無辜の松茸.2しん、と静まり返った薄暗い廊下。代々収入が多い役職に就いてきた先祖が建てた巨大な屋敷。昔は我が家に伝わる炎の呼吸の継子達が居候しながら修行をしていた為大きな屋敷を必要としておりました。しかし今は一人たりとして我が家で修行をしている者はおりません。至極稀に兄上のようになりたいと家を訪れる者もいて継子のいない兄上は大層喜んでその者を迎え入れ望み通り道場へ連れて行くのですが、嬉しそうに頬を染め喜び勇んで兄上と共に道場へ入ったその者は数時間後泪目でふらふらと足腰立たぬ状態で出てきて、その晩俺は栄養のある食事をたっぷり振る舞うのですがどうしたことか、次の朝には用意した布団はもぬけの殻になっているのです。
人気のない廊下を俺はきしきしと小さな音を立てながら歩き、とある部屋の前に辿り着くと僅かな隙間から漏れ出る酒臭と加齢臭。いつもの匂い。
「父上、食事の用意が出来ましたよ。」と、障子の向こうから声をかけると「そこに置いておけ。」と酒焼けした声が聞こえてきたので俺は手にしていた箱膳を部屋の前に置いてまたきしきしと音をさせながらその場から去りました。
縁側に出ると太陽が暖かく大地を照らしていました。風のない長閑な昼。近所に生えている桜の木も桃色に染まり、ちちち、と鳥の可愛らしい鳴き声が静けさに彩りと心地良さを加えて俺は自然と笑顔になります。
俺が縁側に腰掛け、足をぶらぶらさせながら春の陽気を楽しんでいるとお勝手口の方から「はっくしょん!」と大きい声が響いてきました。
「ああ、この時期は何故かくしゃみが出て堪らん。目も痒い。」
そう言いながら此方へ歩いて来たのは兄上でした。
「カタルですか?兄上。」
「ああ。」
鼻をぐずぐずさせながらまた「はっくしょん!」と大きなくしゃみをして気怠そうに嗚呼、と呟く兄上に同情の目を向けながら俺はこんなに男前で桜が似合う兄上なのに鼻カタルとは勿体無い、と心から思いました。
「兄上、鼻水が出てますからこれで鼻をかんでください。綺麗なお顔が台無しですよ。」
俺は袂から懐紙を取り出して兄上に手渡し、豪快に鼻をかむ兄上を見守っておりました。
「今夜は任務はあるのですか?」
「いや、こんな状態では全集中の呼吸も使えん、暫く休暇になった。」
それはそうだ。兄上達は呼吸が基本の技を使うのに鼻が詰まっていては集中すら出来ない。鼻詰まりが原因で鬼にやられていては元も子もない。
「俺の代わりに渋々ではあったが伊黒が行ってくれている。事情が事情だからやむを得ん。はっくしょん!」
「大丈夫ですか、兄上。」
「ああ、大丈夫だ。はっくしょん!」
「しのぶさんに薬を貰ってきてはどうでしょうか?」
「薬はもう貰ってある、暫くはこれで様子を見る。」
「早く良くなるといいですね。」
「ああ、はっくしょん!」
俺はまた懐紙を手渡して自分の部屋へ向かう兄上を見送りました。それから納屋へ行き、竹箒を取り出していつものように門前の掃き掃除をしているとチリンチリンと自転車のベルの音を立てながら電報屋がやって来て俺に紙切れを手渡して行きました。誰からだろう?と思って見てみるとそこには『サクラサク』とあり、差出人の欄には『ジョウゲンサン』と書かれておりました。ジョー源さん。誰?源さんなんて知り合いいたかな?異人さん?確か大工職人にそんな苗字の人がいたような…?などと取るに足らない現実逃避を暫時した後俺はみるみる青褪め、震える手で電報を握りしめて家の中に飛び込みました。
あいつが帰って来た…!遠くに追いやった筈なのに…!見つけたのか?あれを…!だけどそんな物は存在しない筈…!なのに帰って来た…!源さん、じゃない、上弦の参が…!
自分の部屋に篭った俺はもう一度電報に目を落として見間違いではない事を再確認致しました。落ち着け、取り乱した所で状況は何も変わらない、今こそ冷静に行動せねば。俺は呼吸を整えて落ち着きを取り戻し、兄上の様に腕組みをして奴が攻めて来たことを想定しながら頭を働かせました。奴の狙いはどうせ兄上だ、兄上に暴行する為に攫いに来るに決まっている。暴行して兄上を弱らせた後ついでに隙あらば自分のものにしようと下衆な考えをしているかもしれない。きーっ、なんて奴!許せない!いやいや落ち着け落ち着け。ならば昼間のうちに奴の知らない所に兄上を匿えばいいだろう。兄上は鬼に狙われていることは何も知らない、兄上の為にもその事は教えない方が良い。知らない方が幸せって言うしね。では、どうやって兄上に怪しまれずに家から連れ出そうか、おデエトしましょう、なんて誘っても夕方には家に戻ろうとしてしまう、しかも具合の悪い兄上は今余計に家を出たがらないだろう。ならば…。
俺は熟考を重ねた後部屋の箪笥から数日分の衣服をまとめて風呂敷に包み、兄上の部屋に向かいました。
兄上の部屋の前まで来ると春の暖かな陽気の中で咲き乱れる花と晴れ渡った青空のような清らかな香り。「はくしょん!」という大きなくしゃみの声が響き、つい頬が緩む。
「兄上。」
障子越しに声をかけると中から「千寿郎か。」との声が聞こえてきたので「失礼します。」と言って中に入りました。
「どうした?そんな大きな荷物を背負って。」
兄上は俺を見るなりそう言いました。
俺は兄上をじっと見、口を開きました。
「兄上、今から一緒に宿にでも行きませんか?」
「宿?何故また?」
「いえ、兄上が休暇をとれる間に一緒にどこかへ行ってみたいと思って。」
「旅をしたいのか?また急な誘いだな。もう少し計画を立ててからでも良いではないのか?」
「…今が良いのです…。」
俺はもじもじと股を擦り付ける仕草をしながら潤ませた目で兄上をじっと見つめた後、視線をすいと外して俯いてみせました。
兄上は目を丸くして俺を見、勝手に何かを感じとって照れ臭さそうにふっと笑った後、腰を上げて俺の前に立ちました。
「わかった、千寿郎、すぐ支度をするから待っていてくれ。」
「では、先に門の前で待っております。」
「ああ。」
兄上の部屋の障子を閉めて少し廊下を進んだ後、俺は玄関まで全速力で走り出しました。やった…!やったぁ!上手くいったぁ!俺の予想通り!きゃはっ。もう、恥ずかしかったぁー!でもこれで鬼から逃げられるぞ!良かったぁー!
俺は上機嫌で草履に足を突っ込んだ後、鼻歌を歌いながら沓脱の端に寄せてあった兄上の草履を手にとって真ん中に揃えて置き、一度外に出ようとしてまた草履の前まで引き返し、兄上の草履の鼻緒の埃を指先ではたいてから玄関の戸を開け放して兄上が来るのを待ちました。
「待たせたな、千寿郎。」
程なくして兄上が荷物を包んだ風呂敷を持って玄関先に出てきたので、俺は兄上に微笑みかけると「さあ、行きましょう。」と言いました。
「待て、千寿郎、何処に行くのかをまだ決めていないだろう。目的地をはっきりさせねばどちらの方角へ行っていいのかわからない。」
「まぁ、それはそうですね。」
「宿に行きたいと言っていたがどこがいいのだ?観光地か?」
「あ…、そうですねぇ…、えーと、人目に付きづらい山奥の宿が良いかと思うのですが。」
猗窩座に見つからない場所が良いと思って俺は言ったのですが兄上は何を思ったかみるみる頬を染めごほんと咳払いをして「わかった。」と返事をしました。
「千寿郎、俺の背に乗るといい。」
「え?」
「どうせなら少しでも早い方が良い。お前も我慢しているのは辛いだろう。以前任務中に見つけて世話になった宿がある。そこへ行こう。」
「あ、はい。」
兄上が俺の思惑に見事なまでに嵌っていたのはわかったのですが早く身を隠せるのならその方が良いと、あまり深く考えずに後ろから兄上の首に腕を回しました。
「気付いてやれずにすまなかったな、千寿郎。でももう安心するといい。着いたらすぐに満たしてあげるから。」
「はあ。お願いします。」
兄上はふわりと跳び上がると地を強く踏み込み、高速で山々が連なる西の方角へと駆けて行きました。
宿には四半刻程で着きました。山の中腹にぽつんと現れたその宿は竹垣に囲まれた本館とその建物の裏の斜面を削り丸太を階段状に並べて固めた小道が伸びた先に離れを有していて、兄上は手際良く宿泊の手続きを取ると俺を離れへと誘導しました。
「入りなさい。」
兄上に促されるがまま俺は中へ入り、十二畳程ある部屋の真ん中に立って振り返ると後ろ手で襖を静かに閉めた兄上が両手を拡げました。
「さあ、おいで千寿郎。」
「えっ?」
にこにこと笑顔を浮かべる兄上を前に、俺は持っていた風呂敷包みを両手でぐっと抱き締めました。
今は鬼に見つからない事が最優先で呑気に情事に耽っている場合ではない、と俺は慈愛に満ちた顔を真っ直ぐこっちに向けてくる兄上をどう誤魔化そうか思考を巡らせていたのですが、いつまでも寄り付いて来ない俺に堪えられなくなったのか、兄上は瞬きの間に俺の前に移動してきて俺を両手で抱え上げました。
「わぁっ!」
「照れているのだな、千。この兄に任せておけ。」
「いっや!違…!兄上駄目ですよー。」
「駄目?そうか!いやよいやよも好きのうち、という奴だな!」
「そうじゃないよー。」
「ははは、そう照れるな。余計に煽られてしまうだろう?さあまぐわろう。」
「まぐわるとかはっきり言わないで下さいよ、恥ずかしい。」
「うむ…、なら他にどう言えば良いのだ。」
「言うとかじゃなくてもうちょっと誘い方ってものが有りません?雰囲気で誘導するとか。」
「誘うと言っても先に誘ってきたのは千寿郎、お前の方ではないか?」
「そっ、そうかも知れませんけどやっぱりこういう時は…、先導して貰いたいじゃ…ないですか…。」
嫌、違う。俺は別にこんなことを言いたい訳ではないのです。なのに兄上は「可愛いことを言う!」と俺をぎゅっと抱きしめた後隣の部屋へ瞬時に移動し俺を布団の上に下ろして組み敷きました。
「ちょっ…、いきなり押し倒すとかいくら何でも強引過ぎますよ!せっかちですねぇ!」
「…良く言われる。」
「ひゃっ!」
兄上が俺の耳に囁いてきたので俺は小さな悲鳴をあげました。
見上げた先に兄上の悪戯そうに微笑む顔があり、ちょっとだけ自分の胸がきゅんと締まってその次はどうくるのだろうと胸を高鳴らせながら兄上を見つめていると俺の腕に置かれた兄上の手が段々と震えてきました。
「お前の望み通り雰囲気作りをしようとも思ったがやはり堪える方が無理というものだ!この話はこれで終いだな!」
「待っ…!勝手に終わらせない…んんっ!」
兄上に口を塞がれて身を捩って抵抗を試みたものの徒労に終わり、口の愛撫を受けているうちに段々とどうでも良くなって「ま、いっか。」と後はいつも通りになりました。
その晩兄上と一つの布団で共に気持ち良く寝息を立てていると縁側の障子の方から茂みを揺らす音がして俺は目を覚ましました。山奥なので何かしらの動物が敷地内を横切ったのだろう、と思い再度眠りにつこうと兄上の胸に顔を埋めて目を閉じた矢先玄関からキンコンと門鈴の音。無粋な。
こんな夜中に誰かと仕方なく怠い腰を持ち上げて玄関の格子戸を開けるとそこに立っていたのは上弦の参。
其奴は「こんばんは、煉獄さん。」と口にしたので俺は思わず戸をぴしゃりと閉めて鍵を掛けました。
慌てて部屋に戻ると兄上が既に起きていて鬼の気配を感じ取ったのか既に隊服に着替えておりました。
「千寿郎、外に出るぞ。」
「はっ、はいっ!」
俺は着の身着のまま兄上と縁側へ飛び出して竹垣を飛び越え表に回って鬼が敷地内から出てくるのを待ちました。離れの庭に敷かれた玉石を踏む音が段々と大きくなってきて、俺は激しく鼓動を打つ心臓を押さえました。
「漸く会えたな杏寿郎、ずっと会いたかった。」
「…っ!」
兄上が日輪刀に手を掛け警戒しているのにも関わらず姿を現した猗窩座は頬を染め、うっとりとした表情で兄上を見つめておりました。
「何故ここが…!」
「なに、日光を避けて山に潜んでいたらお前達が通りかかるのを見ただけだ。俺もお前の家に向かう所だったから丁度手間が省けた。」
俺は読み間違いをしておりました。此奴らは鬼なのだから薄暗い山奥はかえって危険だったのです。やっぱり浅草にして花やしきで珍鳥や猛獣でも観ていれば良かった、なんて思っても今更なのです。
「今日はお前の望みの物を俺は持ってきた。きっと素晴らしい夜になるだろう。」
猗窩座から発せられる禍々しい雰囲気と変な色気が混ざり合って俺の心は不快感で一杯になりました。このままでは兄上が攫われてしまう…、なんとかこの鬼を追い払わなきゃ…、だけど俺では上弦には勝てない…。
ふうふうと息を荒げる俺に気付いた兄上は俺を自分の背中に隠して猗窩座を見据えました。
「杏寿郎、さあ、お前が望んだ玉だ。これが欲しかったんだろう?今見せてやろう。」
「玉だと⁇」
「そうだ、玉だ。」
「俺は君の玉など欲していない!何故そんな物を俺に見せようとする!変態か、君は!」
「何を勘違いしている杏寿郎!その玉じゃない!」
「他に何がある!訳の分からないことを言っているのは君の方だ!」
「お前が弟に言伝をしただろう、玉を持って来いと!」
「知らん!」
「杏寿郎…お前…!自分で言っておいて忘れたとでも言うのか、これを見ろ!」
「やめろ!見せるな!」
猗窩座が腰紐に手をかけたので兄上は顔を背けたのですが視線だけは攻撃を受けることを考えて外すことが出来ないでいました。兄上が葛藤している中猗窩座は腰紐にぶら下げていた麻袋を外し、中から金色に光る玉を取り出しました。
「どうだ!杏寿郎!これがお前が欲した玉だ!」
「きっ…、君は身体から切り離したのか…!」
「貴方はそれをどこで…!」
青褪める兄上を他所に俺が尋ねると猗窩座は「知りたいか?」と得意げな顔をして言いました。
「ふふふ、特別に教えてやろう。これは遥か西の海沿いの土産物屋に売っていた。一つ五銭位だったか?」
「安い○玉だな‼︎」
「違う‼︎ちゃんと龍の首の玉と値札に書かれていたぞ!更にこの玉の効能は商売繁盛、恋愛成就、金運上昇、無病息災、家内安全、学業成就、子宝安産祈願、厄除けとあった。成程、こんな万能な玉であれば杏寿郎が欲しがるのも無理はない。」
「災厄と同じ鬼が持って来ても説得力無さすぎ!話聞いててもマジうさん臭いしどう見ても偽物だよね、それ!」
「本物を持って来いとは聞いていない、俺はお前の言った通り西へ向かい龍の首の玉なるものを持って来た訳だ。さあ杏寿郎、もう怪我は完治しているだろう、俺と闘おう、ついでに鬼になろう。」
「千寿郎、…これは一体どう言うことだ。」
「これは、その…、あの…。」
困惑する俺を見て兄上はしばし無言でいましたが何かを察したのか直ぐに猗窩座に向き直りました。
「…わかった、君は俺の望みを叶えたという訳だ。どんな形であれ君は筋を通した。俺も君の望みを叶えなければならない立場にある。だが俺が君の言うことを聞く前にもう一つだけ聞いてくれないか?」
「そうか!受け入れてくれるか!遠くまで玉を探してきた甲斐があった!何だ、杏寿郎?早く言え!」
「まずそこに跪いてくれないか?」
「これでいいのか?」
「そうだ、そうしたら両手は後ろで組んで前屈みになって欲しい。」
「こうか?」
「ああ。…千寿郎。」
兄上が首をくいと動かして俺に合図を送ってきたので
俺は急いで猗窩座に駆け寄り持っていた手巾で猗窩座の両手首を固く縛りました。
「杏寿郎?」
「そのまま動かないでじっとしていてくれ。」
「お前…まさか。」
猗窩座の顔から笑みが消えていく隣で兄上は日輪刀を抜き真上に振りかざしました。
「なに、ちょっと死んでもらうだけだ。心配するな!」
「杏寿郎!貴様ぁっ‼︎」
「問答無用!」
「何がちょっとだ!ふざけるな‼︎」
猗窩座は俺の手巾を引き千切って地面を踏み込んで跳び、兄上の刀を避けました。
「俺を騙したな…!杏寿郎!お前だけは信じていたのに…!」
「君が騙され易いだけだろう!真の龍の首の玉などこの世に存在しない!俺は鬼にはならない‼︎あと俺の知らない所で勝手に千寿郎と会っていたなど鬼の分際で許さん!絶対にお前の首を斬り落とす‼︎」
兄上の怒りが鬼を滅殺するのとは何か違う方向に向かっている気はしましたがもう既に兄上と猗窩座は俺の目にも止まらぬ速さで闘いを始めていました。兄上の刀の赤い閃光と猗窩座の青い拳撃が交差し時に激しくぶつかり合って火花を散らし、両者の強い踏み込みで地面が音を立ててひび割れました。
「夜中に千寿郎と何をしていた!」
「気になるか?杏寿郎。なら教えてやろう、俺は毎晩松茸を持って来ていただけだ。」
「貴様の松茸だと⁉︎しかも毎晩⁉︎どこまで不埒な奴だ!俺の弟を汚すような真似をして楽しいか!」
「勘違いも甚だしいな杏寿郎、だがよくわかった、お前は弟が絡む程凄まじい闘気を見せる。至高の領域に近づいている。はははっ、ならこうしたらどうだ?」
猗窩座は俺の方を見てにやりと笑い、空式を兄上に向かって放ちました。至近距離で猗窩座の技を受け止めた兄上は身体ごと後方に吹き飛ばされ、俺があっと言葉を発するよりも早く猗窩座が俺の前に立ち塞がりました。猗窩座は怯える俺に向かって不気味な笑みを浮かべながら腕を振り上げ、拳を何度も突き出してきました。殴り殺されると思った俺は身を縮こまらせて固く目を瞑っていたのですが特に身体に拳が当たる感覚もなく、薄っすらと眼を開けて見ると俺の着物がずたずたに切り裂かれて上半身が露わになっていたのでした。
「ぎゃあっ!」
先程まで兄上に愛されていた跡が幾つも付いた肌を晒された俺は吃驚し自分で自分の身体を抱き締めてその場で小さくなりました。猗窩座は俺の身体の痣を凝視して一瞬驚いた顔をしましたがすぐにやりと口角を引き上げた後ふふんと笑いました。
「そういうことか、杏寿郎。お前が熱くなる理由が良くわかった。」
「弟に手を出すな‼︎」
兄上は参の型を猗窩座に向かって放ちましたがひらりと避けられてしまいました。俺に背を向けて立った兄上は片手で羽織を外して俺の上にかぶせ刀を構えた状態で静かに猗窩座を睨みつけておりました。
「先程とはえらい変わり様だな杏寿郎、しかしお前が禁忌を犯しているとはさすがに俺も想定外だった。俺が誘うまでも無くお前は既に鬼になっていたのだなぁ。」
「黙れ、お前と一緒にするな。」
「くっくっくっ、実の弟に手を出しておいて何を言う、お前は正義面をして周囲の人間を欺きながらその裏で他言出来ない事をしていた。弟の未来さえ奪ったお前の本質は鬼以外何があろうか、それでも違うと言うなら言ってみろ!」
「俺は千寿郎を愛している。」
「ふん、身内への愛情の向け方を間違えておいて何が愛だ。貴様の私欲に取って付けた言葉で誤魔化そうとするな。」
「俺の心に嘘偽りはない。俺はこの世で誰よりも千寿郎を愛おしいと思っている。君の言う通り他人からしてみれば俺の行動は異常なのかもしれない。だがそれは責められねばならないことなのだろうか。俺達が互いに愛し合うことで誰に迷惑がかかろうか。」
「その考え自体が異常だということがお前には理解出来ないのだな、杏寿郎。やはりお前は鬼だ。お前達兄弟は狂っている。でもまあいい。俺はそんなお前も含めて興味がある。お前の強さの原動力が弟というならそれも良いだろう!さあ、続きをしよう!杏寿郎!」
「…例え命に変えても貴様を滅殺するのが俺の責務だ、だが俺は同時に弟を守っていかねばならない、俺は今ここで死ぬ訳にはいかない!」
「死ぬ必要などない!お前こそ鬼に相応しい逸材だ!鬼になれ!杏寿郎!」
猗窩座が兄上に向かって攻撃を繰り出そうと走り出し、兄上も猗窩座を迎え撃とうと刀を後方へ引いた時でした。兄上と猗窩座の間にうねうねとした閃光が走り拳を突き出そうとした猗窩座の右腕が鮮血を噴き上げながら空を舞い地面にぼとりと落ちました。
猗窩座が突然現れた閃光の先を睨み付けるとその先にやはりうねうねと動く白いものがいて、それが巻き付いている本体に視線を向けるとそこにいたのは伊黒さんだったのです。
「こんな所で何をしている煉獄、お前は今休暇を取っている筈じゃないのか。」
「いや!休暇中だ!」
「なら何故鬼と闘っている。しかも相手は上弦だ。万全でない状態で任務に就くなど貴様は頭がおかしいのか。ここはお前の担当区域だ。鴉を飛ばすなりして何故俺を呼ばない。」
「いや、だから今は休暇中だ‼︎要も巣に帰っている!」
「お前が真面目なのはいい事だが休む時はしっかり休め、それとももう具合は良いのか?」
「うむ、俺も夢中になって忘れていたが胡蝶に貰った薬が効いてきたようだ。」
「ふん、ならもう休暇は終わりだ。お前のお陰で俺は一晩中俺の担当区域とお前の担当区域の間を走りっぱなしだったんだからな。もうじき日が昇る、逃げられる前にさっさとこいつを始末するぞ。」
「ああ!」
「…なんか話噛み合って無かったですよね…。」
小声で呟いてみましたが特に兄上達は気にすることもなく猗窩座に切っ先を向け戦闘体制に入りました。
猗窩座は東の空が青白んで来たことに焦りを感じ始め、目の前でじりじりと距離を詰めてくる兄上達を睨みつけました。
「ち、そろそろ時間切れか、せっかく杏寿郎と二人きりで楽しむ所だったのに邪魔をされた…!この蛇男、不愉快だ!」
俺の存在は完全に無視されておりました。
「杏寿郎、お前と別れるのは名残惜しいが今日はここまでだ。俺は陽の当たらない所へ行かねばならない。だが俺はきっとお前の元に戻ってくる。…きっとだ。…だから待っていてくれ。」
「俺は待たない!今すぐあの世に逝け!」
「死ね。」
兄上と伊黒さんが猗窩座に同時に斬りかかりましたが猗窩座は後方へ大きく宙返りをし兄上と伊黒さんの斬撃を避けました。猗窩座を追うように兄上も「逃すか!」と地を蹴って飛び、逆さまの体勢の猗窩座と兄上の目線が同じ高さに並びました。
「来るな、杏寿郎!…すまない、俺はここにはいられないんだ!…お前を置いて行くことを許して欲しい。」
「何をさっきから訳のわからないことを呟いているのだ!」
兄上が猗窩座の首目がけて横一文字に刀を振りましたが猗窩座は腕で兄上の刀を弾き返しました。
「ああ、お前を置いて行く俺が許せないのか、さぞかし俺が憎いだろう、俺を恨んでもいい、でも俺はここを去らなければいけないんだ。お前の為にも、俺の為にも。」
「あの鬼さっきから兄上の言うことちっとも聞いてないですよね。自分の世界に入り込みすぎてません?」
「完全にイカれている。殺そうと思ったが気持ち悪いから近寄りたくない。」
「ですよね。」
「煉獄もとんでもない鬼に目を付けられたな。」
「伊黒さんの存在も忘れてますよ、あの鬼。」
「覚えられたくないからいい。キモい。でも出来ることなら今すぐにでも殺したい。」
「ですよね。」
俺達は空中で闘って?いる二人を苦々しい顔で見上げました。
「俺の為になりたいならこの世を去るといい!猗窩座!」
「何ということだ!初めて俺の名を呼んでくれたな、杏寿郎!嗚呼、なんて心地良い響きだ、お前の口が、声が俺の名を呼んだ!俺は今夢見心地だ!耳が幸福を感じている!だがもうさよならだ、杏寿郎。俺はお前を忘れない、この想いは次に会う日まで大切に胸の内にしまっておくとしよう。さらばだ、杏寿郎、また会う日まで。」
「何なんだ君は!」
あまりの猗窩座の不気味さに兄上は辟易し、つい攻撃の手を緩めてしまった隙に猗窩座に逃げられてしまいました。さすがに伊黒さんも猗窩座を追う気にはなれず俺達はそのまま猗窩座を逃がしてしまったのでした。
地面に着地した兄上は俺達の元に近づいて来て「奴を逃してしまった、すまない。」と言いました。
「兄上のせいではありませんよ。」
「俺も仕方ないと思う、あの鬼じゃあな。」
「確かに、俺も相手をしていて背中に虫が這うようだった。」
「あの様子ではまたお前の所に来るぞ。」
「来たら次は確実に殺す方法を考えよう。」
「宇髄にお前ん家に罠を仕掛けてもらうか。」
「宇髄さんは兄上を囮に使うから駄目です。」
「出来れば弟を危険な目には合わせたくない。一応鬼だしな。」
「千寿郎を蝶屋敷で預かってて貰ったらどうだ?」
「父上の世話が困ります。」
「放っておいても大丈夫だろう、お前らの父親じゃ一日二日のうちに死ぬ訳でもなかろうに。」
「一応父なので。」
こんな調子で話は進まずとりあえずその日は伊黒さんとは別れて朝日が照らす中俺達は宿へと戻りました。
猗窩座に破かれた服を着替えて再度風呂へ入り、もう一眠りしようと布団へ潜り込もうとした時、兄上の手が俺の手を強く引きました。
「まだ話は終わらないぞ、千寿郎。」
「え?」
「何故奴のことを黙ってた。」
兄上の目にいつもの優しさはなく、寧ろその奥に怒りの炎すら浮いて見えるようでした。
「…すみません。」
「奴の松茸を口にしたのか?」
「してません!穴を掘って埋めておりました。」
「穴に埋めただと?どこの?」
「いえ…!そうではなくて…!」
俺を見下ろす兄上の顳顬に青筋が浮き上がっておりました。一瞬兄上に対して恐怖を覚えた俺は必死に弁明しようとしましたがどう説明して良いのやら分からず慌てておりました。
「この手にはしたんだな?」
兄上は掴んだ俺の手の平を親指でさすった後自分の口元に持っていき、俺を睨みながら口を付けました。
「……!……‼︎」
「お仕置きだ。」
「えっ⁉︎だって本当に唯の松茸…!」
俺は兄上に抗うことも許されずに流されて、その後のことはもうここでは言えません。ただ素直にゆっくりと寝かせて貰うことは出来なかったのでした。