経験なんて役に立たないこともある 今日がハロウィンだと気が付いたのは、マンションの駐車場に車を停めてすぐだった。聞き慣れた通知音にスマートフォンの画面を見れば、恋人からの『牛乳買ってきてほしいです』の連絡。そのついでに、十月三十一日の日付も目に入った。別にテンションの上下があることもなく、ああそう言えば今日だったな、とそれくらい。もう少し早ければコンビニに寄れたのに。
自分にはハロウィンだからと特別なことをする習慣はないが、街の装飾や店は八月が終わった途端にハロウィン仕様に変わる。せっかくの装飾も一ヵ月も経てばただの見慣れた風景になってしまったけれど、そういえば確かに仮装をした集団を見かけたような。
『今駐車場に着いたとこ。今いるなら行ってくるよ』
『いや、それならいいです』
いらないと言われたらまあいいのだろう。また必要なら行けばいい。
エレベーターで三階に上がって、すぐ右の部屋が降谷と新一が住んでいる場所だ。鍵を開けようとキーケースに並んだ鍵を扉に近づけた降谷は、カチャリと鍵を差し込む直前で、止まった。ドア横の小窓からは家の中の光が僅かに漏れている。
──またか。囁くように呟いて肩をすくめると、鍵を差し込むことなくそのままドアノブを引いた。
「不用心な家だな」
キーケースを靴箱の上に置き、ドアの内鍵とチェーンをかけながら言うと、部屋の奥から「ただいまの前に文句ですか」と不満気な声がした。それから、いい香りがする。いい香りではあるけれど、降谷は妙に不安な気持ちで「ただいま」と返した。
リビングに繋がる扉を開けた瞬間、部屋いっぱいに広がるカボチャの香りが降谷を包み込んだ。というより、襲った、と言った方が近い。そこに、僅かに焦げたような香ばしい香りが混じる。原因は探る必要もなく明らかだ。降谷の視線の先、キッチンに立つ新一。その目の前のまな板の上には、当然のようにカボチャが一つ。
「駐車場着いたって言うから、開けといた方がいいかと思って今開けたんですよ」
ああ、そうなんだ、ありがとう。近付きながら新一の厚意には素直に感謝し、そして少々、いや多少、いや割と、奮闘した形跡が見えるキッチンをくるりと見渡した。
「……一応、説明だけ聞いておこうかな」
新一は一瞬だけ手を止め、視線は降谷に向けないまま言った。
「……カボチャの種取ってます」
確かに。確かにそうだ。新一の手はそれ以上言いようのない作業をしている。しかし、降谷はそれ以上の説明を求めるべくそのまま新一の言葉を待った。
「流石のオレも同じ失敗を繰り返すわけにいかないんで、今日は半分のやつ買いましたし、レンチンもしたんですよ」
なるほど。降谷はその短い言い分にとりあえず納得した。
何故か得意気な彼の言う「失敗」が指すものについて、降谷はもちろん知っていた。まな板の上、丸のままのカボチャに垂直に突き刺さった包丁の写真と共に「助けて」と連絡があったのは今からちょうど一年前、昨年のハロウィンのことだ。
昨年のハロウィンの日も、新一は何か特別なことをしようとしていた。その一つがカボチャを使ったお菓子と料理だ。たくさん使うだろうとカットされていない大きなカボチャを一つ購入した。カボチャを切ろうと包丁を手に取った新一は、まずは単純にまな板に対して平行に押し当て、のこぎりよろしく前後に動かした。しかし、それでは硬いカボチャの皮に歯が立たないことを悟った彼は、ならばと並行だった包丁を垂直に握り直した。殺人現場くらいでしか見たことのない角度に──まな板に垂直に向けられた包丁は、彼の手によって勢いよくカボチャの中心、芯の部分に突き刺さった。
刺さったのはよかった。ただ、カボチャに突き刺さった包丁は、そこからピクリとも動かなくなった。押しても引いても、深く突き刺さった包丁がするりと容易に抜けるはずもない。十分ほど格闘し、それでも抜けない包丁をどうにかするべく、答えを求めて連絡したのが降谷だった。
工藤新一は今まで料理をあまりしてこなかった。料理には知識と、経験が必要だ。彼に足りないのは決して適正ではなく、経験である。そして経験に付随して身に着くはずの技術も不足している。技術が身に着くまで経験を積むのにかかる時間と、既製品を購入する金額を天秤にかけ、工藤新一は既製品を取った。普段は降谷が料理を担当すればよいことなので、新一が今から時間をかけて技術を身に着ける必要はない。ただ、だからと言って料理を一切しようとしないわけではないところがまた、工藤新一らしいと言える。
さて、今回まな板の上に置かれたのは、丸のままのカボチャではなく、半分にカットされたカボチャだ。半分とはいえ、小さめのまな板から少々はみ出す程度には大きい。そのカボチャが、種とワタを取ろうとしたのであろうスプーンに削り取られ、ほぼ皮のみの状態でそこにあった。ところどころ焦げたワタと種、そしてまな板の周りは、各所に飛び散ったカボチャ。奮闘したのがよくわかる。新一が言うには、カボチャをレンジで温めたら少しばかり焦げた、と。レンジを使用したのはいい。これは以前降谷が教えたことだ。──カボチャは切る前にレンジで少し加熱すると楽にカットできるよ。前回、結局降谷の帰りを待って何とかカボチャから包丁を抜き取った際に降谷が言った言葉を思い出し、ようやくこの時がと一年越しに実践した。
ただ、世間一般で言う「少し加熱」と、彼の想像した「少し加熱」の認識のずれを、降谷も新一も想定していなかった。
「何分チンしても大して見た目変わんないんで、どんだけすりゃいいんだろって思ってはいたんですよね」
笑いながら、新一はワタか果肉かわからない部分をスプーンですくって、種とワタだけを一生懸命分別して三角コーナーに放り投げている。焦げるまでレンジで加熱されたカボチャは、これ以上の加熱が不要なほど完全に火が通っている。
「レシピって」
鞄を片付けるのも、ジャケットを脱ぐのも忘れて新一が腰をかがめている姿を見ていた降谷は、そこでようやく「うん」と新一に相槌を返しながらその場を離れた。
「いくら初心者向け、簡単、って書いてあっても、少々とか適量とか一つまみとか、それから──周りが白くなるまで焼く、柔らかくなるまで煮るみたいな、そういうのは結局経験と技術が必要なんですよ」
新一に耳だけ向けながら、降谷は寝室に向かい、鞄を床に置いてネクタイの結び目を緩めた。ジャケットをハンガーに掛けてから再びキッチンへ戻ると、新一は種とワタの除去を終えたらしく、今度はカボチャの皮を危なっかしい様子で削り取ろうとしている。
「つまりこの状況は、経験と技術が不足している君に、カボチャは少々加熱すると切りやすい、と曖昧に伝えた僕の落ち度ってことだ」
「そういうことです」
開き直って堂々と言ってのける新一に小さく笑いながら「今後気を付けるよ」と言うと、隣に並んで手元を覗き込む。ドロドロになったわけではないが、スプーンで簡単に潰れるほど柔らかくなったカボチャは、皮を取るよりもそのままスプーンで中身を掬い取った方が手っ取り早そうだ。
「……で、これが何になる予定?」
「パンプキンパイです」
新一の返答に降谷は一瞬、固まった。新一には気付かれない程度であったと言える。即座に柔らかく笑むと、可能な限り優しい声を出すべく小さく咳払いをした。
「──新一くん、パイは……」
「パイはちゃんと冷凍のシート買いましたよ」
君には少し難易度が。言いかけて、別の言い方を探そうとした降谷に、新一はムッとした様子で答えて、視線でコンロの方を指した。新一の視線の方に目を向ければ、確かにコンロの上に冷凍のパイシートが置いてある。
少し以前の彼ならば高難易度のものでも果敢に取り組んでいただろう。最近になって、自分の実力に気が付いたようだ。今からパイづくりをしていては、降谷との貴重な時間と、それから、昨日掃除したばかりの綺麗なキッチンが無駄になる。
「いやよかった。成長だね」
「……どういう意味ですか」
「いやいや、ポジティブに受け取ってくれていいよ」
彼の作業時間を考えればまだ冷凍庫から出しておくには早すぎると、パイシートを冷凍庫に再び戻しながら言うと、カボチャの皮を一生懸命取り除いていた新一の手が止まった。ああそうだ、スプーンでこそげ取った方が早いよ、と言えばよかった。言おうと口を開きかけた降谷に、細めた目が向けられた。言葉無しに降谷を追い出そうとしている。
「何か言いたそうだね」
「……下手なことしないんで、もうソファでも座っててくださいよ」
母さんみたい、とぽそりと落とされた言葉が意外と突き刺さって、降谷はそれ以上の言葉を飲み込んで、肩を落としてキッチンを出た。。
「成功です」
何度もキッチンに行こうとするのを視線で追い返され、そわそわと手持無沙汰に過ごしているうち、しばらくして得意気な声が届いた。少しも頭に入らないテレビから視線を外してキッチンに向かうと、オーブンの天板の上には手のひらより少し小さなパイが八個並んでいる。つや出しの卵黄も丁寧に塗ってあって、少々カボチャが飛び出していたり形が歪だったり、けれどそれにしても意外とまともな仕上がりだ。
「おお」
「見た目も今のところ完璧なんで、焼く前から成功が見えてますよ」
見た目が完璧、の評価が多少気になるが、ここに手を出してはいけないことくらいわかる。新一が見ていたレシピはシンプルなものだったので、警戒するほどのものが出来上がることはおそらくないだろう。
「そうだね」
「なんですかその返事」
「いや、楽しみだなと思って」
言うと、新一は降谷を見上げて大袈裟に眉を下げてみせた。
「……残念なんですけど、降谷さんは食べられませんよ」
「え? どうして?」
「自分の胸に聞いてください」
残念です、オレの貴重な手作りパンプキンパイなのに。そう言いながら新一はフイと顔を逸らし、予熱してあったオーブンにパイを放り込んだ。
つんとした新一と並んで器具を片付け、エプロンを外した彼と共にソファに戻ったところで、パイが焼けるまであと十分ほど。新一は一仕事終えたと言う様子で、頭を背もたれに乗せて目を閉じ、だらりとソファに身を預けている。そういう無防備な姿も今では見慣れたものだけれども、いつになってもたまらないな、と思う。
「新一くん」
「なんですか」
「いま、君はハロウィンだっていうのに僕に渡すお菓子が手元にないわけだよね」
「自業自得ですけどね」
「トリックオアトリート」
降谷の声に、新一の目が薄く開いた。身体はだらりとしたまま、顔がゆっくりと降谷の方に向けられる。
「……パイはあげませんよ」
「そうなると、いたずらを受けてもらうことになるけど」
ほんの冗談のつもりだった。特に面白そうなテレビ番組があるわけでもなかったし、今日は新一に話すほど面白い出来事もなかったし、ただ何をするでもなく黙っていてもよかったけど。今日がたまたまハロウィンで、新一がたまたまお菓子を作っていて、それから、君が隣でだらけている。そうしたらなんとなくキスがしたくなることだってある。
薄目が開き、ピントを合わせるようにぱちぱち、と二度新一の長い睫毛が揺れる。数秒の沈黙に、さらにもう一度瞬きをした。
「いたずらって、キスとかじゃないですよね?」
新一と同じように背もたれにだらりとしていた降谷は、新一の言葉がそのまま、降谷の図星をついたせいでふと押し黙った。
「……」
降谷の沈黙に、新一がうそだろ、とでも言いたげに身体を少しだけ起こした。降谷の顔を覗き込もうとするのがわかって、降谷は慌てて目を閉じる。
「降谷さん、ハロウィンのいたずらがキスってのはちょっと」
古、まで口から出た新一は「あ、いえ、ベタ過ぎません?」と言い直した。言い直してももうほとんど言ってしまった後だ。つまり、降谷の耳と、それから心に、その言葉はしっかりと届いた後だ。
「……忘れて」
耐えられず、右腕で咄嗟に顔を隠した。降谷の周知を横目に、さっきまで拗ねていたのはどこ吹く風の新一が、となりでけらけらと笑っているのが聞こえる。
ひとしきり笑って、はあ、と大きく息を吐いたのが聞こえた直後、降谷の右腕が新一によって持ち上げられた。隣を見れば、急に明るくなってぼんやりとする視界に、妙に嬉しそうな顔をした新一が映る。
「でも、」
新一が目を細めて笑っている。
「ベタなのと、キスしたいかどうかってのは別の話ですよ」
しないんですか、と言って新一は持ち上げていた降谷の右手を離して、もう一度顔の上に乗せた。
再び自らの腕で暗くなる視界。今度は自分でそっと腕を下ろすと、新一は先ほどと同じような体勢で目を閉じていた。けれどさっきとは全く違う。さあどうぞ、と言わんばかり。
「……君はなんていうか」
失礼な発言だと拗ねて降谷を睨んでいたくせに、三人掛けの広めのソファで端に腰かけていた降谷の隣に座るところとか、背もたれに預けたままの頭を降谷の方に寄せて、すぐにキスができるよう待っているところとか。
「いつまでたっても難解だ」
「オレといると飽きなくていいですね」
「本当にね」
振り回されっぱなしだ、と言うと、新一はまんざらでもない様子で笑って降谷の方に身体をずらし、もう一度キスを誘った。
負けた。キスをしようと身体を起こし、少し長くなった新一の前髪をするりと撫でたところで、ピー、と聞き慣れた電子音。
「「──あ、焼けた」」
おわり