【冰秋】身を知る雨「……冰河、そなたの瞳はどこぞの川とでも繋がっているのではないか? そうもしょっちゅう泣いていては、いつかその綺麗な目が溶けてしまうぞ」
床にひざまずき師である自分の膝に顔を埋めて泣く弟子の艶やかな黒髪を撫でながら、思わずため息が漏れる。先ほどから肩を震わせて泣いていた冰河はびくりと肩を震わせ、泣き濡れた顔で不安そうにこちらを見上げた。
「申し訳ありません師尊……呆れてしまいましたか?」
「……」
呆れているかと問われれば、以前から呆れている。この弟子ときたら図体だけはすっかり大きくなり今やこちらの背丈すら越えているほどなのに、性格を見れば幼い頃の子どものようなのだ。いや、むしろこちらの世界に来て初めて出会ったときの十四歳の頃の方がまだ分別があったかもしれない。
こちらを見つめる瞳からは一旦は止まっていた涙がまた流れ落ち始めている。長いまつげを濡らし滑らかな輪郭の頬を流れるそれはまるで桃の花が舞い散るようにはらはらと落ちて、癪なことにとても美しかった。
「分かっております、情けないとお思いでしょう。ですが、師尊のこととなると自分でも涙が流れてしまうのを制御できないのです。師尊、どうかこの愚かな弟子をお見捨てにならないでください……」
さめざめと涙を流し悲しげな声で許しを乞う姿はなんとも哀れだが、実際今回の涙の理由はたかが一日離れねばならないということだけだ。清静峰に戻らねばならない用事が出来たが、今回冰河は魔界で外せない予定があり同行が出来ない。ならば一人で行こうとしただけのことで、しかも翌日には帰ってくると言っているのに彼はそれすらも我慢ならないようで、先ほどからこうしてしがみついて離れようとしないのだ。
「見捨てはせぬ。だがこうしてしがみつかれたままでは師は何もできぬではないか。見捨てられたくないと思うのなら、まずは涙を止めてこの手を離してみたらどうだ?」
絆されそうになるのをどうにか堪え、衣を掴む彼の手を扇子の先で軽く叩く。するとまさしく渋々といった様子で、ようやくこちらの膝を放し立ち上がった。だが瞳にはまだ涙の粒が溜まったままだ。
癇癪を起こした子どものように直接文句を訴え声高に喚くのであればまだ本気で振り払えるものを、彼はそう言ったものは全ては喉奥に飲み込み辛そうな顔で耐える。これではこちらが悪いことをしたようで罪悪感に苛まれるばかりだ。それを分かった上でやっているのならば叱りつけてやりたいが、恐らくそうでないのが一層たちが悪い。瞳を伏せて俯くその姿に耐えられず、もう一度ため息をついて自分も立ち上がる。
「師尊?」
こちらを見つめる瞳はどこまでも無垢で純粋だ。その瞳で見つめられるとなんだか妙に気恥ずかしくて、ひとつ咳払いをして喉の調子を整えた後、改めて向き直る。
「冰河、どうか聞き分けておくれ。たった一日のことだ。用事が終わればすぐ帰ってくる」
「ですが師尊……」
「そなたも大切な予定があるのだろう? 自身の務めを放棄することは許さぬ。もちろん、師とて同じこと。私は私のするべき務めを果たす、そなたはそなたの務めを果たせ。それだけだ」
「……はい」
悲しそうに――だがしっかりと頷いた冰河に内心安堵して、そっと手を伸ばして彼の頬に触れる。涙で濡れたそこと目元を指先で拭ってやると、ようやく真珠のような雫が零れるのをやめた。
「いい子だ。きちんと最後までそうしていてくれるのなら、戻ってきたら褒美をやろう」
「褒美……ですか?」
「ああ。帰ってきたら、私はしばらくどこにも行かない。ただそなたの傍にいて、そなたの声だけに耳を傾け、そなただけを見ていよう。どうだ? これは褒美にはならないか」
「師尊……」
濡れていた瞳が大きく見開かれ、それから花がほころぶように甘く細められた。そのまま力強い腕に抱きしめられて距離が縮まる。
「はい……弟子は師尊のおっしゃったとおりにいたします。ありがとうございます、師尊」
「よし。それでこそ私の冰河だ。偉いな、きちんと聞き分けられた」
なんだか犬の躾でもしているような気分になるが、本人はひどく満足そうなので気にしないことにする。先ほどまでの泣き顔が嘘のように幸せそうに微笑む冰河の顔を見て、ふと昔の彼を思い出す。――そういえば、その頃の冰河が泣いたところを見たことがあっただろうか。
どうだろう、あったかもしれないしなかったかもしれない。けれど、少なくとも今ほどは泣いていなかったはずだ。ふと気になり冰河を見上げる。
「……冰河。そなた、清静峰にいたときもそんなに泣いていたか? あまり覚えがないのだが」
「ああ……そうですね、弟子にしていただいたばかりの頃はまだ幼かったこともありよく泣いていたかもしれません。といっても、人前で泣いているとそのことでまた叱責を受けましたので物陰に隠れて、ですが。じきに、泣いてもどうにもならないと理解してそれもなくなりました」
「……」
「思えば、あの頃も師尊のお手を煩わせてしまったことがありましたね。泣いているのを見つかってよくお叱りを受けました」
「それは……すまなかった」
その時の“沈清秋”は自分ではないとはいえ、否が応にも罪悪感を覚える。しかもその泣いていた理由の多くは恐らく沈清秋自身だろう。彼が幼い冰河に行っていた折檻を知っているため余計に心が痛む。
「いえ、師尊に謝っていただくことなど何もありません。師尊は至らぬ弟子を指導してくださっただけですから。それに双湖城での事件の後は師尊がそれまで以上に熱心に指導してくださったのであまり泣くこともなくなりました」
「……うん」
たしかそのはずだ。だから自分はあまり彼が泣いたところを見た覚えがないのだろう。しかし、ならば何故今はこんなにもすぐ泣くようになってしまったのか。
こちらの疑問を察したのか、穏やかな微笑みを浮かべた唇が言葉を続ける。しかし何でもないことのように語られた内容は、口調ほど軽いものではなかった。
「弟子がこのように涙を流すのは師尊の前でだけなのですよ。師尊がこうして再び直接私の触れられる場所に戻ってきてくださったので、弟子は安心して泣けるのです」
「冰河……」
耳元にそんな囁きを落とした後、髪に冰河の唇が触れる。そのまま肩に顔を埋め、冰河は安堵したように小さく息をついた。
「私が泣いても、かつての清静峰では誰も気にしてはくれませんでした。でも今は、私が泣くと師尊はきちんとこちらを見てくださるでしょう。呆れて、宥めて――仕方のない奴だと微笑んでくださるでしょう。私のどんなに情けない姿を見ても師尊は私を絶対に見捨てない。そう信じているからこそ、安心して泣いてしまうのです」
ぎゅう、と抱きしめる腕の力が強まり、肩にわずかに熱く濡れた感覚を覚える。ああ、この子はまた泣いている。わずかに震えている冰河の背中に手を回し、ゆっくりと軽く叩いてやる。
「冰河、そなたは……」
そこまで言って言葉が途切れる。はたしてどう言葉を続けたらいいか分からなかった。ただ、自分でも気づいていなかった自分自身の驕りを感じて少し恥ずかしくなった。
今まであまりにも容易く涙を流す冰河に困惑し呆れてもいたが、きっとこれまでの冰河にとって泣くという行為はこちらが思っているほど簡単なことではなかったのだろう。
人が素直に感情をあらわにして涙を流せるのは、きっとこれまで幸せに生きてきた証拠なのだ。そうでない人間は涙すら気軽には流せない。流したところで現実は変わらず、それどころか悪化することすらある。泣いても誰の手もさしのべられず、侮蔑と嘲笑を向けられる。そんな経験を何度もするうちに、やがて絶望と諦念に打ちのめされて心を凍らせるのだろう。しかし氷は脆い、だから鎧をまとうように心を守り、その中で涙すらも凍らせてしまう。
――けれど、今の冰河はもうそうではないのだ。
彼は再び涙を流せるようになった。強大な力を持ち多くの魔族を従えていようとも、自分の前でだけはただの幼い子どもだ。すっかり強くなった心の中心には、咲き始めの花の如くか細く柔らかな蕾が隠れている。――ならば、それでいい。
「……もう、いい。そなたはそのままでいい」
「師尊?」
涙を流せるということがある意味今の冰河の幸福の表れならば、どれだけ泣いても受け入れよう。元より、どんな彼でも受け入れ愛する覚悟はとうにできているのだ。ならばこの泣き虫を涙ごと慈しんでやるだけのことだ。
「ただし、泣くのはこの師の前だけにしなさい。そなたの涙を見るのは私だけがいい」
広い背中を撫でそう囁くと、冰河は肩に埋めていた顔を上げてこちらを見た。まつげはまだ濡れていたけれど、その表情は幸福そうに微笑んでいる。
「……はい。もちろんです、私が涙を流すのは師尊の前でだけです。この弟子の全ては師尊のものです、涙も、血も、鼓動も、魂の一欠片すらあなたのものでないものはありません。私を生かせるのも殺せるのも――あなただけです」
囁かれた言葉は敬虔な祈りのように静かに空気に溶けた。愚かな子だ、こんなにも愚直に自分だけを愛してくれている――自分はそれほどの愛を捧げてもらえるほどの人間ではないのに。だがそれほどに愛してくれるのならば、こちらも最大限の想いで返そう。
「馬鹿だな、殺しなどしない。そなたは幸福なまま――ずっと私の隣で生きなさい」
純粋な微笑みにつられるように笑み、そっと唇を寄せる。触れた唇は少し塩辛く、だがそれ以上に愛おしい甘さで満ちていた。