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    p3neru

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    p3neru

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    最終回後、キョウダイそれぞれと天凡ラの話
    ⚠捏造多め

    流れ星は過ぎ去った「あ、」

    目の前の影に、レイジロウの足が思わず固まる。僅かに怯えたその瞳に映るのは、偶然通りがかったであろうラッキーだった。硬直したレイジロウを冷たい目が見下ろしている。そこに以前のような暖かさがないことは理解していたが、改めて目の辺りにすると、どうしようもなく寂しくなる。どうにか絞り出した声はかすれていて、眼の前の彼は僅かに眉を歪める。返事が返ってくることもなく、広い廊下が静寂に包まれた。じっと見つめるラッキーの視線に気圧されながらも、もう一度口を開く。

    「ラッキー、あの、」
    「残念だけど」

    弱々しく切り出した言葉が遮られる。温度のないその響きに思わずびくりと肩を震わせた。

    「ぼくは優しいだけのあれとは違う。君に優しくしたりなんかしない。だから、いつまでもつきまとうのはやめてくれる?」

    口元に薄っすらと笑みを浮かべながらも、父と同じ瞳が不快だとでもいいたげに細められていた。はっきりとした拒絶の言葉に、レイジロウは思わず手元の人形を抱きしめる力を強めた。自分に優しくしてくれた、物置から見つけてくれた彼がいなくなったことはわかっていた。それでも、もしかしたら、なんて願ってしまっていたけれども。彼の演奏は、笑い方は、喋り方は、表情は、その瞳も、家路を弾いてくれた君とはなにもかも違っていた。

    「…そういうことだから。」

    うつむいてしまったオレンジ色の頭を一瞥して、ラッキーは背を向ける。一歩踏み出した途端、強い力に腕を引かれて、思わずその場に踏みとどまった。

    「ちょっと、」
    「それでもいいよ、僕はどんなラッキーも大好き。」

    睨みつけてくる視線に怯むことなく、夕焼け色の瞳がまっすぐにラッキーを見つめる。レイジロウにとって、今の彼が全く怖くないのかと言われれば嘘になる。それでもこれだけは伝えなければいけないと思った。色んな感情が混ざり合って今にも溢れそうになる涙を必今だけでも必死に抑え込んで、ぐしゃぐしゃの歪な笑みを浮かべる。

    「優しくなくても、僕にとってラッキーはラッキーだから。」

    必死に紡がれた声はひどく震えていた。力強く握られた腕から、ラッキーの冷えた手にじんわりと温度が伝わる。泣きだしそうに目元を歪ませながらも笑うレイジロウから、何故か視線をそらせなかった。あなたは安物の優しさに盲目になっているだけ、そのはずなのに、そう一蹴してしまえばいいだけなのに。なぜだか、その名前を呼んでみたくなった。

    『ひどいことを言わないで!レイジロウに優しくしなきゃだめだよ!』

    忘れかけていた煩わしい良心の声が聞こえる。白装束の幻覚が、相変わらずの張り付いた笑みを浮かべて何かを訴えていた。ノイズのように責め立て続ける声に思考が引き戻されて、開きかけていた口を閉ざす。

    「あっそ」

    手を乱雑に振り払って、今度こそ、ラッキーは振り返ることなく立ち去ってしまう。見つめる長い廊下の先に足音が消えていって、廊下には庭で鳴く鳥の声だけが響いた。一人残されたレイジロウは母が残してくれた星型の人形に頬を寄せる。抑えていた涙がぽろぽろと落ちて、僅かにくすんだ生地の色を濃くしていった。長年共にいたぬいぐるみは所々汚れて、破けて、その度に修理を繰り返してきた。これ以上汚したくないのにと考える頭とは裏腹に涙が止まらない。
    優しくないを選択したラッキーのことを嫌いになるわけがない。どんなラッキーも大好きだという気持ちが変わることはない。それでも、
    瞑った瞼の裏に浮かぶのは、閉じ込められた自分を見つけてくれた彼の笑顔。そして母の寝台の前で泣く小さく丸まった背中。あの夏の日からずっと後悔の形をとって目の裏に残り続けている。

     あの時、一人にしてごめんね、ラッキー。

    誰にも気づかれることなく、一人ぼっちで行かせてしまった彼への懺悔が嗚咽となって溢れる。どこにも行き場のないその後悔は、涙とともにカーペットに吸い込まれた。

    ☆☆☆

    とあるホテルの一室、肌触りの良いシーツに寝転びながら、メロリはぼんやりとテレビニュースを見つめていた。画面の中では生真面目そうなキャスターが社会情勢を伝えている。淡々と続けられるニュースは退屈だが、1日出歩いた疲労感からチャンネルを変える気も起きなかった。キャスターの声に混じって、ふんふんと調子のいい鼻歌が聞こえてくる。疲れ切った足を投げ出した先に目を向ければ、ミーミンが楽しそうに買ったものを広げていた。床に散らばるのは、漢字が書かれたTシャツに、虹色に輝きながら踊るぬいぐるみに、少し子供っぽいビーズのアクセサリーたち。次から次へと並べられる摩訶不思議な雑貨たちは、店でも開けそうな勢いだった。

    『…次のニュースです。噂の“音上の7人目”がついにお披露目です!』

    興奮気味に伝えられた名前に反射的に顔をあげる、画面は見知っているはずの後輩の姿が映される。海外のコンクールでピアノを演奏する彼、その指が鍵盤を叩く度に、画面越しに目にしたことのないファンタジーが現れる。今まで何度も聞いてきたのと同じ、ミス一つない、完璧な音上の天才による演奏だった。メロリは思わず身を起こして画面を見つめる。この短期間ではありえないほどの上達している、彼は天才ではなかったから音上楽音に捨てられたのではなかったのか。動揺する思考に、金属が床にぶつかる甲高い音が響く、視線を下げれば緑色の頭がわなわなと震えていた。ぽとりと、手が6本ある謎の生き物の置物を取り落とした彼女は、画面を見上げて唇を震わせる。あ、来る。そう思ったメロリはとっさに両手で耳を塞いだ。

    「どういうこと~~~~~~!?」

    ・・・・・・・・

    ぎゅうぎゅうと苦しいくらいにしがみつくミーミンの髪を撫でてやる。混乱をあらわにして散々色々と騒いでいたが、メロリがそのふわふわとした触り心地を楽しんでいる内に少しずつ落ち着きを取り戻していったようだ。抱きついたままではあるが、大人しくニュースに集中し始めた。未だに少しキンキンする頭を抑えながら、メロリはずっと抱いていた疑問を頭一つ上の横顔に尋ねる。

    「ラッキーくんのこと、知らなかったの?」
    「知らな~~~い。パパンからの連絡は全部無視してるもん~。ほんとびっくり~~。」
    「そう。」

    家族のこととはいえ、家出している以上、音上に起こったことを知らないのも無理はない。音上ファンタあたりに連絡を取れば教えてくれたかもしれないが、彼女の場合、自分から興味を持って知ろうとする質でもないのだし。
    テレビの向こうでは、演奏を終えた彼が割れんばかりの喝采を浴びている。その顔に浮かぶのは見慣れたはにかみ笑いではなく、どこか冷たい、自身に満ちた満足げな笑みだった。かつての面影を感じさせない姿を見て、フルスちゃんが言っていたのはこのことかと、数日前の出来事を思い返した。

    ミーミンと旅行に行く数日前、所要のため音高に顔を出したメロリは、DADA先生からラッキーの退学を知らされた。彼女なりにかわいがっていた後輩の突然の退学に、当然驚き、理由を尋ねたものの、兄弟子にあたる彼は「俺にもどうなってるのか分からん。」と苦々しげに顔を歪めるだけだった。

    「山中先輩、ラッキーくんが…」

    様子を見に行った時、もう一人の後輩はラッキーくんのことを聞いた途端、ぽろぽろと泣き出し始めた。

    「ラッキーくん、辞める前に一度だけ学校に来たんです。でも、なんだか全くの別人みたいで、私の知ってるラッキーくんが、いなくなっちゃたみたいで…」

    嗚咽混じりに彼女はそう言っていた。正直、あの時は意味がよく分からなかったが、こうして彼の姿を見てようやく理解できた。外見は一緒なのに、中身がまるごと入れ替わってしまったみたい。画面の彼は取材陣に囲まれてひどく面倒くさそうに顔を顰めている。その口から発する声は聞き慣れたものなのに、話し方も口調も、立ち振舞も全て記憶とはかけ離れていた。

    『…別に、元いた場所に戻っただけ。ぼくはピアノが弾ければなんでもいい。』

    矢継ぎ早に飛んでくる記者からの質問に一言だけ答えると、画面の中の彼はこちらに背を向けてしまう。その背中にライトが向けられ、色々な声が投げかけられるが、振り返ることもなく人混みを割って消えていった。

    「…そう、ラッキーはそうすることにしたのね~。」

    ずっと黙っていたミーミンがポツリと呟く。その横顔に目を向ければ、長いまつげが伏せられて目元に影を落としていた。何にも囚われることのない自由な彼女だけれども、キョウダイのことは、特に母親を失ったラッキーくんの事は何かと気にかけていたことを、メロリは知っていた。

    「…さみしい?」
    「ん~、ちょっとだけそうかも~~。私はラッキーが選ばなかったラッキーも大好きだもん~。」

    ベットから投げ出した足がゆらゆら揺れている。いつか自分が沈んだ、あの海を渡りきった白い足。

    「でも~、ラッキーがそれを選ぶことで自由に、楽しくできているなら、私はそれでいいかな~って思うの~。私はラッキーの自由を応援するわ~。」

    声は明るいが、その口元にはほんの少しさみしげな微笑みを浮かべている。きっと彼女の目には、あの時、壇上で手を取り合った弟の姿が映っているのだろうと思った。じっと足を見つめていた視線を液晶に目を向けたミーミンは、それに、と明るく付け加える。

    「それに~、私はあの海と島を出してくれたこと、ぜったい忘れないも~ん。私がず~っと持っていれば、いつかラッキーが捨てたものが必要になった時、助けてあげられるでしょ~?」

    そう言って、彼女はひまわりのような曇りのない眩しい笑顔をこちらに見せた。少しだけ、その表情が記憶の中のラッキーくんの笑顔に重なった。

    「…うん、そうだね。」
    「えへへ、でしょ~!」

    ニュースはいつの間にか天気コーナーに移り、彼の姿は映らなくなっていた。予報によれば、明日も十分に旅行を楽しめそうだ。天気マークの背景に映る飛行機を見つけてて、にこにこと無邪気に笑っていた彼女がはしゃいだ声を上げる。

    「ね、メロリン。今度一緒ラッキーに会いに行こ~!私ラッキーと話したいこといっぱいあるの~~。」

    言うと思った。ラッキーくんは嫌がるだろうが、メロリが遠慮してやる道理はない。

    「いいよ。」
    「やった~~!!」

    そう言ってまた嬉しそうに抱きついてくる。いつにしよっか~?と急かす声に、ちょっとまってね、と断ってスケジュール帳を探す。どうやらこの自由なお姫様は、どんなラッキーくんも一人にしておく気はないらしい。再会したときの彼の顔を想像して、メロリはくすりと意地の悪い笑みを浮かべた。

    ☆☆☆

    酷いことをしたという自覚はあった。選択への後悔はないが、いつか再会した時、あいつから責められても文句は言えないと思っていた。

    その日はデートの予定もない久々の休日だった。日課の筋トレを終え、次のコンサートで演奏する曲の練習もして自室に戻ろうとした時、偶々ラッキーのマネージャーが向こうから歩いてくるのが見えた。その腕には頭が隠れそうなほど大きなダンボール箱を抱えていて、何となく気になって声をかけてしまった。

    「あー、ソレ、どうしたの?」
    「ファンタ坊ちゃま!すみません、道を塞いでしまって。すぐにどきますので…」
    「いいって、いいって。どーせまたラッキーの無茶振りだろ。」
    「えぇと、その…、坊ちゃまが学生寮に残された荷物が日本から送られてきたのですが、全て不要だから処分しろとのことでして…。」

    マネージャーの途方に暮れたような声に、なるほどと頭をかく。そういえばこの家に帰ってきたときのラッキーは何も持っていなかった。てっきり使用人にでも運ばせていると思っていたが、まさか手ぶらで来ていたとは。目の前の黒服が抱える荷物はそう多くはない、大きな箱と、小さな箱が一つずつ。たったそれだけの物すら、もう残しておく気もないのだと気づいて、なんとなく苛つく自分がいた。

    「それ、オレが運んどくよ。」
    「そんな!ファンタ坊ちゃまにそのようなことさせるわけには…!」
    「まーまー。あいつの次の予定、確か時間ずらせないやつだろ。これ運んで分別までしてたら確実に遅れると思うケド。」

    隠されていた7人目として世間からの注目を集めているラッキーは、音上としてデビューするなりあちらこちらから引っ張りだこ状態だ。今日もまた外国での仕事があると聞いている、確か王室関係者も顔を見せるような大きなイベントだった。屋敷に来て日が浅いマネージャーでは、出発までにこの荷物は片付けるのは無理だろう。

    「うっ…それは、」
    「じゃ、そういうコトで。あ、ラッキーには言うなよー、あいつオレに荷物触られるの嫌がりそうだし。」

    何事かオロオロと言い淀んでいる間に、ダンボールをひょいと奪い取ってしまう。見た目ほど中身は重くないようで、片手でも軽々と持ち上げられた。気の弱そうなマネージャーはしばらく迷う素振りを見せていたが、よほど時間が差し迫っていたのだろう、何度もお辞儀をしながら気難しい天才を迎えに行った。その背中を見送って、ファンタも荷物を抱え直す。その足はゴミ捨て場がある裏口とは逆方向の自室に向かっていた。

    誰にも出くわさないよう態と遠回りをして、自室のドアを開ける。念のため、入ってすぐに鍵も締めた。ノックもなしに入ってくる奴なんて、既に家を出たミーミンぐらいしかいないけれど。
    そうして、ようやく抱えていた荷物を部屋の中央におろす。男兄弟とはいえ、人の荷物を勝手に開けるなんて、あまり褒められたことではない。何やってんだろなと、思わず自嘲してしまう。それでも、あいつが過去の自分を捨ててしまおうとしているようで、無性に腹立たしくなって思わず持ち帰ってきてしまった。
    長旅でヘロヘロになった伝票を破いて、まずは大きい方のダンボールを開封する。びりびりと蓋を開けば、わずかに嗅ぎなれない洗剤の匂いがした。中には几帳面にたたまれた洋服と、その上に『ラッキーくんへ』と書かれた一通の白い封筒。手にとって裏返せば、文化祭で知り合った少女の名が几帳面な文字で綴られていた。流石に開封して読むわけにも行かず、そっと机の上に避ける。とりあえず下の服をひとつひとつ広げてみる。高校のブレザーと制服に、ラッキーの体躯よりも大きめのジャケットとズボン、そしてシンプルなパーカーに、シャツ、安っぽい寝巻き。胸元に大きく『園田』と書かれた体操服まで出てきて、いつのだよ、と思わず呆れてしまった。どんどん中身を取り出していけば、かさばる割に量は少ないようで、すぐに底にたどり着く。最後の服を取り出そうとして、記憶に新しいデザインに思わず手が止まった。レイジロウがプレゼントしたという、底に残っていたのは黒一色のタートルネックとズボンのセットアップ。忘れもしないあの冬のイベントで、彼が着ていたものだった。

    ラッキーがこの家に帰ってきた日のことは、よく覚えている。窓ガラス越しの青空が眩しい夏の日だった。

    「ラッキー、戻ってきたから。」

    白い頬を真っ赤に腫らした父親は、日本から戻ってくるなりそう言った。言葉通り、その背にラッキーを連れて。混乱と動揺、もしくは不快感を露わにするキョウダイの間で、ファンタはじっと彼を見つめていた。自分があいつにしたことが改めて突きつけられたようで、心の奥底に漂っていた罪悪感がじわじわと広がる。どこか現実味のない、スクリーン越しのような光景の中、ほんの半年顔を合わせなかった弟は、12年ぶりに再会したときよりも別人のように見えた。感情の読み取れない笑みを浮かべるソイツに、あの冬の日に涙を浮かべていた頼りない姿が重なる。自分が言えたことではないとわかっていても、お前はそこまでしないと生きられなかったのかと、思い出の中の面影に問いかけたくなった。

    あらかた中身を確認し終えて、2つ目の箱に手を伸ばす。後でまとめて片付けようと、服はそのあたりに広げておいた。2つ目の箱は1箱目よりもひと回り小さく、重量感がある。ガムテープをカッターで切り裂けば、雑貨や書籍などがきれいに詰められていた。とりあえず目についた楽譜を手に取ってみる。学校のテキストでもあったのだろう、練習曲が集められた楽譜は所々が破れかけて、蛍光色の付箋やメモ書きが所狭しと書かれていた。箱には他にも様々な楽譜や書籍が入っている。コンクール用の楽譜、記名された教科書とノート、数冊のはやりものの漫画本、ラッキーの学生生活がなんとなく窺えるようなラインナップを一つずつ箱の外に積み上げていく。
    ふと、ダンボールの隅の方に見覚えのあるものを見つけて手を止めた。深い紺色の表面に、きらびやかな宝石が模られた金属の缶。それは、いつだか父親が気まぐれに買ってきた洋菓子の入っていた缶で、キョウダイみんなが気に入って、それぞれ思い思いの宝物を入れるのに使っていた。ファンタ自身もおもちゃの宝石や母親が作ってくれた押し花などを入れていたはずだ、多分もう箱ごと無くなってしまったけれども。懐かしい装飾を眺めているうちに、そういえば子供の頃、ラッキーの缶の中身は見たことが無かったことに気づいた。自分を含めて、他のキョウダイたちは気まぐれに中身を自慢したり、取り出して眺めたりしていたが、ラッキーは少なくともファンタが見ている前では箱を開けていなかった。心の中で一応詫びて、蓋に手をかける。長いこと開けていなかったようで少々硬かったが、力を込めれば僅かにざらついた音を立てて蓋が外れた。
    中に入っていたものは、見覚えのある懐かしい品ばかりだった。片手ほどの缶の中には、ミニカーやオーロラ色の折り紙などが所狭しと詰め込まれている。どれもこれも、子供の頃に日本の家で遊んでいたものだ。その下からはレイジロウがプレゼントした星型の折り紙に、ミーミンが勝手にラッキーの髪を結ぶのに使ったラメがたっぷりついたリボン、ラッキー自身が描いたであろうキョウダイの似顔絵が出てくる。箱の底の方に転がっていたプラスチックの宝石は、ファンタが気まぐれにあげたものだ。つまみ上げて窓から差し込む光にかざせば、薄紫の光が反射して眩しく瞳を突き刺す。まさか、未だに持っているとは思わなかった。
    缶の中にはそうした小物のほかにも、収納しやすいように小さく折りたたまれた楽譜もいくつか入っていた。しわしわになったそれを広げれば、子供の頃にキョウダイでよく弾いた練習曲がでてくる、もちろん、あいつが好きだったきらきら星も。楽譜の隅には幼かった自分たちの落書きや仲睦まじいやりとりが残されていて、何となく、心臓のあたりが重苦しくなった
    これ以上はあいつにも悪いと今更ながらに思って、缶に中身を戻していく。避けていた小物を元の位置に戻そうと箱に手を差入れた時、指先に乾いた小さな紙の感触が当たった。楽譜だろうかと気になって取り出したそれは、色紙をくしゃくしゃに小さく丸めたものだった。箱の中身はどれも子供なりに丁寧に扱っていた様子なのに、その中でたったひとつまるでゴミのように丸めて詰め込まれたそれがどうにも引っかかる。これが最後だからと心のなかで言い訳をして、小さく丸め込まれた紙を破かないよう細心の注意を払って広げていけば、徐々に長方形をかたどっていく。今まで見てきたラッキーの宝物の中で唯一見覚えのないものだ、形からして短冊だろうか。できる限りしわを伸ばし、反対側も確認しようと裏返した時、書かれていた文字に指先が凍りついた。

    『みんなとまたあえますように  そのだラッキー』

    子供らしい下手くそな字で書かれた短冊。間違いなく、両親が別れた後に書いたものだろう。ただでさえ歪な文字は、短冊自体を丸めたときのしわのせいでさらに形が歪んでいて、よくみれば、名前のあたりは丸く滲んでいた。学校のイベントか何かで書いたはいいものの飾ることはできずに丸めて、かといって捨てることもできずにそっと箱の中に入れたのだろう。一人ぼっちの幼い弟が短冊を処分する様子が目に浮かぶような気がした。想像の中の弟の姿にあの瞳が重なって、何もおかしくないのに、思わず乾いた笑いが溢れる。

    「そんな大事なもん、捨てんなよ。」

    あのラッキーを捨てさせた原因のひとつであろう自分が言えたことではないかもしれない、それでも、文句を言わずにはいられなかった。防音設備の整った部屋が、ファンタの小さな呟きを飲み込んで消していく。どうにもならないやるせなさを感じて、捨てたられたものに囲まれながら、一人部屋の真ん中に立ち尽くした。

    ☆☆☆

    小さなざわめきや足音が反響して響く。耳を澄ませば、音上の演奏への期待の声がいくつも聞こえてくる、どうやら今日のコンサートも満員のようだ。
    ソラチカが座っているのは隅の方の一般席。もちろん音上の人間として関係者席を取ることもできたのだが、好奇の目を避けるためにはこちらの方が都合も良かった。誰も音上ソラチカが一般席にいるとは思わない。おまけにいつものマフラーに顔を埋めて、帽子を深めに被ってしまえば、気づかれることはほぼなくなる。そうやって静かに目を閉じて開演を待っていると、空いていた隣の方から何やら衣擦れの音がした。隣の客が来たのかと、薄目を開けてそちらを見れば、見覚えのある赤色が目に入った。

    「あれ、ソラチカくん?」
    「あぁ、日野さんか。」

    ぱちぱちと目を丸くしていたのは、弟の先輩でもあり、あのイベントで対戦した人。こうして顔を合わせるのは北海道以来になる。久しぶりー!と向日葵のような笑顔を浮かべて軽く手を振った彼は、ぼすりと椅子に座り込んだ。彼なりに周りの目を気にしたのだろう、豪快な身振りの割に立てる音は静かだった。

    「日野さんもラッキーの演奏を聞きに?」
    「そうそう!あのラッキーくんのこと、もっと勉強しようと思ってさ。」

    研究旅行みたいなもんだな!と歯を見せて笑う。その手には荘厳な劇場に似つかわしくない使い込まれたノートと鉛筆が握られていた。あのノート全部にラッキーのことが書いてあるのだろうか。彼の演奏を聞くためにわざわざ日本からフランスに飛んでくるあたりはさすがの情熱だ。
    正直言って少し驚いた。以前までのラッキーを知る人は彼にどう接していいかわからない様子だったし、過去のラッキーに再び会いたがる人も少なくなかった。血の繋がったキョウダイの中にすら、彼を受け入れきれてない者もいる。かつてのあの子をよく知る中で、ここまで躊躇いもなくラッキーの演奏を聞きに来たという人は初めてのように思えた。
    会場を煌々と照らしていたシャンデリアの灯りが落とされ、さざめくような客席のざわめきが消える。しばらくして、舞台袖から上等な衣装を身に纏ったラッキーが姿を現すと、大きな拍手が彼を出迎えた。相変わらず彼のコンサートはいつも異様な熱気に包まれている、ソラチカ自身も人のことは言えないけれども。観客を気にすることもなく舞台中央に歩み出た彼は、形式通りのお辞儀をして、ぐるりと会場を一瞥する。その視線がすぐに観客の中にソラチカを見つけて、ゆるく笑みを浮かべた。けれどすぐに隣に座る運に気づいて、その表情が凍りつく。一瞬、冷たく目を細めると、何事もなかったかのように振り返って、ピアノの前に腰を下ろした。

    「あれ、もしかして俺嫌われてる?」
    「そうかもしれないね。」
    「まじか、俺なんかし…、あ。」

    ただでさえ彼は、以前からの知り合いというだけでも不快そうにする。音高で出会った人々のことは特に。それに加えて運はあの日、天才の彼を押し込めた原因のひとつでもある。 間違いなく、良い感情は抱いていないだろう。訝しげな顔をしていた学びの天才と呼ばれる彼もそのことに気づいたようで、あー、と気の抜けた声を出しながら遠い目をしていた。
    舞台上のラッキーは客席が存在しないかのように、ただまっすぐにピアノに向き合う。キョウダイの誰とも違う瞳に眼前の鍵盤を映して、迷うこと無く手を伸ばした。そうして最初の一音が空気を震わせた瞬間、世界が切り替わる。鮮やかな色彩で彩られた天井画が、古風な柱の彫刻が、宙に浮かんだ惑星たちに隠されていく。ふわふわと漂うそれらは、演奏のテンポに合わせてゆるやか軌道を描いている。客席の一人がそれに触れようとして、叶うこと無く指がすり抜けた。穏やかな旋律から始まった演奏は、曲が移り変わるたびにどんどんと勢いを増していく。小さなミスのひとつもない、完璧な演奏。その音は会場の端にまでよく響いて、地の底から沸き立つかのように空気を震わせた。惑星の隙間から覗くラッキーの横顔は満足げな笑みを浮かべている。演奏はまるっきり変わったが、ピアノを弾いているときの表情は不思議と以前とは変わらないような気がした。そうして演奏は終盤に差し掛かり、鍵盤の上で激しく指が跳ねる。ソラチカはわずかに背もたれから身を起こして、耳に神経を集中させる。最後の小節に差し掛かった時、響き渡るピアノの音の中に、それが聞こえた。

    「■■■、■■きゃ■■■よ!」

    声は相変わらず小さくて、演奏とそこから聞こえる彼の声にほとんどかき消されてしまい、何を言っているのか分からなかった。彼と対面を果たしてから、いつからか聞こえるようになった声。それは酷く不明瞭で、会話が成立したこともないけれど、そこにいるのはあの冬に別れたきりのあの子なのだろうと確信していた。耳を澄まし続けても、再びそれが聞こえることも無く演奏は終わり、会場が割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。退屈そうに会場を見回したラッキーは、最後にソラチカに微笑みかけて舞台を後にした。

    「いやー、やっぱすげーな!何なんだあの惑星、訳わかんねー!」

    コンサート終了後もざわめきが残る会場で、運は興奮気味にまくしたてる。その言葉は、ソラチカに向けているというよりも、半ば独り言のようで、終演直後からこちらを見ることもなく、ノートに覆いかぶさるような姿勢で何かを書きなぐっていた。ぶつぶつと呟いては、鉛筆を走らせ、時折手が止まったかと思えば、目に見えない点を線でつなぐように指を動かして、そしてまたすぐに動かし始める。悩むような素振りを見せながらも、照明の影になったその瞳は爛々と輝いていた。

    「楽しそうだね。」
    「そりゃもちろん!意味分かんなすぎて面白いわ。また一から参考文献洗い出さないとなー。」
    「そう。…ねぇ、あの子のこと、気づいた?」
    「あぁ、天才じゃないラッキーくんのことか?」

    なんでもないことのように返されて、ほんの少し目を見開く。自分で聞いておきながらも、あの子に気づく人がいるとは思っても見なかった。

    「あなたにも聞こえてたの?」
    「いんや。ただ前にラッキーくんから聞いてた天才の状況を考えたら、同じとこにいるのかなーって思ってた。ソラチカくんがそういうってことは、やっぱいるんだな。」

    いつの間にか手を止めていた彼は、舞台を見つめて目を細める。その表情はひどく冷静で、先程の騒々しいほどの快活さが鳴りを潜めていた。視線の先の薄暗くなった舞台では、照明が光の筋を落として、その中に大きなピアノが佇む。磨き上げられた黒く艷やかな表面は、静かな水面のようにその光を反射している。演奏者がいなくなり、光の中に取り残されたそれは人々に忘れ去られてしまったようで、なぜだか今日は物悲しく見えた。少なくなった観客たちの足音を遠くに聞きながら、この感傷じみたものを表すことのできる言葉を探る。

    「俺はね、彼は、ラッキーがエゴを自覚して、それを選ぶようになった先だと思ってたんだ。だからこれまでのラッキーがあそこにいることを知ったとき、少し…。」

    そこまで言ってゆるく頭を振る。いや、違う。本当は気づいていた。彼が選ばれれば、あの暗闇に閉じ込められるのはあの子だということに。それでも自身の好奇心から、彼に会いたいという思いから、あの子に、あの体に天才を選ばせようとした。我ながら酷く身勝手だ、そう思ったところで彼への思いを止める気はなかったのだが。けれどピアノから聞こえてきたあの子の声は、ソラチカの身勝手を攻めるどころか、ただ天才を責め立て、善を説くだけの空虚なものだった。

    「あのラッキーくんとは話すのか?」
    「ううん。何度か話しかけてはみたけど、返事があったことはないかな。それに声をかけただけでも彼も嫌がるしね。」

    ラッキーはソラチカには比較的温和な表情を見せてくれるが、ピアノの中のあの子に一音でも話しかければ、すぐに眉根を寄せて不快感を露わにする。あまりにしつこくすると演奏自体をやめてしまうので、結局一度も会話らしいものは成立していない。
    そう伝えれば、がっくりと少々大げさなほどに項垂れた。

    「そっかー、残念。ソラチカくんなら話せてると思ってたんだけど。んー、どうすっかな~。」
    「日野さんは、あの子と話したいの?」
    「まーな!」

    再び前のめりになって、ノートに向き合っていた頭ががばりと持ち上がる。あちらこちらに跳ねた前髪から覗く照れくさそうな笑顔が、ソラチカの問いに元気よく答えた。

    「今の天才を学ぶためにも、両方のラッキーくんのことをもっと知らないと意味ないからな!」

    それに、と言葉を続けながら鉛筆を虚空に揺らす。酷使されて丸くなった芯は、ソラチカに見えない何かを宙に描きだしていた。

    「あのイベントのとき、ラッキーくんに間違った推論教えちゃったからな。その穴埋め的な意味もある。」

    鉛筆の芯を見つめていた金色の瞳がぐるりとこちらを向く。先程までの快活さは消え、いっそ恐ろしいほど理性的な瞳がじっとソラチカを見つめる。猫に似た瞳孔がこちらの一挙一動を焼き付けるかのように鋭くこちらを貫いていた。

    「ソラチカくんはどうなんだ?」

    どうなのだろう。正直なところソラチカはラッキーに対する自分の感情がよくわからなくなっていた。ずっとピアノの中にいた彼が肉体を得て、こうしてともに過ごせることは嬉しいし楽しい。彼は間違いなく最高の未知で、一緒にいるといつも新しい発見ができる。間違いなく満ち足りているし満足している。だけれどどこか、なにかほんの少しが欠けているような気がするのだ。時折あの、溺れる演奏を思い出す。息苦しく、体を沈めていく深い海。君が居たのは、あの子が今居るところもそんな場所だったのだろうか。記憶の中で彼は人の良さそうな微笑みばかり浮かべていて、ピアノから聞こえる一方的な声とはうまく結びつけられない。暗いその場所で、どんな表情で天才の君に向かって語りかけているんだろう。

    「…そうだね、俺ももう一度話してみたいかな。」

    凪いだ声とは裏腹に、スカイブルーの瞳は危なげなほど無邪気に輝いている。その視線をあえて受け流して、そっか、と気の抜けた返事が返された。

    「日野さんはラッキーを再現する気なんだよね。」
    「ん、まぁな。」
    「その時は俺のこと呼んでよ。俺もラッキーと対決してみたいし、あの子と話すにもそれが一番可能性がある気がする。」

    なんとなくだけど、と付け加えながら持っていたプログラムの裏側にペンを走らせる。マネージャーの連絡先を書いて渡せば、呆気にとられた様子で連絡先とソラチカの顔を交互に見ていた。日野の再現は、今はまだソラチカのファンタジーにも及ばないが、きっとすぐに学んでしまうだろう。ラッキーも父さんのこともいずれ完璧に再現してしまう。ラッキーの演奏を見つめていた彼の目はなんとなくそう確信させた。

    「俺はね、ラッキーたちが何を選んで、その先でどんな演奏をするのか知りたくてたまらないんだ。」

    一つの体の中の正反対の彼らは決別するのか、それとも。どちらにしても面白い演奏をしてくれるはずだと断言できる。連絡、楽しみにしているからと念を押し、席を立った。後ろから焦ったような声がしたが、聞き流して通路を進む。携帯を震わせたラッキーからの急かすテキストに頬を緩めて、「今から行くよ」と返してポケットに仕舞った。すっかり静まったホールに弾んだリズムの足音が響く。天井を飛び回る天使の絵のように、今なら自由に空を飛べる気がした。

    ☆☆☆

    「その曲は、次のコンクールの曲か?」

    背後から聞こえてきた声に振り返れば、入り口からドンが顔をのぞかせている。たまたま通りがかったのだろう、その手にはガラスの器に盛られた氷菓子が乗っていた。

    「別に、気が向いたから弾いてただけ。」

    素っ気ない返事、話は終わりとばかりに視線も鍵盤に戻して演奏を続ける。確かに明日も仕事が入っていたが、練習なんて必要ない。この身に宿る天才は楽譜を見ずとも完璧な演奏を可能にしている、目隠しをしてもミスなく弾けるだろう、やったことも今後やる気もないが。ラッキーの冷たい威圧感に気づかないかのように、ドンは皿を持ったまま部屋に入ってくる。適当なテーブルに菓子を置くと、ピアノに置かれた楽譜を横から覗き込んできた。不快感を露わにして睨みあげても、なにやらふんふんと頷くばかりでこちらを気にする様子もない。

    「いい演奏だ。だが、元になっているポール・ヴェルレーヌの詩を考えると、今の小節はもう少し穏やかに音を伸ばすべきではないか?ジャン=アントワーヌ・ヴァトーの作品も考えると、もう少し鍵盤の押し込みも柔らかく、ううむ」

    ラッキーに語りかけているような、もしくは内省しているかのようにぶつぶつと呟きだす。この場に聴衆がいれば間違いなく絶賛されるような演奏だったが、作曲家たちに最上級の敬意を払い、曲に忠実であることをモットーとするドンにとっては気になる点がいくつかあったようだ。ラッキーが弾いていたのはドビュッシーの『月の光』、ヴァトーの絵画をもとに編纂されたヴェルレーヌの詩集に触発されて作曲された作品。仮面舞踏会で踊る華やかな貴族たち、彼らの歌声が月光のなかに溶けていくさまが、絵画と詩、そして音楽でありありと表現されている。眉間に迷路のような皺を寄せる長兄は、ヴァルレーヌの詩とヴァトーの光景、どちらに重きを置くべきか随分と悩んでいるようだった。御苦労なことだと思う。ラッキーにとってはどちらも等しくどうでもいい。作曲者はいちばん最初に曲を作った人でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。絵画や詩のような、曲の礎となったものたちも同様に。作曲家たちがどんな思いを、意味を込めていようと、今その曲を演奏しているのは自分であるし、ラッキーにとって一番正しいのは自分自身の演奏だ。今この曲だって、自分が弾きたいから弾いているだけで、他人の批評など求めていない。つまるところ、頼んでもないのに、曲の表現について横で延々と悩まれるのは不快だった。

    「ねぇ、うるさい。」
    「む、すまない、不快だったか。」
    「当たり前でしょう。さっきから何なんなの、勝手に入ってきて。」

    鍵盤においた手を止めて、じろりと睨みあげれば、きょとんとした瞳が瞬く。何に起こっているのかもよく理解していないようだ、本当に演奏にしか興味が向いていなかったのだろう。

    「あなたも僕を否定したいの?僕の演奏が正しくないとでもいうの?」

    凡才みたいに。口に出さずに心のなかで付け加える。言ったところで首をかしげるだけだろうから。いつものように無視して受け流せばよかったのに、このところどうにも苛立ちを抑えられない。それはだめだと、この間誰かにも言われた、そう言われる回数が増えてから、頭の中に響いていた声が聞こえなくなっていった。それが余計に腹立たしい。ふつふつと腹の底から湧き上がるような衝動があって、にらみつける力が強まる。お前も僕を正しくないと断じる気かと。視線の先の張本人は相変わらずよくわかっていないような顔で、こてりと首をかしげた。

    「いや、全くそんなつもりはないのだが…。そもそも曲の解釈は人それぞれだ、自分の思想を押し付けるつもりはない。」
    「…はぁ?」
    「すまない、演奏の邪魔をしてしまった。解釈は異なるが、自分はラ…ラモーの演奏は素晴らしいと思っている。良ければまた聞かせてほしい。」

    険しい目つきの中に、親愛と同じ演奏家としての敬意を露わにした純粋な瞳で見つめられて、思わずなんとも言えないため息が溢れる。なら最初から口を挟むなと文句を言ってやろうかとも思ったが、どうせ伝わらないのでやめた。そんなことに時間を割くよりもピアノに触れていたい。本当に、どうしようもないくらい純朴で素直な人だと思う、呆れて笑ってしまうほどに。

    「そこの、溶けてるけど?」
    「あっ。」

    ガラスの器の中では薄いシロップ色の液体が揺れている。ドンはすっかり菓子のことが頭から抜けていたようで、器の前で目に見えてしょんぼりと肩を落とした。長時間放置していればそうなるのも当然だろうに。そのうち諦めて新しいのを貰いに行くことに決めたようで、器を片手にとぼとぼと歩き出す。

    「ラ…ラフマニノフの分も取ってくるか?」
    「いらない。」

    ピアノに向き合い直し、振り返ることなく返す。ドンは特に食い下がることもなく、そうか、と頷いて踵を返して行った。何かの残り香を求めようとしないその態度は煩わしくさが少なくていい。なんとなく調子のいい気分のまま、再び鍵盤に指を伸ばす。湖面に浮かぶ波紋のような静謐な音が響くと共に、いつも通り、音上のファンタジーが部屋を支配した。

    そういえば、なぜ自分はあんなふうに弟の演奏に口を出したのだろう。
    再開された演奏を耳にして、ドンはひとり廊下で首を捻る。血を分けたきょうだい達の演奏に意見を持つことは少なからずあれど、求められない限りあんなふうに指摘することはなかった。皆のファンタジーは素晴らしいものだ、自分個人の信念はあっても、それを強制するようなことはしたくない。ならば、さっきはなぜ。
    答えを求めるように半開きのドアを振り返る。隙間から覗くのは演奏を続けるラッキーの背、その隣にぼんやりと影が見えた気がした。何度も演奏の練習を見てほしいとねだっていた、記憶の中と同じ懐かしいその姿。思わず目を瞬かせると、最初からいなかったかのように影は消える。しばらく考え込んだあと、見間違いかと結論づけて、今度こそ廊下をあとにした。

    ☆☆☆

    「うわ」

    毎朝部屋に届けられる新聞を手に取り、一面を飾る写真を見つけて思わず声が漏れた。紙面をまるまる占領しているのはひと音隣のあいつ、世間的には6番目の兄にあたる子ども。高尚ぶった文面はまくし立てるように新たな音上を褒めそやし、快挙、絶賛といった単語がかさついた紙の上で踊る。しばらく文字を目で追っていたが、一面も終わらぬうちにうんざりして新聞を床に放り投げた。そのままごろりとベッドに倒れ込めば、手入れを欠かさない銀髪がベッドカバーの上に広がった。分厚いカーテンを締め切った部屋は薄暗く、ぼんやりと暗く沈んだ天井が視界に入った。床を伝って、階下からピアノの音色が鈍く響く。この家では四六時中ピアノの音が聞こえるが、これはきっとラッキーの演奏だろう。ここに帰ってきてから気まぐれに家中のピアノで耳馴染みのある曲を演奏しているようだが、絶対にきらきら星だけは弾かない。それはまるであの子どもの残り香を振り払い、押し込めるかのようで、いじらしいことだと思う。
    ごろりと寝返りを打つ。頬に当たる繊維の感触がほんの小さな子どもだったときの記憶を呼び起こす。ラッキーの体と同じようにシカトも昔のことをよく覚えている。体験したことも、していないことも、生まれたときのこと、その前のことも。シカトはずっとラッキーという体に生まれたあのこどもの存在を承知していた。凡才が生まれ、天才が舞台から降ろされるのを、蠢くきょうだいのなかでシカトだけが目撃していたのだ。あのこどもは自分をやけに構いたがった、なにかあるたびに優しく微笑みかけたりなんかして。ほかのキョウダイとも関わりたがらない自分をわざわざ心配して手を引いて、邪険にすれば全て自分が悪いかのように謝った。指先に広がる長髪を絡めて、さらりとした感触を楽しむ。この髪にわざわざ触れたがったのだって、父さんと母親だったひとを除けばあいつくらいだ、ちいさな手にブラシを握って、寝癖が付いてるよと眉を下げていた。あの子どもの顔は10年前のものしか思い出せない。ひまわりのような暖かな笑みは、頬を赤く腫らす度に悲痛な作り笑いへと歪んでいった。母親と二人で家を出ていったあの日、シカトは父親についていたのでその顔すら合わせなかった。近頃の父に対する小さな反抗の話は聞き及んでいたが、10年ぶりの再開の時には、凡才というイレギュラーは排除され、あるべき正しい姿に戻ってしまっていた。だからシカトは、だだっ広い屋敷の隅で見つけた、あの泣き顔ばかり思い出す。あれから10年近く生きた先のこどもの顔など、知る由もないのだから。
    思考を打ち切り、脱力していた背中をシーツから持ち上げる。過去のことに思いを馳せているうちに、この部屋にある自分が忘れていた存在を思い出した。それはベッドから遠く、区暗がりに沈んだ角に置かれている。ずっと昔に持ち込んで、以来一度も触れもしなかったもの、幼い頃に弾いたきりの、真っ赤な一台のトイピアノ。白と黒で構成された殺風景な部屋に放置されていたそれは、不思議と記憶よりもくすんで見えた。表面に降り積もった埃をはらって鍵盤を叩けば、特有の鉄琴を叩くような音色が転がりだす。軽快な音とは裏腹に、細い光の筋が差し込むばかりだった部屋が完全な暗闇に閉ざされる。どうやらこの体に宿るファンタジーは、形がピアノに類似したものであれば何でも構わないらしいと、17年付き合って来た中で気がついた。部屋を飲み込んだ暗闇は、音色に合わせて時折蠢くような気配を見せる。実際にはそこに暗闇などはなく、触れることすら叶わない見せかけの幻影でしかない。けれどもシカトはこのファンタジーを辿ったその先にあのこどもが居ると知っている。すべてを否定され、天才によって暗闇に閉じ込められたあのこども。きっと、あの時のように一人ぼっちで泣きじゃくっているのだろう、あるいは善人らしく笑っているかもしれない、いずれその顔を見に行ってやってもいい。ラッキーは凡才に触れられるのを嫌がるだろうが、自分には関係のないことだ。暗闇の先へ目を凝らす、遠い昔に植木の影で見つけた縮こまった背中が目に浮かぶようだった。
    父に見捨てられ、キョウダイと引き離され、母に先立たれて、自分すら認められなかった子ども。哀れで可哀想な、たった一人の僕の弟。

    僕たちを求めなければそのまま生きていけただろうに。

    ☆☆☆

    鏡の中の自分を見つめる。ほんの一年ほどしかつけていなかったのに、大振りなピアスを外した耳はなんだか違和感があった。ピアスホールは残っているが、この程度であれば直に閉じるだろう。レイジロウにはお揃いのピアスを付けないかと誘われたが、なんとなく以前のように何もつけないままでいたかった。外したばかりのピアスをケースに戻し、指輪と一緒に鏡台にそっと置く。窓から差し込む光が、ちらちらとケースの内側に乱反射していた。その小さな黄色の光たちが揺らめくのをずっと見つめていたくなって、思わず足を止める。けれども彼とも話して決めたことなので、ふるい落とすように頭を揺らしてその光景に背を向けた。
    手荷物はショルダーバック一つだけ。数日分の着替えと財布さえ持っていれば、あとはなんとかなるだろう。制服や教科書といった日本から送られてきた荷物はすべて処分したものだと思っていたが、驚いたことにファンタが保管してくれていた。後でこっそり送ってもらう手はずになっている。そのことに対して礼を言った時、彼はなんだか変な顔をしていた。
    長い廊下をいくつも曲がり、玄関ロビーに通じる階段を下る。家の中はしんと静まり返っていて、誰にも会わずに来ることができた。数日前にソラチカと話した時、楽音を含め、キョウダイたちが不在にするこの日を耳打ちしてくれた。大きな玄関ドアについた窓から柔らかな光が差し込んで、真紅の絨毯を照らす。握ったドアノブから金属のひんやりと冷たい温度が伝わる。最後にもう一度だけ、振り返って屋敷を見渡す。ここから見る景色は日本でみんなと住んでいた家ともよく似ている。子供の頃の自分たちが今もそこで楽しそうに駆け回っている気がした。音上ラッキーに与えられたものはすべて部屋に置いてきた、きっともうここに帰ることはないだろう。きっと父さんはおれを許さない、けれど、それでも構わない。ぐっと腕に力をこめて重たいドアを押し開ける、少しづつ開く隙間から、まばゆい光が差し込んだ。最後になにか言っていこうかと思ったけれど、気の利いた言葉が思いつかない。結局、普段通りのものにした。

    「行ってきます。」

    それだけ言い残して、穏やかな風の吹き込む外へと踏み出した。

    空は抜けるように青くて、綿菓子のような雲がぽつぽつ浮かんでいる。ミーミンが送り付けてきた飛行機のチケットを確認した後、歩きがてら携帯を取り出す。久しぶりに恩師にメッセージを送れば、すぐに返事が帰ってきた。曰く、お前の席は残してあるから、気をつけて帰ってこいとのこと。簡潔なテキストの中の気遣いがくすぐったくて、思わず顔を綻ばせる。手紙をくれたフルスさんやロックくん、先輩たちにも迷惑をかけたお詫びと礼を伝えなければ、どんな顔をして会えばいいのか正直わからないけれど、また彼らと会って話せるのは素直に嬉しかった。
    日本に帰ったらピアノを弾こう。ストリートピアノでも、電子ピアノでも構わない。どんなものでも、どこでもいいからピアノ見つけて演奏しよう。キョウダイのためでも、母ちゃんのためでもない、おれだけのきらきら星を演奏するんだ。もしかしたらもう表舞台では演奏できないかもしれない、でも、それでもいいんだ。おれはピアノが大好きだから、どんな場所でもピアノを弾けることこそがおれの一番の喜びであり、エゴなのだ。ゆるく握りしめた手のひらに冷たい指輪の感触はない、それでも、あの暗闇でともに握りあった手のひらの温度だけは確かにそこにあった。
    ラッキーはひとつ大きく伸びをすると、タクシーを拾うべく、大通りに向かって一歩踏み出した。その顔には、晴れやかな笑みを浮かべていた。
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    p3neru

    DONEソ→凡←天
    ⚠若干ですがソラ天要素があります
    両手に星薄闇に包まれた部屋の中、窓を叩く小雨の音に混じってピアノの音色が静かに響く。
    部屋の中央では、2人の少年がグランドピアノに向かい合っている。そんな彼らを包み込むように薄雲が漂い、空中には複雑な模様の惑星が浮かんでは揺れている。やがて、2つのファンタジーは徐々に境界を失って混ざり合っていき、この世のものとは思えない光景が室内に広がっていった。演奏の手はを止めずに頭上の惑星を見上げたソラチカは、この家に訪れた大きな変化を思い返していた。
     うるさいほど蝉が鳴いていたあの日、ソラチカは待ち望んだ彼との対面を果たすことができた。父に連れられたラッキーはソラチカを見るなり頬を赤く染めて、嬉しそうに微笑んで名前を呼んだ。そんな彼にペンダントを手渡せば、ますます顔をほころばせて、両手で大事に握りしめていた。それから時間の許す限り2人でピアノを弾いて、帰りの飛行機の中ではたくさんおしゃべりもした。キョウダイたちと対面したとき、レイジロウやファンタは酷く動揺していたような気もするが、あまり気にはならなかった。ラッキーが正式にデビューした後も、暇さえあれば2人で過ごすことが多い。一緒にピアノを弾いて、おしゃべりをして、時には外に出たりもして、長い間暗闇に閉じ込められていた彼は知らないことも、やりたくないことも多かったようだけれど、ソラチカはそんな彼の世話を焼くことも楽しかった。ようやく出会えた君は最高の未知を見せてくれた。演奏会でもその圧倒的な未知を持って、人々の視線をたちどころに奪ってしまう。17年もの間見つけられることもなく封じられていたファンタジー、劇薬にも等しい彼の演奏を一番近くで聞くことのできるこの時間がソラチカは好きだった。
    3171

    p3neru

    DONE注意⚠
    ・単行本未収録話のネタバレを含みます
    ・過去捏造あり
    ・本編終了後、諸々が解決して和解もできた時空のつもりで書いています。あまり出てきませんが天凡も和解済みです
    ・ファ編終了前に書き始めた作品なので描写がおかしいところがあります

    ただただラッキーが幸せになって欲しいという思いで書きました…!個人的な願望がつまりまくっています。
    ラッキーが甘やかされる話おいしいごはんを食べよう


    「ミーミンばっかりずるい!僕もラッキーの部屋遊びに行きたい!」

     きっかけは毎日の習慣となっているレイジロウとの通話の中で、うっかりミーミンが以前寮に遊びに来たことを漏らしたことだった。「次日本に行ったときには絶対遊びに行くから!」と張り切るのをなだめて通話を終わらせたわずか2日後、言葉通りレイジロウは学生寮に現れたのだった。

    「ここがラッキーの住んでる部屋・・・!」

    某テーマパークにはじめて訪れたときと同じ表情で、なんの変哲もない殺風景なワンルームを見回すレイジロウにラッキーは思わず苦笑する。

    「レイジロウ、来てくれてありがとう。でも仕事とか忙しいんじゃないのか?」
    「ラッキーに会うために全部終わらせてきたから大丈夫!しばらく休めるようにしてきたからいっぱい遊べるよ!」
    20094

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