「シラユキさん…っ」
「あら、どうしたの?」
血の気が引いた顔をして、夫が食器を洗っていた私のところに駆け込んできた。
優しげな目がこれでもかと開かれて、唇は軽く震えている。
その切羽詰まった様子に私は急ぎ手を拭いて向き直った。
何があったというの…?
夫は何かを告白しようとして、しかし言葉にならないのか沈痛な表情のまま項垂れる。肩も大きく下に落ちていた。
そのただならぬ様子に、どうしても今まであった数々の出来事とその時の辛さを思い起こしてしまう。
この普通ではない夫を取り巻く状況や過去、運命を思い出し、とても立っていられなくて私は崩れるようにダイニングテーブルの椅子に座る。ガタッと、椅子の足が一瞬浮いて床を叩いた。
今日は日曜日。昼食を済ませ、普段は仕事で夜遅くなることもある夫は、少し仮眠をしてくると和やかに言って自室へと向かったはずで。自分も片付けが終わったらゆっくりするところだった。
そんなありきたりで穏やかな昼下がりだったのに。
どうして幸せというものは、簡単に揺るがされてしまうほど不安定なものなのだろう。
気持ちは冷たく揺さぶられる。けれども、私はこの人を、この人と息子を支えると決めたのだ。そう、この人と共に生きると決めたときに覚悟したのだ。
私は一度大きく深呼吸すると、勇気をかき集めて夫の顔を下から覗く。
「何が、あったの?」
「…アブトが」
息子の名前が出てきて心臓が嫌な音を立てて縮む。
都内の大学へ進学した息子が一人暮らしを初めて早くも一か月が過ぎようとしていた。
昔はまるで連絡をしてくれなかったけれども、筆不精の気があるのは親子そっくり、今では定期的に元気かどうかとくれるようになった。
それはきっと、同じ大学に通ってる息子の一番の親友であるシン君の影響だと思っている。
彼には何年も前から息子だけでなく私も救われてきた。感謝してもしきれない。
そうよ、シン君が息子の近くにいる。だったらそう最悪なことにはならないはず。
ああでも、この親子は不思議な力でつながることがあるから、もしかしたらシン君でも把握仕切れてないアブトの何かが伝わったのかもしれない。
胸の前で手を握りしめながら夫の次の言葉を待つ。
「アブトが…私を追い出した」
「どういうこと?」
うう、肩を震わせて、夫も椅子に座り込む。
椅子は小刻みにカタカタ揺れた。
「さっき、うたた寝をしていた時に、アブトの意識に入り込んだんだけども…」
「ええ」
「来るな、とすごい思念で…。あんなに凶悪な表情はデビルモードに堕ちてしまったときのようだ…」
「…アブトは何をしていたの?」
「シン君と仲良くプロレスごっこをしてた感じだった。アブトはとても楽しそうだったけど、シン君が何だか苦しそうで、やめてって真っ赤な顔で泣いてたから注意したんだ…それをあんなに怒るなんて…あの子の心は悪魔になってしまったのか?」
俯き真剣な表情で悩む夫を置いて、私は熱いお茶を淹れるために立ち上がる。
ガタタッと再度、椅子の足と床が擦れる音がしたけれど、もう気にならなかった。
思春期の息子の脳内にお邪魔する父親。
昼間から親友…というのかしら…とプロレス…じゃないわね…を相手が泣くまで行う息子。
頭が痛い案件かもしれないが、しかし私は黙るという選択をした。
普通でないこの一家を嬉々として受け入れてくれる「アイテ」なんてこの先現れるかわからないもの。
今度、一緒に温泉にでも行きたいわね。…シン君と二人だけで。