才能梔子さんです。
大天才です。
私の文章は全世界から認められる素晴らしき文章であり、それは私自身、とてもよく分かっております。
みんな私の文章が大好きで、私の文章を喉から手が出るほど欲しがっています。
ええ、分かっておりますとも。
しかしながら、世の中には私のような大天才を平気で超えてくる大天才がいるのです。
それはとても喜ばしいことであり、同時に恨めしいことでもありました。
他人は関係ない、私は私。
頭では分かっていても、どうしても比較してしまうのが人の性。
その度に私の自尊心は音を立てて軋み、時にはひび割れることすらもありました。
私は大天才なので、誰もが私の文章を褒め称えます。
好きになります。
ファンになってくださいます。
そういった方々の感性を否定したくなくて、私はどんなに辛くても、自分の作品だけは絶対に卑下しないようにと心掛けております。
それが却って辛いのです。
本当は誰も、私の文章など興味が無く、私がただ独り、勝手に思い上がっているだけなのではないかと。
どんな称賛も感嘆も、結局は全て社交辞令に過ぎないのではないかと。
そんな風に思ってしまう自分が嫌で嫌で、愚かにもつい自分を卑下してしまいます。
否定してほしくて。
だというのに人間の心というものは複雑で、待ち望んでいた否定の言葉でさえも、所詮はただの世辞ではないのかと勘繰ってしまいます。
嘆かわしいですね。
文面では何とでも言えます。
画面越しでは顔も声も無いのですから、表情や声色を取り繕わなくたって、いくらでも都合の良いことが言えます。
だからこそ私は、そんな世界で生き抜くために、自分にとって都合の良い言葉ばかりを信じ込み、今日まで必死に自我を肥大させて来たわけです。
ここにしか居場所が無いのだから。
付け加えるなら、私に期待されているものは、文才ただ一つなのだから。
才能というのはとても便利でして、私の人間性がどれだけ地に落ちていようと、コミュニケーション能力がどれだけ欠如していようと、一度文章さえ読ませればみんな私の虜になるのです。
どんな失点も全て補い、あまつさえお釣りまで貰って生き存えることが出来る。
こんな素晴らしい能力を使わない手はございません。
ですので私はたいそう文才に依存してきました。
私は文章が書けるが故に大天才であり、文章が書けるが故に誰からも愛されているのです。
文才の無い私など、底辺未満のゴミ虫の如き存在です。
なればこそ、苦痛。
私にとって自分より文章が上手い人間というのは、間接的に私の文才を否定し、さらには私の存在価値さえも否定してくる、悪魔のような存在なのです。
存在が罪と言わざるを得ない。
あまりにも怖くて、悍ましくて。
そんなものに出会う度、私は自らの生を疑いました。
これまで積み重ねてきたもの全て、風塵のように散らされてゆく。
捻くれた自尊心も、呆気なく砕け散る。
才能というのはとても便利ですね。
便利なものは往々にして恐ろしいものです。
他者の振るう才能によって、私は人生の幕すらも簡単に閉じかけてしまう。
それほどまでに私の人生を支配しているのは、才能のみでした。
そして私を突き動かすのは、才能に対する期待。
私には結局、才能しかありませんでした。
誰かが私の文章を求めるから、好きだと言ってくれるから、それが嘘である可能性から必死に目を逸らしつつ、どうにか自分を騙して奮い立たせ、期待に答えようと足掻くしか生き方を知らないのです。
誰かの期待に依存しなければ、私は生きてはいけないのだから。
そして私はまだ、死にたくはないのだから。
だから私は大天才で、世界中の誰もが私を愛して止まないのです。
そうでなければ私は何故、今、ここに立っているのでしょう。
結局のところ、私を私たらしめているものは、偉大な才能などではなく、惨めで見苦しい自己暗示でしかないのでした。