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    ふきのとー

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    ふきのとー

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    保管用

    No more bet 「お客様、初めての方ですか?
    当カジノは完全紹介制となっておりまして…はい、こちらですね。確認いたします。
    はい!問題ございません!
    ではメンバーズカードをお渡し致します。譲渡は無効になります。また再発券も出来かねますのでご注意くださいね。
    右手にチップ交換所、左手奥に換金所がございます。
    何かご不明なことがございましたら、フロアスタッフに何なりとお申し出ください。
    お飲み物はサービスとなっております。
    どうぞ外界からのしがらみは一切忘れて心行くまでお楽しみくださいね。
    では…ようこそ! カジノホール“ユゴスピア”に! エンジョイ!」



    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


    「アブト!」

    ああ、これは夢だ。
    満面の笑顔であいつが、シンが隣にいる。
    俺を見て、大きく身ぶり手振りしながら一生懸命話してくる。

    「なあ、知ってるか。明日流星群が来るんだって。そのうちの一つくらいはUFOかもしれない!」

    ちょっとしたことから知り合った宇宙人好きの変な奴。
    あいつからしたら、俺も鉄道マニアの変な奴らしい。
    お互い趣味も性格も違うのに、何故だか息が合って、機会があれば会うような仲になった。そうして何年も何年も親友とも呼べる関係を築いてきた。
    あまり他人に興味を持てない俺だったが、シンは特別だった。特別な理由には早くから気づいていた。
    くるくる良く回る表情に、豊かな感情、まっすぐ突き進む性質のくせにちゃんと相手を思いやれる優しさ。いくら周りから否定されても諦めない強さ。俺にないものをしっかり持っている。そいつが俺の横で常に楽しそうにしてるんだ。自分の存在が肯定されているも同じで、こいつの隣が一番俺らしくいられる場所だった。

    「アブト…なんでだよ。なんで…」

    温かい夢はいつもあいつの苦しそうな顔で終わる。
    俺のことを自分のことのように、いや自分のこと以上に辛く受け止めてくれている。
    夢の中の俺は彼にすべてを話す。
    最後に、絶対にシンが俺のことを忘れられない呪いも掛けて。

    「俺は、お前が…」
    『アブト』

    インカムから聞きなれた、平坦だが涼しい美声が鼓膜を打つ。
    バックヤードの休憩室で、椅子に座ったまま仮眠を取っていたのを起こされた。
    確かに良い声だとは認める。しかし一度として心地よいなどと思ったことのないそれが俺に指示した。

    『3番テーブルに入れ』

    命令するためにあるようなそれに、短く了解とだけ告げて、俺はバックヤードから舞台へと降り立った。


    完全な紹介制でしか足を踏み入れることができないアンダーグラウンド・カジノ。
    入口で厳重な身辺調査を行われた後に、ブラックカードの如く重々しいメンバーズカードを手にいれた者たちが、今日もダウンタウン地下深くに構えたここにやってくる。
    黒く塗りつぶされた鉄扉に手を掛けると、そこは外界と切り離された別世界。
    扉を開けた瞬間から殴りかかってくる音の洪水。BGMは数メートル先の会話など聞き取れないほどの音量。さらにスロットマシンの電子音がけたたましく伴奏する。
    コインやチップも我も我もと打ち鳴らされ、いたるところで客の高騰による歓声と喚声。
    「閑静な」とは無縁の空間。
    目がくらむようなまばゆい照明は最大光量。豪華絢爛なカジノ内を影が薄くなるくらいに浮かび上がらせている。
    あいつなら異世界だと評するかもしれないな。
    まさに別世界の住人になることを喜びとして、今日もまた本気の遊びに身を投じる為に人が集う。
    ポーカーテーブルやスロットマシーン、ルーレット台が等間隔に整列し、合間をウエイトレスが軽やかにすり抜け、手元が空いた客にドリンクをふるまっている。バニーガールのような際どい格好をさせる店も多いが、ここは清潔なシャツにホットパンツが衣装である。足の大部分が露出してるのは様式美みたいなものらしい。
    ドリンクがすべて無料なのは、居心地よい空間を演出し出来るだけ長くここに滞在させ、より多くの金を落とさせるためだ。
    金はある意味で正しくその人間の持つ価値だ。己の価値を掛けて遊ぶために、あるいは人生を試すために、あるいは背に腹は代えられずにここにやってくる。

    くだらない。

    ディーラー服に身を包み、左胸にネームプレートを下げておきながらも、俺は毎夜そう思うのだ。
    黒いネームプレートに掛かれた金字の俺の名前はすこし剥げかけている。このまま俺ごと消えてくれないだろうか。
    目の前を凶悪な顔をした男が通り過ぎて行った。彼はそのままチップ交換所へと向かっていく。アングラカジノのため、彼のような裏側の雰囲気を隠しもしない客が多い。
    俺は周囲に気づかれないようにため息を吐く。
    損切りという言葉を理解できないやつはただのカモだ。ああいう頭に血がのぼった状態では勝てる勝負でも敗けが見えている。
    そしてここは敗者に厳しい。極寒の中に裸で放り出されるよりも。
    人の手で作り上げられたオモチャみたいな街の奥底に存在を許されているココは、どういった経緯で造られ運営されてきているのか欠片も興味はないが、連れてこられてから数年たった今もお縄につく気配を感じたことなどない。
    堂々と稼ぎを上げ続けている様から、おそらくこの街の上層部か警察機関に莫大な金でも握らせているのだろう。
    ここで何があっても自業自得。法も何も助けてはくれない。
    先ほどの男が、両手にチップを抱えてまた人込みに消えていく。
    行く末を見届けようとして、やめた。不毛だ。俺も今やすっかりその中の一員なのだから。
    立ち止まりそうな足に注意しながら人込みを縫って進み、何もかも騒々しいと思う中で、こいつだけは美しいと素直に思える台に到着する。
    ルーレット。カジノの女王とも謡われ、それに恥じない歴史を持つゲーム。
    それまで入っていたディーラーに交代を告げ、当たり数字を記録する電光掲示板をリセットする。テーブルについていたプレーヤーもそのタイミングで他へと移動していった。
    チップもすべて片付けたまっさらな台を指先で軽く撫ぜる。
    そうこうしている間に新たなプレーヤーが席に着く。
    俺は慣れた手つきで卓上のベルを一回鳴らした。

    「Place your Bet 」

    俺はルーレットの回転盤を回す。この回転盤をルーレットと呼ぶと勘違いされていることが多いが、このゲームそのものをルーレットと言う。
    俺の合図を待っていた各々が宅の上に色とりどりのチップを積み上げていく。
    回転盤の溝に回転とは逆回りに指先で摘まんだ球を滑らせる。
    仮に当たり数字を狙えるディーラーが存在したとしても、投げ込んだ後にベットすればプレーヤー側に不利になる条件とはならない。この公平性が好ましい。
    プレーヤーが固唾を飲んで回転盤を、球の行方を追いかける。
    緩やかに回転を止めようとしているのを眺めながら、俺は何度も繰り返した言葉で締めくった。

    「No more bet」

    ベルを鳴らす合図だけでも構わないのだが、俺はこの文句が好きだった。
    賭けた者に後戻りできない覚悟を決めさせることが出来る。
    勢いを失いホールに落ちる小さな球の澄んだ音は周囲の騒音にかき消されずに俺の心に届いた。
    マーカーと呼ばれる当たった数字を示す目印を置くと途端上がる歓声。
    ちなみにチェスのナイトのような馬型の置物だ。
    俺はまた始まりのベルを鳴らす。
    一投、一投、ゲームごとに高騰する場に俺自身も酔わされていくようだ。そんな失態は決して犯せないから、自分を律して今夜も静かに回転させる。
    ここのプレーヤーの運命ごと。あるいは、俺の運命ごと。
    球の行く末を見守るプレーヤーたちを見回してまた呟いた。

    「No more bet」
    (無駄なあがきはおしまいだ)



    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


    休憩時間になりバックヤードに戻る。
    すれ違うスタッフと最低限の挨拶だけを交わして、俺は定位置になった簡素な椅子に腕を組んで腰かけた。
    他にも休憩している者はいるが、誰もが俺を遠巻きにしていた。それを寂しいとは思わない。
    俺はここで強制労働させられている。
    させられている、は正しくはないか。俺から志願したんだ。
    ここで有り金以上を擦りおろし、さらには蒸発してしまった親の借金の形に売られそうになっていた親戚の子どもの身代わりになった。
    母さんがその子のためにと立ち上がりかけたのを、先んじて制したんだ。
    美人の母親が連れていかれて果たしてどんな目にあうか。子どもながらの拙い想像でも恐怖に震えたのだ。今もその予感は正しかったと、この行動は間違ってはいなかったと強く思う。
    満点の正解ではなかっただろうが、あの時はこれしか道はなかった。
    無力感に絶望した母親の顔、そして母親以外では唯一このことを教えたあいつの顔は今でも夢に見る。もう何年も前の話だ。
    仕事はすぐに覚えた。真面目に働いていれば無体なことはされない。好意的に接してくれる人もいないわけではない。しかしどうしても「連れてこられた」という悪感情がぬぐえずに馴染めない。
    俺のほかにも似た境遇の奴はいるが、何故だか邪険にされている。
    ここのオーナーのお気に入りだと揶揄されているせいだろう。
    別に噂されるような特別なことなど何もない。ただの便利な駒として扱われているだけだ。
    憎たらしいほど涼しいオーナーの顔を思い浮かべて、俺は首を振るう。
    少し疲れた。目をつぶる。強すぎる照明にやられて網膜の裏が痛い。少しでも寝ておかないといけない。
    夢の続きを見たい。
    法律でも守らってもらえない、世間とは裏側の世界へ連れていかれることをあいつだけには話した。
    そうしたら、突然消えた俺を忘れないでいてくれると卑怯な打算をして。
    そして更に追い討ちで、絶対に忘れられないようにと呪いも掛けて。

    「俺は、お前が好きだった」

    ぽかんとした顔。この間抜け面だけは一生忘れられないだろう。
    その一瞬の隙に、返事を聞かずに俺は駆け出したんだ。
    あの時、もう少しだけその場にいられたら、お前はなんて答えただろうな。

    ここの呪いは強力すぎて、シンどころか、もれなく俺にまで跳ね返ってくることになるとは、この時は思ってもいなかったんだ。


    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


    「また来たのか」

    襟に隠されている連絡用の小型マイクをオフにするのを忘れずに、俺はわざと呆れた声を出した。
    久しぶりに自然な笑みが唇に型どられている。
    ディーラーが変わるとそれまでいたプーイヤーは席を立ち、一瞬だけ無人となる。
    そのタイミングを狙って、彼は今夜も俺のテーブルにすっと座った。
    この喧騒の中でも俺の言葉をしっかりと拾ってシンは笑い返してくれた。
    そう、シンだ。
    夢の中の少年姿から大分成長しているが、間違いなく俺の想い人だった。
    この数年間、まさに心の拠り所であった彼が目の前にいる。
    背丈は順調に伸びた様だが俺より頭半分低い。細いわりに頼りない印象を受けないから、そこそこ鍛えてはいるみたいだ。
    ドレスコードなどここではあってないようなものだからか、シンはジャケットを羽織っただけで、あとは私服にスニーカーだ。着飾ったらどうなるか少しだけ気になっている。
    他が見栄を張った格好ばかりなので、年若さもありシンはいつも浮いていた。
    彼が初めてカジノに現れた時の衝撃は今でも俺を痺れさせる。
    夢でしか会えないと思っていた相手が、夢よりも成長した姿で、あの頃と変わらない眼差しで現れたんだ。
    キョロキョロと落ち着かない客がいるかと思えば、そいつと目が合った瞬間、頭を金槌で殴られたような衝撃。
    シンが「アブト」と呼んで泣きそうな笑顔で駆け寄ってきてくれたのが、すべて現実ではないようにスローモーションで見えた。
    すぐさまルーレット台の向こう側に行きたかった。
    かろうじて抑えられたのは、耳に流し込まれた声のせいだ。どこかで監視されてたとしか思えない。
    バックヤードにある会場全体を見張る十数ものモニターから俺の様子が見えていたのだろう。そしてシンも。
    すぐに俺の様子に気づいたシンは、そこからゲームをするただの客としてふるまってくれた。
    話したいことは山ほどある。聞きたいことも山ほどある。
    それはシンも同じようだったが、ディーラーと客との過度な接触はカジノのルール違反だ。
    もどかしく、俺は球を投げ入れる方向を間違えるという初歩的なミスを犯したのだった。
    それから彼は定期的に訪れて、俺の台で一ゲームだけ、しかも少なくない金額を一点張りしていく。
    カモになりに来たと宣言しているかのようだ。
    その間に短く言葉を交わす。

    「何度でも来るさ。言っただろ」
    「金はどうしてるんだ」
    「何のために貯金してきたと思ってるんだよ」

    俺のためなんだと自惚れではなく事実だから目眩がする。呆れてるほうの意味で。
    どんとチップをテーブルに置く。そろそろ賭け方を覚えろ。
    何度もやってきて一点張りばかり。当たる方が奇跡なのに。

    「赤の18」

    俺はおざなりに回して球を投げ入れる。数回跳ねた跡、球は一つのホールにカランと入った。
    黒の6。真逆だ。
    一応流れとして、台上の当たった数字が書いてある場所にマーカーを置く。そしてシンが賭けたチップを根こそぎ持って行く。

    「なんか悔しいんだけどさ」

    まばゆい照明が反射したからか分からないが、シンの瞳がきらりと俺を見る。
    私語に気づかれるのはまずいが、しかし俺はこのわずかな邂逅が愛しくてたまらないから、小さく早口ででも返してしまう。

    「悔しいならもっと勝ち方を勉強しろ」
    「勝ち負けじゃなくて。アブトのディーラーっぷりがさ。綺麗で悔しいんだよ。その黒い服、アブトのスタイルの良さ出してるし。球を入れるときの手つきとか、真剣な顔とかカッコいいし」
    「……」

    最初に賭けてから、その後もオレが「ノーモア」の下りを言うまでは変更できるのに、いつもせずにいる理由はそれか。
    道理で俺をじっと見たままかと思った。珍しいのかと思ってたら…やめろ次から意識してしまうだろうが。
    ここにシンがこうして通うようになったのは1か月ほど前からだ。
    友達で想い人だった男。
    鉄道の話を聞いてくれたキラキラした彼。追いかけっこして俺に追いつけなくて悔しそうにしている姿。それでも諦めない眼差し。何かの折に初めてつないだ手の柔らかさ。共にいて安らげる、背中を預けて眠れる相手。いつだったか、どこかに遠征した帰りの電車で寝てしまって奴の肩をずっと枕にしていたこともあった。「重かったよ」と笑われたが、起こさなかった優しさに胸が熱くなったんだ。スイッチが入ると捲し立てるトークも、彼の俺より高めな声は心地よくてついつい耳を傾けていた。
    懐かしい思い出が溢れる。
    こんなところに潜り込むには、彼自身も表ではない場所を歩かなくてはならなかっただろう。そうまでしてシンは俺を見つけてくれた。
    これはどう解釈したらいい?
    俺の呪いはどこまで効いたんだ?
    他のプーイヤーがやってくる。
    この愛しい短い時間ももう終わりだ。
    強く瞼を閉じて再び開ける。変わらない心配そうな空色の瞳が俺にまっすぐ向けられていた。この地下カジノでは空は見えない。
    俺の唯一の空。
    シンが立ち上がる。もう離れて行ってしまう。伸びそうになった手をぐっとこらえる。
    触れたい。
    ディーラーと客との接触はご法度。指先を触れることすら敵わない。そうしたら不正が疑われてすぐさまバックヤードに連れていかれる。目を付けられたら最後。ここではオーナーがルール。
    透明な壁があるようだ。
    シンも同じことを考えているようで、最低限の会話の中に、アイコンタクトを含めて出来る限り意思を送ろうとしてくれる。
    この空の色を見せられたら、俺は

    「また、来るから。可能性は」
    「…ゼロじゃない」

    彼から学んだ信念を返してしまうのだ。
    いつも最後にこのやり取りをする。
    しかし真意はいつも図れずにいた。
    いったい何を諦めるなと言うのだろう。


    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



    「また来ていたな」

    交代の時間になり、バックヤードに入った瞬間に待ち構えてたオーナー・カンナギに
    唐突に声を掛けられた。
    高級なスーツを着こなし、感情の読めない眼差しで佇む、このユゴスピアの王。
    一瞬肩が上がってしまった。
    やはり見られていたか。
    バックヤードの監視カメラの前で、静かにだが抜かりなく場内を見据えていることの多いこいつには、いつか指摘されるとは思っていた。

    「目に余るようなら…」
    「別に何もない。ただのカモだ」

    全てを言わせる前に視線を合わせず短く言い切る。
    焦りを悟らせないように心を急いで凍らせる。
    この男は規律に対して徹底する。目的のためならばどこまでも冷徹になれる。
    もしも出会い方さえ違っていたら、自分と似通うところがあるので多少の好感は持てたかもしれない。
    唇を噛みしめる様さえ見せられない。
    いっそすべてを諦めてこの男に従順に従ってしまえば楽になるのに、と俺のどこかが囁いたことがあったが、その度に俺のプライドと俺の中の空色がそれを許さなかった。
    運命は回るんだ。決まってなんかいない。
    まだ俺は終わりを告げるあの言葉を紡いでいない。

    「ここに金を落としていくだけなら、お前の熱烈なファンだろうと放っておくが」

    急に手が伸びて来たと思えば、ガッと胸倉をつかまれる。息が詰まった。
    そのまま無理やり目線を合わさせられる。
    鋭い眼差しが俺の心を射る。

    「チップ以上のものを持ち去ろうとしているのなら話は別だ」

    息苦しさに顔をしかめつつ、瞳に力を入れて答えざるを得ない。

    「ただの、客だと、言ってるだろう!」

    心の奥まで明け渡してたまるか。俺も負けじとぐっと眉間に力を入れる。
    酸欠を感じ始めたころに手を離された。
    咳き込む俺を冷めた表情で見下ろす。
    この男は違反者には容赦しない。
    以前、こっとりと店の金を持ち出した奴がいたが、その末路は無残なモノだった。
    この裏社会では筋を通さないものは地面の肥やしにされる。しかも来世でさえトラウマを残しかねない方法で。その捜索に協力させられたこともある。結局見つけたのは俺以外のやつで、そのあとそいつがどうなったかは想像するしかないが、二度とそいつの顔を見ることも話題が上がることすらもなかった。
    カンナギは話を唐突に変えた。

    「先日、交渉がまとまった。来年アメリカに進出する」
    「アメリカ…」
    「あそこの方がこの狭苦しい日本よりもやりやすい。同業者同士でつぶし合う苛烈さはここの比ではないが。アブト、お前も来い」

    当然のごとく命令される。
    アメリカ? 同じ日本で、同じ場所にいるときでさえルーレット越しにしか会えないのに?

    「…嫌だ」

    反射的に応えてしまって、慌てて口を塞ぐ。塞がなければ良かった。こいつの前ではあまり感情を見せたくなかった。
    しかし俺の動揺はすべて見透かされている。
    思えばこいつの命令にこうして真向から反発したのは始めてだ。

    「あの男か」
    「関係ない」
    「お前はここ以外のどこに行けるという」

    お前が俺の運命を決めつけるな、と叫びたい。
    ぐっと堪えるしかない己がなんて無力なんだ。

    「次、話を付ける」
    「!」
    「お前はユゴスピアのディーラーだ」

    なぜこの男は俺にそんな執着を見せるのか。
    おそらく都合がいいからだ。
    逆らえない都合のいい駒だからだ。
    言うだけ言うと、さっさと立ち去る。その背中を呼び止めたいが、そうしたらますます俺にとってのシンの重要性がバレてしまう。
    姿が完全に見えなくなってから、拳を壁に打ち付けた。


    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


    いつも密かに楽しみにしていたシンの来店。
    しかし今日ばかりは来てほしくなかった。
    いつもと同じ、ディーラーが交代するタイミングで、シンは来た。
    彼を待ち構えていたカンナギも。
    場内のスタッフが息を呑んでこちらを注視する。
    オーナー自身がこうして場内に直接来ることは珍しい。
    カンナギが周囲を一瞥すると、慌てて元の仕事に戻っていったが、ちらちらと意識を飛ばしてくるのは致し方ないことだと思う。
    シンはカンナギを見ても慌てなかった。
    まっすぐ前に立つとにやりと笑った。

    「待ってたよ」

    相手の意識を向けさせるのに効果的な一言を放つ。
    対してカンナギは流麗な眉を片方だけわずかに持ち上げ、静かに席に着く。二つ離れてシンも座った。
    この間、俺はただ二人を見ているしかできない。
    まさか今までのあの無茶な賭け方はこうしてカンナギを引っ張りだすためだったのか?
    異様な空気に、他の客は近寄れず、遠巻きにしている。野次馬は時間がたつごとに増えていくが誰もが口を閉ざしていた。
    カンナギが何かを言う前にシンが切り出す。

    「オレと勝負しろ」
    「何が望みだ」
    「アブトの自由」
    「今すぐたたき出すこともできる」
    「オレに紹介状を出してくれたの、誰だか知ってる?」
    「乗る理由がない」
    「受けてくれなかったら、リークする」

    ここまで来るのにどんな手段を使ったかわからないが、紹介状を出した者に泥を塗るような真似はよせ。
    裏社会での信頼の裏切りは何よりも重い。
    その覚悟をかぎ取りつつカンナギは返す。

    「お前ごときがここを潰せるとでも?」
    「可能性はゼロじゃない」

    シンは挑発を止めない。
    シンに紹介状を書いたのが誰だかは知らないが、カンナギにとって無視できない相手の様だった。
    腕を組んで静かにシンを見下ろしている。
    シンはじっと唾を飲み、カンナギの答えを待っていた。

    「いいだろう。これ以上、うちのディーラーを惑わされては仕事に差し障るからな。それで? 何を掛けるんだ。有り金全てか?」
    「オレの人生」

    即答した。
    まて、それがどういう意味だか分かってるのか。
    常に冷静な男も意表を突かれたらしく、珍しく目を少し丸くしている。

    「オレが勝ったらアブトを自由にしてくれ。残りの借金がまだあるならオレが支払う」
    「シン!」

    マナーなど無視して叫んだ。
    俺もどこまで返済されているのかは確認できていない。だが、そんなに少ない数字ではないはずだ。
    俺の自由のために、自分をチップにするな。
    今すぐ卓を乗り越えて胸倉掴んで叫びたい。しかし声を奪われてしまったかのように喉が張り付いて最初に名前を叫んでから何も発せられない。
    一体、完全紹介制のこのカジノにあいつはどんな手段でやってきてるんだ。
    本当に恐ろしい男になったと思う。
    一見、無茶で無謀な行動をしつつ、けれども冷静に見極めて進むところなど特に。
    …誰かに似ている気がした。
    カンナギはじっとシンの目を見ていた。
    ふっと肩の力を一瞬だけ抜いたかと思うと、俺からしたら到底信じられないが、シンの挑発に乗った。

    「白黒、いや、赤黒つけよう」



    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


    震える手で回転盤をまわす。こんなに重たく感じたのは始めてだ。
    チップは置かれない。
    賭けるのは自分自身。
    静かにシンは

    「赤」

    カンナギも

    「黒」

    球を投げ入れる、何百、何千と繰り返してきた動作を、俺は一瞬忘れてしまいそうになった。
    ぎゅっと小さな球を握りしめる。この球の行く末で、俺とシンの未来が決まる。
    いつもは覚悟を決めさせる側だというのに。
    そういえば、俺は一度も賭ける側になったことはなかった。
    球は俺自身で、回転する運命の渦中にこれから投げ入れられる。
    そしてどこかに落ちる。
    初めて見るような気持ちで俺は掌の球を見つめた。
    じっと俺を、その球の行方を見守る二対の瞳。
    短く息を吸い込むと、俺は球を回転とは逆向きへ滑らせた。
    二人とも変更などしない。
    深呼吸を一つ。
    何百、何千と唱えて来たこの言葉を、今は己の覚悟を決めるために、俺自身へ向けて初めて宣言した。

    「No more bet!」



    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


    カジノのオーナーの矜持なのか、賭けの結果にケチなどつけなかった。
    球が落ちた後、場を支配したのは喚声だったか閑静だったか。
    かの男は立ち上がると俺の蝶ネクタイをむしりとり、そのままバックヤードに消えていった。

    「お前たちは、よく似た目をしている」

    それが最後に聞いたあいつの声で。初めてその声を普通に綺麗だなと感じた。
    一度も振り返らなかった。
    借金についても言及されることもなく。
    唐突すぎて俺は理解が出来ずに、ただその後ろ姿が視界から消えるのを見送った。
    周囲がいつもの喧騒を取り戻しつつある。けたたましく耳を打つ音の暴力が戻って来た。
    手が捕まれた。暖かな手。
    泣きそうな顔のシンが俺を見ている。
    そのままルーレットを飛び越えて、俺たちは駆け出した。
    幾つもの台を縫い、人込みも避け、何も持たずに俺はディーラーの制服のまま扉をシンとくぐる。
    鉄扉の向こうの階段を二人して駆け上がった。
    地上に出た途端、肌を指す寒さが全身を襲った。
    ああ、今は冬だったのか。
    明るい別世界から戻った俗世は夜で。明暗の差がひどくて一瞬何も見えなくなった。
    目が慣れて来たころにようやっと空を仰ぐ。白い息が広がる。
    ダウンタウンの作り物めいたビルの合間から見えた星空ははるかに遠かった。
    世界がこんなにも広いものだったなんて忘れていた。
    隣でシンは大きく伸びをした。
    礼を言うべきか悩む。いいか。どうせ奴はそんなのが欲しくてやったわけじゃない。
    名前がはげかけた名札を取り外すとポケットに入れた。
    ここから先どうするか、どうなるかだなんて、今は無用な心配だ。
    見切り発車、上等だ。
    決められた明日がないことが、こんなにも清々しいだなんて。
    シンは俺を振り返る。
    俺の手を離すと卓を擦る仕草をする。
    賭けを終わらせる合図。
    こいつ、やっぱりルール知ってたな。

    「何を賭けたんだ」

     俺の手を再び取るとあいつはあの頃と変わらぬ笑顔で、しかし顔を真っ赤にして宣言した。

    「No more bet」
    (とっくに賭け終わっているからな)

    俺の呪いはどこまでも効いてくれたらしい。
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