“非常好”や“不好”の文言もある。だがはたしてこれが何を意味しているのかはさっぱり分からない。
    「冰河の字だよな? なんなんだろこれ……っつーか腰の黒子って誰の腰?」
     首を傾げたが、見ていたところで正体が分かるものでもない。再び紙を畳み、そっと寝台の荷物の下に置いておいてやる。そうして主室に戻って少し待っていると、小さな包みを抱えた冰河が戻ってきた。
    「お帰り。嬰嬰はなんだって?」
    「師尊と食べるようにと菓子をいただきました。家に戻ったら一緒に食べましょう」
    「おや、それはありがたい。どれ、礼を言いがてら私も帰る前に嬰嬰や明帆たちにも挨拶してくるか」
    「あ……いえ、皆への挨拶は私が先ほど師尊の分も済ませてまいりました。ですから、早く我々の家に戻りましょう」
    「え? いやしかし……」
    「お願いします。弟子は一刻も早く帰りたいのです」
    「ん……うん? ま、まあ、そなたがそこまで言うなら……」
     真剣な表情の冰河に少し圧倒されながらも頷くと、冰河は片手で素早く二人分の荷物を抱え、もう片方の手でこちらの手を取り引いた。
    「ありがとうございます、では参りましょう」
    (なんだ? 随分急いでるな)
     不思議に思いつつ、手を引かれるまま進む。やがて開けた場所に出ると冰河は御剣の術の準備を始める。よほどすぐにここを離れたいのか、来たときのように階段を降りるつもりはないらしい。
    「師尊はあまり御剣の術がお好きではないでしょう。ですので、僭越ながら帰りは私が一緒にお連れしますね」
    「いやまあ、好きではないというわけでは……しかしせっかくのそなたの申し出を断るのも悪いな。では頼もうか」
    「はい。お任せください」
     師としてのプライドを守るためにどちらでもいい体を装ってはみたが、正直に言えば自分で乗るより誰かについでに乗せてもらった方が楽だ。内心ほっとしつつ冰河に抱き寄せられるようにして剣に乗る。
    「少し窮屈でしょうか? 申し訳ありません、しっかり押さえていないと万が一のことがあったら大変ですので」
    「大丈夫だ、問題ない。しかしこの感じ……なんだか懐かしいな、以前はこうして柳師弟にも時折乗せてもらったものだ」
    「……ああ、そうでしたね」
     瞬間、こちらの腰を抱いている冰河の手がわずかに強張った気がした。ぴりっとした空気が肌を掠め、つかの間背中に悪寒が走る。
    「ん? どうした冰河」
    「いえ、なんでも」
     こちらに向けられた笑顔はいつも通りのにこやかなもので、一瞬感じたおかしな空気も既に霧散している。剣は勢いよく、しかし抜群の安定感で浮上しあっという間に空に上る。
    そのとき、不意に下から誰かの叫ぶ声が聞こえた。
    「待て! 沈清秋、洛冰河!」
    「ん? あれは……柳師弟?」
     視線を下に向ければ、厳しい顔つきでこちらに駆けてくる柳清歌の姿が見えた。蒼穹山を訪れた初日に柳溟煙が言っていた通り、昨日までは清静峰に顔を出すことはなかったが、どうやら最終日にしてついに滞在していることがバレたらしい。
    (今ばっちり視線も合っちまった気がするし、このまま無視して帰るってわけにもいかないよなあ)
     冰河と彼が顔を合わせるとすぐぎすぎすした雰囲気になることを知っているから、正直なところあまり二人を会わせたくはない。だが自分だけで一言くらい挨拶をするだけならそう問題は起きないのではないだろうか。 
    「冰河、一度戻らないか? 師弟に一言挨拶を交わしたらまたすぐに帰るから」
    「……」
     しかし風が強くよく聞こえなかったのか、こちらの呼びかけに返事はない。その代わり、鼻先で笑う気配がしてさらに速度が上がった。
    (えっ、今の何。どういう笑い?)
    「冰河? おーい、聞こえないのか。冰河ー?」
     下からはまだかすかにこちらを呼んで叫ぶ柳師弟の声が聞こえてくる。しかし剣が戻ることはないまま、蒼穹山はじきに遠くなり声も風の中に消えてしまった。
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    ☺☺☺☺☺☺☺☺☺☺👏
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    Replies from the creator

    sakura__cha

    DONEさはんOOCの開催おめでとうございます、そしてありがとうございます!
    せっかくなのでイベント合わせで新作展示したいなと思って書きました。
    漠尚書くの初めてなので果たして解釈が合っているのか少し不安なところではありますが、ノリがひどいギャグなので勢いで読んでください……!
    漠尚のタイトルはよくあるTL小説風味。色々ひどい。
    ★新作★【冰秋+漠尚】俺(たち)の恋人がこんなに○○なわけがない!「やっほー瓜兄、お邪魔しまーす」
    「おおよく来たな、すぐ帰れ」

    返事も待たず勢いよく竹舎の主室へ入ってきた尚清華へ沈清秋は間髪入れず事務的な微笑みで言い放った。
    着いて早々出鼻をくじかれた尚清華は不満そうに頬を膨らませ、勝手に卓の向かい側に座るとまだ手つかずだったこの部屋の主の茶を勝手に飲み干す。
    「はー美味し、やっぱ清静峰の弟子ってお茶の淹れ方上手いよね、安定峰ももうちょっと上達してくんないかなあ。いまいち淹れ方がよくないっていうか後味が渋いんだよね」
    「……それ、冰河が淹れた茶だぞ。うちのは皆結構お茶淹れるの上手いけど、冰河はやっぱり別格」
    「へー、さすが俺の息子じゃーん。パパは鼻が高いよ! まあそれはそうと、さっきの言葉は何さ。せっかく親友が遊びに来てやったってのにいきなりその態度はひどくない?」
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    sakura__cha

    DONE我、攻が受の気付かないうちに自分に依存させるの大好き侍!
    本編終了後の時間軸のつもり。
    性癖なのでどのジャンルでも大体書いてる。
    そして尚清華が冰秋に関わると大抵ロクな目に合わない。
    【冰秋+尚清華】俺の生み出したキャラが闇深モンスターに成長していた件。 尚清華は後悔していた。
     毎日毎日山のようにこなさねばならない些細な業務の積み重ねに嫌気がさし、突発的に書類を届けるという名目で馴染みの人間の元にサボりに来たわけだったが、やはりこの場所を選んでしまったことは間違いだったかもしれない。
    「はあ……」
    「? なんだよ、ため息なんかついて。いきなりアポなしに人の家に訪ねてきといてその態度はないんじゃないか」
     思わず重いため息をついたこちらに、ここの家主たる沈清秋は眉を寄せて首を傾げた。まるで理由が分からないといった様子の彼にもう一度大きなため息をつき、じろりと視線を向ける。
    「いや、だってさあ……。こう言っちゃなんだけど瓜兄、冰河に何もかもやらせすぎじゃない? 今日だってそんなに長い時間見てたわけじゃないけど、家事も自分の世話もぜーんぶ冰河任せじゃん。原作者として、自分の生み出したキャラがこうも誰かに良いようにこき使われてるのを見るのってなんかさあ……」
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