現パロ無鉄(彫刻家×貧乏美大生)その1 今年の冬は一層と冷え込んでいた。何枚ダウンを着込んでも寒さは厳しく、ろくな暖房のないボロアパートにいるより学内へ避難した方がマシなくらいに。学友と遊びに行こうにも金がない。切り詰めた生活費と、家賃と、奨学金の返済でギリギリだった。
そんな事情で俺は日中よく大学に居た。風呂と寝床以外は生活に困らない。授業には勿論全て出席していたし、空いた時間は図書館で借りた彫刻資料をスケッチするなどして過ごすことが多かった。後見人の援助を受けここまで漕ぎ着けたんだ。渇望していた美大での時間を無駄にしたくなかった。
夜や日中大きく時間が空いた時は短期バイトを捩じ込んでいる。画材代も馬鹿にならない。真面目に学業に励んでいるのが功を奏したのか、俺は学生課からいたく気に入られていた。ふらりと顔を出せば割の良い安全なバイトを紹介してくれるので、いつも世話になっている。
今日はそのバイト先に来ていた。割が良い、といっても普段は精々相場の二割増程度である。それが今回は破格だった。というか少し珍しい内容だったので、その相場というのもあってないようなものである。全体に向けて掲示すれば引っ張りだこの案件だったはずのそれを、職員がこっそりと斡旋してくれたのだ。キミ、彫刻科だよねという言葉と共に。
聞けば、そもそも応募条件が厳しいらしい。第一条件が彫刻科の学生であること。その他は男であること、体力があればなお望ましいなど。そして、業務内容は現地に着くまで明かされない。求められる内容と妙に高い報酬を見れば普通は警戒する。だが、学生課という担保があるのだ。
指定された待ち合わせ場所は、大学近くのマンション前である。時刻は昼過ぎ。今日はもう講義もなく、まさにバイト日和だった。約束の時間まであと十分。近くの木に止まっていた鳥を観察しながら待っていれば、ついに謎めいた依頼主が姿を現す。
「――……、」
俺は言葉を失った。
「よ! お前さんが約束している学生さんか?」
「はい、彫刻科の――」
「あー、あー、自己紹介は後にしようぜ。ここは冷える。アトリエに案内するから着いてきな」
目の前にいるのは、つい最近も大きな個展を開いていた、彫刻志望の学生で知らぬ者などいない大彫刻家――無頼漢だったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇
案内されたのはマンションの一室で、アトリエ兼居住区の様相だった。楽にしてくれなどと言われたが、大先輩を前に緊張するなというのは酷である。なにより俺は無頼漢の大ファンなのだ。個展だって学割を駆使してなるべく回っている。学生課が詳細を伏せたのも納得だ。今回は俺に斡旋された訳だが、無頼漢の名を出せばそれはもうちょっとした騒ぎになっていただろう。
「なあ、鉄の目」
自己紹介はしたし、履歴書も送っている。だから彼は俺の本名を知っているが、なぜだか雅号で呼んできた。
「は、はい」
「昼飯は食ったか?」
「ええ、菓子パンを一つ」
「なるほど……まだ食えるか?」
「……?」
質問の意図を掴めないまま頷けば、無頼漢がニィっと笑う。着席を指示されたので素直にダイニングテーブルで待っていれば、彼は幾らかのタッパーを持ってきた。何か手伝った方がいいのかそわついていれば今度は白飯が用意され、あれよあれよと食卓が完成していく。
「この後、結構な体力仕事だからな。精を付けておいてくれ」
「あの……そろそろ仕事内容を伺っても?」
「がはは! それもそうだな。俺が今日頼みたいのは、胸像モデルだ」
「胸像……モデル」
俺は馬鹿みたいに言われた言葉を復唱した。思考回路がショートしている。あの無頼漢の胸像モデルをさせてもらえる上に、賃金まで発生するだと? というか目の前にある料理は無頼漢の手作りではないか? 情報量が多すぎる。
「お前さんも彫刻志望なら分かるだろ? 彫刻モデルが体力仕事なことが。空調をイジるから、出来れば上半身だけ脱いでもらいたいが……いけるか?」
「……ええと」
「無理強いはしねえよ。着衣作品も作りたいからな」
これは少し困ったことになった。
「その……脱ぐのは問題ありませんが、俺、ちょっと体に傷があって。それでも良ければ……」
「……そうか。お前さんが嫌じゃなければ見せてくれるか? まあ、まずは飯を食ってくれ。色々あるから好きなもん大皿に取れな。アレルギーとかあれば言えよ」
頷けば無頼漢は、俺の二度目の昼食を楽しそうに見つめていた。
こんなに満たされるまで食ったのはいつぶりだろう。無頼漢は俺が遠慮しているのを早々に見抜き、胃袋加減を探りながら次々と惣菜を皿に乗せていった。固まっていれば、意地の悪い笑みと共に肉の刺さったフォークを差し出される。食わせてやるから口を開けろ、などと軽口を叩きながら。半分パニックになっていた俺は、素直に口を開いてしまった。無頼漢は俺のはしたなさを嗜めるでもなく、いくらか冷ました状態の肉を口に放り込んでくる。緊張で味がしないかとも思ったが、少し濃いめの味付けが飢えた体を満たしていった。
「それじゃ悪いが、上だけ脱いでくれるか? 寒かったら温度上げるからな」
ソファに座らされ、正面に無頼漢が立つ。着込んでいたダウンは入室の際に脱いでいたので、上半身は無地のパーカーとインナーのみ。まとめて脱ぎ去れば、無頼漢がジッと俺の体を見つめる。
「傷は……ここです。火傷跡なんですけど」
体を捻って背中を見せれば、小さく息を飲む音がした。その反応も仕方ない。火傷跡としてはかなり大きく、まるで百足が背中を這うように見えるそれは見ていて気分の良いものな訳がなかった。お目汚しすみません、と伝えれば、謝罪と感謝が返ってくる。
こんな醜い体は無頼漢の作品になるべきではない。そう思い始めると、自分が無頼漢のアトリエに踏み込んだ事実から申し訳ない気持ちになってくる。早く傷を隠したくて緑のパーカーに視線を落とした。
ギシ、と音が鳴る。視線とは反対側に無頼漢が腰を下ろしたのだ。より近くで検められるのが苦しくて身を縮こまらせれば、優しい声が響く。
「なあ。お前さんはその傷……俺の作品として残されるの嫌か?」
「えっ……と」
「悪ィな……年甲斐もなく興奮してんだ。ビビっとくるモデルが居ねぇか数打ちゃ当たる戦法で何度も大学に話を付けるつもりだったんだがな、いきなり大当たりを引くとは」
今日一番無頼漢の顔が近かった。先程まで背中に向けられていた視線が俺の顔にある。これは俺をその気にさせるための建前だろうか。人生経験の浅い俺には分からない。ただ、己の肉体が憧れの人の作品になるという囁きはあまりにも甘美である。隠しておきたかった厚かましさを抑えることが出来ないくらいに。
「あっ……あなたが嫌でなければ、俺は」
「なんで俺の好き嫌いになるんだ? 大事なのはお前さんの意思だぜ。ほら、鉄の目くんよ。お前は体の傷ごと俺の作品になるの……嫌か?」
剥き出しの肌がじんわりと熱を持ち、喉が渇いていく。ただ彫刻モデルの承諾を問われているだけなのに、何故こんなにも緊張しているのだろうか。学生課から提示されていた勤務時間はあと数時間。俺が差し出すのはたったそれだけだ。だというのにこの選択は、もっと大きな意味を持っている予感が確かにあった。だから俺は慎重に答えねばならない。
「嫌じゃ……ない、です」
よくよく考えた末の決断だった。俺の返答を聞いた無頼漢は、目元に深い皺を寄せながら頷いたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「こう、ですか」
アトリエの真ん中に置かれた椅子に腰掛け、指定されたポーズをとる。
「うーん、なんか惜しいなあ……鉄の目、お前さん案はあるか?」
「えっ!? あっ、そうですね……」
驚いた俺は咄嗟に左手を口元にやる。大彫刻家に意見を出すだなんておみそれおおいが、せめて何か考えねば。そう思い思考に耽ける時の姿勢を取ったのだが、途端無頼漢の目付きが変わる。
「いい、そのままだ。なあ、お前、友達と話す時も今みたいな喋り方か?」
「いえ、学友に敬語は使いませんが……」
「だよな。なら今から俺に対しても敬語禁止だ」
「…………えっ!?」
「お前さんという作品を作るんだ。普段通りで居てくれた方が好都合なんだよ。何となく分かんねえか?」
正直なところ、無頼漢の主張は理解できる。しかし実行出来るかと問われれば。彫刻界かつ大学の大先輩だぞ。さっきなんて父親みたいに世話を焼いてくれたし。それにファンなんだ。そんな人にタメ口なんて。
「ぶ……らいかん」
「そうだ」
「ポーズは、これを維持すれば……いい、か?」
「ああ。出来るじゃねえか。後はもう少し緊張が解れたら完璧だな!」
ガハハ! と豪快な笑い声が響く。いっぱいいっぱいだった。モデルをする中で無頼漢の手技を目に焼き付けたい下心ももちろんあったが、それ以上に彼の役に立ちたい気持ちの方が強い。
俺の覚悟が決まったと同時に、無頼漢がノミを手に取った。彼の顔付きもまた変わる。それから俺たちは数時間を、一言も喋らないまま過ごしたのだった。
「いやあ、悪ィ。集中したら周りが見えなくてな。そろそろ時間か」
「……ああ」
「はは、流石に同じ姿勢で何時間もは疲れたろ。晩飯も食ってけよ。風呂も貸してやりてえとこだが、持ち物に服の替えは指定しなかったからな! 次来る時は持ってこいよ」
今、無頼漢は何と?
「見て分かる通り胸像はまだ完成しちゃいねえ。次も来てくれるだろ?」
何故だろう、向こうからすれば当たり前の申し出のはずなのに、ひどく心が喜んでいる。
「……学生課を通してくれ」
「それもそうだな!」
アトリエに豪快な笑い声が響いた。俺もつられて笑う。結局その日は夕飯もご馳走になり、次の日取りも調整してから無頼漢の元を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
そんな無頼漢とのやり取りは今日で三度目である。彼と夕餉を取るのも同じくだった。
「お前さん細っこいのにスタミナは抜群だな。体も柔らけえし、何より射抜くような表現力がある。お前さんみたいな才能あるモデルを前々から探してたんだ」
「……褒めても何も出ない。出せるものがない。このバイトに巡り合ったのも割の良い仕事を探してのことだ」
「ま、俺もお前さんくらいの時はそんなモンだったぜ。うちに来た時くらいはしっかり食っとけ」
そう言いながら無頼漢はタッパーの一つを開けて豚の角煮を俺の皿に移す。これは、かなり美味い。恐らく俺が気に入っていることがバレている。少し恥ずかしい。
「ガハハ! お前さんを作品にしてるんだ。よく知ろうとするのは当たり前だろ? ま、好物でも何でも直接教えてくれたら早ェけどな!」
彼の傍は暖かかった。もちろんうちのアパートと違ってすきま風の無い部屋の作りもそうだし、脱いでいる俺に合わせて暖房だって惜しまないのだから寒いわけがないのだが、ちょっと種類が違う。モデルバイトをした日の夜は、学友と遊んだ日の夜にも近い物寂しさが一層強いのだ。だから、ほんの少しだけ帰りたくないなどと思ってしまった。
そんなバチがあたったのだろうか。食事中に電話が鳴る。確認すればアパートの管理会社からで、無頼漢に断りを入れてからその場で通話ボタンを押せば、思いもよらないことを告げられたのだ。
「……は? 水道管の破裂? しばらく住めない……?」
詳しく聞けば、この寒さで水道管がやられて水周りが大変なことになっているらしい。幸い俺の部屋は浸水の可能性は低いらしいが、大規模な工事となるため入居者は一時的に全員退去。仮住まいは宛てがわれるらしいが、どうも今よりボロな上大学から更に離れる。
「穏やかじゃない言葉が聞こえたが……大丈夫か?」
電話を終えれば心配そうな顔をした無頼漢が声を掛けてきたので、あらましを説明した。彼は難しい顔をする。
「すまない、なるべく早く家財を確認しに行かないと。食器を片付けたらすぐに出る」
「……一人でいけるか? 画材なんかもあるだろ」
「ん。逆に画材くらいしかない。転居が楽なのは良いが……さすがに、憂鬱だ。悪いが、次のスケジュールはメールで――」
鉄の目、と言葉を遮られた。やはり無礼な態度が気に障っただろうか。申し訳なく感じながら無頼漢の言葉を待つ。彼にしては珍しく言い淀んでいた。何だろう。
椅子に座ったままでいれば、無頼漢が立ち上がり俺の横まで歩いてくる。彼はたっぷりとした顎髭を落ち着かないように触りながら――意を決したように言った。
「このままよぉ、俺ん家住まねえか?」
二粒のカーマインがジッとこちらを見ている。無頼漢の顔はノミを握っている時と同じだった。本気だ。真剣だ。俺は今、とてつもない人生の岐路に立っている。嫌でもそう認識させるかんばせだった。此度だって傷跡問答と同じ。業務が終わるまでの数時間を捧げるのと、アパートの修復が終わるまでの数週間。違うのは期間だけで、本質は同じはずなのに、同じだからこそ慎重に答えなければならなかった。
無頼漢は静かに俺の返答を待っている。思えば違うのは期間だけでなく、無頼漢の態度もそうだ。彫刻モデルの承諾時は互いに逃げ道を用意してくれていたのに――今回は、無頼漢側の退路が無い。
「……俺はあんたのモデルだけど、ただのバイトだ。何故……そこまでする。そりゃ住み込みの方がお互い楽とはいえ、俺の経済状況を知っているあんたなら見合った家賃を要求しないことだって容易に想像がつく」
「俺の我儘で誘ってんだから当たり前だろうよ。そうだな、言い方を変えりゃあ……俺の作品が完成するまで家に帰したくないってぇ直球の下心だ」
無頼漢はあけすけに言い放った。その答えは尚更タチが悪く、俺も素直になるのを強要される。
「……悪い、が。その……」
真摯な瞳は先程からひとつも俺から逸れない。俺に腕があれば、きっとこの瞬間を彫刻に起こしただろう。俺もまた彼から瞳を逸らさずに伝える。
「……あんたの傍は居心地が良すぎて、あんまり長い期間一緒にいると独り暮らしに戻れなくなる。今でもバイト終わりの夜は少し物悲しいんだ。だから……」
「なら、ずっと居てくれ。俺にはパートナーもいねえし、お前さんにそういう人が出来ればそんときゃ引き留めねえからよ」
……憧れの人にここまで言われて、断れる学生などいるだろうか。一時の感情に流されて決断していい内容ではない。そんなこと分かっているが、今を逃せば一生こんなチャンスが巡ってこないことも分かっている。ならば彫刻家として為したいことのある俺は、むしろ俺こそ下心で彼の提案に乗るべきだった。
「……今から、俺のアパートに来てもらえるか? 家財を全部ここに運び込む。それで、大学に転居届も出す。完全に転がり込むからな。後悔しないでくれよ」
顔が熱い。そんな文脈ではないが、まるでプロポーズでも受けたようだった。無頼漢の方はと言えば――
「ありがとな、鉄!」
急に近付いて来たかと思えば、大きな体でハグをしてきた。そのまま背中を荒っぽくバンバンと叩かれる。少し痛いくらいの力加減は、彼の興奮を物語っていた。しれっと呼び方も変わっている。ああ……俺の人生、これからどうなるんだ。便箋はまだ残っていただろうか。こんな近況、流石に後見人へしたためるべきだ。
ダウンを着込み二人でマンションを出る。外は相変わらず寒いが、隣に無頼漢がいるだけで心は暖かかった。
「二往復あればいけそうだな。ほら、助手席に乗れ」
家財の量を聞いた無頼漢が嬉々と返してくる。友情と呼ぶには歳が離れ過ぎていて、父性と呼ぶには心が近過ぎる。俺が彼に抱いているこの感情は何なのだろう。俺の一体何が、ここまで彼の感性に刺さったのだろう。
まあ、いずれ無頼漢の作品が完成すれば見えてくるはずだ。今はただ、道案内を完遂しよう。
「あー、次を右折だっけか?」
「すまない、ひとつ前の角を右折だ。あんたの運転が上手くてついリラックスしてしまった」
「ガハハ! ならしょうがねえな!」
こうして俺と無頼漢の同居生活は突如として始まったのだった。