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    アメチャヌ

    ガムリチャか捏造家族かガムリチャ前提の何か。
    たまに外伝じじちち(バ祖父×若父上)

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    POIPOI 63

    アメチャヌ

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    *最終巻特典の詳細が出る前に書いたものです、ご承知おきください。

    69話の扉絵がバッキンガムが65話で言ってた「美しい場所」だったらいいな〜、地獄へ落ちたバッキンガムがリチャードのお腹にいた(かもしれない)子とリチャードを待ってたらいいなぁ〜……という妄想。
    最終話までのアレコレ含みます。

    #ガムリチャ
    gamelicha

    逍遥地獄でそぞろ待ち、 この場所に辿り着いてから、ずっと夢を見ているような心地だった。
     
     薄暗い地の底に落ちたはずが、空は明るく、草木は青々と生い茂り、湖は清く澄んでいる。遠くの木陰では鹿のつがいが草を食み、丸々と太った猪が鼻で地面を探っていた。数羽の鳥が天高く舞い、水面を泳ぐ白鳥はくちばしで己の羽根を繕う。

     いつか、あの人に見せたいと思っていた景色があった。

     まだ乗馬の練習をしていた頃。勝手に走り出した馬が森を駆け、さまよった末に見つけたその場所は、生まれた時から常に血と陰鬱な争いが傍にあったバッキンガムに、初めて安らぎというものを教えた。
     静謐な空気に包まれたそこには、あからさまな媚びも、浮かれた顔に隠れた謀略も打算もない。煩わしさからはかけ離れた、ほかの誰も知らない、誰もこない、自分だけの特別な場所だった。
     
     似ているようで似ておらず、それに増した、美しく、厳かな風景の中。バッキンガムは飽くことなく、いつまでも湖畔に佇んでいた。



     ふいに何かが片脚に張り付く。
     眺めていた遠くの山々から視線を移すと、ふくふくとした小さな手がバッキンガムの脚にしがみついていた。さらに視線を落とすと、裾の長い白い衣をまとった幼子と目が合う。じっと見上げてくる瞳は両方とも黒く輝いているが、光の加減でときおり黄金が混じって見えた。
     しっかりと掴まったまま、短い腕を懸命に伸ばす姿がいじらしい。
     軽く腰を曲げて指先に触れるとバッキンガムの人差し指をきつく握り、こぼれ落ちそうな柔らかな頬をゆらしてにこりと笑った。

    「どうした」

     膝をついて目線を合わせ、背中をやさしく抱き寄せる。幼子は身体をぴったりとくっつけると、指から手を離して肩の辺りを掴み直し、たどたどしい口調で「おたんぽ……」と呟いた。
     なにかをねだるのは珍しい。窺うような眼差しに思わず口元が緩む。
     微笑むバッキンガムを見て、幼子は甘えるように首に腕を回した。
     温かな身体を抱いて細い髪に鼻先を埋めると、ほのかに甘いにおいがした。
     湖に触れても水の冷たさを感じることはない。鋭い葉で指を擦っても傷付くこともない。腹も減らず、睡眠も必要としないこの地で、確かなものはこの子だけだった。

    「散歩か……あぁ、そうだな。行こうか」
    「ん。あぅく」
    「歩く? 抱っこはしなくていいのか?」
    「ん」

     抱いて歩くものだと思っていたが、予想に反して幼子は勇ましく宣言する。
     囲っていた腕を解くと、しっかりと一人で立った。
     決意に満ちた面持ちで湖に背を向け、森の方へと歩き出す。
     丸い後頭部と揺れる裾をしばし見つめ、バッキンガムはそのあとを追った。
     

     愛らしい無垢なぬくもりは、知らぬ間にバッキンガムのそばに寄り添っていた。
     いつから存在していたのかは分からない。この地が人の世ではないと意識したときには、すでに腕に抱いていたような気もする。
     何もかもが曖昧だったが、すべてを正しく知ろうとは思わなかった。小さな重みは、胸を締めつけると同時に、無上の喜びを与えてくれる。
     守らなければならない大切な存在なのだということは、強く理解できた。それだけで十分だった。

     赤子はよく眠った。眠っていることがほとんどだった。
     ぐずると薔薇を欲し、白く滑らかな花冠の先でくちびるをくすぐってやると、両手でしっかりと花びらを掴んだ。丸みを帯びた先を咥え、ミルクを吸うかのように懸命にしゃぶる仕草を見せて、満足すると、またすやすやと眠った。
     随分と長いあいだ乳飲み子の姿をしていたが、腕にかかる重みが増してからは、あっという間に成長を見せた。野花のうえを四つん這いで動き回り、バッキンガムの脚に掴まって立てるようになってからは、ひとりで歩けるようになっていた。

     といっても、動きはまだつたない。
     小さな素足でよたよたと数歩進んだかと思うと、転ぶように倒れては後ろで見守っていたバッキンガムを振り返る。
     何が起こったのか分からない、と言いたげな表情と、絶対的な信頼が込められた眼差し。何処かあの人の面影を感じる瞳の形に愛おしさがつのり、自然と顔がほころぶ。
     助け起こしてやると、幼子はまたおぼつかない足取りで木々のなかを進んで行った。

     昼夜の変化がない風景は、この地が不変のものであることを意味していた。
     花は咲いているが、枯れることはない。
     太陽の姿はないが、晴れやかなまま、陽射しのようなものが降り注ぐ。夜もなく、ときおり雲が流れる程度で、冷たい雨に濡れることもない。湖がある場所以外は、木漏れ日に満ちた森が広がっていた。

     己の野心のために、美しき漆黒の頭上に黄金の冠を齎すために、数多の罪を犯してきた。行き着く先には終わりのない罰があるものだとばかり思っていたが、冥府に落ちたはずのバッキンガムに与えられたのは、いつかの美しい景色のような理想郷と幼子だ。
     これが神の温情ならば、かつて軽んじていたことを伏して詫びるのも吝かではない。


     頭を垂れて咲く白い雪のしずくを横切り、一際鮮やかに花をつけた金雀枝を通り過ぎる。
     そぞろ歩きながら振り返り、あれは何かと視線で問う幼子に、バッキンガムは知り得る限りの草花を答えた。生きるためにあらゆる書物を読み耽り、子供時分の頭に叩き込んだが、ただ愛でるための花の名にはあまり詳しくない。

    「あえ」
    「あぁ、あれは……紫、だ」

     遠征で役立つ野草ならばすぐに思い出せるのに、見覚えのある一重咲きの名が出てこない。仕方なく花の色を教えると、幼子は「むやたき」と繰り返した。

    「むやたき、きーお、むやたき」
    「それは青だな」
    「あお」

     興味が引かれるままに進む子が指差すもの、ひとつひとつに答えていく。
     幼子は驚くほどよく歩いた。その小さな身体のどこにそんな体力があるのかと瞠目させられるほどだった。
     勢いづくと少し小走りになる。
     足がもつれはしないかと見守っていると、案の定、転んだ。
     助けを求める顔が見たくて振り返るのを待つが、幼子は座り込んで微動だにしない。倒れた拍子に怪我でもしたのか、と、ここが人の世とは違うことも忘れ、慌てて上から覗き込む。

    「大丈夫か」

     声をかけても反応はない。
     近くに小石や折れた枝はなく、痛がっている様子も見受けられない。
     ただ驚いているだけだと判断し、脇下に手を差し込んで起こそうとすると、幼児は地面についていた手でおもむろに草を引き抜いた。

    「はっぱ」

     白詰草と三つ葉をバッキンガムに見せると、子はそれを握りしめたまま、助け起こすべく伸ばした腕に掴まりながら一人で立ち上がった。

    「どうじょ」
    「あぁ……ありがとう」

     転んだことなど気にもしていない顔で花を差し出し、身を屈めていたバッキンガムが受け取るのを見て確かめると、幼子は満足そうな顔をしてまた歩き出した。






     歩いてはしゃがみ込み、戯れに草を抜いて、また歩く。

     やがて小さな足は緑葉の隙間から赤い実が顔をのぞかせている一画でぴたりと立ち止まった。目を奪われている先には、今が食べ頃といわんばかりの瑞々しい野いちごが、たわわに生っていた。
     誘われるように近づいて行った幼児の隣に並んで腰を落とし、持たされていた野草を置いて実を摘みとる。口元に運んでやると、愛らしいくちびるはぱかりと開いて果実を迎えいれた。

    「おいちぃ」

     じっくりと咀嚼し、白い頬がほんのりと果実の色に染まる。控えめな喜色があの人を彷彿とさせて、心中に少しだけ甘い痛みが走った。

     二人の兄の陰に隠れ、冷淡な印象を持たれることが殆どだったが、常に傍にいたバッキンガムは、他人の知りえない顔を幾度も目にしてきた。それが固く結んだ誓約の条件でもあったし、幼い頃からあの人だけを追っていたからこそ見えたものでもあった。
     贅沢など言えぬ時代を終えても、酒にも食にも欲を出さず、それでいて赤い実にだけは表情を緩める。深い夜と涼しい月のような瞳に輝きが宿るさまは、筆舌に尽くし難いものだった。

    「あ……」

     口を開けてねだられ、特に大粒のものを選んで食べさせる。

    「美味しいか?」

     バッキンガムが尋ねると幼児は両手で頬を押さえ、はにかみながら何度も頷いた。
     あの人のために用意させたものを数度腹に入れたことはあるが、バッキンガムにとってはただの甘酸っぱい果実でしかなかった。寝ずに策に徹し疲弊した身体によく染み渡り、重くなった頭を僅かながらすっきりとはさせたけれど、気分が左右されるほどの特別なものではない。
     あの人の目元が、口元が綻ぶから、同じ思いを知りたくて食べていただけだ。

     嬉しげな幼子に、いつかの記憶が懐かしくよみがえっては消えた。

     短い指が枝に生った赤い実に触れる。自分で摘み取りたいのか、突くような、引っ搔くような仕草を繰り返すが、なかなか収穫には至らなかった。
     バッキンガムはやわらかな手を取り、その上に小さな実を数粒落とした。伺うような眼差しに微笑みを返すと、幼子は上手に赤い実を摘んで口へと運んだ。
     指も一緒に咥え、幸せそうに食べる姿を眺める。
     子の手の中にある分が無くなってしまってもすぐに渡せるように、もう幾つか摘み取りながら、バッキンガムも赤い実を口に入れた。
     軽く歯を立てただけで果肉は潰れ、口内を潤す。感じられるのはそれだけで、味覚が削ぎ落とされてしまったように、なんの味わいもなかった。
     たまたま不出来な実を選んでしまっただけかと奇妙に思い、別の実を再度口に含むが、僅かに汁気を感じるだけでやはり甘味も酸味もない。幼子に目を向けると、変わらず頬をほころばせている。
     バッキンガムが押し黙っていると、子は異変を感じたのか、わずかに戸惑いの表情をみせ、「どうじょ……」と言って赤い実が乗った手を差し出した。

    「俺はもう十分だ。お前が食べるといい」

     安心させるように笑みを浮かべ、指の背で頬をひと撫ですると、黄金色をちらつかせる黒い瞳はバッキンガムと実を交互に見比べた。

    「あーんしゆ?」
    「しない」

     知っている味を感じていたとしても、嬉しそうに頬張っている相手から与えてもらおうとは思わない。
     首を横に振っても、幼子は手に残った実の扱いを決めかねているようだった。躊躇いがちにバッキンガムを見ては視線を戻し、口をきゅっと閉じる。

     食べたい。けれど、譲った方がよさそうだ。でも、いらないと言われてしまった。ならば食べたい。こんなにおいしいのに、なぜいらないんだろう?

     そんなことでも考えているかのような顔が微笑ましい。
     かつての生で、子どもを愛しいと感じることはなかった。
     そもそも意識を向けることもなかったが、バッキンガムにとって子どもとは庇護を要する非力な存在でしかなかった。己と『妻』と呼ぶべき相手との子もいた(身篭った、出産した、との報告は受けていた)はずだが、最早顔も思い出せない。
     共に暮らした記憶もなく、小さな存在の扱い方など知らない。それなのに、目の前の子には不思議な繋がりを感じるせいか、自然と体が動き、言葉が出た。
     バッキンガムは落ち着きなく身体をふらつかせている幼子を抱き寄せ、果実を乗せた小さな手に己の手を添えた。

    「上手に食べられるところを見せてくれ」

     意味が理解できないのか、ぼんやりとする子の手を取って果実に触れさせる。
     おそるおそるつまみ上げる子に「あーん、は? できるか?」と問うと、あどけない双眸はバッキンガムを見つめたまま果実を口に入れた。

    「よく出来たな。上手だ」

     形の良い丸い頭を撫でて褒めると、幼子は咀嚼の合間に自慢気な笑みをみせた。愛した人の面影からふいにこぼれた表情は、妙にふてぶてしい。
     ひかえめに頬を染めた顔とは違う一面に、なぜか居た堪れない思いに駆られる。

    「ないない」

     バッキンガムの複雑な心中など知る由もない幼子は、空になった手のひらを見せると所在なさげにぱちぱちと打って遊び始めた。

    「そうだな、無くなった。もっと食べるか?」
    「んん」

     少し膨らんだ腹部を撫でながら訊ねると、くすぐったそうに笑って首を横に振った。
     幼子はバッキンガムの腕から身を離すとしゃがみ込んで白詰草を手にした。幼子に渡され、バッキンガムがずっと持っていたものだ。もう必要ないだろうと、こっそり放置するつもりだったが、忘れていなかったらしい。

    「どうじょ」
    「……あぁ」

     差し出されたものを無碍にはできず、しかたなく受け取る。
     目を向けると、弱弱しく草臥れていた茎は伸び、瑞々しい一輪の白薔薇へと変わっていた。

    「これは……」
    「あっちお」
    「待て、まだ歩くのか?」
    「あっち」

     幼子はバッキンガムの服を掴み、森のさらに奥を指差す。
     幹の細い木が立ち並ぶ先は、枝葉のすきまから陽の光が差し込み、輝いていた。
     手を伸ばせば暖かな何かに触れられそうだと感じるのは、錯覚だろうか。
     霞みがかったような眩しさに魅せられて立ち上がると、幼子はバッキンガムから手を離し、待っていられないとばかりに歩き出した。

    「待て、ひとりで行くな」

     小さな足が懸命に動く。
     追いつこうと步幅を広げるが、なかなか距離は縮まらない。

    「こっち。こっち」

     バッキンガムを呼びながら、幼子は跳ねるように駆ける。
     ふわふわとした柔らかな黒髪が弾む。

     すでに長い時間森の中をさまよっているはずだが、幼子に疲れはみえない。
     距離の感覚を失っているだけで、元の場所からそう離れていないのではないか。
     振り返ってみるが、目を奪われた湖は影も形もなかった。そぞろ歩いてきた道は、木々に覆い隠されている。

     あの場所にはもう戻れないのだと察した。

     かつてあの人に見せたかった景色は遠い過去のもので、似た湖畔も、バッキンガムの前から消えた。慰めは失ってしまったが、不思議とさびしさもわびしさも感じることは無かった。

    「こっち。こっち」と、まるで導くような幼子の声音に誘われて、あとを着いていく。
     黄色い花をつけた低木のそばを通り過ぎても、先端が丸まった小さな釣鐘の青い花の群生の横を通っても、幼子は目をくれることなく、ひたすらに歩いた。
     

     陽の光に近付くにつれ、あの人に『初めて』出会った頃の記憶がよみがえってくる。
     閉ざされかけていたバッキンガムの道を照らしたのはあの人だった。
     あの人がしるべとなった。
     そうだとはっきりと認識したのは随分と後になってからだったが、あの日、あの人が見ず知らずの非力な子どもにかけた言葉は、幼い胸に生きる力と野心を芽生えさせた。
     多くを学び、知恵をつけた。言葉の裏に潜む毒を嗅ぎ分けられるようになった。
     他人の支配に抗っているつもりだった。
     結果としては初めからずっとあの人に支配され続けていたのだが、しるされた道を歩んできたことに一片の後悔もない。

     前を行く幼子の黒い髪が、木々から差し込む光を集め、小さな頭上に眩く澄んだ輪を戴く。頭がふらふらと揺れるたび、左右する髪と共に形を変えるが、決して外れることはない。

     あの人の絹糸を彩ったのは、王の証だった。幼子の光の輪は、清く神聖な者だけが有するそれのように見えた。

    「こっち。はぁく」
    「あぁ、わかった。余所見をしているとまた……あぁ、ほら」

     足を止めずに振り返っていた幼子が、ころりと転ぶ。
     すぐに助け起こし、衣服についた細かな草を払い落としてやると、幼子はまた先を目指して歩き出そうとした。
     腕を掴んで引き止めるが、存外に踏ん張る力が強い。必死に前に進もうとしてバッキンガムに抵抗をみせた。

    「待て、もう勝手に行くな」
    「や! あっち!」
    「あぁ、あっちだな。分かった。分かったから、一人で先に行くんじゃない」
    「や!」
    「嫌でも駄目だ」

     膝をつき抱き寄せて宥めても幼子はぐずって言うことを聞かない。
     目指す場所を諦めるわけではないのに顔をぐしゃぐしゃにして泣かれ、バッキンガムは困惑して眉をひそめた。

    「俺といてくれ。それとも、一人で行きたいのか?」
    「や……」
    「俺も行っていいんだな?」

     濡れた頬を拭いながら尋ねると、幼子はこくりと頷く。

    「あっち……ぃく……」
    「なら、抱っこをさせてくれ。歩くのは疲れただろう」

     持たされていた薔薇で、乳飲み子の姿をしていた時のようにくちびるをくすぐる。不満げに歪んでいた口元はほどけ、幼子は鼻をすすりながら棘のない茎に手を伸ばした。
     外側の花びらをつまむように触れては離し、中心部分に顔を埋める。薔薇の花冠は大輪とは言い難い大きさだが、子の顎先から鼻までを覆い隠した。

     涙が止まり、落ち着きを見せ始めた幼子に、バッキンガムはそっと息を吐く。
     癇癪にも満たない一瞬の激情ではあったが、いたいけな子の涙を見るのは辛い。

     と同時に、己にそんな感情があったのかと驚く。

     邪魔なものは、子どもであれ排除することも厭わなかった。そこに罪悪感など欠片もない。すべてはあの人のため。同じ夢のためだ。
     しかしこうして幼子と過ごし、知らなかった思いを知り、あの人のように血の繋がりがなくとも、力無き存在を愛する心があったなら。果たして同じ選択をしていただろうかと無意味な疑問が頭をよぎる。

     今更考えてもしかたないことだ。もう為し終えたことは変えられない。変えようもない。
     罪人は罪人らしく暗い地獄の底で贖罪を背負うはずだった。だというのに、ともすれば楽園のようなこの場所のせいで、祈りの言葉よりもあの人のことばかりが浮かんできてしまう。

    「これでは罪を償うのは難しいな……」

     無意識に零れた言葉に反応して、幼子が顔をあげる。
     きょとんとした眼差しに、「なんでもない」と言って頬を撫でると、幼子はまた手にした薔薇を見つめ、おもむろに花びらを食んだ。
     吸うことしかできなかった乳飲み子とは違い、あの姿から幾らか成長した幼子には、小さな果実を咀嚼する力がある。生きた身ではないのだから食べても腹を下す心配はないとしても、本来は口にすべきものではない。
     宥めるために与えてきたが、飲み込むことを恐れ、バッキンガムは薔薇を掴む幼子の手に己の手を添えた。

    「これは食べるんじゃない。大切に持っているんだ」

     幼子の口からやんわりと薔薇を離す。

    「たぁつ?」
    「あぁ、そうだ」
    「たぁつ、っぱい」
    「うん?」
    「いっぱぁ」
    「そうだな……?」

     薔薇は一輪しかない。
     周囲に薔薇の木もない。
     なにを「いっぱい」と言っているのか分からず、バッキンガムはおざなりに相槌を打った。

    「いっぱぁ、あーよ。あっち」
    「行きたがっていたな。よし、抱っこだ。いいか?」
    「ん」

     立ち上がって幼子の脇に手を差し入れ、抱き上げる。尻の下を支えて安定させると、幼子は片手でしっかりとバッキンガムに掴まった。

    「たぁつ、たぁつ」

     胸の前で大事に持つ薔薇に目を落とし、繰り返し語りかけている。澄んだ甘い声を聞きながらバッキンガムは幼子の望む方向へと足を進めた。

    「たぁつ」
    「大切、だ」
    「たぁ……て?」
    「大切」

     目の前の額に口付けると、幼子は笑い声を上げながら顔をほころばせた。






     青い釣鐘の花と葉の緑の中に、放線に広がる白い花が混ざり咲く。
     森を進むにつれて色の比率は変わり、緑を覆う白が多くなった。
     雪の中を歩いているような錯覚を起こしそうになるが、足元に咲くそれに目を落とすと、紛うことなく確かに細く可憐な野花だった。首を横むけたずっと向こうにも、どこまでも、広がっている。
     進む先に視線を戻すと、陽の光は一段と強くなっていた。
     遥か遠くに思えた木々の終わりは、もう近い。
     
     腕のなかの幼子は随分前から喋ることをやめ、おとなしく抱かれている。顔を覗き込むと瞼が半分閉じかけていた。
     眠たげなうつろな瞳でぼんやりとどこかを見つめ、ときおり視線を上向けてバッキンガムをじっと眺める。
     気がついてバッキンガムが微笑みを返せば、甘えるように頭を寄りかからせた。


     幼子の求めに応じて森を抜け、辿り着いた果てには、まばゆいほどの光があった。
     顔を背けて目がくらむのを耐えていると、柔らかなぬくもりが触れた。不器用に何度もバッキンガムの瞼を撫でる。撫でられているうちに、どこか懐かしい、花の香りが鼻孔をくすぐった。
     薄く目を開けて瞼に触れるものの正体を確かめると、幼子のふっくらとした愛らしい手だった。

    「たぁてつ。あーよ」

     眠りに落ちかけていた幼子は先程までとは打って変わって、しっかりと両目を開けていた。
     寄りかかっていた体を起こし、バッキンガムの腕のなかで体をひねる。視線の先を追うと、開けた丘が、辺りいちめん白薔薇に彩られていた。
     眩しさは、陽を吸い込んだ花びらが輝いていたせいか。広がる先にはどこまでも薔薇が続いている。ひときわ小高い場所には、寄り添うように二本の木が立っていた。目を凝らして見ると合間に細い若木が生え伸び、鮮やかな緑の葉をつけている。バッキンガムは言葉もなく魅入った。

    「あっち、あーよ」

     踏み出すことなく佇むバッキンガムに焦れた様子で言うと、幼子は振り返って身を乗り出すように丘を指差した。

    「あっち。あっち」
    「この先に行くのか?」

     枝が地面を覆うように伸びているのか、薔薇はバッキンガムの膝に届かぬ高さしかなかった。棘は見当たらず、あったとしても、この地で、この身で怪我をする心配はない。花を荒らすことに躊躇いはあるが、「はぁく」と急かされ、バッキンガムは薔薇の丘へと足を踏み入れた。
     無数の茎が伸びているはずなのに、足裏には何も感じない。それどころか、分け入っているはずの葉が脛に擦れることも、柔らかな花びらがくすぐり戯れる感覚すらもなかった。
     一歩一歩を慎重に踏みしめていたが、「そういうものか」と分かると、バッキンガムの足は滑らかさを取り戻した。

    「いっぱぁ」
    「あぁ……いっぱい、だな」

     そよ吹く風に吹かれて花びらが舞う。

     初めて誓約を交わした場所には白薔薇があった。
     同じ想いだと確かめ合ったあの夜も、白い野薔薇が咲いていた。
     何にも染まらぬ気高く美しい花は、あの人によく似合っていた。血に塗れようと、悪逆に染まろうと、魂の清らかさは決して汚れはしない。

     幼子に目を向けると、揺れ落ちる花びらを興味深く眺めていた。同じように風に舞うことを心配しているのか、胸に抱いた一輪はしっかりと握りしめている。

     その姿が微笑ましく、呼びかけようとして、呼ぶべき名が無いことに気がついた。
     分からないのではなく、無い。存在しない。
     いつの間にか傍らにいた、大切にしなければならない子なのに、口を開いても名がこぼれ落ちることはなかった。

     だが、考えるまでもなく、呼ぶべき名は自然と浮かんできた。

     長く誰にも顧みられず、半ば忘れ去られたような名。
     あの人にこそ呼んでほしかった。
     呼ばれたかった。
     あの低く艶めいた甘やかな声でささやいてほしかった。
     あの人のためなら捨てることも厭わなかったが、ここまで持ってきてしまった。
     あの人が呼ぶのなら、この名がいい。


    「ヘンリー」


     バッキンガムが己と同じ名を口にすると、幼子は花びらから視線を外して振り向き、目を合わせて嬉しそうににこりと笑った。

     与えたものを幼子が受け入れたことで、バッキンガムの胸の内で曖昧だったものが形を成していく。
     ときおり黄金が混じる黒い瞳。赤い実で染まるなめらかな頬。輝く輪の似合う形の良い頭。大切だと感じる理由。
     この子が何故あの人を彷彿とさせるのか、ようやく理解できた。
     ただ、ひとつ気にかかるのは、ふいに見せた得意げな顔だ。溢れんばかりの自信を感じさせる笑みは、バッキンガムを妙に居た堪れなくさせた。
     この子が、あの時、あの人に宿っていた命だったなら。彼の面影とは遠い顔は、もう半分の血から連なるものだろう。笑みを浮かべた幼子は、もう幾つか年を重ねたら間違いなく手を焼きそうな顔をしていた。
     折りに触れてあの人が「生意気だ」と溜息を落としていたことを思い出す。
     いつ足をすくわれるか分からない中で、殊勝な態度など取れはしない。しかるべき姿勢に対する評価ならば悪くはないと感じていたが、あの人の目にはあんな風に映っていたのかと苦い笑みが漏れた。

     片手でしっかりと幼子の尻を支え、柔らかな髪を撫でつける。無垢な瞳はまっすぐにバッキンガムを見つめている。

     身を抉られるような痛みはもう感じない。
     己の願いのために傍を離れることを選んだ。生を全うしてこの地に立つバッキンガムに出来るのは、あの人の選択を受け止めることだけだ。
     まろみをおびた頬を撫で、指の腹でやさしくくすぐる。

    「――俺の子」

     もう一度名を呼んだつもりだったが、かすれて声にならなかった。
     次いでこぼれた言葉にバッキンガムはきつく眉を寄せた。
     口に出したことで存在がより鮮明になり、狂おしいほどの愛しさに心が震える。瞼が異様に熱く、目の前が歪む。ともすればしずくが落ちてしまいそうなのに、唇は弧を描いていた。
     よほどおかしな顔をしているのだろう、バッキンガムを見る幼子は不思議そうに口を開けている。
     小さな身体を揺すって抱え直し、隙間を埋めるようにしっかりと背中を抱くと、子は首にしがみついた。

    「ここで、少し待とうと思う。共にいてくれるか?」

     バッキンガムが、誰を、と告げなくても、幼子は万事心得ているとばかりに「いーお」と返事をした。

     行く当てなどないのだから、再びの誓約が果たされるまで留まっていても構わないだろう。他には何もないが、居心地は悪くない。
     
     ふんわりと舞う花びらに誘われて、再びゆっくりと歩き出す。
     いつの日かあの人が辿り着く果てが、こんな風に穏やかであればいい。澄み渡る空と純白の薔薇に満ちたこの地は、あの人にこそ相応しい場所だ。

    「あぇうね」
    「なんだ?」
    「あぁうよ」
    「あう? あぁ、『会える』か……。そうだな。会える。いずれ、必ず。……分かるのか?」

     背中を優しくたたいていた手を止めて訊くと、幼子は僅かに体を離し、大きく首を傾げて見せた。
     自分の言ったことを分かっているのか、いないのか。
     明確な答えはなく、「ん〜?」とはにかむと、またぴったりとバッキンガムに抱き着いた。
     耳朶にやわらかな黒絹が掠める。愛しさに頬を擦り寄せると、幼子は甲高い声で楽しげに笑った。






     ずっと、夢を見ているような心地だった。
     薄暗い地の底に落ちたはずが、空は明るく、草木は生い茂り、湖は美しく輝いていた。
     森の花々は盛りの姿で咲き乱れて、薔薇は甘く香る。
     もう何も得るものはないはずだった。
     光を失っても進む先が暗闇ばかりではないのだと知った。
     最期までの道すがらに抱いた思いは、今でも変わらない。
     心残りはない。
     存分に生きた。
     半身としての役目は終えた。ここでの役目は、あの人を待つことだけだ。手の届かない場所にいる彼の人にバッキンガムが出来ることは何もない。傍に寄り添えぬ苦しみは、この小さなぬくもりが癒してくれる。

    「あえう、あぇう」
    「そうだな。……だが、ゆっくりでいいんだ」
    「いっくぃ?」
    「ゆっくり」
    「いっくいね……」

     幼子が声をひそめて「いっくいよぉ?」と繰り返す。
     項部で何かがかさつく気配を感じ、首を回して確かめると、幼子が手にしていた薔薇が視界の端に映った。白い花冠は幼子の腕の動きに合わせて揺れる。しっかりと抱きついているため表情までは窺えないが、どうやら薔薇に向かってバッキンガムとのやりとりを言い聞かせているらしい。

     ゆっくり。
     ゆっくり。

     幼子のたどたどしい声に合わせて、足元に広がる薔薇の隙間を悠然と縫い歩く。

     ゆっくり。

     ゆっくりでいい。

     決して急いでほしくはない。

     少しでも長く、燦然と輝く光の中にいてくれたらと願う。

     王冠を奪ってしまいたかったけれど、それでもやはり玉座に掛ける彼の人は、バッキンガムが望んだ姿なのだから。
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    アメチャヌ

    DONE*最終巻特典の詳細が出る前に書いたものです、ご承知おきください。

    69話の扉絵がバッキンガムが65話で言ってた「美しい場所」だったらいいな〜、地獄へ落ちたバッキンガムがリチャードのお腹にいた(かもしれない)子とリチャードを待ってたらいいなぁ〜……という妄想。
    最終話までのアレコレ含みます。
    逍遥地獄でそぞろ待ち、 この場所に辿り着いてから、ずっと夢を見ているような心地だった。
     
     薄暗い地の底に落ちたはずが、空は明るく、草木は青々と生い茂り、湖は清く澄んでいる。遠くの木陰では鹿のつがいが草を食み、丸々と太った猪が鼻で地面を探っていた。数羽の鳥が天高く舞い、水面を泳ぐ白鳥はくちばしで己の羽根を繕う。

     いつか、あの人に見せたいと思っていた景色があった。

     まだ乗馬の練習をしていた頃。勝手に走り出した馬が森を駆け、さまよった末に見つけたその場所は、生まれた時から常に血と陰鬱な争いが傍にあったバッキンガムに、初めて安らぎというものを教えた。
     静謐な空気に包まれたそこには、あからさまな媚びも、浮かれた顔に隠れた謀略も打算もない。煩わしさからはかけ離れた、ほかの誰も知らない、誰もこない、自分だけの特別な場所だった。
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