「さびしい」 通い慣れた「死せる神の部屋」の一角、薄暗い間接照明にスマートフォンの光が煌々と輝いている。画面を覗き込むリンドウに「ただいま」と声をかけると、彼は目を上げないままで「おかえりなさい、ミカギさん」と無感情の答えを返した。
このところ彼の機嫌は低空飛行を続けていた。原因は分からない。再会して1ヶ月ほどは週末ごとに宇田川町で落ち合い、渋谷中のカフェや服飾店を巡ったり、彼が熱を上げているアプリ・ゲームについて夢中で話すのに耳を傾けたりしたものだった。この部屋に招き入れたばかりの頃もこんな風ではなかった。彼はガラス張りの床や低い音で唸るピンボールマシンに目を輝かせて、「こんな豪華な部屋に住んでるんですか」と、興奮に少し声を上擦らせていた。足元に戯れつく光の魚を珍しく思ったのか、コツコツと高く足音を響かせながら、ソファやテーブルの間を歩き回ってはしゃぐ新鮮な姿を見せてくれた。
それももう1週間前の話になる。
渋谷を救おうとする彼に手を貸し、鳳凰を打ち破るまでを見届けた。その頃には、渋谷の代理人としてのみ抱いていた興味は奏竜胆本人に対するものに変質していた。上位次元から観察するだけでも彼の言動や思考を把握するには十分なのだが、かつて彼から受けた”渋谷案内”が妙に思い起こされた。どのみち新宿がまともに動き出すまではまだ時間がかかるし、それまでの間、彼とこの街のことを知りたいように思った。そうしてある日曜日の夕方、ハチ公前で人混みを眺める彼に声をかけ、 —それから週末ごとに彼自身に渋谷を案内してもらっていた。
初めて再会したあの時、彼の波動は確かにポジティヴな昂りを示していたし、続く日々の中で景色や食事を共にした際も、基本的に彼はミカギに明らかな好意を示していた。視覚にも味覚にもこだわりは持たないが、彼と訪れる場所、彼が勧めてくれるものは何でも良いように思えた。
「ちょっと今日は下調べできてなくてすみません…あ、でもモヤイマート、おにぎりの具材が大きくてコンビニの中だとオススメです。ミカギさんにおにぎりってあんまり合わないかもですけど」
公園のベンチに並んで腰掛け、おにぎりの包み紙を指先で弄りながらリンドウは辿々しく話しかけてきた。訥々と溢れる柔らかな声を聞きながら頬張ると、単なる作り置きの米飯もそう悪くないように思えた。
「とても美味しいよ。僕には合わないのだろうか」
微笑んで問いかけると、リンドウは「いえ、そういうわけじゃないんですけど」となおも頭を掻いていた。
あの頃はリンドウも心底の笑顔を向けてくれていた。
だからもっとよく観察し好きな時に会話が行えるように、死せる神の部屋に彼を招き入れてそのまま置いておいた。それから一週間というもの、コンポーザーとして最低限の任務が終わり次第部屋に戻っては対話を続けていたのだが、いつしか彼の顔から表情が消え、代わりに虚ろな陰りが目の下に現れるようになっていた。
最初の頃は遠慮がちに部屋を出られる時期を問いかけられていたが、いつまででもそこに置いて話を続けたかったから、答えを返さないままにしておいた。そうしたら3日目からはそんな問いかけすらも投げかけてこなくなった。
「何を見ているんだ、リンドウ」
「……メッセージアプリです」
近くに歩み寄りながら尋ねる。彼の視線は液晶に釘付けられたまま、依然こちらと合うことはない。
「この部屋から連絡は取れないと思うけど」
「過去ログ見てます。あの、Wi-Fi引いてくれませんか…ヒマなので」
言葉の一つ一つに潜む奇妙な抵抗も、以前は見られなかったもののはずだ。総合的に考えるに彼は何か変わってしまったのだろう。理由を求めて思考の流れに手を浸し、既に見慣れた茶髪の少年の姿を見出したところでミカギは顔を顰めた。”覗いた”のはこれが初めてのことではない。会話に不協和音が生じるたびに彼の思考を直接確かめ続け、この頃は定点観測のようになってしまっている。その精神の中にはいつの間にかかつての淀みが再び湧き出し、覗くたびにそれは嵩を増し続け、今では満ち潮のように心の全域を浸すまでになっていた。その正体を見極めようと彼の内面を凝視するたび、いつもそこに見出せたのは、死神のゲーム最終日で彼と共に鳳凰と戦った仲間たちの影だった。6人のメンバーの中でも茶髪の少年と黒服の少女は特に登場頻度が高い。
そして、11月の風のような、冷えきった空虚な淀みが絶えず吹いては抜けてゆく。
「彼を懐かしんでいるのかな」
「また、俺の心覗いてたんですね」
やっと目線を上げたリンドウはミカギを真っ直ぐに見つめた。薄い鳶色の瞳に、暗い部屋を照らす青いライトの光が反映して、水面のように揺れる。
「懐かしむ…そうですね、”寂しい”んです」
「寂しい?」
その目が細まり、口の端がスゥと僅かに引き上がった。彼の笑顔を目にするのは久々だ。僅かに動いた指先はおそらく検索を試みたのだろうが、電波が通じないことに思い至ったのか、彼はしばらく喉の奥で表現を探していた。それから、ぽつぽつ、ゆっくりとその言葉を定義していく。
「…会えない相手がいるとして、会いたいなって思ったり、相手と過ごした時間を楽しかったって思い出したり…とか。そういう気持ちのことです」
「会えたら、寂しくはなくなるのか」
「まぁ、そうですね」
答えを聞いたミカギは再びリンドウの思考に手を伸ばした。その中にある少年の姿とイメージを弄り、形を確かめる。金が交じった茶髪、三点のピアス、首元にスカーフとネックレス。澱のある思考とそれを繕うごく軽い口調、それから服飾への強い趣向。波動を少し整えれば姿や声色を真似るのは決して難しいことではない。一瞬ののち、鳳凰のジャンパーを羽織った青年がいたはずの場所には、リンドウの記憶の中にいた少年–觸澤桃斎の姿があった。あーあーと二言三言発生した後によしっと気合を入れ、彼はニッと笑みを浮かべる。
「『リンちゃん』、これで寂しくないっしょ?」
その声を聞いたリンドウの瞳が大きく揺れた。
「……ミカギさん。そういうことはやめてください」
「なんで?声とか口調とかも一応揃えてんだけど…俺なんか違ってた?」
「悪趣味です」
それから彼は再び目線をスマホに落としてしまった。なーんでかねぇ、と腕組みをして首を捻る”觸澤桃斎”が一人、死せる神の部屋に取り残される。
何かが変わってしまったことは確かだが、きっかけが何かあったのかはよく分かっていない。
彼を迎えて8日目の夕方。
新宿に足を運び指揮者に任せていた現場視察の報告を聞き終え、その足で通い慣れた渋谷川暗渠へ向かった。饐えた湿気で濡れ羽色に染まったコンクリートの通路は靴音を反射し、その音に驚いた溝鼠が慌てて逃げていく物音がそこここで聞こえる。
その奥、いくつかのグラフィティを抜けた先、彼の待つ「死せる神の部屋」の扉を押し開ける。
「ただいま、リンドウ」
「おかえり、ハヅキ」
ミカギを出迎えたのは見慣れた金髪の少年ではなく、かつて先輩と仰いだ高位天使ーヨシュアだった。カールがかかった銀髪がライトを受け、細かく柔らかな光を返している。その下から日暮れ後の空のような深い紫の瞳が、ミカギを直に見つめている。
「こんにちは、先輩。どうしてここに?」
「代理人にした子が困ってる声が聞こえたからね」
「…リンドウは」
ヨシュアはフフ、と笑って髪を掻き上げる。
「今頃は駅前くらいに戻れてるかな?ほら、見てみようか」
ガラステーブルの上からリモコンが手に取られ、モニターが明かりを灯してヴン、とくぐもった音を立てた。少しの砂嵐ののち、画面には月曜夕方の渋谷の喧騒が映し出される。木立を背負った石の犬の脇に彼が写っている。スマホの画面に目を落としては頭を上げ、キョロキョロと辺りを見回す動作を繰り返す。何度目かの後に彼の瞳に光が宿り、顔を上げて大きく手を挙げた。小走りで茶髪の少年が駆け寄ってきて、そのままリンドウに力強く抱きつく。リンドウは引き剥がす動作をしつつも、本気で振り払うほど力は入れていないらしく、結果としては抱き竦められるに任せる形になっていた。
一部始終を見守っていたヨシュアが目を細める。
「お友達には会えたみたいだね。ずっと寂しがってたみたいだし」
「彼であれば僕でも真似てあげられたのだけど」
かつて立ち居振る舞いを再現してやった際、リンドウは気分を害したように表情を曇らせ、目も合わせようとしなかった。その記憶とモニターの中で繰り広げられている光景とは辻褄が合っておらず、自らの諒解を越えた現象にハヅキは首を傾げる。
「あれではリンドウを侮辱しているよ。おまえが悪い」
ヨシュアはゆっくりとかぶりを振った。
「何か間違えていただろうか」
「そもそも複製なんかしようとするのが間違いなんだけど…まぁいいや。彼はしばらく向こう側に留めおくし、どうせおまえはまたすぐ干渉したがるだろうからね。彼には特別に保護をかけておいたよ」
ミカギの眉間が微かに寄る。次に会えたらすぐまたこの部屋に導こうと考えていたところだったが、先手を打って水を差されてしまった。
「またここに呼んではいけないだろうか?」
「いけないね。どうせまたリンドウを閉じ込めるだろう?理由なく旧代理人を幽閉するなんて渋谷コンポーザーとしては認可できない。それに、彼の哀しそうな声は僕のもとまでよく届いていたよ。ここから出たい、友達に会いたい、帰りたい、って。おまえは強引すぎたのさ」
ヨシュアはひらひらと手を振った。
「リンドウに興味を持った時は僕も嬉しく思ったよ。コンポーザーともなれば、天使としての能力だけじゃなくて人の欲望や倫理体系もきちんと解する必要がある、それを学ぶきっかけになるかもしれない、ってね。でもアレはやりすぎだ。…ま、これがいいお灸になるといいんだけど」
「そうか。…リンドウを探してくる」
「ご自由に。会えるといいね」
含みのある笑みを浮かべるヨシュアを尻目に、そのまま部屋を、渋谷川暗渠を出てすぐ駅前広場に転移した。幸いリンドウと友人は先程から動かず、ハチ公前で談笑を続けていた。
(リンドウ)
いつものように心の扉を直接叩きかける。しかし彼が顔を上げたり振り向くことはなかった。仕方なく低位次元に同調し、RGの周波数で改めて大気を振動させる。
「リンドウ?」
確かに現次元に響いたはずの声にも、彼は答えない。肩を叩こうとして、軽く振り下ろした右手はそのまま身体をすり抜けて腰の辺りまで到達してしまった。そっと手を引いても何も傷は付いていない。–ヨシュアの言った通り、何らかの操作で強制的に位相がずらされているらしい。不都合な予感に駆られてスキャンを試みたが、想定を裏付けるように彼の思考は透明な流れにしか感じられなかった。これでは、今までのように考えを知ることはおろか、まともに意思疎通することさえままならない。
面倒なことになった。
そう思いつつ、仕方がないので目の前で繰り広げられるテンポの早い会話に耳を傾けていた。
「いや〜、急にガッコウ無断休とかめっちゃ心配したじゃん。どした?グレた?反抗期?」
「…じゃないんだけど、ちょっとな」
「まーただのサボりならそれでいいけどね。何もなさそうで安心したわ」
「…ってかあの、今日って月曜で合ってる?」
「そーだけど?ほら、昨日は一緒に鈴でラーメン食ってからタワレコ行ってCD見たっしょ」
「あー?うん、そうだったっけ」
「変なリンドウ」
それから茶髪の少年が両手を掲げて「リマインド、思い出せー」と掛け声を上げ、けらけらと二人の高い笑いが続いた。こうして観察していても、実際のリンドウの友人と自分が再現した姿にどこか相違があるようには思えなかった。
****************
1ヶ月が経過しても、相変わらずリンドウに声をかけたり触れたりすることはできなかった。
ミカギと会う約束がなくても、リンドウは週末ごとに渋谷を訪れ、旧ツイスターズメンバーと連れ立って散策に出かけていた。渋谷エリア内であれば彼の波動を遠隔で認知することは許されているらしい。また、RGレベルで姿を目視し、声を聞くことも可能だった。だからコンポーザーの任務がない時であれば黙ってその後をついて歩いて渋谷案内の代わりにしていた。彼がショップや飲食店に立ち寄るたび、かつて談笑と共に受けた説明を記憶に呼び起こした。
ーミカギさんタピオカって飲んだことあります?滅茶苦茶甘いけど、モチモチしてて結構美味しいですよ
ーミカギさんならイルカヴァとか似合いそうですね。ってスミマセン、小遣い的に俺が入れるような店じゃないんですけど
ーここ、限定メニューでワニの丸焼き売ってるんです。味は…まぁそんなに美味しくもなかったんですけど。でも写真映えはしますし、珍しいですよね
リンドウと同伴者が食事や買い物に勤しんでいる間も、ミカギは黙ったままリンドウの言葉に耳を傾け続ける。一度だけ、かつてリンドウに頼んでもらった白褐色のタピオカドリンクを注文してみたことがある。しかし、談笑を共にしながら味わった時は悪くないと感じられたそれも、話し相手もないまま吸い込めば、粘度の高い澱粉と砂糖と乳脂肪の混交物としか感じられなかった。それきり、形だけでも食事を共にすることすら諦め、ただひたすらにリンドウを観察することに専念した。
そうして初めて気づいたことがある。
直接思考を覗くことができなくとも、行動を観察し、連れとの会話を耳にしているだけで、間接的にだが彼の一部を理解することは可能だ。例えば。
ブラックコーヒーはあまり頼まない。
物を買うときは連れ(それが誰であれ)よりも時間をかける。
昼食が多めだった日の午後は非常に眠そうにしている。
それらを含め、全体的な行動はミカギと会っていた頃と殆ど変わりなかった。ただ二点だけ変化があった。
かつては基本的に週末にだけ渋谷を訪れていた彼が、平日の夕方にも渋谷駅前に姿を現すようになった。おおよそ17時45分頃、制服を身に纏った姿が地下鉄口の階段から現れ、犬の像の前で必ず一度立ち止まってから、早足で決まったルートを辿る。MIYASHITA PARK、キャットストリート、タワレコ前を通ってスペイン坂から宇田川町のグラフィティ前まで。突き当たりまで来てしまうと、辺りを見回し、肩を落として、再びそそくさと同じ地下鉄口へと戻っていく。そんな1時間程度の行程を、週に1~2回、巡る。
普段は高等学校に通っており、渋谷駅は電車通学の乗り継ぎ駅にあたるのだとかつて聞いたことがある。目的なくこの街を出歩くことが好きだと言っていたから、平日にも散歩の時間を作ることにしたのかもしれないが、思考を読むことも話すこともできない以上それは憶測の域を出ない。
それからもう一点。
「どったのリンちゃん?ソワソワして」
インドカレーショップの薄暗い店内上方、多面多臂の神像が据えられた辺りを行方なく彷徨っていたリンドウの目線は、友人に呼び咎められたことでハッと水平に戻る。定例となった日曜の散策の途上、彼らは馴染みの店で注文したベジターリーの到着を待っていた。
「あ、あぁ…何でもない」
彼の連れ合いが手にしたスプーンを軽く振りながら「ふーん」と目を眇める。
「こないだからだけど、リンちゃんなんか交信してる?ってか…たまにボンヤリしてるよね」
「交信って何」
「なーんかこの前から上の空ってか…オカシーんだよね、リンドウさ〜」
語尾を長く伸ばした指摘に、リンドウは律儀に両手を振って「気のせいだよ」と何度も誤魔化していた。
その日の夕刻、渋谷駅に吸い込まれていくリンドウを犬の像の前で見送ったところで、再びミカギを呼び止める声があった。
「またリンドウの後をつけていたのかい?おまえも飽きないね」
振り返れば、あの日と同じ星の腕章を付けたヨシュアが、やぁ、と緩く片手を挙げていた。
「こんにちは、ヨシュア。この状態はまだ戻してもらえないのかな」
「おや、ずいぶんご執心なんだ」
「また彼の話を聞きたいからね」
ヨシュアはニヤリと笑みを浮かべ、それから掌を上に向けて両腕を大きく広げた。足元から光の粒が吹き出し、すぐに柱となって全身を覆い尽くす。次の瞬間、同じポーズをして立っていたのは明るい金髪と顎下のマスクが目立つ少年ー奏竜胆の姿だった。
「俺に会えなくて寂しかったんですか、『ミカギさん』」
ヨシュアだった存在がリンドウの言葉を紡いでいる。その不整合がミカギの心内に鋭く刺さった。感じ知らない不快な疼きがむずむずと胸を掻く。
「僕はリンドウの姿のヨシュアではなく、リンドウと話がしたいのだけど」
「だってミカギさんも同じことをしたじゃないですか」
不相応に狡猾な笑みを浮かべる"リンドウ"を前に、ミカギは自らの言動を再検討した。リンドウといた最後の日、寂しいと溢す彼のために友人の姿と振る舞いを真似てやると、彼は不快の表情を浮かべて心を尖らせていた。あの時は、何故彼が友人の姿を拒絶したのか理解できていなかった。
今の自分の精神を刺す不快感と同じモノを、あの時の彼も感じていたのだろうか。
「何か思うところがありそうですね、ミカギさん。いいですよ、チャンスをあげます」
"リンドウ"はクスリと笑って続けた。
「ミカギさんの言う通り、俺はリンドウじゃないです。でももし、リンドウに何か言いたいことがあったら今の俺に言ってみてください。そのまま伝えるので」
「...そうしたらまた、リンドウに会わせてもらえるだろうか」
「それはリンドウ次第じゃないですか。...さて」
"リンドウ"はそれきり口を噤み、促すようにじっとミカギを見つめた。慎重に言葉を選別し、声に乗せてゆく。
「...友人の件はすまなかった、リンドウ。代わりになるかと思ったが、本人でないと無意味ということは把握した。好意を持つ人間に会えないという状況がもたらす不服感も理解したと思う。僕もしばらくリンドウと話ができなくて、とても物足りないと思っているから。……もうリンドウに不自由な思いはさせないようにするから、また前のように渋谷を案内してくれないだろうか。あの部屋には電波が入るようにしておく」
"リンドウ"が僅かに眉を上げた。
「本当にその言葉でいいんです?」
「…伝えるべき内容は含めたように思うけど」
「では、そう伝えておきますね。あ、それと一度ミカギさん抜きで話をしたいので、少しの間保護を強めさせてもらうので」
それから再び彼の姿が光に包まれ、一瞬後に元どおりの高位天使の姿がそこに現れる。本来の姿に戻ったヨシュアは柔らかな笑みをミカギに向けた。
「さ、あとはリンドウ次第だ。上手くいくといいね、ハヅキ」
以降ヨシュアがどのようにリンドウと接触したのかはハヅキの察知の範囲外だった。リンドウの言葉を借りてヨシュアが宣言した通り、あれ以来リンドウの波動を感知することすらできない状態になっている。ここが旧新宿であったなら欲するままに権限を行使することもできたが、担当エリア外であるここ渋谷では渋谷管理者が最大の権限行使者となる。まして相手はミカギより長期に渡って渋谷を管理し続けているヨシュアなのだから、リンドウに施したのだという[保護]が解かれない限りはかつてのように感知するのは不可能だろう。せめて姿だけでも見られればと、夕方ごとにRGに降りてリンドウの散策コースを辿っていたが、彼の波動はおろか姿を見かけることすら叶わなかった。
今日もミカギは犬の石像の前の空間に姿を結び、そのまましばらく人の流れを眺めていた。金曜の夕方、人々は奇妙に弾むような調子をつけて足早にスクランブル交差点を流れて行った。18時を知らせるチャイムを耳にしたところで寄りかかっていた石像から身体を起こし、いつもの道を辿ってゆく。
MIYASHITA PARK。キャットストリート。タワレコ前を通って、スペイン坂、センター街、千鳥足会館へ。既に5日目となる散策コースに、やはりリンドウの姿はない。今日も会えないままに終わるのだろうか。いや、仮に姿を見ることができたとしても言葉すら交わせずに終わるのかもしれない。
根拠のない未来の想定を抱いたまま、ミカギは歩き続ける。
永い間、下位次元に対しての干渉はコンポーザーとしての能力に基づいて実施していた。
今のように、相手が察知できないという事態はしばらく体験していないものだった。天使としての使命を受けたばかりの頃だから、人間の基準で考えればかなり長い期間になるだろう。それだけに、再び会うためにはどのように振る舞ったら良いものか判断がつかない。慣れない思案を続けながら歩みを続けていると、流れる雑踏たちの内心の声ばかりが意味もなく意識の中に寄っては、離れていった。
気づけば、視界を白い階段の横線が一面、覆っていた。歩いているうちに宇田川町まで流れ着いていたらしい。コツ、と音を鳴らして一段踏みあがる。コツ、コツと、あの日リンドウと最後に話した場所を目指す。
目線の先、白い石段から連なるように白のスニーカーが二式、並び立っていた。
顔を上げるとそこには、目を細めて自分を見下ろすヨシュアの姿。その隣に、片足に体重を預けて静かに立ちすくんでいるリンドウの姿があった。
「……リンドウ」
思わず口にした言葉に、ヨシュアだけがクスリと笑みをこぼした。
「良かったね、リンドウ。彼はちゃんと君を探しに来てくれたようだよ」
「え?どこかにミカギさんがいるんですか?」
「あぁそうか」
朗らかに隣に語りかけていたヨシュアが、再びミカギへと目線を下ろす。
「待ち人くんの希望もあることだし、解除してあげないとね」
パチン、と指が鳴ったとたんに二人と一人を隔てる空間が歪み、景色が揺らいだ。それが元に戻った瞬間、リンドウの目が大きく見開かれる。
「ミカギさんっ!?」
ミカギはしばらく言葉に詰まったのち、笑みを深くして応えた。
「こんにちは、リンドウ。久しぶり」
「ミカギさん!良かった……」
リンドウは階段をミカギの目の前まで軽やかに駆け下りた。二段を跨いでほとんど同じ目線になったところで足を止め、真っ直ぐに目線を合わせる。
「俺…RGに戻ってからミカギさんどこ行ったかなって気になってて…だからまた声かけて貰って、それから1ヶ月くらい一緒に出歩けて飯食べたりして、本当に嬉しかったんです。流石にあの地下室から出してもらえなかった1週間は"帰りたい、皆に会いたい"ってそればっか考えてたんですけど。でもその後またミカギさんに会えなくなって…寂しかった。ずっと、ミカギさんとまた一緒に出歩けたらって、思ってました」
時折留まりながらも続けられる言葉に、うん、と一つだけ、ミカギは相槌を返す。
「今日、早めに授業終わったんで渋谷来てたんですけど…そこでヨシュアさんに会って、伝言貰って。ここで待ってれば来るかもって言われて一緒に待ってたんです。今、俺すごく嬉しいです。ミカギさんが俺を探してくれたことも、こ、好意…を持って下さった…ことも。何よりこうしてまた会えたことが」
彼の言葉はそこで止まった。見れば、彼の頬の辺りが夕陽に照らされて少し赤みを帯びていた。
「僕もだよ、リンドウ。それから、あの時は申し訳なかった。皆から引き離して、寂しい思いをさせたんだろうね。電波が入らなくて不便だっただろうし」
「それは大丈夫ですって」
彼の声には少しだけ、可笑しがるような調子が含まれていた。
「分かってもらえたならいいんです。……また、たまにお会いできたら嬉しいんですけど…良いでしょうか」
差し出された白い手をミカギは黙って見つめる。空気が止まり、リンドウの表情に僅かな陰が差す。見かねたようにヨシュアが含みのある笑みを浮かべ、「お節介をしてあげようかな」と間を取り持った。
「そう言う時は「喜んで」って手を取るんだよ、ハヅキ」
「…喜んで。また渋谷を案内してくれると嬉しいのだけど」
「こちらこそ、喜んで。もう夕方ですけど、今からでもちょっとだけ歩きませんか」
「僕は構わない」
了承を聞いたリンドウは柔らかな微笑みを返し、握る掌の力を少しだけ強めた。
「ありがとうございます。じゃ、行きましょう」
暖かな体温が伝わる。その皮膚の奥で一定のテンポを刻む脈動までも。しばらく温度と脈動を繋げたまま、やがて二人は躊躇いがちに足を踏み出す。
「今度はちゃんとやるんだよ。行ってらっしゃい、ハヅキ、リンドウ」
ヨシュアは穏やかな微笑みを浮かべ、日暮れ時の宇田川町階段を下ってゆく二人の後ろ姿を静かに見送った。