隔たりが埋まらなくても いつか彼女の顔を見下ろすようになるのだろう、幼い頃は当たり前のようにそう思っていた。
きっかけはなんだっただろうか。
確か、昔観た新婚夫婦を紹介する番組だったような気がする。出演していた幼馴染カップルは、背の高い男性とそれより頭半分以上小さな女性の二人組だった。子供の頃の写真にはセーラー服の少女と、彼女より小柄なランドセルを背負った少年が映っていた。妻の方がひとつ年上で昔は姉弟のような関係だったが、夫が妻の身長を越したあたりから互いに意識し合うようになった、と幸せそうに語った二人。
それを見たロヴィアンは、無意識に自分とユウナを重ねた。ユウナはひとつ年下のロヴィアンに対して恭しい態度をとっているが、同学年の中でもやや小さめなロヴィアンの隣に並ぶと見上げるほどに背が高い。
だけどきっと、それは年齢によって発育の度合いが大きく変わる子供時代だけのことだ。大人になればユウナの方が自分を見上げることになるのだろうと、あの頃のロヴィアンは何の根拠もなく信じて疑いはしなかった。
小学生の頃も、中学生の頃も、高校生になってもなお、頭の中にあったのはユウナの顔を見下ろすほどに背が伸びた自分のイメージだ。
そんな気持ちも、二十歳を越える頃には流石に潰えていた。ユウナが女性としては高めの身長まで成長したのに対し、ロヴィアンは平均より少し低め程度で止まってしまったのだ。身長が伸びなかったことそのものにコンプレックスがあるわけではない。小柄な体躯は女性ファンに対しても案外ウケがいい。
ただ、ユウナの身長を越せなかったことに関してはずっと少しだけ残念な気持ちを抱えていた。ヒールで目線を上げてもその差は埋まらない。そもそもユウナも常にヒールを履いているので、身長差に関しては平行線だ。
ユウナの隣に立つといつも少し彼女を見上げることになる、それがどうしても気になっていた。別に、彼女と並んだときの見栄えを気にしているというわけでもないし、ユウナもそんなことを気にするタイプではないのだが。ただ、自分を見上げるとしたら彼女はどんな顔をしているのだろうか、なんて度々ぼんやりと物思いに耽った。
一時期、アサカのことが羨ましく思えてしょうがなかった頃がロヴィアンにはあった。
ユウナよりも頭半分ほど身長が高く、隣に並べば自然と彼女が見上げる格好になる。まさにロヴィアンが思い描いていた背が伸びた自分のイメージそのものだった。
ユウナの隣に立つアサカの旋毛のあたりを、穴が空きそうなほどじっと見つめたこともある、見えなかったが。それに気づいたアサカは呆れたような目をしながら、ユウナはアサカよりも身長が低いことがコンプレックスで一時期食事や睡眠に過剰なまでに気を使っていたことがあるとこっそり教えてくれた。
なるほど、そのおかげでロヴィアンが追いつけないほどに背が伸びたのかもしれない。吟遊詩人生活でやや夜型寄りなロヴィアンが身長を越せないのは、定めなのだろうか。
今ならばわかっている。アサカを羨んだのは、身長についてだけではなかった。ユウナが自分の隣にいないときに傍にいられた彼女が、その姿がやけにさまになっているように見えたのが、ロヴィアンは羨ましかったのだ。
ロヴィアンはユウナのことが可愛くて可愛くて、ついつい甘やかしてしまう。あからさますぎて、周りの人間に呆れられてしまうほどに。
だが、自分のそんな振舞いは色々とアンバランスなのではないかという思いもあった。社長という立場にあるユウナが年下で小柄なロヴィアンに甘えるのは、少々外聞が悪いかもしれない。年上で社会的立場のある彼女を守ろうと立ち回る自分は、周囲の人間から滑稽に見られるかもしれない。
同い年、社会的立場、そして物理的にも軽々彼女を支えられる体躯。ロヴィアンがユウナにやってやりたいことをごく自然にこなせてしまえる要素を持っているアサカに、無意識のうちに羨望の眼差しを向けていた。
アサカはきっとそれに勘付いていたのだろう。わかっていて二人の関係を見届けてくれたのだろう。ユウナとよりを戻そうと動いたときにも、随分と助けられたので感謝してもしきれない。もしも結婚式を挙げることになったらアサカを胴上げするプログラムを入れてやろう、と思うくらいには。
まあ、なにはともあれ。
別れを経験したあの頃より少しだけ大人になり、知らず識らずのうちに生まれていた他人に対する劣等感を自覚し、以前のようにユウナの隣に立つようになって。そうして思春期のロヴィアンを時に強烈に悩ませたコンプレックスは、徐々に薄れていったのであった。
「……ぜんぜん知りませんでしたわ、そんなこと……」
「詩に乗せるつもりもなかったからな」
二人きり、恋人としてのひととき。ロヴィアンはソファに腰掛けているユウナの前に立っていた。そうすると自然とこちらを見上げる格好になる、そんなユウナを愛でるのが好きだった。
頬を両手で包みじっと顔を見下ろし、時折むにむにと指を動かすだけ、それだけで時間が過ぎていく。ユウナは多少の疑問符を浮かべながらも、気持ちよさそうに目を細めていた。
『アタクシ、ロヴィアン様よりもお姉さんなのに、甘やかされてばかりですわね……』
ぽつり、ユウナがそう呟いた。
それに対して、私がしたいからやってるんだ、とか。今さら何を言ってるんだ、とか。言いたいことは色々あったはずなのに、自分を見上げるユウナの視線からすっかり薄れたはずの思いが呼び起こされる。
幼い頃から抱いていたイメージ、そこから生まれたコンプレックス、他者を羨んだ記憶。今日に限っては、そんな気持ちのほうが前に出てきた。
何も言えずにいると、目の前の彼女は当然のようにロヴィアンの様子に気付く。
『何か、ありましたの?』
少しでも心持が違ったのならば、それをユウナ相手に話すことはなかったのかもしれない。この気持ちは、ロヴィアンがユウナにいいところばかりを見せたいと思っていた頃から、ずっと引きずっていたものなのだから。
だけど、自分の目の前であまりにも無防備に甘やかされてくれるユウナを見て、自分も弱みを晒したっていいんじゃないかとか。以前とは違った付き合い方を探っていくことも必要なんじゃないかとか、一瞬のうちにいろいろ考えて。ロヴィアンは、永久に隠しておくものだと思っていた胸の内を明かすことにしたのだ。
ぽつりぽつりと話すロヴィアンの言葉を、ユウナは表情豊かながらも静かに聞いていた。そんなユウナもいつもと少し違う可愛らしさがあるな、なんて思いながら。
要するに、とロヴィアンは話を締めくくる。
「お前を甘やかすのにふさわしい自分になりたかった、たったそれだけのつまらない話だ」
「……!」
なるほど、そうだったのか。ロヴィアンは半ば自分の脳を通さずに出てきた言葉に、一人で納得した。
ユウナはその発言に息を飲んでいる。少し、喋りすぎてしまったかもしれない。いままで彼女の前で弱みを見せぬよう振舞ってきたというのに、幻滅させてしまっただろうか。
「……ロヴィアン様」
ユウナが座ったまま姿勢を正し、真っ直ぐに見据えてくる。姿勢と共に緩く蕩けていた空気まで改まっていくのを感じた。
「アタクシたちが出会った日のこと、覚えていらっしゃいますか?」
「私たちの、出会い……」
もちろん覚えている。忘れるはずがない。
幼かったある日、突然ロヴィアンの前に現れたユウナ。きらきらと目を光らせながら拙い言葉で賛辞をまくし立てる彼女はさながら流れ星だった。まさか後々自分の隣から去っていく勢いまで流れ星だとは思わなかったが。
「あのとき、貴女を一目見て好きになって……最初こそポエムから始まりましたが、ロヴィアン様の優しく真っ直ぐな心根に触れるうちに、貴女はアタクシの中でとても特別な存在になりました。この想いに貴女の背丈も年齢も立場も関係ありませんわ」
頬に添えられたロヴィアンの手に指を重ねながら真っ直ぐに見上げ、ユウナはきっぱりと言い切った。一瞬力強く光った瞳のエメラルドは、ロヴィアンが愛してやまない星の輝きだ。
「それに、貴女はご自分のことを社会的立場がないだなんて言いましたが……」
ユウナが甘えたがりな子猫のように、手のひらに頬を擦り寄せた。ロヴィアンの少し冷えていた指先は、すっかりユウナの体温に温められている。
「きっと、そんなロヴィアン様だからこそ……社会的立場というものに悩んでいたアタクシは、救われていたのですわね」
どこか遠くを見るようなユウナに、呼び起こされるのは幼い自分たちが共に在った頃の記憶。別離の苦みを味わっていた自分には、眩しすぎた思い出。
子供ながらに社長だったユウナは、頻繁にロヴィアンの元を訪れていた。それは逃避だと本人は思っていたようだし、ロヴィアンも一時の癒しを与えることしかできない自分に迷いを抱えていた。お互いにそんな思いを抱きながら、ロヴィアンはユウナにひとときの居場所を与え、隣でポエムを詠んだ。
「私の旋律がお前の銀河の星、と?」
「ええ、ロヴィアン様にたくさんの幸せをいただいて……そのおかげで今のアタクシがいるのですわ」
「幸せ、か……」
「……もちろん、今こうして甘やかしていただいてる時間も、ですわ。これでまたお仕事を頑張れそうです」
お互いに迷いを抱えていた時間も、コンプレックスを抱えているロヴィアンの甘やかしも、間違いなく幸福だとユウナは言い切った。それだけで、ロヴィアンの心のどこかに引っかかっていた重荷が軽くなるのを感じる。
真っ直ぐにぶつけられる言葉の、なんと強いことか。吟遊詩人のロヴィアンでも、ストレートな感情の発露に関してはユウナに敵わない。
ああ、無性に愛が囁きたい、ユウナがそうしたように。心の中ではカモスの幻が発破をかけてくる、もうこの際全部ぶちまけてしまえばいいかもっす、と。
まだユウナに伝えるつもりはなかった己の望みを伝えるべく、ロヴィアンは口を開いた。自分たちの幸福のために、二人で描いていく未来のために、そう言い聞かせながら。
「ユウナ、私は……」
「はい」
「ずっと、お前のことを愛でたいと思っていた」
「は、はい……」
「……遠慮なく、思う存分に」
「はい……?」
そうだ。ロヴィアンはユウナが可愛くて可愛くて、甘やかしたくてしょうがない。蜜月が再び訪れてからはそんな欲求を満たすべく、空いてしまった時間を埋めるように、二人きりのときはひたすらに彼女のことを愛でた。ユウナも甘やかされるのは心地いいようで、社長としての外面は保ちながらも、恋人としての時間を過ごす際には存分に甘えてくれている。
――どんなに取り繕おうが滲み出てしまう甘い空気からそっと目を背けてくれる周囲の人間の優しさに、二人はまだ気付いていないのだが。
「あのー……ロヴィアン様? アタクシは、自分で言うのもなんですが、今までも存分に甘やかされてきたと思いますわ……?」
「まだまださ、ドルチェに奏でて幾光年」
「いっ……」
ポエムに乗せたロヴィアンの本気の音色を感じ取り、ユウナの表情がびくついた。
野生動物のように警戒心の強いユウナが自分には子猫のように甘えてくる、そんな現実がロヴィアンを満たしている。しかし、ロヴィアンの本音は『まだ足りない』だ。まだお互い探り探りで、相手に遠慮のようなものがある。もういいだろう、二人の世界ではそれも取っ払ってしまおう。
「い、今以上に……!? それは開いてはいけない扉なのでは……!?」
「ノー・プロブレム。星も眠る夜、カルマート」
今、ユウナを見ているのはロヴィアンだけ。どれだけ甘えられようが、人前で晒せないような姿を見せられようが問題ない。彼女がどんなに偉くなろうとも甘えや弱さをすべて曝け出せる特別な存在、それにロヴィアンはなりたいのだ。
ずっと、自分のことを見上げるユウナが見てみたいと思っていた。
ロヴィアンがユウナとの身長差に抱えていたコンプレックスには、大小様々な要素が複雑に絡んでいる。その『小』の理由のひとつは、ユウナを小動物に対してそうするように愛でてみたかったという単純な願望だ。
若干涙目になりながら見上げてくるユウナの、なんと愛らしいことか。
自分より身長が高くても、年上でも、そんなことは関係ない。ロヴィアンにとっては幼い頃から変わらず愛でるべき対象で、世界一可愛い女の子だ。
「えっと、あの……」
ユウナが揺れている。甘えたな本能と、恋人との時間にまで持ち込んだ矜持の狭間で。だが二人の望みならば、どんなに理性が待ったをかけようが、きっと抗うことはできない。
心中の葛藤に決着をつけたユウナは、観念したようにロヴィアンの手を握ってくる。
「……お手柔らかに、お願いいたします……」
真っ赤になりながらイニシアチブを預けるユウナの姿に、おのずと口元が緩む。承諾は得られた。ならば、求むまま振舞わせてもらうとしよう。
「今宵のフィナーレ、私の前で奏でてくれるかい? かわいこちゃん」
「んっ……」
囁きながら顎のラインを指先で撫でると、どこか期待したような目をしながらユウナは瞼を閉じる。その顔に誘われるように、じっくりと押し付けるようなキスをした。
唇の温度が同じになるまで合わせ続けてからようやく解放すると、ユウナは悩まし気にまつ毛を震わせながら、熱い吐息と共に誘い文句を吐き出す。
「……ベッド、行きますか?」
こんなにも直接的な言葉を引き出せたのは珍しい。キスをした時点でロヴィアンにその気はなかったのだが、真っ赤になりながらこちらを見上げるユウナに、彼女を愛でたいという気持ちが沸き上がる。
「おいで、私のかわいこちゃん」
ユウナの手を引き、立ち上がらせる。姿勢のいい彼女が立てば、いつも通りロヴィアンがその顔を見上げることになる。
少しだけ背伸びをして引き寄せ、今度は唇の先と先が触れ合うだけのキス。キスをするだけなのに余計な動作が必要になる、この身長差はやはり少しだけ癪だった。
割り切れたつもりでいたが、やはりもう少し背は伸びて欲しかったな。
……まあ、いいか。
恥じらいからかしおらしくなってしまったユウナの手を握ったまま、足取り軽く寝室へと向かう。
私のかわいこちゃんの身長を越せなかった、そんな悩みはみるみるうちに萎んでいく。ベッドの上なら、多少の身長差など気にもせずに彼女を愛でることができるのだから。
見上げるばかりだとか、見上げられたいだとか。
甘えられたいだとか、愛でたいだとか。
結局そんなことをユウナの隣で悩める現状が、ロヴィアンにとっての幸せなのだ。