現パロ無鉄(彫刻家×貧乏美大生)その9 無頼漢との生活は不自由なく続いていた。彼は俺の胸像をずっと彫り続けているし、俺の学業も問題ない。イゾルデから先日の礼だと届いた小包に入っていた菓子を消費しながら、穏やかな日々を過ごしている。
胸像はほとんど完成しているように見えた。それでも無頼漢はまだあれを終わりにしていない。気分転換だと他のポーズでのモデルを頼まれることもあり、それらは既に命が吹き込まれたというのに。
「……む」
カシュ、カシュ。ボディソープのボトルを押しても寂しい音しか出てこない。どうも切れてしまっているようだ。作業中だったら申し訳ないと思いつつ無頼漢に声を掛ければ、痛快な返事があったので大丈夫そうだ。
「悪ィ、昨日俺がカラにしたの忘れてたわ」
ガラッと浴室の扉が開き、詰め替えパックを手にした無頼漢が現れる。当たり前だが、着衣だ。俺はほんの少しだけ落胆する。だって、この前あんな風に入浴を断られているから。
パックを受け取ろうとすれば、手が滑るだろと代わりにボトルへ移してくれる。俺はそれを見ながら、何でもない風に言った。
「あんたもこのまま入ったらどうだ」
「がはは! なんでい、いっちょ前にお誘いか? 生憎だが今日は――」
パシャ、と控えめな音。俺が浴槽の湯を手ですくって、無頼漢のシャツに掛けた音。
「……濡れてしまったな」
「おいおい……こりゃやられたな」
丁度、詰め替えが終わった頃合だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「折角だからよ、背中流してやる」
濡れた服をかごへ放り、新品の風呂椅子片手に現れた無頼漢が言った。
「……じゃあ、俺も後でやってやる」
「お! 期待してるぜ! そいじゃ……力加減はどうすりゃいい?」
つつ、と太い指が遠慮を乗せて俺の背を滑る。火傷痕のことを言っていた。
「痛むわけではないが……強い力は避けて欲しい。実はちょっと敏感なんだ。特にあんた相手にはな。モデルをしている時は触れられても気にならないのだが」
「お前ここ最近しれっと煽ってくること増えたよなあ」
「はっ、どうだか」
笑ってやれば、無頼漢はわざとらしくやれやれと口にしながらボディスポンジを泡立て始めた。静かに待っていれば、小さな泡の塊が背に触れる。うなじの辺りからスタートして、少しずつ、確かめるようにスポンジが流れていく。
「……凄い見た目をしているだろう。ただでなくとも大きな百足のようで不気味なのに、黒く沈着してしまったからまるで呪痕だ。実際そんな風に言う奴もいたから、俺は極力肌を見せないように生きてきた」
無頼漢の手が止まる。彼が言いかけて止めたことを、俺が代わりに言う。
「安心してくれ。彫っていいと思っているのは本当だから」
「まあ……モデルやってる時のお前さん見てても本心だってのは分かってるけどよ」
「あんた、俺に気を遣って詳細を聞かないでくれていたんだろ。少しだけ俺のこと教えてやる」
スポンジがまた動き始めた。俺はその動きに乗せるように、昔のことを思い出す。
「俺、最初は両親と同じように死んだと思われていたんだ。助かる見込みのない大火傷だった。それが仮死状態から息を吹き返したらしい。この火傷痕は俺が生き延びた証ということだ」
「……ああ」
「誰も俺の引き取り手がいなかったって前言ったろ。これを忌み嫌ってのことらしくて……結果としてイゾルデと出会えた。そして、あんたにも。他人からすれば醜い体だろうが、意外と俺にとっては祝印なんだよ。だからあんたがこれも彫って残したいって興奮していたのが……凄く、嬉しくて。救われたんだ。これを失くすなんて、折角手に入れた俺というひとつの身分を棄てるようなものだから」
無頼漢がスポンジを置き、シャワーを手に取る。今俺の背中は真っ白で、無垢だろうが。
「なるほどなあ……俺が初見で惹かれるわけだ」
サァァと湯が掛けられ、地を這う地獄めいた刻印が無頼漢の目に触れる。彼はその痕を、全て指先に記憶するようなぞっていった。
「ふふ、ははっ。そこ、敏感だって言ったろ。今度モデルやってる時に触れてくれ」
「また煽るんだからよ……じゃ、交代だな」
椅子の位置を入れ替えて、今度は俺が無頼漢の背中を流す。何もかもデカい男は、もちろん背中だってデカイ。引き締まった褐色の肌は正に芸術で、逞しく神聖。泡立てたスポンジを乗せて恐る恐る滑らせれば、笑いながらもっと力を入れろとからかわれる。
「なあ、鉄」
「うん?」
「また今度……俺の話もしてやるよ。色々聞かせてもらったお返しだ」
「それは楽しみだな」
シャワーを掛けて泡を落とす。後は湯船に浸かるだけだった。
「無頼漢」
「二人で入ったら湯がどっか行くって」
「たまには良いだろ」
「急に素直に甘えられたら流石に可愛いが過ぎるだろ……」
なんとか無頼漢を口説き落とし、先に入ってもらう。イゾルデの小包に入っていた入浴剤を溶かした、青色の舟。脚を開いてもらってその隙間にゆっくりと体を沈めれば、ざぶざぶと湯が落ちていった。肩まで浸かって背を無頼漢に預ければ、太い腕が腹に回される。
そのまましばらくを過ごした。俺も無頼漢も何も言わず、心臓の音に耳をすませるだけの時間。寒い冬の長風呂にケチを付ける者などいない。
裸の付き合いだと言うのに、今日の浴室はアトリエだった。切り取ることの出来ない時間を、せめて脳というキャンパスに記憶する。昔の記憶が無い分、人よりキャパシティがある。俺の記憶はあの日、墓から始まった。きっかけが彼ではない彫刻家だから気が引けてまだ話せていないが……いつか、知ってもらいたいと思う。
同様に、彼のことも知りたい。俺しか知らない無頼漢の姿を多く持っているにも関わらず、俺の知らない無頼漢の姿を焦がれるくらいには想っている。ただの同居人にも、父性を感じる人にも、憧れの師にも、そんな我儘な感情抱かないだろう。
「胸像……完成しそうか?」
問えば腹に回っている腕に力が入り、肩へ顎が乗せられる。水気を含んだ髭が張り付いて、少しくすぐったい。
「なんか……足んねえンだよな」
「モデルの観察不足じゃないか?」
「存外的を射ってるかもなあ……お前さん良い射手になれそうだ」
「なんだそれ」
二人分の笑い声が浴室に響いた。優しい時間の持つ熱はゆっくりと膨らみ続ける。名残惜しいが、そろそろ体がふやけてしまう頃合だった。
「背中流してやったんだ。久しぶりに髪も俺が乾かしてやるよ」
同意して二人立ち上がれば、潮の引いた海がゆらゆらと穏やかな波を立てているのだった。