いなり寿司翻弄記! その日は晴れて、朝から忙しくて、気がつけば夕方の4時。高校生にもなった虎次郎が帰宅するには少し早い。
この頃は薫の食事のほとんどは彼が作っていたし、いなり寿司をスーパーの惣菜コーナーで買い込むと叱られることも多くなっていた。そのため、冷蔵庫にはすぐに手軽に食べられるものがない。
「ふむ、食えんな。奴を待つか」
そんな風に顎に手を当てて考えていた薫の目に、閉じかけた冷蔵庫からとある文字が飛び込む。
何かの見間違えかと思って、観音開きの冷蔵庫を大きく開いて確認する。だが、間違いない。
「最高級……油揚げだと……」
こんな良いもので俺にいなり寿司を作るつもりか。このふっくらもちもちの見るからに美味そうな厚みのあるきつね色の美しい油揚げで。
「信じられんな」
これなら湯がくだけで、ご馳走では無いか。そんなことを思いながらも1枚ずつ包装されている油揚げの袋を破り捨ててまな板へ並べた。
もうテンションは上がりすぎて、耳どころか狐のしっぽも丸出しでめん棒を探し始める。
薫だっていなり寿司の作り方を知らない訳では無い。うっきうきで木製のめん棒を探しながら、引き出しを覗き込み、棚を探し。揺れる揺れるしっぽも増えていき、七本ほど出てきたところで壁のフックに吊るされるめん棒を見つけだす。
「虎次郎め、いつの間にこんなにものを取り付けたんだ。穴が空いてたら承知せんぞ」
そう言って棒を取り、フックがマグネットだと知って閉口する。最近は色んなものがあるものだ。よく見たら、家の中では見たことの無い調理器具まで増えている。みじん切り用のカッターからピーラーまで。
「……たまには、小遣いでもやるか」
そんなことを呟きながら、彼女はめん棒で油揚げをのっしのっしと伸ばしていく。こうすれば開きやすくなるらしい。勢いで冷蔵庫にあったものを全ては袋から取り出したので十枚もある。伸ばすだけでも、ちょっとした運動になってしまった。
ま、当然それだけ時間をかけていれば、台所の主も帰宅したわけで。
……何やってんだ、あいつ。
台所の入口で制服の姿のまま、揺れるしっぽを眺めていたのは虎次郎。当然、カバンを居間に放り、返事のない家主を心配して声のする方へ来た訳だが。その声というのも、いかにも楽しそうな鼻歌で、しっぽもさながら、その下のふっくらと丸みを帯びて着物の中でも美しいシルエットを浮かび上がらせる尻を振る彼女がいたわけだ。
手際が良いのか、鍋では湯を沸かし、その隣でキッチンペーパーを用意しながら、腰を振って包丁で伸ばした油揚げを半分に切り始めている。非常に楽しそうで、声をかけるにかけられなかった。
「湯もできたし、入れるか」
そう言って油揚げを掴んで鍋に持っていくので、虎次郎は流石にその手を止める。
「ちょっと待った! 」
「なんだ虎次郎、帰っていたのか」
全ての場所を把握している彼は素早く沸騰しそうな鍋に昆布を入れた。
「何するつもりだよ」
「油抜きだが? 」
虎次郎は彼女の手から油揚げを取り上げ、それを丁寧に用意されていたキッチンペーパーに包んだ。
「そんなんでは、油は抜けんぞ」
横から顔を出す薫を無視して、彼は包んだ油揚げを電子レンジの中へ。
600ワットで2分に設定する。彼女のむくれる声も聞かずにスタートボタンを押した。
薫はしつこく彼の隣をついてくるが、鍋から昆布を取り出し、次は鰹節を鍋の中へ。
「何をしている、焼けてしまうでは無いか」
「作るのは、いなり寿司だよな? 」
「もちろんだ! 他に作るものなどないだろ」
「だったら使いすぎだ。十枚全部使いやがって」
せっかく来る夏休みに備え、バイト代を奮発して用意してたものを。残念そうに頭を振りながら、彼は油だらけの手を洗う。
「これで沢山作ればいいでは無いか」
「半分に切って使うから、二十個だろ? 何合分食うつもりだ」
そもそも飯の支度できてるのか? と首を傾げながら電子レンジに呼ばれるまま、扉を開いた。ほこほこと湯気をあげるキッチンペーパーを洗ったまな板の上で開き、追加のペーパーで拭いて彼女へ見せる。
「ほら、抜けてんだろ」
「……貴様、手抜きをしていたな」
「手抜きじゃねぇよ、和え物とかいなり寿司はこうした方が萎まなくて良いんだよ。食材には料理に適した下処理が必要なんだ、食欲メガネ!! 」
「だからって、怒らなくてもいいだろうが。このボケナス!! 」
「それが作ってもらう態度かよ、どてかぼちゃ! 」
「作ってくれなんて言ってないだろう、ドアホゥ! 」
普段の口喧嘩の延長だったが、確かにと。腑に落ちた彼は、油を抜いた油揚げをまな板に戻す。
鍋の火も止めて、流しに用意してた出汁をこすセットに中身を流し込んで「邪魔したな」と去ろうとした。
ところが、制服のシャツの裾が引っ張られる。
「誰も作るなって言ってない」
「だったら、最初から素直に言えよ」
制服に飛び散ると困るので、いつものエプロンを着用して再び台所へ立つ。
「それ、小学生の頃のか」
「家庭科で作ったエプロンな」
「小さすぎやしないか? 」
「服が汚れなきゃいいだろ」
気にした様子もないので、薫は彼がおいなりさんを着々と作っている様子を眺めながら、カーラでこっそり割烹着とカフェエプロンを注文した。
よもや荷物が届いた直後に怪訝そうな顔をされることはちっとも想像ぜずに。