崖下を見下ろしている。
先程まで見えていた布切れは風に飛ばされて飛んでいってしまった。
只、崖下を見下ろしている。
「アヤ」
「風早。どうだった」
後ろから声をかけてきた人物に、振り返って返答する。風早は疲れきったように溜息を一つついてから、困った顔で喋り始める。
「無かった。何処にも」
「……。そうか」
また崖下を見下ろした。
そもそもおかしな話なのだ。制服がぐしゃぐしゃになっていて、破れて、その上で血がついているというのに。まるでその周囲には欠片も痕跡が残っていない。
もう一方の制服──恐らく、サイズ的に神代のもの──は、完全な形で発見されている。本当にここで二人に何かがあったのなら、制服だけが脱ぎ捨てられたような形で置かれているのはおかしい。
「逃げたな」
考えられるのは、それしかなかった。
「……どうするの。報告は」
「……」
瞬きを一つする。底は辛うじて見えている、しかし落ちたら間違いなく死亡するであろう高さの崖。その真下を、漠然と眺めている。
それから視線を外して、再度風早に向けた。
「死亡として提出する」
「……」
「失踪と伝えても、我々に捜索責任が降りかかるだけだ。仮に見つけて連れ戻したとして、素直に戻ってきてくれると思うか」
「…………」
「戻るぞ。外に長居するのは良くない」
複雑そうな顔をした風早の横を通り抜け、施設への道を戻る。
こんな世の中で、施設から逃げ出すなど。行く宛などあるのだろうか。いいや、行く宛など無いから──だろうか。何にせよ、安全に生き続けられるここを捨てたのだ。生半可な覚悟ではなかったのだろう。
「ずるいな」
ふと、背後で風早が呟いた。
「僕だって逃げたいのに」
振り向くと、風早の背中が見える。視線が何処に向かっているのかは分からない。
「二人だけ逃げ出して、アヤの慈悲貰って。──人でなし」
感情の無い声に、身震いした。
そんな風早の声を聞いたことがなかった。
風早は振り向くと、いつもの笑顔で、いつもの明るい声で言った。
「ん! 戻ろっか、アヤ」