7 賊 瀧川は、月に照らされる道を、足音を立てずに歩いていた。この時間になると、外を出歩く人はほぼいない。見咎められても面倒なので、目的地までさっさと辿り着きたいところだ。
(大した情報じゃないかもしれないけど、暁さんなら、役立てられるかも)
それというのも、今朝、チャオが大きな商談のために屋敷を出て、そしてその不在の隙をついて賊が入ったという噂だ。その賊は逃亡中らしいが、警備のうち数名がその捜索にあたっているため、屋敷の警備はやや手薄になっているらしい。
そして、その賊による再度の襲撃を恐れるチャオは、今後おそらく宝物を別の屋敷に分散させるであろう、という話も耳にした。
(潜入するならきっとこのタイミングだ。暁さんならきっとやれる)
瀧川は高鳴る胸をおさえながら、早足で長屋を目指す。
町の中心地からもっとも遠い部屋が、ノヴァの住まいだ。そこにたどり着いた瀧川は、音を立てずに、その扉を開いた。
「暁さん……暁さん……あれ?」
瀧川の小さな声が響く。しかし、返答は無い。
目を凝らして見るが、そこにはナハトだけでなく、ノヴァの姿もなかった。
冷え切った部屋は、全く人の気配を感じない。ひどく狭い長屋なのに、人がいないというだけで広く感じてしまうから不思議だ。
「……どこか出かけてるのかな?……戻ってくるまで待ってみるか」
瀧川は、玄関に腰掛け、ナハトの帰りを待った。
しかし夜が明けても、彼らがそこに帰ってくることはなかった。
*****
「賊が?詳しい話を聞かせてくれ」
部下からの報告によって安らかな休息の時間を邪魔されたはずのチャオは、それでも瞬時に体を起こし、蔵の外、報告を上げた警備の元へと向かった。
今の今まで寝ていたとは思えないその俊敏な身のこなしは、ただの商人というより、むしろTPAのように戦う者たちのそれで、理人は少し面食らった。
がたん、と扉が閉ざされる。灯りがあるため暗くはないが、まるで閉じ込められたような閉塞感が場を満たす。
「それで、状況は」
「は……」
蔵の外でチャオと警備が話す声が微かに聞こえてくる。理人は無意識のうちに、それに聞き耳を立てた。
「屋敷に賊が入りました。男が二人。取り逃したので追手を三名向けておりますが、まだいずれも戻っておりません。また、屋敷内を確認しておりますが、盗まれたものはありません」
「そう。扉がこじ開けられたような痕跡もないね?」
「はい。……ですが賊は、地下牢から上がってきたのを目撃されております。そのため、抜け穴のようなものが地下にないか、念入りに確認しているところです」
「……地下牢から?」
そう呟いたチャオは、口元に指を当て、思案の表情を浮かべた。
「……何故、賊は宝物がまとめて置いてある蔵ではなく、屋敷を狙ったんだ?確かに、屋敷にも値のあるものは置いてあるが……」
「……チャオ様?」
ぶつぶつと呟くチャオに、警備の兵は小さく声をかけた。いや、とかぶりを振るチャオの視界に、新たな警備兵が駆け込んでくる。
「ご報告いたします。地下牢に不審な抜け穴などはございませんでした」
チャオは跪いて報告する警備兵を見下ろした。その険しい表情に、警備兵たちは頭を下げた。
「……びわ様たちを地下牢にお連れしますか?」
警備兵が頭を下げたままそう尋ねた。しかし、チャオの答えは「否」だった。
「びわたちを連れて行くのは、地下牢ではない」
その頃。
月明かりを反射する川辺を覆い隠すような細長い草の中。
ノヴァとナハトは息を殺して座り込んでいた。
まだ自分たちを捜索する者の足音が聞こえる。最初は三人だったが、今近くにいるのは一人。ここさえやり過ごせれば、おそらく逃げ切れるだろう。
ナハトのスピードに合わせて走っていたノヴァは、体力の限界を迎えて蹲っている。しかしナハトは、最初は少し息も上がっていたがそれも既に整い、すっかり平常通りだ。それもそうだろう。ナハトは日々、戦闘のための鍛錬を怠らない。TPA最強の男の名は伊達ではないし、伊達にするつもりもない。それが、最強を誇るナハトの矜恃というものだった。今のナハトについてこられるのは理人くらいであろうが、その理人も、最終的にはナハトには敵わないだろう。
(理人なら、この程度で音を上げたりしないものだが)
と考えたところで、その理人を取り戻す作戦に失敗したことを嫌でも思い出させられた。
(……クソ)
今朝、ノヴァが演奏家仲間の集まりから戻ってきた時。一つの有力な情報を手にしたと言った。
「チャオの屋敷には、地下牢があるらしい」
「地下牢?」
具の少ない味噌汁を啜りながら、ナハトは眉を顰めた。
「……最近チャオの屋敷に演奏をしにいった新入りの龍笛奏者がそう言っていた。とても優秀な琵琶奏者が屋敷の地下牢にいるらしいと。……バルド様は琵琶の演奏が得意だ」
「なるほどな。しかし、それだけでお前の主人と断定できるのか?」
元々レベルの高い演奏者がいたというチャオの屋敷だ。それだけでは決め手にかける。
「まだある。その琵琶奏者とともに、背が高く美しい男性も一緒にいたと言っていた。そしてそのどちらも、異国的な容姿をしていたと。バルド様のお姿は確かに、西洋の趣がある」
ナハトの動きがぴくりと止まる。
「だから、バルド様は地下牢に幽閉され、演奏するときだけチャオに呼ばれているのではないかと、私は考えている」
「そして、理人もそれと同じように地下牢に押し込められているであろうと」
「ああ。可能性は非常に高い。それと……」
「それと、何だ」
ナハトが言葉の続きを促すと、ノヴァは苦虫を潰したかのような表情を浮かべた。ナハトは無言でノヴァを睨む。数秒間悩んだ後、ノヴァはゆっくりと口を開いた。
「……確証はないのだが、もしかしたら、バルド様とお前の部下は、チャオの慰みものになっている可能性がある」
「……なに?」
年端も行かぬ少年からそのような言葉が出てきたことにも驚いたが、正直それよりももっと、聞き捨てならないことだった。ナハトの表情がさらに険しくなる。
「少し前まで手元に置いていた遊女をここ数日の間で全員遊郭に返したと言っていた。チャオはそうとうな美人好きらしいから……もしかしたら、ということもある」
美人好き。たいていの男は美人が好きだと思うが、そう言われるとぞくりと悪寒がする。
理人は美人だ。惚れた欲目もあると思うが、そんじょそこらの女よりずっと美しいと思う。理人自身は自分の容姿をありがたがってはいないようだが、それでもナハトにとって、理人の魅力の一つは間違いなくあの凛とした美しさだと、そう思っている。
もしそのチャオという男が、美しければ男でも抱けてしまうのであれば、確かに、理人は既に奴の手に落ちているのかもしれない。
自分以外の手によって体を開かれる理人を想像したら、カッと体が熱くなった。もしそんな事実が発覚してしまえば、そのチャオという男を無傷で放っておける気がしない。
ナハトは、ぎり、と奥歯を噛んだ。一刻も早く、理人を連れ戻さなければ。そして必ず、一緒に未来へ帰るのだ。
――そう心に誓ってから、まだ一日と経っていないというのに。
結局のところ、自分がしたのは、屋敷に潜入したことだけ。理人を奪還するどころか、その手がかりすら掴めないまま、こうしておめおめと逃げてきてしまった。
ナハトは強い無力感に苛まれた。
特殊部隊最強だとか、伝説的だ、などと言われているくせにこの体たらくだ。自分はたった一人の恋人すら、この手から取りこぼしてしまったのに。情けなくて、いっそ笑いたくなってくる。ハッ、と息が出てしまい、思わず口を手で覆った。
(いや……もう追手の気配は無いか)
用心して辺りを見れば、確かに追手の姿はなかった。どうやらうまくまけたようだ。
ホッと息をつくと、足元で丸くなっているノヴァを軽く足で小突く。
「消えたぞ。動くなら今だ」
「……蹴るな。TPAは足癖も悪いのか」
「フン、そんな口をきけるならもう心配はいらないな。それで、これからどうする」
心配などしていないくせに……とぼやくノヴァは、服についた土埃を払いながら、「我々の本拠地へ行く」と言った。その目はまだ少しも、折れてなどはいなかった。
ノヴァの言う本拠地は、そこから少しも離れてはいなかった。川の流れに逆らうようにそれを横目に歩いていくと、やがて小さな小屋が現れた。ノヴァは小屋の仕掛けを解除し、その扉を開いた。
「簡単な仕掛けだが、用心のためにな。……あまり見るな」
そう言いながら、ノヴァはナハトの体を小屋に押し込むと扉を内側から閉め、鍵をかけた。ナハトはこっそりとその動きを盗み見し、仕掛けの解除方法を頭で理解した。それは、簡単な構造をしていながら、それでいて仕組みを知らなければなかなか攻略が難しいであろうものだった。ふらっと小屋を見つけた旅人などは、扉を開けられず侵入を諦めるだろう。
随分と厳重だな、と思ったところで、確かにこれは厳重にもなるだろう、とナハトは納得した。足を踏み入れたその六畳にも満たない狭い小屋の中には、時空間移動に必要な道具が多く収められていた。
「タイムワープガジェットに、独立型時空GPS……それにこれは、自動発電機か?」
「触るなよ。すべてバルド様の私物だ」
ノヴァはそう話しながら、小型の暖房器具の電源を入れた。熱気がすぐに部屋を暖める。
「やはり火鉢よりこっちが良い」
「それはそうだろう」
ノヴァは小型暖房器具に手を当て、そこに座り込んだ。それからしばらく何も言わず、ただそこで呆けたように、どこか遠くを見つめていた。
「ノヴァ。電気を少し借りても良いか」
「……少しなら」
「悪いな」
考え事の邪魔をするようで気が引けたが、それでもこの機会を逃すまいと、ナハトは手元の通信機器を発電機につなげた。過去に長期滞留することがそうないナハトは、発電機などは携帯していない。よって、通信機器の電池も残り僅かだった。
ナハトは通信機器を起動し、未来の、自分が元いた時代に向けて発信した。
ノヴァは、通信機器に向かって真剣に話すナハトの様子をぼんやりと眺めていた。
何を話しているかは、興味がなかったので特に耳に入って来なかった。それでも、その焦った声色と表情から、よくない話をしていることだけはわかった。
数分後、通信を切ったナハトは、自分の脚を思い切り殴りつけた。これには、ノヴァも驚愕し目を見開いた。
「何があった」
「TPAに、理人のことを報告した」
「それで」
「あと一日捜索して見つからなければ、未来に戻って来い、と」
「な……なんだそれは。TPAは、仲間を見放すのか」
ノヴァが眉間に皺をよせ、ナハトを睨みつけるも、ナハトはそれよりもよっぽど険しい顔をして、通信機器を忌々しい表情で見つめていた。
「……この時代には、瀧川調査員もいる。捜索は調査員に任せて、俺はさっさと特殊部隊としての任務に当たれとさ」
「お前はそれで良いのか」
「いいはずがないだろう!」
ナハトの、腹の底から出るうめき声のような叫びが、部屋に響いた。その声は、TPAに対する怒りだけでなく、自分を責めるようなやるせなさを滲ませていた。
「……だが、命令に反くことは、すなわち、組織への反逆とみなされることもある」
TPAにおいて、上官の命令に逆らうということは、そういうことなのだ。こと時空間移動をはらむ状況においては、懲戒を通り越し、一瞬にして犯罪者にすらなりかねない。無論、そんなことはナハトにとっても望まないことだ。
「それでも、俺は理人を諦めたくはない……必ずこの手で取り返したい」
「それはそうだろう。私だってそうだ。バルド様は、ただの主人じゃない。死んでも、バルド様を取り戻す」
俯いていたナハトは、ふと目の前に座る少年を見た。自分の半分ほどしか生きていなさそうな年若さだが、その決意だけは、自分などより余程強い。
心のどこかで所詮はタイムジャッカーの子供だと侮っていたが、どうやら考え違いだったようだ。
「私は絶対に、バルド様を諦めない」
「……ああ」
ナハトは、まっすぐ前だけを見つめるこの少年のことを、少し羨ましく思った。