5 大切な人「理人……」
愛しい人の名前を口にするのは、いつだって心躍るものだ。
たとえ表に出さずとも、胸は高鳴り、幸福で満たされる。仕事中であれば、それは信頼の証にすらなり得た。
理人はナハトの声を聞けば、いつもきちんと意図を汲み取った。現場ではナハトの望むように動いたし、褥では求められるがまま体を許した。だからこそ、バディとしてこれまでやってこられたように思うし、恋人としてもうまくやってきた。
どれもこれも、昨夜までは、のことであるが。
秋風が木々をざわめかせ、枯葉が宙を舞う。黄昏時には魔が潜むと言うが、徐々に暗くなるこの時間は人の顔が見えにくく、偵察にはちょうど良かった。この場合、魔とはナハト自身になるのだろうか。
昨夜訪れたこのチャオの屋敷の周りを、ぐるりと一周歩いてみる。瀧川の話の通り、ひどく大きな屋敷だ。そして、ノヴァの言う通り、確かに美しい音楽が、風に乗って聞こえてくる。弦を弾くタイプの、琵琶や三味線のような楽器だろう。
(夕陽が照らす紅葉の赤に、和楽器の音か。悪くないな)
そう心の中で呟きながら、ナハトは歩みを進めた。こんな時間を、理人と一緒に過ごせたら、などと考えてしまう。未来に戻ったら、休暇を取ってトラベルツアーに申し込んでみようか。理人と二人で行く旅行なら、どんな時代、どんな国でもきっと楽しいだろう。まあ、普段から多忙な二人がそう簡単に休みを取れるとは思えないし、それ以前に、まずは理人を救出することが大前提であるが。
「理人」
必ず連れ戻す。
そう心に誓って、ナハトは引き続き、情報収集に励むのだった。
はあ、と深いため息をついた。今夜だけで、何度目のため息だろう。理人は浮かない表情を浮かべたまま、暗闇の中、冷たい壁にもたれかかっていた。
御簾の内側でチャオを突き飛ばしてしまった後。あれから理人は強く拒めないまま、チャオの隣に座らせられ、騒動にも動じず演奏を続けるびわの奏でる音楽を聴いていた。美しい音楽であることは確かだったが、それでも、理人の耳にはもう音楽などは入ってこなかった。理人の頭の中は、チャオに対する嫌悪感や罪悪感、それから、チャオの手を取ってしまった自分に対する不信感でいっぱいになってしまっていた。
その後の夕食も、何故かチャオの隣でとることになり、食べる姿をじろじろと見られる始末。何故見るのか、と聞けば、「俺は美しいものを愛でるのが趣味だから」と返され、返答に困った。やはり、この見た目が原因か、と思うと、なんだか情けない気分になって仕方がなかった。もしかしたら、暁さんも、自分のこの見た目を好いていただけだったのかもしれない……。そんな不安すら生まれるほど、理人の心は弱っていた。
その後、仕事があるからと解放された理人は、警備に連れられて、また地下の牢屋に入れられた。見れば、既にびわはこの牢に戻り、一眠りしているようだった。膨らんだ布団の影がゆるく上下し、寝息が聞こえてくる。理人は、びわが使っていなかった毛布を手に取り、それにくるまって壁にもたれかかった。
(自分はいったい、どうするべきだったのだろう)
そんな疑問が溢れては止まらない。
無理にでも、逃げられるタイミングで逃げれば良かっただろうか。
先程警備に連れられている時も、警備は二人だけだった。二人だったら、どうにか倒せたのではないか。
刀を帯びていたが、それを一本でも奪うことができたならば……。
しかし理人はあくまでもTPAの隊員だ。時空法を犯していない、その時代の人々に手を上げることに、どうしても抵抗はある。これまでの仕事においても、現地の人々は、なるべく被害にあわないよう、守るべき対象だったのだ。
理人は、答えが出せないまま、うう、と唸った。こんな時、暁さんだったらどうやって切り抜けるのだろう。暁さんの話が聞きたい。声が聞きたい。顔を見たい。抱きしめてほしい。そんな気持ちが止まらなくなり、気付けば「暁さん……」と声が漏れていた。
「それは、もしかして君の大切な人?」
「!」
驚いた。寝ていると思っていたびわが、まさか起きていたとは。
「びわさん。寝ていたのではなかったのですか」
「ほぼ、寝ていたけど……君が帰ってきたのは、気付いたよ。僕は耳が良いからね」
「そう、でしたか」
「うん。……ああ、またそんな寒そうなところにいて。ほら、こっちにおいで。一緒にあたたまろう?」
ふとんが擦れる音がする。びわが理人のためにとスペースをあけてくれたのだろう。理人が迷っていると、ほら早く、とびわのせかす声が聞こえる。
(これは仕方ないことか)
そう考えた理人は、びわの隣に体を滑り込ませた。やはりあたたかい。ふう、と息が漏れる。
「やまぶき、また冷たくなって。僕のことは気にせず入ってきたらよかったのに」
次からは、遠慮なんてしなくて良いからね、とびわが言う。理人は、はい、とおとなしく頷いた。
「それで?暁さん、というのは、君の大切な人なのかな?」
「そ、そんなに聞きたいですか」
誤魔化せたと思ったが、びわは覚えていたらしい。何と答えようか考えあぐねていると、びわはふふ、と笑った。
「いやね、君がさっきチャオを拒んだのは、きっと大切な相手が既にいるからなんだろうなって。その前にも戻る場所がある、とも言っていたし。だから、その人のことかと思ったんだよ」
鋭い、と思った。あるいは、自分がわかりやすすぎるのか。理人は思わず唸った。
「もしかして、正解かな?実は僕にもね、大切な人がいるんだよ」
そういうとびわはまたふふ、と笑った。
「びわさんの、大切な人……どんな方なんですか?」
「聞きたいかい?……少し長くなるけど、いいかな」
そう言うと、びわは昔を懐かしむように、ゆっくりと語り始めた。
「僕の大切な人は、とても素晴らしい演奏者なんだ。演奏技術もさることながら、とても繊細な感情を音に乗せられる。いわば、天才というやつだったな。……初めて彼に会ったのは、彼がまだ十歳にも満たない幼い頃だった。実力のある子供しか出られない、権威あるコンクールがあってね。彼はそこでヴァイオリンを演奏していた。すごかったよ。子供ながらにパガニーニを弾きこなして。きっとあの会場の誰もが、彼の演奏に魅了されただろうね。もちろん、僕もその一人だった。なんて素晴らしい音楽を聴けたんだって嬉しくなって、思わず立ち上がってブラボーと叫んでしまったもの。……ただ、その後、とても悲しいことがあってね。全ての子供たちの演奏が終わって、全員が壇上に集められて、それぞれの部門の優勝者が発表される時だった。あの、犯罪者たちが、そこを襲撃したのは。……銃の乱射により、複数の死傷者が出た。そして子供たちは全員連れ去られてしまった。……僕は運良く、凶弾からは免れたけれど、可哀想に、隣の席のご夫婦は、上から落ちてきた照明に当たって、亡くなっていた。もう、その会場は阿鼻叫喚でね。それから少しもしないうちに、子供を連れ去られた親御さんたちのもとへ、電話が鳴り始めたんだ。子供を返してほしければ、お金を用意しろ……ってね。そして、隣のご夫婦の電話もちょうどその頃鳴っていた。……僕は、電話に出た。そして、場所と金額を指定されたから、そこへ行ったんだ。そこにいたのが、あのパガニーニの少年だった。そして僕は、彼を引き取って、育て始めたんだ。……今思えば軽率なことをしたけれど、それでも、彼の才能を伸ばしてあげたかったし、もしあの時引き取り手がいなかったら、もっと悲惨なことになっていたかもしれないから。……それから、僕と彼はずっと一緒なんだ」
そこまで話すと、びわはふう、と深く息を吐いた。
「……もしかして、寝てしまったかい?やまぶき」
寝ていると思っても仕方がないだろう。びわが話す間、理人は一言も口にしなかったのだから。しかし理人はちゃんと起きて、その話を聞いていた。
「いえ、起きてます。……その」
理人は、二の句を継げなかった。その話の悲劇性についてもだが、びわが当然のように「電話」という単語を使ったからだ。
コンクールやヴァイオリンに関しては理人は詳しくはないが、もしかしたらこの人物が既に国外で経験してきたものなのかもしれない、とは思った。しかし、この時代においてはまだ、確実に電話は発明されていないのだ。
(まさか、びわさんも、タイムジャッカーだったのか?だとしたら、同じ時代に、二人もタイムジャッカーが居合わせたことになる……?いや、もしかしたら、びわさんの大切な人というのは、まさか)
「……ごめんね。あまり楽しい話では、なかったね」
びわの手が、ぽんぽんと理人の頭を打つ。
「いえ、大丈夫です。……大変でしたね」
「うん。そうだね。でも、大変だったのはあの子の方だから」
理人は、その少年のことが気にかかり、少し質問をしてみることにした。
「その子は、今はどちらに?」
「どうかな。ここ数日会えていないけど、多分まだ、この町のどこかにいると思うよ」
「どんな子なんです?」
「芯が強く、優しい子だよ。あと、歌が上手いんだ。いつか君にも聞かせてあげたいな」
びわは何の疑いもなくそれに答える。
「……あの子は僕を慕っているから。きっと僕が急にいなくなって、驚いただろうな。早く帰ってあげないと」
「帰るって、あの、この屋敷から、出られるのですか?」
「ん?ああ、確かに警備は厳重だけれど……逃げようと思えば逃げられるとは思うよ。まあ、せっかく珍しい楽器に触れられるから、もう少しいようかとは思うけど……逃げる時は、一緒に逃げようね」
びわは、何と言うこともなさげにそう言った。理人は思わず、呆気に取られてしまった。
そうして話しているうちに、びわは大きなあくびをした。
「おしゃべりしすぎたせいかな。眠たくなってきたよ……おやすみ、やまぶき」
びわは、隣で横になっている理人を抱え込む形で、眠りに落ちていった。すぐに、規則的な寝息が聞こえて来る。
(なんというか、意外な事実が、次から次へと…)
理人は頭の整理をしようとしたが、なんだかドッと疲れを感じてしまい、それを諦めた。
(考え事は、明日にしよう)
そうして、理人もびわを追いかけるように、瞼を閉じ、眠りの淵へと旅立った。