繋いでおいて 高く、遠く、網膜から水晶体の奥まで、脳天まで突き刺して、耳の奥へと抜けていくような。
深く緩く胎動する重たいうねりは、ひややかなのに、どこまでも苛烈だ。
泣いた時の目の奥と鼻のあいだに焼き付くみたいに、喉の奥へとへばりついた。
生臭いような、塩辛いような、体の中の水分を攫っていく匂いが、頭の中心を抜けていく。
ざらざらとしたかるい水音が目の前で弾けて、爪先からしろい空まで巻き込むように、ごおごおと渦の音が鳴り響いた。
晴れているのに湿気た風が、ゆったりと潮を抱き込み肌に張り付く。
日のさかりの陽光を吸った、きらきらさざめく水面のせいで目が痛かった。
思わずまたたくと、くらい瞼の内側でちらちらと、眩んだ名残の虹が散った。
もう一度目を開けて、また飛び込んできたパッキリとした水平線を見る。
ほんとうの「青」ってなんだったのか、その時、ぼくは生まれて初めて理解したような気がした。
「おいお前、大丈夫かよ」
翔太郎は、サングラスを格好つけにくいっとあげながら声をかけた。
立ち尽くした相棒は、白い砂を透明なサンダルで踏みつけたままだ。微動だにしない。
ひとつの瞬きもしないくらいに海に釘付けになった相棒に、左はまたかと呆れて頭を掻いた。
やっぱり海はキョウミブカイよな。致し方ないよな、と諦観にも似た共感が湧いてくる。
自分が子供のとき、初めて海を見た感動を思い返そうとしてみたが、とにかく凄かったことしか残っていなかった。
そう思うと、たった今新鮮な衝撃を味わっているであろう相棒が羨ましい気もする。
「おーい、フィリップくーん。おーいってば」
後ろから浮き輪を抱えて走ってきた亜樹子が、フィリップの目の前で手をぱたぱたと動かす。
随分身軽に見えるのを左は不審がったが、後ろに大荷物を抱えてよろめく照井竜が見えて納得した。いくつものクーラーボックスとパラソルを抱えて歩く姿は勇ましい。
自分たちはバイクで来たが、照井は亜樹子が居たから車で来たんだろう。よくやるよ、と翔太郎は半ば感心した。
ぎらぎらと照りつける暴力的な日差しは、容赦なく肌を焼いていく。
さしもの照井も今日はパーカーにハーフパンツの軽装だった。残念だ、もし真夏の海にまで例の革ジャンで来たら、肉を乗せてこんがり焼いてやろうと相棒と話していたのに。
左は潮風でべたべたとした顎を撫でながら、軽く手を振って荷物を回収しに行った。
フィリップはいつもの癖の、口に手を当てた格好のまましばらく黙り込んでいた。
いつもの事なので、亜樹子は気にせず声をかけ続ける。
けっこう大げさに跳ねている髪の毛が、ゆらゆら吹かれて揺れていた。まだ少しあどけない鼻筋に当たる白い光が目に入る。妬けてしまうほど大きな瞳に、海のゆらめきが反射していてきらきらと光っていた。
突然、逆光で長く影のようになっていたまつ毛がぱたぱたと動いて、フィリップがはたと顔を上げた。
亜樹子がお、と声を漏らす。
「やっと起きた?やっぱり海はスケールが違うか」
「……」
フィリップはまだ薄ぼんやりとした顔で、ぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
濁った半透明の膜が張ったような表情に、亜樹子はなんとなく不安になって、もう一度「フィリップくん?」と名前を呼ぶ。
「アキちゃん」
唇からこぼれた音を一つ一つ置くように、フィリップはぽつりと呟いた。
たった今呼ばれていたことに気がついたように、口元を抑えた手からゆっくりと視線を外す。
それから亜樹子の方を見て、照れたように、気まずそうに笑った。それを見て亜樹子はますます心配になる。この暑さだ。いつもの検索ではなくて、日差しに当てられてしまったのかもしれない。
「フィリップくん、大丈夫?熱さでクラっときちゃった?」
「いや、大丈夫だよ……。ありがとう、アキちゃん」
本当に大丈夫?といぶがる亜樹子に、フィリップはそのまましゃがみこむと、地面をなにやら撫でるようにさらい、ほら、これだよ、と丸めた両手を差し出した。亜樹子はなんだなんだと、前かがみになって覗き込む。
「ほら、フナムシ」
パッと開かれた両手の中に蠢く、無数の手足。長い異形然とした触角。濃い赤錆色のからだ。
海のゴキブリ、フナムシだ。
さかさかと忙しなく這い回る甲虫に、亜樹子は思わずひぎゃあとけたたましく悲鳴をあげた。フナムシかい!と思わず心の中でツッコミを入れる。さっきから大人しいと思えば地を這う虫を観察していたのか。幼児か。誇らしげに獲物を見せてくるあたりは猫?
「見たまえよアキちゃん、この甲殻を!興味深いよねぇ、フナムシは等脚目フナムシ科に属する甲殻綱の一種で……」
「うわぁあ!虫を畳み掛けるな畳み掛けるな!まずそれ逃がしてきて!近づけないで~~!」
フィリップは熱っぽい語りに合わせて、シャカシャカと音の鳴る手のひらを近づけてくる。
真っ黒でつぶらな瞳がかえっておぞましい!背筋に走る震えにしたがって、亜樹子は全力で駆け出した。
「……あいつらは本当に、少し静かにすることが出来ないのか」
遠くから眺めていても聞こえてくる、甲高い悲鳴と興奮した語りに、照井は呆れたように眉をひそめた。
こめかみから顎先へと流れた汗を拳で拭うと、これでもかと持たされたレジャー道具がガタガタ音を立てる。
隣でがらがらと台車を押していた翔太郎は、騒ぐフィリップを見つめながら、何かが引っかかっていた。
なぜかはよくわからない。でも、なんとなくの違和感が、たしかに脳裏をかすめていったのだ。
直感。探偵稼業で何とか三人、口に糊していけている、翔太郎ご自慢の直感だ。
もしかしたら、少し拍子抜けしたのかもしれない。フィリップの海に対しての反応が案外静かだったから。
あいつなら、爆発的に、今なんかよりもっと大騒ぎして、飛び込んだりなんかするんじゃないかって、勝手に思い込んでいたけれど、別にそうじゃなかったから、少し物足りないような気になっただけかもしれない。
きっとそうなんだけど、海を見つめる相棒の横顔の、どこかなにかを憂いたようなわずかな曇り。
そこに、翔太郎は微かな寂寥を感じ取ったのだ。
徐々に凪いできた海に、さらさらと起きるさざなみのようだ。
相棒のささくれだった、寂しげな気持ちの綻びの糸が、波間へゆらゆら伸びたような気がした。
目隠しをしていたにも関わらず、照井竜が一発で砕き散らかしたスイカを四人で食べて、パラソルの下で休憩する。
午後になったばかりの色の抜けた陽の光が、撥水布に真っ直ぐ突き刺さる。散々騒いで泳いだ心地よい倦怠感にほわほわと巻かれている。
翔太郎はうつらうつらしながら、朝より色の濃い水平線を眺めていた。屋台を覗きに行く!とはしゃぐ亜樹子に付き添って、照井が行ってしまったので手持ち無沙汰なのだ。
手前の方で、フィリップが、波打ち際でぱしゃぱしゃと水を蹴りあげているのが見えた。何が楽しいのかはわからない。
照井のやつ、荷物持ちがいるだろうなんて言ってたけど、絶対に亜樹子に変な虫が付かないようにしてるのがバレバレだったよな、と翔太郎は可笑しくなる。
胸元にリボン、腰にひらひらとしたフリルが付いた爽やかな白い水着は、亜樹子によく似合っていた。結い上げたポニーテールが揺れるたびに、溌剌とした印象が弾けるようで清々しい。
自称なにわの美少女探偵の名は伊達では無い。あれが一人でフラフラしてるのも心配か、とSPのような面付きで出ていった照井を思い起こして、また海の方を眺める。
波打ち際で遊んでいたフィリップが沖の方へ、脚もまくらずに進んでいくのが目に入った。
「おーいお前、あんま沖の方行くなよ」
口に手を当てて声をかける。聞こえてるんだか聞こえてないんだか、フィリップはそのままずんずんと進んでいく。おいおい、と思って翔太郎は腰を上げた。目の前のものしか見えなくなっているらしい。
パラソルの青みがかった影から一歩踏み出すと、さらりとしたあたたかな砂が足にまとわりついた。まだ高い日が容赦なく照りつけて思わず目を細める。サングラスを忘れてきてしまった。
相棒の方へと歩きながら、もう一度「おーい、お前」と声をかける。奴は止まらない。のめり込むように、海の中へバシャバシャと音を立てて歩を進めていく。膝の辺りまで海水に漬かっているのに気にもとめない様子を見て、翔太郎はさっき感じた一抹の不安を思い出した。
ゆらり、と揺れる背中がなんだか頼りなくて、でも確かな意志、意思というよりなにかの衝動に突き動かされるように、腕を引かれるように、とにかく寄る辺なく、もつれそうになりながら、転ばないすれすれくらいまで前のめって、フィリップは足を運んでいく。
鮮やかなエメラルドの浅瀬から、濃い藍のなめらかなグラデーションを辿るように、徐々に深い方へと沈んでいく。あまりにも迷いがなかった。
「おいお前、待てって!」
翔太郎は思わず大きな声を出した。そのまま駆け出す。
さらさらした砂に出した一歩一歩が沈んでしまってよろめく。
さっきまで心地よかった砂が憎らしい。慌ててばたばた走る姿は、きっとみっともないだろう。何をこんなに必死になっているんだろう。あいつはただ少し海を見に行っただけなのに。
自分まで海に入ってしまって、足の上に重たい水の塊がのしかかり上手く進めない。全身で海を分け入るようにしながら足を進める。どこに行く気なんだ。どこまで行ってしまうつもりなんだ。
膝上のハーフパンツにまで水面がぶつかって、水を吸って重たくなった布が、ひやりと肌にまとわりついた。
跳ねた飛沫が顔にかかって、手の甲で拭う。
目の上から頬になすり付けるように擦る。目の奥がひりついて瞬きが増えたのは、海水が目に染みたからだ。
翔太郎は、そう自分に言い訳する。
だんだん、カーキの薄いパーカーを羽織った猫背の背中が近づいてくる。
だらりと下がった細身の腕をつかもうと、思いっきり肩から手を伸ばした。
まだ届かない。進む背中と自分のめいっぱい広げられた手のひらが、ブレながら重なる。
転びそうになりながらもう一歩踏み出すと、指先に薄い布がかすった。
端からたぐり寄せて、しっかりと鷲掴みにする。
そのまま力任せに、外れそうなくらいに腕を引いた。
無理に身体を回されて、フィリップの首ががくんと揺れる。
人形を彷彿とさせる意思のない動きに、翔太郎は否応なしにかつての夜を思い出した。
背筋が寒くなる。焦りと不安と同時に、出どころのわからない理不尽な怒りが湧いてきた。
「おい!」
振り向いた顔を見もせずに、翔太郎は怒鳴った。
勢いのせいで下を向いたまま、肩をいからせて、自分の不安をぶつける。
気が付かないうちに全力で走っていた。息が弾んで、喉がひゅうひゅう音を立てる。
びしょびしょの袖が張り付いた相棒の腕を、もう一度ぎゅうと握りしめた。冷えていたつめたい皮膚にだんだん体温が伝わって、ぬるい水がしたたる。ほのかに脈打つ感覚に、少し安堵する。ちゃんと、芯には熱がこもっている。
そのまま左は、腕に体重を預けるようにして顔を上げた。自分がどんな顔をしているか分からなかった。
振り向いた相棒の表情は、逆光でよく見えない。
瞼から暗く落ちた影と、堪えるように歪んだ口元だけが微かに瞳に映った。泣いているのか、笑っているのか。
フィリップは少しだけ眉を歪めて、「なんて顔してるんだい」とおおきく揺らぐ瞳で笑顔を作った。
翔太郎はこっちの台詞だ、と言おうとして、でも喉が掠れて声は出なくて、ただざらつく呼吸音が二人の間に落ちた。
フィリップは力の抜けた手から、するりと腕を引き抜く。止める間もなくて、翔太郎の手が空を切る。
フィリップは、両手を後ろに組んで、いっそ楽しげに、少し前のめりになって口を開いた。
「翔太郎、全ての生き物はみんな、海から来たんだそうだよ」
なんのことか分からない。分からないけど、真摯な表情が悲壮なくらいで、見ていて息が詰まった。
「……いつものイヤミな言い方はどうしたよ」
やっとのことでそう返した翔太郎に、フィリップは乾いたように笑った。
「だって、もう君は知っていると思って。……いや、君だけじゃない。君だけじゃなくて、きっとみんな知っている」
翔太郎は、まだ意図がわからず黙り込んだ。
たしかに、母なる海。
いま、この地球上で生きている生き物はみんな、元を辿れば海へ行き着く、という話は聞いたことがある。でも、それがどうしたのだろうか。
怪訝そうな顔の翔太郎に構わず、フィリップは両手をぶらりと広げて、海を見渡すようにくるりと回った。
「ねぇ翔太郎、君たちは、みんなここから来たんだ。生き物はみんなそうだ。照井竜も、アキちゃんも。元を辿ればここに行き着く。」
「……」
じっと真面目に話に耳を傾ける翔太郎に、フィリップは「素敵だよねぇ」と淡く笑った。
やっぱりどこか表情の色が薄い。翔太郎は焦燥感にじりじり焼かれながら、ただ鈍く光る青葉の色の相棒の目を見た。フィリップは続ける。
「でも、ぼくは違う。」
そういって、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。左胸だ。少し背中を丸めて、身体の丸みを確かめるように押さえつける。きゅうっと指先に力が入って、僅かにこわばる。
「海から来たぼくは、十年前に死んだ。今のぼくは、ここじゃない、ぼくの身体は、データの海からきている」
「……それがどうしたんだよ」
「あのね翔太郎、ぼくは、海を知っていたんだ。前に検索したから。海についての情報の全ては、もう知っていたんだよ」
「でもね、全然違ったんだ。全てを閲覧したはずの海の前に立ってみたら、動けなくなってしまった。心底恐ろしくて、あまり壮大で。知っていたと思っていたのに、全然わかっていなかった。」
「きっとそういうことが、他にもいっぱいあるんだろうね」
「ねぇ翔太郎、ぼくは君たちとは本当にちがったみたいなんだ。ぼくだけは、たどってもたどってももう海に戻ることは出来ない。ぼくだけ違う。生き物みんな海から来ているのに、ぼくだけが」
「当たり前にみんながわかるところから来たわけでなくて、だから近づいてみたくなったんだ。ぼくは、知らないんだろうから」
そう言うと、フィリップは言葉に詰まった。
何かを言おうと口を開いても、出てくるのは自嘲を孕んだ半笑いの吐息だけだ。
なんども首を振っては、瞳に薄く張った膜をやり過ごそうとして、何度も瞬きをして眉根を寄せた
相棒の顔が見れなくて俯く。
膝まで浸かった足元と水面を見つめた。自分の背中が陽を遮っている。
寄る辺ないな。
波間は藻のような濃い青緑色だ。仄かに、ちらちらとたゆたうひかりを見つめながら思った。
濡れた額からか、頬からか、するりと滑っていく滴は、きっと海と同じ味だった。
たしかに体の中には、ちいさな海をたたえているはずなのに。
自分だけが、相棒と、仲間たちと違うのだ。異質だ。どうしようもなく、胸がすかすかになるみたいに不安で、辿るものがないことが寂しかった。
フィリップはずっと、繋がりに飢えていたから。だから、家族とか、知りたいことに拘った。自分の中身と外の世界とを、少しでも繋げていたかったから。
過去を持たない、自分にはなんにもないような気持ちになる度、繋がっていたい、共有していたい、と強く思った。
本当になんにもないわけはない。
それでも、頭ではわかっていても、どうしても割り切れない時もあったから。
いま、一緒に人を助けて、猫を探して、街を守って。
一緒にご飯を食べて、こういう風に海に来たりして。
そうして、『一緒』を重ねていっても、やっぱり自分だけ。
そう思うとやるせなかった。
フィリップは手のひらで海水をすくった。水をそっとかきわける感覚。
遠くで見たらあんなに綺麗で澄んでいたのに、いざ触れたら、指の間を黒や緑のプラスチックの欠片がかすめていく。
結局、思い込みで走り出す、盲目な自分が囚われるのはこんなものばっかりだ。都合のいい理想を信じて。
無いものを投影した期待ほど無為なものもなかった。沖合の海は、夏でもつめたくて、だまりこくる時間も徐々に体温を奪っていく。
「いいじゃねえか。別に、来たところが違ったって」
無理に落ち着かせたような、低く震える声が、俯いたつむじの辺りに落ちた。
聞きなれた優しい、やわらかい声にフィリップは、少し顔を上げる。
愚直なくらい太く真っ直ぐな紫の眼光が、濡れた前髪で狭くなった視界から覗く。
こちらと目が合ったのを知ってか知らずか、今度は地に足が着いた、しっかりとした声で翔太郎は続ける。
「いま一緒にいれるんなら、それでいいんじゃねえの」
翔太郎はそう言って、じゃぶじゃぶ水を掻いてフィリップの方へ近づいた。少しだけ竦んだ肩を気にせず、もう一度しっかりと、相棒の手を掴む。
フィリップはしょうたろう、と呟いた。翔太郎はもどろうぜ、と言って、そのまま何も言わず、元来た方へと歩き出す。
こちらにものを言わせないようにするみたいな、意固地になった背中に、強引に手を引かれる。何も言わないまま、ただ手について歩いていく。
はじめは呆気に取られていたフィリップは、だんだん無性に笑いだしたくなってきて、気づくとくすくすと声を上げていた。くすくすがだんだん大きくなって、お腹の底が震えてくる。
もう耐えきれなって、あははは、と大きな声で笑い出す。
急に後ろでけたたましく、お腹を抱えて笑いだした相棒に、翔太郎は思わず振り返る。あのなあお前!
「おいお前、何笑ってんだよ!あのな、こっちは本気で」
「あははは!いや、ごめん、ごめんよ翔太郎。でも、君が、君がね。あんまりシンプルな、いつものハーフな結論を出すから、おかしくて」
そう言うと、フィリップはまた大声でけらけら笑いはじめた。
何を笑ってるんだか、こっちは大真面目だってのに。
翔太郎はなんだか居心地が悪くなって、あーっと唸るとわしわし頭をかいた。それにまた、フィリップは笑って、笑って、人差し指で目尻を擦った。君は本当にハーフボイルドだ!と笑いながらつぶやく。
ほんとうに、墨がしゅるしゅる水に溶けていくようだ、と思った。
自分の中のくらい澱みが輪郭を無くして、じわじわお腹の奥へと染みていく。
無くならなくても、こうやって、弾けるみたいに笑い出したかったり、夢中になれるくらいに嬉しかったり、そんな幸せな気持ちと混ぜて、そっちのほうを向いて、うやむやにしていたい。
色んな気持ちがまぜこぜの、目尻に浮かんだちいさな海に、こころから思った。
笑い疲れたフィリップが顔を上げると、とっくに戻ってきていた亜樹子が見えた。上がった息で、緩く手を振る。
「ちょっともう、荷物見といてって言ったでしょ!なぁに二人してはしゃいでるのよ!」
そう声を張り上げて怒りながらも、亜樹子は大きく手を振り返してくれた。後ろの方で照井竜が、山ほどあるプラスチックのパックをパラソルの下へ移している。
待っていてくれる人も、手を引いてくれる人も居る。もう抜けられないよう、ガッチリと掴まれた腕があたたかい。
見上げた空は、到底手が届かないくらいに高い。フィリップは、それでもいいやと思った。
自分の手が掴むべきものは、きっと他にあるんだろうから。