誘惑する青空 休日の屋上公園を吹き抜ける熱風は湿ったアスファルトの匂いを孕んでいる。隣に腰掛けた友人の前髪が、風に嬲られてぶわりと持ち上げられている。それを見て、今朝から纏わりついていた違和感の正体に初めて思い至った。前髪に隠れていた右耳に銀の点がひとつ、増えている。
普段学校に来る際は律儀にピアスを外しているから、こうして休日を共にする間柄でもなければ彼のフル装備を目にする機会はない。定点観測しているのは自分くらいかもしれない。彼と連み始めた頃、それは確かに耳たぶの一点だけだった。けれど、梅雨に入る頃には両耳の上側に増え、夏休みの始めにまた増え、少し置いて冬にまた一つ増えた。
そして今日また一つ、右耳の頬に近い部分に真新しいスタッドが光り、根本が少し赤くなっている。
何かあったのだろうか。小音量で頭を過ぎる、傷つくたびにピアスが増えると歌う電子音楽はなんてタイトルだっただろう。
「…リンドウ?俺の顔になんか付いてる?」
「あ、ゴメン」
無意識にガン見していたらしく、困ったような笑顔を返されて慌てて目を逸らした。大きく揺らいだ視界に昼下がりのMIYASHITA PARKの光景が収まる。漂白されそうに強い夏の光が、灰色の舗石に青い青い影を焼き付けている。
「フレサワさんがカッコ良くて見入っちゃったとか」
戯けた声がざらりと耳元を掠めた。
「それはない」
「素直に言いなって」
「はいはいカッコいい」
「もっと気持ち込めてよ〜」
不満げな声を聞き流しながらプラスチック容器のブラックティーを啜る。無駄にたっぷり掬い入れられた氷はあっという間に気温に負け、中の液体はほとんど色付き水程度の薄さになっていた。喉の奥に冷たさだけが落ちていく。
—軟骨開けるのって痛いって聞いたけど。
—なんか、おまえ結構簡単にソレ増やすし、もう右だけで4個とかなってるじゃん。
—病んでない?
“友達”としては重すぎる言葉を僅かな紅茶の苦味と一緒に飲み下して、代わりに「フレット、カッコいい!」と作り物の笑顔で答えると、でしょお、と嬉しそうにニッと笑みが深まった。
「どう、リンドウも次開けてみない」
「次?」
「コレ見てたでしょ。キョーミある?」
フレットは腫れていない側の耳の上側を摘み、軽く引っ張って見せる。
そういう意味で見てたんじゃないんだけど、とも言えず、黙って先を聞いていた。リンドウはまだ二個目だからヘリックスで良いんじゃね、前ニードルまとめ買いしたのが余ってるからまた開けたげる。ちょっと腫れるかもだけど今夏休みだし。フレットは俺の右耳に手を伸ばし、勝手にふにふにと指の腹で圧してきた。
「リンドウも顔いいから多分似合うと思う。折角だからお揃いーってことで?」
「いや、俺は別にいい」
「えー、絶対雰囲気変わるんだけどなー」
そう言いながらもフレットは大人しく手を離し、そのまま頭の後ろで両手を組んで空を見上げた。頭上で入道雲が動き、陰になっていた彼の顔に再び陽が当たる。右耳の上側に弧状に連なった銀色の光が、太陽を映してキラリキラリと目に刺さる。
「ま、嫌なら無理にとは言わないけど」
彼は寂しげな溜息をひとつ吐いた。
ここで断ればもう二度と誘われないだろう、という確信があった。無駄に連んできただけあって、深追いしない彼の性格は一応把握している。そして、今を逃せば二つ目以降の穴を開けるきっかけは永久に訪れないように思われた。
混沌とした感情がキュッと心臓を掴む。見知らぬ世界への憧れと呼ぶにはあまりに暗く、壊れてしまいそうに快活な友人を引き止めたい気持ちと呼ぶには妙に高揚していて、要するにそれら全てがどうしようもなく混ざっていて。気づけば、先ほどと真逆の言葉を口にしてしまっていた。
「…別に、嫌ってほどでもない」
暈した同意を受けたフレットがゆっくりと目線を戻してくる。青い瞳が期待に煌めいている。彼は興奮気味に、一つずつ言葉を重ねた。
「ゼッタイ似合うと思う。俺が保証する。ってか俺が見たい」
「……わかった」
押されて口にした了承を耳にするなり、彼の顔にぱあっと華やかな笑みが広がった。
「じゃあ決まり!明日俺ん家でいい?」
いいよ、と答えながら、いいのかな、と胸の内でグルグル問い直していた。プラ容器に纏わりついた水滴がいやに冷たい。それは掌から肘まで伝い落ち、手汗と混じってアスファルトにボタボタと黒い染みを残す。
昔から自分は比較的大人しい方だったと思う。
扱いやすい子だったのよ、と母親は言っていた。他のママの話聞いてるとね、男の子ってもっとはしゃいで迷子になったりとか、乱暴で腕白で手がつけられなかったりするみたいなの。でもリンちゃんは素直で偉い子だったわ、とふんわり微笑んで。彼女と同じような評価を父親も親戚も先生も—要するに周りの大人皆が自分に下した。
守られた安全な柵の中にいるのは、少し退屈だけれど心地よかった。
適温に整えられ、無菌消毒された巣枠の中から、無謀な冒険に飛び出しては叱責と擦り傷を手土産にする連中を横目で眺めていた。なんて要領が悪いんだろう。怒られたら面倒だし、怪我したら痛いのに。大人たちが与えてくれる清潔で守られた領域の方が、自分にとってはずっと楽で良かった。
けれど入学直後の春、その安全地帯を初めて自分から離れることになる。
「高校デビュー」と称して髪を染めた。母さんも父さんも反対しなかったし、何か変わるんじゃないか、とほんの少しだけ期待した。ところが、中学校の巣穴を飛び立った級友たちはそれぞれ髪を染め、制服を着崩し、翼を広げて自由な空域を謳歌していた。明るい金髪は春の新しい光に紛れ、むしろ元の地味な黒髪の方が目立ったかもしれないとさえ感じられた。それに髪を染めた程度で性格まで変わるはずもなく、新しい環境でもだんだんと見知った指定席に吹き寄せられていった。
成績中の上の男子で何となくグループを作って、その中でも聞き手に回ってニコニコ相槌を打つだけ。中学時代と同じ、安全で退屈な聖域。退屈な分面倒ごとが少ないのだから、少しのつまらなさはあれど嫌と言うほどでもない。きっとこれが自然で自分の性に合っているのだ。そう割り切って、代わり映えのしない毎日を自分の宿命として飲み込もうとしていた。
転機をもたらしたのは、普段は全く別の世界ー陽キャグループで騒がしくしている同級生。金と茶の混じる髪をふわりと流した彼のことを、その頃はまだ「フレサワ」と呼んでいた。暮れ残った陽の光が散らばる放課後の教室で、ある日たまたま二人だけ残された。理由は忘れた。日直の担当だったか、出し損ねた課題の片付けだったか。同じ机と椅子と椅子と机が並ぶだけの空間を充たす、春の睡たげな若葉の匂いだけはぼんやりと記憶に残っている。
「リンドウさ、その髪って染めたやつ?地毛じゃないよね」
挨拶だけして帰ろうと思っていたところ、彼は空色の目を興味深そうに輝かせて問いを投げてきた。長く絡まれたら面倒だと胸でぼやきつつ、友達向けの笑顔を貼り付けてさっくりと返答する。
「うん、そうだけど。何で?」
「いやー、なんかリンドウって見てると優等生?って感じだし、チャラチャラするタイプにも見えないからさ。髪だけ染めてんの意外だなーって思って」
彼は自分の机の側に歩み寄り、前の席の椅子に後ろ向きで勝手に腰掛ける。大人しい優等生で悪かったな、と文句を吐く内心の自分を宥め、適当な言い訳も思い浮かばないのでそのまま事実を打ち明けた。
「中学時代は普通に黒だったけど。環境変わるしイメチェンしてみっかなって思って」
「そーなんだ。で、変われた?」
「どうかな」
そうあしらうとフレットはクスクスと小さく喉の奥で笑った。変わり損ねたことへの心残りを見透かされた悔しさが表情に出ていたのか、彼はすぐ仰々しく手を合わせて「ゴメンっ」と謝り、少し目を眇めて囁いた。
「あのさ、折角ならもうちょっと冒険してみない?」
それから自分の耳たぶを軽く摘んだ。そこには針先が入りそうな小さな窪みが穿たれている。
「開けるとか」
「…ピアス?」
「そう。学校じゃつけらんないけど、割と気持ちは変わるんじゃない」
「気持ちだけ変わっても仕方なくね?」
「こーいうのは変わった気になれるってのが大事でしょ」
普段の自分なら屁理屈だと笑い飛ばしたと思う。気分で穴を開けるなんて馬鹿げてる。けれど、その時は何故か考え込んでしまった。フレサワの言う通り、根元の心持ちが変わっていなかった故に定位置に戻ってきてしまったのだろうか。きっかけがなければ、ずっとこの退屈な聖域を離れないまま、羽撃き方も知らないままで終わるのかもしれない。それは流石に面白くない。
「…開けてみよう、かな」
少しの動悸が声に出ていたのか、フレサワは「思い切ったじゃん」とニヤニヤ笑いを浮かべていた。
結局その週末の日曜日に両耳に小さな穴が貫通した。
本当は安全をとってクリニックに頼みたかったが、術前に親の同意が要るというので諦めた。許可を取ってでは意味がない。幸い、フレサワが手伝いを申し出てくれた。小さなピアッサーが両耳に順番に押し当てられ、バチンと音が鳴った次の瞬間にはもう終わっていた。湿り気を含んだ布が耳朶に押し当てられ、指の腹が軽く動いて消毒液を馴染ませる。跡を確かめるかのように妙に執拗に擦りながら「高校デビューおめでとう、リンドウ」と今更のように祝ってくれた。
引き上がった口元は悦んでいるようにも見えた。
スマホでセカンドピアス候補を物色し、来週末に一緒に買いに行く約束を取り付ける傍らフレサワは盛んに話を振ってきた。どこの店がおすすめだとか行ったことがあるとかないとか。推してる芸人がどうとか。その一環で彼は呼び名についても訂正を求めてきた。
「"フレサワ"じゃなくて"フレット"か"トーサイ"の方にしてくんない?」
「えっと、フレット?」
「そうそう!フレットくんです」
その時から"フレサワ"をやめてフレットと呼ぶようになった。桃斎、は少し仰々しい。
開けてしまえば気になるもので、学校でもそれとなく友人連中の耳元に目をやることが増えた。貫通済みの人間は男女含めてそう多くはなく、自分が「そちら側」に行けたようで妙に心が躍った。尤も誰にも気づかれることはなかった。バレないようにと着脱を繰り返した両耳は軽く膿んでいたが、父さんや母さんすら傷跡を見過ごした。
フレットだけが、「あんまり弄っちゃダメだって」と心配げにしていた。
*** *** ***
外側に穴を開けようとすると耳朶より痛いと聞き知っていたから、返事をしてしまった後もちょっと迷っていた。帰り道で、その日の夜の自分の部屋で、翌日家を出る前、「やっぱ昨日のナシで」と取り消そうとアプリを立ち上げ、しかしその度、打ち込みかけたメッセージを送らないままに画面を落としてしまった。
到着の連絡も入れないまま、玄関前で未練がましく見つめていた液晶に、ささやかな音とともにポップアップが現れる。
> そろそろ着く?
断るタイミングを失ったままここまで来てしまった。結局流されがちなのは変わらないんだろうな、と溜息を吐いて、返信を送る。
>> もう着いてる
「いらっしゃい」と膝をつく白いオッサンのスタンプが届き、7秒後に「ドア開けたから」と連絡が届いた。自動施錠のドアが開くピッという音が、早く入れ、と背中を押す。
*** *** ***
「一応確認だけど、開けちゃって大丈夫?」
そう尋ねながらも彼は水性ペンのキャップを回し開け、ソファに深く座った俺を真っ直ぐ見つめて答えを待っていた。
「いいよ。ってか今更だろ」
もちろん、開けなければならない理由などない。義務でも義理でもないし、一度開けてしまったら跡が残るだろう。見る人が見れば過激な印象を与えてしまうかもしれない。それでも最後まで断れなかったのは、淡々と自らの身体を穿ち続ける彼への同情が半分。もう半分は、彼が誘いかける籠の外の世界ー大人しいままの自分では決して至りつけない領域に、ほんの少しだけ興味と憧れを掻き立てられたからだ。
「ロブより目立つし痛いかもしんないけど」
「目立つったって、おまえみたいに何個も付けるわけじゃないし」
「増やしたくなったらいつでも開けたげるけど。スッキリしていーよ」
スッキリするって何、あんまり増やしすぎんなよ、と言いたくなるのを押し留めて「今はいらない」とだけ返した。そう、と答えて彼はニッと目を細める。左手が顔の横に落ちて、右耳の上側に水滴のような感覚が一点、落とされる。そこを貫く予告のようにも感じられて、不安と期待が綯交ぜになったざわめきが内心を揺らした。
「...この辺。痛いかもしんないけど、じっとしててね。アブないから」
頷きを返すとフレットは目の前のテーブルから銀の小さな針を取り上げた。注射針の先端が確かに「針」に見えるのと異なり、貫通するために作られたそれはどちらかと言えば細めの金属の管に見えた。
マーカーが触れていた位置に針先の感覚がぽちりと重なり、もう片方の手が胸の上に重ねられてバランスをとった。少しだけ早まった拍動が伝わってしまいそうで居心地が悪くなる。こちらの緊張に気づいているやらいないやら、フレットはあっさりと「じゃ、刺すよ」とだけ宣言した。
触れていただけの金属の感覚がだんだんと強くなり、じわりと皮膚を噛んだ。熱を帯びた疼痛が肉と骨の内側に潜り込もうとする感覚に勝手に肩が跳ねた。ちょっと待って、とストップをかけようとした瞬間に、胸を圧す掌の力が、グッ、と強くなった。
一際強く押し込もうとする気配が針先から伝わる。ー動くな、と言外に咎めるように。
「...危ないってば、リンドウ」
冷えた声が痛みとともに耳に流れ込む。至近距離から覗き込む瞳の奥で、吸い込まれそうに、落ちていきそうに深い空の青が爛々と光っていた。強風に設定されたエアコンの冷気が頬を抜けて寒気を残し、縫い止められたように動けなくなる。
「⁉︎いっ...ッ」
ぶち、と音が聞こえたように錯覚した。針先が急に速度と力を増し、柔らかな部分を割いて空中へと突き出た。じんわりと広まる熱のような疼痛の中心でカチャカチャと金属の音が鳴り、やがて静かになった。先ほどまで自分の身体であった空間は既に欠損し、今や蛋白質の代わりに冷たい金属が隙間を埋めている。
「はい終わり...あれ、泣いてる?」
「え?」
ニードルを置いたフレットの指が目の下に触れる。つぅ、と滑らかに伝う感触は生温い液体を纏っていた。気づかないうちに涙を流していたらしい。
「痛かった?泣かないでリンちゃん」
「……茶化すな、よ」
「ゴメンって」
フレットはヘラっと表情を崩し、頬を伝う滴を拭いとった。先程の、刺すような冷たさを感じない穏やかな動作だったが、目を合わせた彼はいつかと全く同じ表情をしていた。唇が薄く弧を描いて引き上がっている。
笑っていた。引き込まれそうな空色の瞳に、静かな昏い輝きを宿して。
フレットは真っ直ぐに覗き込んだまま、着けたばかりのファーストピアスを軽く撫でた。
「コレ、戻りやすいからしばらく外さないでね」
固まるまでしばらく痛むかも、そのうちまたセカピ買いにいこ、と空々しく誘い続ける声を上の空で聞き流していた。外したところで今更戻れはしないのだろう。憧れと同情に唆されるまま、安全地帯から飛び出してしまっていた。目立つ位置に赤々と刻まれた"優等生"らしからぬ傷の痛みが、もう後には戻れないのだと告げている。
痺れたように動けずにいる俺を見下ろしたまま、フレットは「お揃い」と言ってクスリと笑った。