自分のことは話さないくせにとある居酒屋の店内で俺はその人に出会った。
彼は……なんというか、不思議な青年だった。
癖っ毛の黒い長髪に、どことなく中性的な体つきと顔立ち、人を誑し込むような色気を漂わせながら、何故か一人で酒を飲んでいた。
付け加えるなら、初対面の俺から見ても酒には弱そうだった。
それはもう。
大体、俺が彼に話しかけようと思ったのだって、今にもぐでんぐでんに酔い潰れそうで見ていられなかったからだし。
こういう人って普通、酒には強いもんじゃないのか、なんて思いつつ、コップ一杯で既に赤ら顔のその人に声をかけた。
「……あの。大丈夫ですか」
「うぅ……?だいじょーぶだよぉ〜。だってまだこんだけしか飲んでないも〜ん」
あっ、これもう手遅れだな。
俺は瞬時にそう悟った。
酔っ払っているからか、背丈の割にあどけない笑みを浮かべて無謀な台詞を吐く。
呂律も半分以上回っていなかった。
「一人で来たんですか」
「んん〜?うん、そうだよぉ。だってねぇ、みーんな付き合ってくれないんだもん。ヒョウガは匂いだけで気持ち悪くなるって言うしさぁ〜。えへへぇ、まぁ〜……そこが可愛いんだけどねぇ?」
訊いてもないことまでよく喋るな、この人……
てか、知り合いだか何だか知らないけど、名前出していいのかよ。
駄目だな、コイツ……野放しにしておいたら、変な事件に巻き込まれかねない。
俺は溜息を吐きながら彼の隣に座った。
やましい気持ちは……多分、無い。
「ヒョウガはねぇ〜、良い子なんだよぉ。優しいし〜、素直だし〜、……へへ、ねぇ聞いて?この前なんかねぇ〜、蜘蛛が出てなぁんにも出来なくなっちゃったあたしに、ずぅっと寄り添って面倒見てくれたんだよぉ〜」
「そうですか、良かったですね」
「でしょ〜!」
火照った顔に、はだけた服。
全てがあまりにも無防備で、こんなのが今の今まで無事に生きてこられたことが信じられない。
っていうかこの服、ちゃんと着ても結構、大胆というか……煽情的にならないか……?
そのポンコツさでそんな服を着て出歩くのは、正直言って自殺行為に等しいと思うが……
自覚も無さそうだし、酔ってる酔ってないに拘わらず言っても伝わらなさそうだし、うぅん……
……きっと、色んな人に守られながらここまで育ってきたんだろうな。
なんとなくそう思った。
そうじゃなきゃ奇跡だ。
「ねぇねぇ〜、カシスオレンジってあるじゃん?アレのさぁ、イチゴ味とか無いかなぁ。そしたらきっとヒョウガも飲めると思うんだぁ」
「はぁ」
「ヒョウガはね、イチゴが好きなんだよぉ。オレンジも多分好きだとは思うんだけど〜……どうせならぁ、い……っちばん美味しいのを飲ませてあげたいからさぁ〜」
「あったら良いですね、イチゴ味」
「ん〜……」
彼がどこか微睡むように頷く。
これ、もうすぐ酔い潰れて寝るパターンだろ。
一人で来たくせに大丈夫かよ……
そんな俺の心配など知らない顔して、彼は目を伏せた。
「……あたし、ヒョウガにはい〜っぱい幸せになってほしいんだぁ〜。大好きなものに囲まれて、怖いことなんて何も無くて……それで、その隣にあたしもいさせてくれたら、それがあたしの幸せなの」
甘ったるい声で小っ恥ずかしい台詞を吐いて、彼は、本当に、愛おしそうに笑う。
それが俺にはどうにもいじらしく思えて、ダメな大人だな、なんて思いつつ、目が離せなかった。
「ずいぶん、好きなんですね。その、ヒョウガって人のことが」
「うん!好きだよ、大好き!あのね、ヒョウガはね、お化けとかそういうのが苦手だから、あたしが一緒に寝てあげたりするの!それでね、寝る前にぎゅーってしたりして……!」
なんか変なスイッチ入ったな。
「でもあたしはね、それだけじゃなくて、ちゅーとか、その先と、か……ぁ……?ぁ、あぁ〜……」
流石に自分がとんでもないことを言っていると気付いたのだろう、ただでさえ酔いで赤らんでいた顔がさらに赤く染まる。
見た目にそぐわない初心な態度に、俺の中の何かが溶けていく。
ああ、俺、多分もう一生、普通の恋愛とか出来ないんだろうな……
直感でそう思った。
「ん……っと、今のお話はナイショ、ね……?」
肩からずり落ちた外套の余った袖から、人差し指だけ出して自らの口元に当てる。
はにかんだ顔でそう囁かれたら、俺の大切な何かが崩れ去っていく想いだった。
あまりにも罪だ。
恐らく無自覚でやっているからなおさらタチが悪い。
衝動的にその癖っ毛の黒髪をくしゃくしゃと撫でると、彼は一瞬、少しだけ目を丸くして、それから安心したように頬を緩めた。
何なんだよ、その顔。
ダメ人間だと思って油断していた。
最初に思った通り、やっぱり人誑しだ、この人。
呆れるくらい一途なくせして、どうして無関係の俺まで惹き込むんだよ。
なんで惹き込まれちまうんだよ。
いつの間にかその人は、目をとろんとさせて机に突っ伏していた。
きっともう限界なんだろう。
瞼と瞼がくっつきそうになるのを、なけなしの気力でどうにか押しとどめているだけに過ぎない。
俺が、今度は出来るだけ優しく撫でてやると、彼はそれに身を預けるようにして、夢の世界へと落ちていった。
「…………はぁ」
無駄に甘酸っぱい胸の鼓動と、じんわりと染み渡るやるせなさに、俺は一つ溜息を吐いた。
すっかり床に落ち、最早意味を成していない彼の上着を毛布代わりに背中に被せて、今し方芽生えたこの感情のやり場について思案する。
平和そうに眠っている彼の顔は、欲と虚しさを同時に掻き立てる。
その虚しさの中で、俺はふと思い出した。
そういえば彼、ヒョウガって人のことしか話してないな。
だから俺は、この人のことはなんにも、名前すら知らなくて……ああ、なんだ、そっか。
思わず乾いた笑いが漏れる。
虚しいと思うだけ無駄なんだな、きっと。
インスタントな青春が終わりを告げる。
いや、そもそも、最初から始まってすらいなかったか。
失恋と言うほど悲しくもなかったが、それでもほんの少し、切なくなる。
一時間にも満たない刹那の落差でこれなのだから、ずっと想い続けてきた恋が枯れ朽ちる瞬間というのは、俺では想像も出来ない程に辛く、苦しいのだろう。
願わくば、穏やかな寝息を立てるこの青年が、俺以上の想いをしませんよう。
柄にもなくそんなことを祈りながら、彼の寝顔から酔いが醒めていくのを眺めていた。