Eclosionあっと思った時にはもう遅かった。白く煙る川岸へ寄りすぎていたのだ。柱にぶつかってバランスを崩し、露を含んだ草に足を取られた。重力に従って身体が傾ぎ、派手な音と共に飛沫が上がる。
この水を飲んではいけない。知っていたのに、衝撃で口から、肺から空気が抜け、代わりに冷たい水が入り込んでくる。
もがく間も無くたちまち意識に霞がかかり、何もわからなくなった。
大切な用事があった気がするのに思い出せない。
どこへ行くつもりだったのか。ここはどこで、自分は誰なのか。
なんだかふわふわと浮くように身体が軽い。
いや、実際に浮いているのかもしれない。
キラキラと輝く視界に芳しい花の香りが漂い、爽やかな風が翅を撫でていく。
そうだ、今自分の背には二対の大きな翅が生えているのだ。パタパタと羽ばたけば好きなところへ運んでくれる。
花の近くへ寄っていくと、同じように翅のある者達が無邪気に戯れている。鈴のような微かな音でお互いに挨拶を交わしている。
嬉しくなって声をかけようとした。
ーーーー声?声とはどんなものだっただろう?
近づけば、彼らはすいと離れていく。
さざなみのように広がる警戒と恐れが空気を震わせる。
どうして仲間に入れてくれないのだろう?別の花に集う翅の群れも、近づくと散り散りに飛び去ってしまう。
戸惑いと淋しさが小さな胸に満ちて、軽やかに動いていたはずの翅がぎこちなくなってゆく。
ゆっくりと白い花の上に脚を降ろし、身を横たえる。甘やかな蜜の香りも、柔らかな花弁も孤独の中に色褪せてゆく。
どれくらいそうしていたのか、気づくと不思議な音が聞こえてきた。
先程戯れていた者たちの無邪気な声ではない。無数の羽ばたきと、怨嗟と、胸の悪くなるような憎悪の合唱だ。
ここにいてはいけないと本能が告げるのに、翅も脚も石になったように動かない。
卑しい怒りに満ちた羽ばたきの群れはやがて中心を持ち、回転を始める。ピンク色の球体と化した悪意の塊が目敏くこちらへ意識を向けたのが分かった。
逃げなくては。逃げなくては。あんなモノに捕まったら、きっとあのピンク色の憎悪に染められてしまうのだろう。
ふらつくと翅を動かしてなんとか浮き上がり離れようとする。早く。早く。取り囲まれたらおしまいだ。
チリチリと焦げる針のような鱗粉が降り掛かってくる。逃れようと身を捩り、力の限り羽ばたいて前へ飛び出した、その先に。
誰かの大きな手が差し伸べられていた。
灰がかった色の肌に金の腕輪。黒衣を纏った逞しい手だ。
近づく毎に長い指が柔らかく窄まり、掌の窪みへ匿ってくれる。広げられた腕の中には、同じように逃げてきたのであろう者達が翅を震わせて縮こまっている。
「散れ、ソウルキャッチャー。死後も卑しい憎悪に囚われた哀れな者共よ」
落ち着いた硬質な声ーーーそうだ、これが声だーーー恐ろしくも美しい紫の光の輪が広がる。
そして高らかに鐘の音が響き、大鎌がひと振りされると、ピンク色の翅の群れは霧散した。
束の間の沈黙を経て、匿われていた者達は腕の中から出ていく。始めは恐る恐る、次第に元の無邪気さを取り戻して鈴の音で互いの無事を喜び合いながら。
一緒に行けたらいいのに、とは思ったが、何故か救い主に惹きつけられて離れる気になれなかった。
黒衣の周りをヒラヒラと漂う。フードの陰から流れるような銀髪が覗き、目を奪われる。彼は美しかった。鍛えられ引き締まった長身、端正な顔立ち。大きな鎌や剣、鋭い爪のついた手甲は恐ろしげだが、しなやかで優雅な腕の慈悲深さは既に知っている。
「どうした?ここは安全だ、お前も往くが良い……おや?」
差し出された指の先へ留まると、金の瞳が興味深げに見つめてくる。
「お前は少し毛色が違うな。その翅の模様は……」
何事かに思い当たり、彼はハッと息を呑んだ。
「その気配は、まさか」
表情は固くあまり動かなくても、不思議と彼の感情は伝わってくる。信じられないというような驚き。疑念。恐れと、悲しみ……?悲しんでほしくはないけれど、どうすれば良いのかわからない。
慰めにもならないがなんとかしたくて彼の方へ脚を伸ばすと、溜息と共に目が伏せられた。
「……この馬鹿」
そっと手が丸まって、翅を傷めないよう慎重に閉じ込められる。身動きは取れなくなったが、危険は感じないので大人しく身体を丸めた。再び鐘の音が鳴り、重なった指の間から緑色の光が見えた。
手が開かれると、周囲がすっかり変わっていた。
先程までと違う花と水の香り。色合いの違う光。いくつもの声がざわざわと流れてゆく。
翼の形をした大きな肩当てに留まりあちこちを見回す間も、救い主は迷いのない軌跡で一点へと向かう。
「ヒュプノス」
「あっお兄ちゃん!大変だよ」
「騒ぐな。大体の見当はついている」
救い主はシッと息を吐いて赤い衣を纏った青年の口を塞いだ。声をひそめ何事かを話している。
ふと、強く惹きつける力を感じて触覚が震えた。
なんだろう?何かとても懐かしいものが呼んでいる気がする。あれに応えないといけない。そうしないと、何かが決定的に足りない。自分が未完成で、ひどく無防備になっている気がする。
衝動を抑えられず飛び立ってその力の方へ向かう。
好奇の視線を掻い潜り、悲しげで美しい旋律の振動に乗って、石造りの戸口へ辿り着く。
背後から焦りの滲んだ救い主の声も聞こえる。勝手に飛び立った自分を探しているのかもしれない。ちくりと罪悪感に胸が痛む。だが引き返すよりこの先にあるものをどうしても見たい。見なくてはいけない。見たらすぐに戻るから。あなたの元へ戻るから待っていて。
扉のない戸口を過ぎると、寝台の上に誰かが横たわっている。
小柄な体躯に漆黒の髪。瞳は閉じられていて見えない。強烈な引力にぐらりと翅が揺れる。熱の色を帯びた足先。どうして忘れていたのだろう。あれは。
あれは、俺だ。
「ザグレウス」
自室の寝台で目覚め、半身を起こしたところへ開口一番、タナトスが苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「レーテーの水を飲んだだろう」
「あー…たぶん、そうだと思う」
ザグレウスはきまり悪くうなじを掻いた。
思い返せば、欲を出したのがいけなかったのかもしれない。
色とりどりの眩い宝石をもうひと掴み手に入れれば、愛しい伴侶と過ごす憩いの一角に豪奢な燭台を足せるはずだった。いつものように地下の財を詰め込んだ櫃に手をかけ、いつものように父神の怒りの声を受けて襲いかかってくる過去の英雄達と戦った。
混沌の盾を構えて矢をやり過ごし、衝撃波を躱し、槍を避けようとした。そして……そう、情けないことに濡れた川岸の草を踏んで足を滑らせたのだ。
「川に落ちた後のことを覚えていないんだ。あの水を飲むと記憶を失うんだよな?俺はそれから何かにやられて死んだ…?それで記憶が戻ったのか?」
タナトスは呆れたように首を振った。
「レーテーの水を飲んだ者は記憶の重みから解放され、軽くなった魂に美しい翅を得て楽園に住まう蝶(プシュケー)になる」
「つまり……俺、もしかして蝶になっていたのか?」
「その間にお前の身体はステュクスを下って広間に打ち上げれられた。魂のないままでな」
普段ならすっかり傷の癒えた状態で元気に悪態をつきながら川から上がってくるはずの王子が、ぐったりと意識を失ったまま打ち上げられたのだ。騒ぎになったことは想像に難くない。
「お前は死者達と違って生きた肉体という器があるから戻れたんだ。まったく……通りがかりに見つけていなかったらエリュシオン中を捜索する羽目になっていたぞ」
「悪かったよ。不注意だった」
ザグレウスは長い息をついて背を丸めた。これから広間で待ち受けるであろう叱責やら申し開きやらを考えると気が重い。きっと師匠や友神達を心配させたりもしただろう。
「お前が見つけてくれて良かった。よく見分けがついたな」
寝台から降りつつ何気なく言うと、険しかった死神の顔がふと緩んでザグレウスの目を奪った。
「魂には記憶がないから人格も無いが、注意深く見れば個性があるものだ。お前はそもそも生きているし、翅はひときわ個性的だった。だから他の魂達に紛れなかったのだろう」
「へえ、俺のはどんな翅だったんだ?」
自分の魂の形など、見る機会はないから興味がある。ましてや神の身でレーテーに落ちるなど異例中の異例だ。
「黒い縁取りに輝く赤と緑が混じっていて、若葉のような模様があってーーー」
タナトスは口籠もり、うっすらと目尻を染めた。
「とても美しくて、俺は……お前らしくて好ましいと思った」
死神はどうやら自身に感情というものがあまり無いと信じているらしく、こうして率直に言葉にするのは稀なことだ。ザグレウスは自分の胸がきゅっと締まる音を聞いた。
ほんの少し口角を上げるだけで驚くほど優しくなるその顔がとても好きだ。何もかもを忘れ空を舞う一匹の羽虫になっても、この愛しい死神から離れられるとは思えない。両手を伸ばして頬を包み込み、感謝と謝罪を込めて口付けた。
「そんなに気に入ったならお前の標本コレクションに加えてもらえるかな?」
「針に留めたところでお前はすぐに自分で飛びたがるだろう」
想像するとまったくもって否定できずザグレウスは苦笑した。
キトンに留めたままの蝶へ無意識に手を伸ばす。タナトスから贈られた硬質な翅を指先で撫でると鈴のような無邪気な音が聞こえた気がした。
はて、どこかで聞いたことがあるような音だ……ザグレウスは少し考えたが、手繰れる記憶の糸は見つからなかった。