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    仁川にかわ

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    仁川にかわ

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    #ブラネロ
    branello
    #パロディ
    parody

    カーテンコールをもう一度 カット、の声がかかると、一秒、二秒未満の時間を置いて場はざわつき始めた。目の前にいる、まだ強張った面持ちの男に軽く手を挙げる。
    「ネロ」
    「……ああ、ブラッドリー、さん。お疲れ様でした」
    「何だよ、ブラッドでいいっつっただろ。敬語も」
    「けど」
    「ブラッド。はい復唱」
    「……ブラッド……」
    「よくできました」
     本当にただ復唱しただけ、という風だけども及第点としよう。軽く肩を叩くと困ったように顔を背けた。
     ブラッドリーは舞台役者である。映像作品に関わることは稀だが、演技の経験値は目の前の男──ネロ──よりあるのは確かだ。顔合わせの際はあまり見慣れぬ人間がいると思ったが、なるほど本業はモデルらしい。よく思い返せば演劇の場以外では見たことのある顔だった。
     最近はドラマや映画に役者以外の人間が抜擢されるのも珍しくはない。本業が役者以外の者を認めぬ、というほど狭量でもない。それに、ネロは抜群の演技力を見せるわけではないが自然体の演技が上手い。役柄として元相棒、の立ち位置であるがそれらしい距離感や話し方を心得ているように思う。
     本人も、役とかけ離れた性格でないのだろう。カットの後も佇まいは変わらなかった。それはブラッドリーや他の演者とて変わらぬのだが。
    「別に、役同士に関係があるからって俺に話しかけてくれなくてもいいのに」
    「何だ、俺がお情けでお前に話しかけてるとでも?」
    「……違うのか?」
     砕けた口調の方が話しやすいのだろう。敬語が外れるのは早かった。こちらもそうしてくれるとやりやすい。
    「まあ、違わねえけど」
    「やっぱり」
    「悪く思うなよ。これも職業病ってやつだ」
    「ふうん。そういや、あんたは舞台が主だったか」
     ネロの言う通り、ブラッドリーは基本的に舞台にしか出演しない役者だった。演じることそのものよりも、スポットライトの下が好きだったのだ。大仰に手を振るえば声にならぬ悲鳴が上がる。一言、ただ声にするだけでその場全てを掌握する。その快感といったら他に変え難いものだ。そして、舞台は生物である。同じストーリー、同じ人間、それなのに一つとして同じ演目にならない。まるで、生き物のように。壇上に足を踏み入れる際の鼓動の高鳴りは、ブラッドリーにとって好ましいものだった。
     今回ドラマに出ることになったのは、見目だけは愛くるしい双子の所属する事務所にあれやこれやと説得されたせいである。オーディションのある作品ではなく、完全オリジナルの、殆ど監督の趣味で撮られているこのドラマはキャストの九割があてがきだとかなんだとかと聞いた。
     ギャランティ然り、脅迫に近い説得然り、断る理由よりも受ける理由が勝ったためにここにいる。別段、映像に拒否感があるでもなし。リターンを取った結果だ。
    「悪いけど、あんたの舞台は見たことがないんだ。そういうのには疎くて」
    「別に構わねえよ。なあ、ネロ。舞台で大事なことは、何だと思う?」
    「さあ。俺は舞台も演技もさっぱりだ。答えがあるなら教えてくれ」
    「いいとも。これは俺の持論だが、それ即ち一体感だ。どんなに演技が上手くても、どんなに衣装が凝ってても、一体感がなきゃバラつきが出る。何せ舞台は生き物だ。俺たちはみんなで一匹の生き物にならなきゃなんねえ。その為には、ある程度のコミュニケーションが必要だと、俺は思ってる」
    「……なるほどねえ」
    「それとは別に、単純にお前に興味もあるよ。やる気なんてなさそうなのにやるときゃきっちりやる。そういう奴は俺好みだ」
    「そりゃ、どうも」
     ストレートな賞賛をまともに受け取らず、さらりと流す。掴み所のない男だ。有り体に言えば、壁を感じる。しかしきっぱりと拒絶するようなものではなく、それもまた不思議な男だった。パーソナルスペースが広いたちなのだろう。指一本程度でも距離を詰めれば居心地悪そうに身動ぎする。その割に、応答も雰囲気も排他的でない。本当に役柄そのもののようだ。
    「料理が好きか?」
    「え? あ、ああ。好きだよ。元々料理人になりたかったんだ」
    「はは、なら今回の役はぴったりだな」
    「……逆に気味が悪いけどな。似通った部分が多くて、嫌になる」
     無表情か、困惑した顔かの二択だったネロが初めて嫌悪感を滲ませた表情をした。言葉にせずとも、己が嫌いだと語っている。その痛々しい様子はどうも芸能界だなんて世界とは合わぬように感じた。よりによって見目を晒すような職種に就いているとは思えない。とは言え、ブラッドリーには何ら関係のない話であるのだが。
    「ま、何にせよよろしく頼むよ。相棒?」
    「元相棒、だろ」
     台本の台詞をなぞって返答するネロは、飄々とした笑みを浮かべた。


     いや全くもって。やりやすいったらありゃしない。
     何のことかと言えばネロのことだ。初めてネロと一対一で会話をするシーンを撮ったが、これがまた滑らかなのだ。一に呼吸が合う。二に動きが合う。三に間合いが合う。舞台役者故か少々演技が大仰になりがちなブラッドリーと対比して浮かぬよう動いている。余白をぴったり隙間なく埋めてくるような演技だった。目線であったり指先の動きであったり指示されない部分も繊細だ。主だって動くよりそちらが向いているのかもしれない。
    「お前、演技は初めてなんだろ? ひょっとすれば下手な新人より上手いぞ」
    「あんたにそう言われるなら、嘘でも嬉しいよ」
    「嘘じゃねえって。大したもんだ」
     賞賛を受け取ったのだか受け取ってないのだか、曖昧な笑顔で目線を逸らしたネロはブラッドリーの様子を伺っていた。何か言いたげにしているのにそそくさと距離を置こうとするので肩を掴まえて引き寄せる。体勢を大きく崩したネロが思いっきり胸に飛び込んできた。
    「なっ……な、に」
    「何って、お前が何だよ。俺に言いてえことがあんだろ? 聞いてやるから、言え」
    「……別に、そういうんじゃ」
     まるで警戒心の強い野良猫のようだ。手招いて指を嗅がせて、それでもまだ訝しげに尻尾を太く毛を逆立てているかのような。しかしじいっと見つめると、降参したのか口を開く。
    「流石だなって思っただけだ」
    「あん?」
    「プロにこういうこと言うのは失礼かも知んねえけどさ、ほら、本業が役者なだけあって素晴らしい演技だった」
    「……ああ、そう?」
     どうにもその場しのぎの嘘くさい台詞だ。本当にそういうことを思って様子伺いをしていたのだろうか。隠していることが他にあると直感するが問い詰めるほどまだ親しくない。
     こちらとしてはもう少し距離を詰めたいところだが、このネロという男に関しては難航していた。同じ作品という船に乗るもの同士、深い深い関係にならずとも摩擦がないに越したことはない。腹の底で何を思っていようが上手く滞りなく水が流れるように立ち回るのがブラッドリーの基本だった。
     手始めに会話。それからスキンシップ。同じ窯の飯でも食べられたら上等。特に役柄が近しいほどにそれは必須条件だ。だというのにそれらを満たしてものらりくらりとネロは逃げていく。掴めている感覚がしない。本音を隠した表面ですら薄い膜を張って触れているかのようだ。
     ネロという男がどんな男なのか、語ろうと思えば語れるが果たしてそれは本当に「ネロ」なのか。そういった疑問さえ湧く。
     カットの声がかかっても役を演じたまま、仮面を下ろしていないのではないか。そんな風にさえ。
     それは、興味からだった。秘められたその奥には何があるのだろうか、と探りたくなるような好奇心。まだ幕の上がらぬ舞台の内側へ、一人足を踏み入れるかのような高揚。それに伴う背徳感、じみたものが。
     どこか危うい、この人間へと向けられたのであった。
    「なあ、ネロ。お前料理好きっつってたよな。料理人になりたかったって」
    「ああ、まあ。一応」
    「食わせて」
    「は?」
    「いいだろ。元相棒の飯を食ったことねえってのもおかしな話じゃねえか」
    「それは役の話だ」
    「材料費は出すさ。手間賃も。嫌か?」
     卑怯な聞き方をした。ネロが根本的には人の良い奴だと知って、抗えないような理由を用意した。近付くと身を硬くするわりには、完全に拒絶されてはいないのだ。嫌か、と聞いて嫌だ、と答えられるような男ではないと確信している。
    「嫌、とか、そういうんじゃないけど……」
    「怯えるなよ。取って食おうってんじゃねえんだ。何、お前と一つになりたいのさ」
     首筋に走る太い血管、浮き出たそこを押さえる。規則的な脈拍が、不規則になる。こうなると照明はなくともここはブラッドリーのステージだ。目線、唇、吐息、全てで絡め取って奪い取る。
     とびっきりの愛の台詞を囁くように、ブラッドリーは笑う。
    「お前と、同じ生き物になりたい」
     ヒュウ、と鳴ったのは誰の唇からか。数メートル先でカインがぎこちなく頬を染めていた。それから、ペットボトルをワインのように傾けて鑑賞しているシャイロックとムルも。
     気付けばギャラリーに囲まれていた。ネロも周りを見て知ったようで慌てふためいている。あうあうと口を開閉させて、大きく三歩ほど後退りをした。
    「わ、わかった! ……けど、手間賃とかはいらない」
    「よっし。じゃあ決まりな。この後何もないだろ? 買い物行くぞ」
    「あ、え、今から? 嘘だろ?」
    「思い立ったが吉日ってな」
     ずるずると連行されていくネロを引き止める者はいない。みな生暖かい目でこちらを見つめていた。最初はモデルらしく長い脚をばたつかせていたが、次第に大人しくなって、睾丸を取られた雄猫のように従う。尻を見れば垂れた尻尾が見えるようだった。
    「肉がいい。野菜は勘弁」
    「……鶏? 牛? それとも豚?」
    「美味けりゃ何でもいい。鹿でも熊でも」
    「スーパーにジビエが売ってるかよ」
     はあ、と力なくため息をついたネロは顎に手を当てて思案し始めた。脳内でレシピをリストアップしているのだろうか。生真面目な後頭部に結えた髪が揺れている。スタジオを出て廊下を歩く間も無心に考えているのか、二人の組み合わせにぎょっとしたスタッフにも気付かずエレベーターホールまで辿り着いた。
     気が抜けているのをいいことにいくつかの条件を了承させる。よく聞かずにうん、うん、と相槌を打つので言質は余るほど取れた。あまりにも、何というか、簡単に事が運ぶものだからこちらが騙されているかのような気分になる。よくぞ一人でここまで生きてこれたと賞賛したいくらいには無防備だ。笑顔の裏で騙し騙され握り握られの世界だというのにこれで大丈夫なのかと事務所に押しかけたくなった。
     ネロが我に返ったのは駐車場、ブラッドリーの車の前に立ってからだった。銀のエンブレムが光る黒塗りの愛車を前にして凍りついている。
    「これ、あんたの車?」
    「おうとも。俺様の愛車だ。イケてんだろ」
    「……うん。超イケてる。パトカーが追っかけてきそうな感じ」
     冷や汗をかいて露骨に目を逸らされた。何だか期待とは違う肯定を得た気はするが、まあいい。運転席に乗り込むと、数秒遅れてネロが助手席へ滑り込んだ。
    「よく行くスーパーは?」
    「ちょっとわかりづらいけど、ここを右にずっと行った先にデカい銀行があるだろ? それをまた右に曲がって、その裏」
    「了解」
     エンジンを蒸し、レバーを倒す。ヘッドボードに置きっぱなしのサングラスをかけながら、片手でハンドルを切る。赤茶色のグラス越しにネロと目が合った。また逸らされるかと思いきや、何故だか存外に真っ直ぐに見つめてきてこちらが照れてしまった。
     ああ、本当にわからない男だ。不本意に赤くなった目尻を誤魔化すように、ブラッドリーはペダルを思いっ切り踏んだ。


    「なあネロ」
    「だめだ。ブラッド、戻すな。野菜も買う」
    「ネロ」
    「あんたどうせトマトは嫌いでもトマトケチャップは食える口だろ。お子様と同じだ」
    「誰がガキ舌だよ」
    「違う?」
    「……違わねえ」
     白と黒の派手なツートンカラーの頭、柄シャツ、サングラス。一般市民向けのスーパーマーケットでは浮きまくりのいで立ちの男が、優男に言いくるめられているのは尚のこと浮いていた。
    「それにしても、あんた変装とかしないのな」
    「隠すようなことなんざねえからな」
    「パパラッチはどうしてんの」
    「俺は運が良くてな。ラッキーなことに足元にカメラが転がってくるんだ。うっかり踏み潰しちまう」
     先の尖った革靴でトントン、と床を蹴る。遠巻きに観察していた、気弱そうな中年の男がそそくさとカートを引いて逃げ去って行った。物珍しそうにひそひそと隣のマダムとお喋りをしているマダムにはサングラスを外してウインクを一つ投げる。きゃあっ、と少女のような悲鳴。まるでここが彼のために用意されたステージで、他は皆観客であるかのようであった。
    「慣れてるな」
    「何に」
    「目立つことに?」
    「そりゃあ、そうさ。それで飯食ってんだ」
    「俺はどうも苦手だ。慣れない」
    「だろうなあ。何でモデルやってんのか不思議で仕方ない」
     口にしてから気付く。踏み込んだ発言をしたかもしれない。目立つことが嫌いで、自分のことも嫌っているのに容姿を売りにした仕事をしている不可思議さは何も理由なしには生まれまい。
    「……知りたいか?」
     試すように、ネロが囁く。
     知りたくないとは言わない。ただ、ここで口を割らせるのも本意ではなかった。ずるをして答えを知っても面白くないだろう。この手で落として見つけるからこそ、楽しいのではないか。かぶりを振ってノーと示す。予想通りとも期待外れとも表には出さず、ネロは目を伏せた。
     お前こそ。と声に出しそうになった。知られたいのか、知られたくないのか。隠したいのか、見つけられたいのか。どちらなのか、と。
     ネロという男を少ない期間ではあるが、見てきてわかってきたことがある。
     基本的に人と関わることを拒んでいること。だが完璧に拒みきっているわけではないこと。些細な会話はするけれど、踏み入った話はしない。自分の内側を見せたがらない。他者の感情の機微に敏感で繊細。そして、自分自身のことを好んでいないのだろうということ。
     そんな男がちらりちらりと胸の奥を見せるような真似をするのは疑問だった。まるで、見つけてくれと願うように欠片を溢して様子を窺っているのだ。それとは裏腹に、見つけないでくれと祈るように姿を消してしまう。
     ブラッドリーに、何を求めているのか。何故、ブラッドリーなのか。
     初めて会うはずなのに、どうして。
     ネロは顔合わせの際にはっきりと言った。初めまして、と。こちらも共演した覚えもなければネロの名前に見覚えもなかったので差し伸べられた手を握り返した。
     果たして、それは真実だろうか。
     ブラッドリーも知らないブラッドリーの癖を見抜いて隙間を埋める演技も。僅かなズレもなくぴったりと凹凸が嵌まるような空気も、あまりにも居心地のいい台詞の応酬も。あの日まで、ネロは、ブラッドリーを知らなかった? 本当に?
     疑えばキリのない話だ。己が歩んできた道の中の、何処かにネロがいたのか。いたのなら、初めましてを装う理由は何だ。
     巡る脳内を裂いて、ネロの声がした。百年前からの相棒みたいに、呼ばれる愛称。
    「ブラッド」
    「──あ、あ。どうした?」
    「いや、エコバック持ってねえかなって。袋金かかるし」
    「馬鹿野郎。んなケチなことするかよ。おら、かご貸せ」
     世帯じみた台詞に毒気を抜かれたブラッドリーは、半ば強奪気味にかごを取ってレジに並んだ。横でちゃっかり自分のポイントカードを提示しているネロを見て、何だか、肩の力がどっと抜けていくのを感じた。


     さて、マーケットを出て慣れた道を走らせるとやっとネロが首を傾げる。ここからはナビも道案内もいらない。毎日通っている道だ。
    「何処向かってんの?」
    「俺んち。言っただろ?」
    「言ってなくない……?」
    「言った言った。お前もうんって言ってた」
     空返事ではあったが。敢えては言うまい。
     自信満々に言い切れば、多少訝しげにしつつも反論は消えた。押しに弱すぎやしないかと何度目かの不安が過ぎる。変な詐欺に引っかかりそうだ。
     車を走らせること五分弱、マンションの駐車場に車を止め、有無を言わさず袋を抱えてエントランスへ歩みを進めた。案の定慌てながら袋を奪い取ろうとするので腕を高く掲げて取られないようにする。数センチの身長差に敗北したネロは両腕をぶんぶんと振り回しながら後をついてくるだけだった。
     部屋番号をキーパッドに入力し、液晶に手首を重ねる。電子音とともにドアが開いた。真っ直ぐにエレベーターに向かうがまだ荷物を諦めていないネロが腕に縋り付く。
    「せめて、半分くらいは」
    「俺様の腕はこんくらいで音を上げるほど軟弱じゃねえよ。それに、もう着く」
     振動の少ないエレベーター内では大の男が少々ばたついたところで揺れはしない。言うが早いか、チン、と古めかしい音を立てて目的地へ到着した。カードキーを翳して解錠、最後の抵抗か扉を押さえる役目だけは譲らなかったのでありがたく玄関を潜ることにする。
    「ほら、あがれ」
    「……お邪魔します……」
     キッチンテーブルに食材の入った袋を広げる。靴も脱がずにまごついているネロを二、三度急かして顎をしゃくると脱いだ靴を隅っこに寄せて、また玄関先で立ち尽くしていた。
    「スリッパはそこの使え。キッチンはここ。鍋や包丁なんかは揃ってる」
    「意外、だな。料理しなさそうなのに」
    「しねえけどよ。そろそろ自炊しろって道具一式押し付けてきやがったんだ」
    「誰が?」
    「親父」
     食材を切るより人に向ける方が慣れたダミーナイフ。金だけは有り余るほどあるからか、包丁だけで数種類もあれば何に使うかもよくわからない調理器具までぎっしりと段ボールに詰められ送られてきたのだ。一度蓋を開けたものの手付かずのまま放置されている。ものはいいはずなのでネロのお眼鏡に敵うことだろう。
     大きなL字のソファとガラス棚が置けることを条件に探したマンションは自然とキッチンセットがついてきた。朝コーヒーを沸かすか、晩酌の割り材を用意するかの二択でしか使われていないためにまっさらで新品同様ピカピカだ。
     台所事情に詳しくないため設備の良し悪しはわからないが、僅かに目を輝かせたネロを見る限り良いものであるらしい。あれやこれやとフライパンや鍋を手に取って鼻息を荒くしている様子は歳より幼く見えた。
     いそいそと準備を始めたネロを横目に、ブラッドリーはソファに背中を沈める。食材を細切れにしていく手際の良さは、料理好きというのも頷けた。
    「メニューは?」
    「海老のビスク、牛肉のソテー、ポークピカタ……と」
    「と?」
    「……フライドチキン」
    「おっ、いいじゃねえか、肉多めでよ。しかもフライドチキンは好物だ」
    「それから、サラダ」
    「げ」
    「バランスもクソもない肉料理まみれなんだから、サラダくらい食っとけよ」
    「やだよ、勘弁つったじゃん」
    「勘弁してやるとは言ってない」
     リクエスト通りの大量の肉料理にサラダをつけることが妥協点なのだろう。包丁片手にギロリとブラッドリーを睨む目つきは真剣だった。全く、おっかないことである。ハンズアップして反論を収めた。元々食べさせろと頼んだのはこちら側であるので食べ残しは御法度だ。すでに食欲を唆る香りも漂っているのにサラダを食わぬのなら肉もなし、と言われるのはそれこそ勘弁願いたい。
     ひらりひらり、舞うようにキッチンを動き回る背中を眺めるのは悪くない時間だった。
     そのときばかりは強張った無表情でもなく、気怠げな顔でもなく、楽しそうに笑みまで浮かべている。きっとこれが演技でも何でもないネロの素顔だ。
     肉の脂が強く香って、かちゃかちゃと食器のなる音がした段階で後ろ姿に声をかけた。
    「そういや、ネロ。ワインはいける口か?」
    「ワイン? 好きだよ。赤も白も」
    「とっておきを出してやる。感謝しろ」
     かごに入れられていたスパイスやハーブたちの瓶の真ん中に、揚げられる前のチキンがボウルで泳いでいる。フライパンの中には理想的な焼き色の肉。思わず唾液が咥内に滲み出た。
     やはり、いい料理にはいい酒が必要だろう。鼻歌まじりにグラスを二脚抱えて小ぶりのワインセラーの前に立った。並の社会人ならば目玉が飛び出るほどのボトルがずらりと鎮座している。その中から大事にしまっておいた一つを取り出してテーブルに置いた。丁度、油の弾ける音がする。腹の虫も暴れ出す頃合いだ。
    「あ、皿勝手に使っちまったけど……よかったか?」
    「いい、いい。好きに使え」
     一つ一つテーブルに並べられていく皿はこれも殆ど未使用のものだ。ご丁寧に蓋にはソースで模様が描かれている。後ろにソファが、下に毛足の長いラグがなければ写真を撮ってレストランで出されたと言っても通用する出来上がりだった。
    「美味そうじゃねえか!」
    「そう、じゃなくて美味いよ。絶対」
     普段は無気力げな男が不敵ににやりと笑う。断言された言葉に後押しされてカトラリーの準備もそこそこに手を合わせた。
    「いただきます」
    「はい、召し上がれ」
     スプーンで掬って一口。フォークで刺して一口。ナイフで切って一口。咀嚼、咀嚼、嚥下。美味い、と言おうとしたが手が止まらず口の端についたソースさえ惜しくて、舐めとって飲み込んでようやく口を開けた。
    「美味え。マジで美味え」
    「……そりゃ、よかった」
     自信ありげに言い放った癖に、緊張気味にブラッドリーが食べ進めるのを見ていたネロはほっと息を吐いた。乾杯がまだだったことを思い出し、グラスにワインを注ぐ。よほど食欲を抑えきれなかったようだ。ネロの分の皿はまだ手付かずだ。ここからでも間に合うだろう。
    「じゃ、美味い飯と相棒に、乾杯」
    「元相棒、な」
    「はっ、相変わらずつれねえな」
     控えめにグラスが交わる。ワインと料理のマリアージュが更に食欲を増幅させた。
     焼き立ての温かいバゲットをビスクに浸して齧る。手を油まみれにしてフライドチキンを次々口に放り込む。大喰らいの自覚はあったが、それでももっと食べたいと胃が叫んでいた。
     ネロはワインを少し煽って、いただきます、と呟くと小さな口でちまちまと肉を食べていた。うんうんと頷いているのを見ると、本人も満足のいく味だったとわかる。ブラッドリーが手を伸ばしていないサラダを喰む様はうさぎか何かのようだ。
     指が三本入るか入らないかわからないくらいの小さな口。咀嚼の合間に舌が覗く。あの舌が、この料理を作ったのだ。へえ、と感嘆して眺めているとブラッドリーの目の前にサラダボウルが差し出された。
    「ブラッド、サラダも」
    「うへぇ」
    「わがまま言うな」
    「……わぁったよ」
     ネロの腕が確かでも、野菜は野菜だ。サラダなんてものは野菜の味が際立ってなんぼの料理である。ドレッシングで味を誤魔化したとて、青臭さは消えない。手製であろうドレッシングは、野菜の味を損なわない程度にしかかけられておらず、到底青臭さを消し去れるようなものではなかった。
     一挙一動を観察されながら、不承不承サラダを食べる。こればっかりは、美味い、と言えなかった。ネロを見上げると、いたずらっぽく目を細めている。
    「偉い、偉い」
    「ガキ扱いすんな……」
     普段ならば馬鹿にしたような物言いに怒りを憶えてもおかしくないのだが、ネロがあまりにも楽しそうに笑うので気力が削がれてしまった。語尾も曖昧に消えてゆく。舌に未だ葉の味が残っていて、文字通り苦々しく唇を歪めると、ネロは眉を下げて苦笑した。
    「残りは俺が食べるよ。そっちにも野菜入ってるしな」
    「は? どれだよ」
    「ビスク。ペーストにしたやつを混ぜてある」
    「マジか」
    「やっぱり、ちょっと手を加えりゃ食えるタイプだったな」
     全て食べろと言われるかと思いきやボウルを引き取られて拍子抜けした。そして衝撃の事実に皿を二度見する。美味い美味いと食べていたものに野菜が入っていたとは。何と、全てネロの目論見通り。まんまとブラッドリーは野菜を食わされていた。正に、これは一杯食わされた。
     騙されたことよりも、恐ろしいほどブラッドリーを理解した手際に驚いた。その内、愉快になって笑い出す。贅沢にワインを搔っ食らうと、ネロのグラスにも追加で注いだ。並々に注がれて危うく溢れそうになって慌てている。
    「いい度胸だよ、お前。いいな、気に入った!」
     二度目の乾杯を交わす。一度目と違いがちゃん! とぶつかって縁から飛び出たのを床に落ちる前にネロが口で受け止めた。一気に飲んだからか頬が赤くなっている。酔いのせいか潤んだ瞳で、ネロは下手くそに唇を吊り上げた。生理的な涙のはずなのに、それは、今にも泣き出しそうな顔に見えた。


     すっかり空っぽになった皿を端に避けて、まだ空にならないボトルを傾けては二人してソファに沈んでいた。食事の後も簡単なものだけど、と言いながらネロは立派なつまみを作ってきた。ちびりちびり、酒を飲みつつ、語らう。他のキャストの話だったり、どうでもいい話だったり。当初の目的は果たされつつある気がしていたが、まだ隠されたものがあるのは確かだった。
     気安く、気軽に話すのに、それを自覚するとネロは逃げる。やってしまった、と後悔するように。上機嫌になって二回目の乾杯をした後から、ネロはまた遠慮がちになった。
     サシ呑みの段階になって自然に隣に座ってやると、拳一つ分横に逃げる。ムキになって詰め寄ったら、また逃げる。結果広いソファの端にぎゅうぎゅう詰めで座る大人二人が完成した。
     杯を重ねる毎にネロの口数は減り、顔は赤くなる。ううん、と頭を抱えた辺りからこの部屋は静寂に包まれている。何故かってそれは、ブラッドリーの片手が不自由なことに由来した。
    「…………」
     ブラッドリーは酒飲みであるが、アルコールに弱くはない。気分は良くなれど、正気を失ったり記憶が飛ぶようなことはない。理性を保ったまま程よく心地よく酒を嗜む。故に、アルコールに包まれた脳味噌であっても冷静そのものであった。
    「……ネロ。ネロ」
    「……ぅ、ん……んー……」
     空いた手で肩を揺さぶる。けれど、意味のない呻き声がするだけで返事はないようなものだ。眠っているわけではないのか、目は開いている。それでも、ぱちぱちと緩慢に瞬きをしてとろんと蕩けているが。
     ぎゅう、と掌が暖かく包まれるのを感じた。形を確かめるように握って、肌をするするとなぞっては愛おしそうに指同士を絡める。ブラッドリーの片手が不自由な理由は、これだった。
     スキンシップ、なんてものじゃない。愛撫とさえ表現していいだろう。至極丁寧に熱い指先で手を繋がれて何とも思わない人間がいたら連れてきて欲しい。少なくとも好意や興味を抱いた相手からならば、尚更。どうにも振り回されてばかりだ。近付いたかと思えば離れて、捕まえたかと思えば逃げて。だのにこうしてこちらを捕らえて離さない。手枷でも嵌められたかのように振り払うこともできない。
    「お前さあ、本当、何考えてんだよ……」
     好かれているのか、嫌われているのかもわからない。否、嫌われてはいないだろうと思いたいが、苦手意識を持たれているのだろうなあとは感じていた。見た目も中身もド派手で豪快なブラッドリーに、繊細で陰気なネロは怯え腰だ。それでも何だかんだ言いつつ着いてくるし、話もする。
     ネロは、ブラッドリーに何を求めているのか。それが理解できないでいた。
     どうしてだろうか。このままなあなあにそこそこに親しい関係をキープして、クランクアップを迎えてもいいのに、そうしたくない自分がいた。寂しげに笑うネロを、放ったらかしにしたくはなかった。涙も流さずに泣くのを、見て見ぬ振りはできなかった。
     茨だらけの心を暴いたら、ブラッドリーが置いてきた過去のひとひらがそこに存在するのだろうか。
    「……なあ、お前は何がしたい? 何を求めてる?」
     応えを期待せず、問い掛ける。再びネロがうんうんと唸った。そして、抱き上げたブラッドリーの掌を頬に寄せ、呟く。とびっきりの、愛の台詞を囁くように。
    「ボス」
    「……あ?」
    「……ボス、俺は、あんたが……」
     刹那、こめかみが痛んだ。そこまで酔ってもいないのに、頭痛が止まない。ボス。ボス、とブラッドリーを呼ぶのは誰だ。遠い遠い記憶、遥か遥か昔、埋もれた過去の中、誰かがブラッドリーをそう呼んでいた。
    「……あんたがいたら、それでいい」
     その言葉を最後に、ネロの目蓋は閉じ切った。幕は降りた。取り残された観客はブラッドリー一人。細い睫毛に縁取られた目蓋を親指でなぞる。桃色に、血の色が透けた肌は白く、白く。その奥、その瞳はどんな色をしていたか。思い出そうにも、カーテンコールもない舞台では、閉じた幕はもう上がることはなかった。
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