2度目のプロポーズ帰宅した時、家の中は真っ暗だった。
まだ学生のシンは友人関係との付き合いや、ゼミの課題などで自分より遅くなる時がある。そういったときには必ず連絡をくれるのだが、スマホを確認しても何もない。
「シン?」
もしかしたらどこかで寝落ちでもしてるのではないか。
いや、玄関に靴がなかった。
ひとまず照明のスイッチを入れる。
綺麗に片づけられたリビングを意味もなくうろうろすると、テーブルの上にメモが残されているのに気づいた。
連絡事項ならスマホで出来るのに、あえてのメモ。
何だろう。何か不穏な気配がする。
ごくりと喉を鳴らしてメモを手に取る。
見慣れた筆跡で所狭しと書かれていたのはーー暗号だった。
「おい!」
思わず突っ込んだ。
「で?」
のろけ話は聞かないわよ。とは前置きですでに宣告してある。
そんなんじゃない、とは小さく返されたが果たしてどうだか。
自分より目線が高くなった我が弟に、好奇心と若干の呆れを含ませながら、続きを促す。
私の前にはかわいらしい猫が描かれたカフェラテ。日は暮れたというのに、花や動物のぬいぐるみが溢れた可愛らしい店内はほぼ満席で、客層は女性だらけ。
居心地が悪いようで、肩を小さくして視線をきょろきょろさせている。
久しぶりに連絡が来たと思えば、話を聞いてくれとせがまれたので、兼ねてから行ってみたかったここを指定した。
周囲では彼氏がどうとの会話の欠片が耳に飛んでくる。その飛弾を浴びて弟は何だかダメージを受けているようだった。
弟の前にもカフェラテ。何でもいいと言うので、自分と同じものを頼んであげたら綺麗なハートの模様のが届いた。シンくんはそれを見た途端にスプーンでぐるぐるかき混ぜて柔らかい茶色の液体に溶かしきる。この時点で何となく話の方向性を察する。
子供の時から変わらない、不満があるときの癖で唇を尖らせながら、ようやっと話し始めた。
「アブトがさ、なんか一人で家族してるようで」
おっと出だしから何だか不穏だわ。
「あいつなんでもかんでも自分が持とうとするんだ。生活費も家賃も全部あいつが持ってるのに」
「それは、シン君がまだ学生だからでしょ」
「オレだってバイトしてる」
「社会人の給料と比べちゃうと。それに学生の本分は」
「勉強だってわかってるよ。でもあいつ」
「はいはい、その話はお母さんから聞いてる。シン君のすべてを自分で賄いたいみたいね、義弟は」
「そっか義弟になるのか」
「愚弟でもいいわよ。実際、手のかかる弟が増えたわ。全然隙を見せてくれない、とは思ってたけど。そういうタイプなのね」
「そう、そうなんだよ。黙って一人で背負い込んじゃうんだ。頑固だし。あんまり自分の考えとか言わないし」
「だから、三行半を叩きつけてきてやったと」
何やってるんだかと、半眼になってしまうのは致し方ないだろう。
細かい喧嘩ばっかり繰り返しているらしいけど、明らかにラブラブ(死語かな)なのに。
今もこの店の雰囲気に圧されただけではなくソワソワ落ち着けてないくせに。
そもそも、本気で出ていくつもりなら何故実家ではなく私に連絡してきたというのか。
この時点で落ちは読めている。
「暗号を作るのに苦労した」
「解読できなかったら意味ないじゃない」
「アブトなら出来る」
「なにその信頼」
こうなった発端は、義弟がシンくんの学費を持つと、本人を通さずに実家に直接連絡してきたことだ。
確かに学費は今は両親が持ってくれている。
こんなに早くに結婚して巣立ってしまうとは誰も想像だにしていなかった。
結婚後も両親は、最後の親の勤めみたいなものだと、学費だけは持っていた。その権利までを彼は求めて来たのである。別の見方をすれば、自分の扶養者の面倒をすべて背負う気概と男気だ。
だが、それに扶養者本人は納得していない。むしろ、それを母親から「そう言ってきたけども、どうなのかしら?」と困り調で連絡を受けた時、彼の中で何かが決壊して洪水を起こしたようだ。
これまで溜め込んでたんだろうなあ。
「お金だけの問題じゃないんだ。なんか、このままだといけない気がする」
「それを伝えたらどう…ああそうか。聞いてくれてないから行動したのね」
「あいつ、全部一人で背負い込む癖があるから…何とか分かって欲しいんだ」
なんだかなぁ。確かに責任感は強そうだし、完璧主義なところもあるかもだけど。背負おうとしてるというより、シン君のこと全部を自分に紐づけないと気が済まないって執着の方を私は感じるのよね。
それは弟には言わないでおこうか。執着に関してはお互い様な気がするし。
「…ねえ。暗号にはなんて書いてきたの?」
意外と苛烈なところがある弟をこわごわ見返す。
すでにハート模様が溶け込んでいるカップ。それをじっと見つめる、自分よりも明るい色の瞳は徐々に険を増していく。
カフェラテに暖を求めて口を付けたが、すっかり冷めてしまっていた。ほろ苦さが口の中に広がる。
「色々。俺の思ってることと」
「と?」
「プロポーズからやり直せって書いた」
もうちょっと他にあったでしょうが!
どう宥めたらいいものか、密かに頭を抱えていたら
ピコ
テーブルに置いていたシンくんのスマホがライン着信を合図してきた。
ぴく、とシンくんの動きが止まる。
「…見たら?」
「…いい」
ピコ ピコ
「…ねぇ?」
「…いや、まだ。それにアブトからとは限らないし」
ピコ ピコ ピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコピコ…
「怖い怖い怖い! ぜったいアブトくんでしょ! そもそもなんで電話じゃないの!?」
「もし電車に乗ってたら出られないだろ? そういった気遣い」
「何を自慢気にしてるのよ! 早く見なさい!」
しぶしぶ、といった態度を取りながらもやはり気になっていたのか、スマホを取ってタップする指は早かった。
画面を見たまま、しばらく止まっている。その間も通知音が止まない。
私はバッグから愛用のカメラを出すと、後ろの客が写らないように角度を気を付けながらシャッターを押した。
シャッター音に驚いてシンくんが顔をあげる。
私が笑って見せてやれば、ばつが悪そうに口を結ぶんだ。
これも子供の頃から変わらないなあ。
シンくんはスマホをショルダーバックの中にしまうと、ぐいっとカップを一気飲みした。
「あゆ姉、勘定」
「私が持つから、さっさと行きなさい!」
今度は絶対に払うから、と真面目に返してから駆けて行く背中を見送った。
テーブルに残された空のカップ。そこにはハートがあったはずだ。
「仕方ないなぁもう」
鞄からスマホを取り出し、カメラのデータを転送する。
我ながら良い写真が撮れた。
スマホを見つめながら瞳を細めて力を抜いた微笑み。頬に掛かる髪と睫毛の影に、家族なのにどきりとさせられる。
いつの間にこんなに綺麗になったのか。
綺麗にされたんだな。
私はもう一人の手のかかるオトウトに、最寄り駅で待機せよとコメントを付けてデータを送る。
出来たお姉ちゃんをやって、今度は二人から奢らせよう。
改札口で待ち構えていたら、階段から降りてくるシンの姿が見えた。
俺を見つけてから、わざとらしいむすっとした態度を取りつつ、近くまでやってくる。
「反省したか?」
本気の怒りはもう解けているようだ。
彼が本気のときは、逆に静かである。
次に何かを言われる前にと後ろ手に持っていた花束を鼻先へ突き出した。
全速力の疾走に着き合わせたために花びらがだいぶ乱れてしまっている。
その香が二人の間に広がった。
「はな?」
「シン」
花束を握る手汗が気になる。
理解が追いついていないシンへ、深呼吸ひとつ置いた後一気に言い放った。
「俺と、結婚してください」
ぽかん、と口が開いた。
ついでに近くを通り過ぎようとしていたOLらしき人も口を開けて凝視してくるが無視だ。
改札口の前で花束を挟んだまま、俺たちは固まっていた。
次から次へと乗客が通りすぎ、俺たちに奇異な視線を送っていく。
おい、お前がプロポーズからやり直せと言ったんだろう。それとも解読が間違っていたか?
急に心配になってきた。
ここに駆けて来るまでの途中にあった花屋で、目に止まった花束を急いで購入したんだが、余計だったか?
「ふ、ふふ、…っ、くくく…っ」
ふいにシンは笑った。
「あっはっはっはっはっ!」
手を叩いて、俺の心配を吹き飛ばすくらいの大声で。
それは決して俺をバカにしたものではなく。
頬を染めて、涙を目じりにためて、愛しくてたまらないと俺を熱く見つめたまま、身をくねらせながら、全身で伝えてくれながら、声を立てて笑った。
釣られて、自分らしくないことを重々理解していたから、俺の顔どころか頭のてっぺんまで熱くなった。きっと京浜急行よりも真っ赤になってるだろう。
次の電車から降車してきた客の波が過ぎ去る頃に、ようやっと落ち着けたようだ。
シンは目尻の涙を指先で拭いながら
「俺が何に怒っていたか、ちゃんと分かったか?」
「…やりすぎたのは分かった」
「納得はしてなさそうだな」
一歩分、花束を二人で抱えてるような距離まで近づいてくれた。
「オレたち、ふうふなんだよ」
花束の向こうから俺の目を真っ直ぐ貫いて
「すぐ一人で背負い込もうとするの、アブトの悪い癖だ。俺にもちゃんと背負わせろ」
まるで俺がプロポーズされている気分だ。
「それを約束してくれるなら、結婚してやる」
「……もう結婚してる」
「ならよかった」
シンは花束を受け取ってくれた。
もうとっくにプロポーズは済ませたはずなのに、初めての時と同様に胸が高揚するのはなぜだろう。
「「帰ろう」」
被ったことが可笑しくて、幸せで、ぷっと二人で噴き出す。
そして同じ方向を向いて歩きだした。
「それはそれとして、母さんに話した件はまだ怒ってるからな?帰ったら対話するぞ?」
「……わかった」