たしかニベアのやつ 一定の温度で流れてくる庭の花の話をぼんやりと聞いていた。
ゼラニウムが満開になったらしい。その名前には心当たりがある。
昔コンビニで買ったリップクリームにその香りがついていた。ミントと薔薇がぐねぐねと混ざり合いながら鼻の奥を目指してくるような感じが苦手で、最後まで使い切ることはなかった。
本当にあんな香りがするのだろうか。
「うーん、たしかに少しスーッとはするけど、本物はそんなにインパクトのある香りではないよ」
「そうなのか。目の下がスースーした記憶がある」
「それはリップクリームだったからじゃないかなぁ」
いつ使ってたリップクリーム?と云う紬と目が合った。
「本当にだいぶ前だな……確か高校の」
「あ、わかった。高1の夏でしょ」
なんでお前が覚えてるんだよ。
「だって。そっか、あれ、ゼラニウムの香りだったんだね」
云いながら細まる目を見ていた。
「珍しいなと思ってたんだ。あの日だけ丞、独特の匂いさせてたから」
「あの日?」
「覚えてないよね」
困ったように笑う顔が俺を庇ってくれる。
その様子から左上に目線を移す。
『これ、』と動く唇。
「あ」
思わず声が漏れる。
記憶の中の俺はカバンを持ったまま、幼馴染をドアに貼り付けるように立ち塞がっていた。
電気もエアコンもまだつけていない上りたての部屋で、蝉の音を聞きながら、キスをした後の不思議さを過ごしている。
部活の観劇会のあと、蒸し暑さの中を並んで喋りあいながら幼馴染の部屋を目指す俺は、こいつにキスをしたくて仕方なかった。
恋愛感情があったかどうかなんて当時は考えもしなかったが、画面の中の華やかな行為を観て早くふたりでしてみたいと思った。
幼馴染が靴を脱ぐのがいつもより遅く感じる。
コンビニで買ったリップクリームは苦手な香りだったが、塗っておくのが礼儀かとその間に唇に滑らせた。
部屋に入るとすぐに『キスして良いか?』と聞きながら、俺は返事を待てない。
ゆっくりと、再びピントが合う。
夕方、前髪の影を瞳に落としながら幼馴染が掠れた声で云う。
『これ、初めてじゃないよね』
困ったように笑う顔はあの日も俺を庇ってくれた。
「思い出した?」といたずらっぽく紬。
「思い出した」と弱々返す。
庭のゼラニウムに会いに行こうかと笑うので、悪いことでもしているみたいに、小指を絡めてこっそり部屋を抜け出す。
気温は涼しいのに、皮膚を滑る空気は少しぬるい。
「これがゼラニウムだよ」
紬が星座を教えるみたいに指差したのは赤色の小さな花たちで、迎えてくれたそれらが満開だったのか知識のない俺にはわからなかったが、確かにあの香りよりは穏やかだった。
「赤い…こんな形の花だったんだな」
「何色のどんな花だと思ってたの」
「濃い青色の、薔薇の花だった」
返事を聞いた紬が嬉しそうに笑ってくれる。
「そっか。じゃあたーちゃんは、あの時青い薔薇の香りをさせてたんだね」
なんて戯けるこいつのことが、俺はあの頃よりもずっと前から好きだった。