【冰秋】寸歩不離「師尊」
甘やかな声に呼ばれて、書物に落としていた視線を上げる。
卓の向かい側に座りこちらを見つめていた冰河は目が合うととろけるような微笑みを浮かべ、もう一度同じように呼んだ。
「師尊」
「どうした冰河? 師に何か用か」
「いえ、なんでも。呼んでみただけです」
「……? そうか」
不思議に思いながらも視線を書物に戻す。だがそれから寸刻もしないうちにまた同じように冰河の唇が「師尊」と紡ぐ。書に集中しているふりをして無視してみると、今度は少し不安そうな声が同じように囁いた。
「師尊……」
「だからなんだ? そう何度も呼ばずとも聞こえている。もしやそなた、私をからかって遊んでいるのではあるまいな」
「いえ、そんなつもりでは。申し訳ありません……つい、嬉しくて」
「嬉しい? 何が」
「今こうして私のすぐ傍に師尊がいてくださって、呼べば返事が返ってくることが。それがとても嬉しくてたまらないのです」
「……そんな些細なことがか?」
「はい。私にとって、そんな日々を過ごせるということはそれこそ夢のように幸福なことですから」
心底充足を感じている表情で、冰河は無邪気に微笑む。あまりにも幸せそうなその笑顔に、胸の奥がふと甘く疼いた。
「……つまりは、呼ぶことで今私がここにいるという事実を確かめているということか? それならば、もっと早くて確実な方法があるだろう」
書物を卓の上に置き、立ち上がる。それから冰河の元に回り込むと、椅子に腰を掛けたまま不思議そうにこちらを見上げる彼をじっと見つめる。
こうしていると、まだ子どもだった頃の冰河を思い出す。まだ身長が自分を追い抜いていなかった頃は、いつもこうしてきらきらとした瞳でこちらを見上げていた。きょとんと見上げてくる邪気のない表情が可愛らしくて、引き結んでいた唇に無意識に笑みが浮かんだ。そのまま少し腰を屈め、広げた腕でそっと冰河の大きな体を抱きしめる。
ちょうど彼の顔の辺りに心臓が近づいているから、こちらの少し早い鼓動の音は伝わってしまっているかもしれない。
「存在を実感したいのなら、呼ぶよりも触れた方が確実だ。あまりいつまでもうるさく私を呼ぶようならば、その口は塞いでしまうからな」
少し身を落とし、突然のこちらの行動に驚いている冰河の唇に自らのそれを寄せる。軽く触れる程度の口づけを与えてから素早く腕を離し背中を向けると、勢いよく椅子から立ち上がる音が聞こえて力強い手に手首を掴まれた。こちらを掴む大きな手のひらはとても熱い。
「師尊、今のは……」
「……別に、なんでもない」
健気さに絆されてつい特に考えもせずやってしまったが、改めて今自分のしたことを思い出すとひどく恥ずかしくて顔が熱くなった。首筋まで染まってしまっているであろう赤みを帯びた顔を見られたくなくて必死に顔を背けたが、強引とまでは言わないながらも強い力で引かれて結局顔を見られてしまった。
「……師尊、お顔が真っ赤です」
「うるさい、言うな。今すぐその口を閉じなさい」
「師尊……とても愛らしいです」
「だから口を閉じろと言っただろう!」
「では、師尊が塞いでくださいませんか。先ほどと同じように」
蜜の滴るがごとく甘い声音で囁く冰河の唇は柔らかい弧を描き、春の花のように淡く色づいている。期待の滲んだ瞳でじっと見つめられ、しばしの躊躇いの後、ため息をついてもう一度口づける。
これ以上余計なことを言わないよう先ほどよりも長く塞いでやっていると、伸びてきた腕にしっかりと抱きしめられてしまった。離した唇も今度は向こうから奪われて深く貪られる。角度を変えて幾度も唇を重ねた後ようやく顔を離すと、冰河の微笑みは一層美しく艶やかさを帯びていた。
「師尊、いけませんよ。こんな方法でしたら、むしろ何度でも塞いでいただきたくなってしまいます」
くすりと笑う表情は少し生意気に見えて、酸素不足で涙の滲んでしまった目で軽く睨んでやる。だがこちらの睥睨にも相手は微笑みを深め、幸福そうに頬を染めるばかりだ。
「冰河……そなた、最近少し意地が悪くなってきたな」
「そうでしょうか。そんなつもりはないのですが……こんな私はお嫌いですか?」
「……」
丁重な仕草で尋ねながらも、愛されていると確信している余裕なのかこちらが肯定することはまるで考えていなさそうなところが少し悔しい。――もっとも、こちらとて肯定するつもりなど毛頭ありはしなかったが。
すっかり見透かされていることに軽い腹立ちを覚え、乱暴な手つきで冰河の襟元を掴む。そして強くこちらに引き寄せ噛みつくように唇を奪った。触れ合った時間は短かったが、いささか強引に奪ったせいでかすかに口内に血の味が滲む。
「答えはこれだ。分かったか?」
「……はい、師尊」
どんな答えと受け取ったのか、この世の誰よりも美しい造形をした男はますます微笑みを甘くして小さく頷いた。