ほんの少し、からかってやるつもりだった。
人が生きるためには娯楽がいる。あるいは娯楽のために人は生きる。人間というのはだいたいがそんなものだ。崇高な使命を胸に抱くのは結構だ。潔白に生きるのも清廉を気取るのも本人がしたいと言うなら好きにすればいい。
だが普通、それだけじゃ日々は摩耗する。人格も価値観も善も悪も関係なく、楽しみのない人間なぞは死んでいるも同然だ。問題となるのはバランスだけ。それを誤れば人間は簡単に堕落して破滅する。だから自分はそのバランスに気をつけているはずだった。どこまでなら遊んでいられるか。それを弁えているつもりだった。
だからモルヒネを打つよりずっとお手軽で、よく効くもの。日々の痛みを忘れて楽しくなれるものとして、それを軽い気持ちで呼び出した。
薬代わりと言っても処方箋などというものはない。なので用法用量をお守りください、なんて言われたこともなければ中毒性があるかどうかも聞いたことはない。そもそもそんな摂りすぎを危惧する馬鹿げた考えは、最近になってようやく芽生えたものだった。手遅れ、という言葉は浮いてくるたび沈めている。
夜も更けて、きらびやかな歓楽街を抜けた先。ホテルに入りバーを目指す。華やかな、けれど厳かではない開けた場所。そこに踏み入ると、あまり馴染んではいない背中がすぐに見つかった。格好について他人のことを言えるかどうかはさておいて、真っ黒な出で立ちは遠目でもよく目立つ。いつものマントがないだけましであるが、それもよく見ればそばに掛けてある。間違いはないだろう。
後ろから近づき声をかければ素直に顔がこちらを見た。切れ長の目元がなんの感情もなくまばたく。それを見返り美人、なんて言ったら冷笑に変わるのは目に見えているので黙って隣に腰を掛ける。ついてくる視線は青い照明の妖しい光をいっぱいに浴び、見慣れない色味を帯びていた。
見惚れてしまうほんの一瞬の沈黙を、けれど振り切りカウンターのなかへ向けてドリンクの注文をひとつ飛ばす。そこに侍ったバーテンダーは、やわらかな物腰でひとつ頷くと銀のシェイカーを手に取った。
細かな氷と金属のぶつかるしゃらしゃらとした音が響く。ふと隣の男の手元に目をやれば、透明なグラス半分ほどに同じく透明な液体が残っていた。その透きとおるグラスにも、照明の青がゆらゆら揺れている。
「なんだそりゃ、ウォッカでも飲んでんのか」
そんなわけはないと思いながらも軽い調子で言ってやった。この男、神代一人とは別にお友だちじゃないし仲良しなんてこともない。だがいちいち険悪な雰囲気に浸りたいかと言えば、そんなこともないのである。合法的に享楽的に交わす会話があっていい。今はそういう時間を楽しむためにここへ来た。
「そんなわけあるか。ただの水だ」
だが相手の方にその合意を取ったわけではない。打ち返された、和やかな空気とはほど遠い、棘のある言葉を受けて肩をすくめる。何だこいつ。毛を逆立てた猫かなんかか。くつくつと笑いを殺しながら頼んだ酒を受け取ると、乾杯もせずに口をつけた。強くはないアルコールは舌に甘い。
「飲まずに待ってたってんなら可愛げもなくはないが、なんだおめぇ、飲めないのか」
そう長い時間待たせたわけではなかったが、意外と言えば意外だった。手土産に菓子を持って行けばさっさと食い出す奴である。飲みながら待つふてぶてしさでいっぱいの姿はいくらだって想像してやれた。
しかしそんな想像とは裏腹に、この男はすっと背筋を伸ばしたまま、こくこくと控えめに水を飲んでいる。それは待ち人が来てからもそのままで、青い光を浴びきらめくグラスを男が遠ざけることはない。ますます意外な心地がした。
下戸なのか。それともその水は何か特別なものなのか。考えてみるがそうしたところで答えに行き着くはずもない。先の質問に本人が頷くかどうかを見届けるため、その横顔に目を向ける。
「……いや」
否定の言葉は低く短い。青みの強くなった瞳はこちらを見ず、カウンターの奥へと向けられる。つられてそちらに目で追えば、そこには色とりどりのリキュールの瓶が並んでいて、形の違うカクテルグラスがずらりときれいに吊られていた。バーとしてはそう豪奢でもないがみすぼらしいなんてこともない、どこにでもあるようなものに見える。何だこいつ。飲めるなら何か頼めばいい。
ぱっと見たとおり、ここにはたいていのものが作れる素材が揃っている。バーテンダーの腕もそれなりに悪くないだろう。もうひと口、供された酒をちょいと味わう。そしてその広がる甘みのなかにかすかに漂う苦みをうっとり楽しんで、隣の男に目を戻す。一杯くらい付き合えと、何か頼んだらどうだと声をかけようとする、その瞬間。ある種天啓のようなものが落ちてきた。もやもやとあった違和感すべてが腑に落ちる。
目が眩む、と言えば言いすぎか。だが天啓を胸に抱いて真横から見てみると、この神代一人という男はきらきらしい情景のなかでもひと際うつくしいものだった。
くるんと弧を描く長い睫毛。またたきのたびに光を生むかのような瞳。かさつきのない唇がきゅっと閉じられている様は、どこかの画廊に飾られた一枚の絵画のようだった。そして事実としてそのうつくしい絵画は長いこと、山奥の小さな村にひっそりと飾られていたのだと思い出す。ありふれたバーの景色。どこにでもある、が村にはない。
「もしかしてあれか、こういうところははじめてか」
思ったままが言葉となってまろび出る。感嘆に侮蔑は少しも乗せていない。そのつもりだが、何が気に食わなかったのか、男は見えないところで脚を蹴ってきた。足癖の悪い奴だ。そこらへんの熊なら蹴り倒しそうな凶暴な足を、人に向けるなと言ってやる。
「うるさい。いいから本題に入れ。いつも勝手に来るくせに、なんだってこんなところへ呼び出した」
そう不機嫌な声で言って、神代一人はその海とも空とも言えない人工的な青の目を、まっすぐこちらに向けてきた。もともとは何色の瞳だっただろう。陽の光の下会った日のことをどうにか思い出そうとする。けれど思い出すのは剥き出しの敵意、まではいかない警戒を宿した強い瞳の印象だけで、色までは浮かんでこなかった。
まとう服が黒いせいか、男の肌は白く見える。自分より若いがそれなりに歳を重ねているのは確かだろうに、すべらかな肌は瑞々しい。安っぽい装飾がひとつもないのがいっそう素材のよさを引き立てる。昼間見た時には気にもならないことばかり、どうしてかひどく目を惹いた。
「そう急くな。せっかくだ、オレのおごりで一杯飲んでおけ」
いささかトウが立ちすぎなのはさておいて、何も知らない若者相手にあれこれするのは年長者の特権だ。メニューは見せず、好みも聞かず、ただ面白おかしい気分でもってカクテルをひとつ注文する。バーテンダーは余計な口は挟まず静かに頷いて、優雅な所作で色鮮やかな一杯を作り上げた。すいとグラスをすべらせる。
「ほれ、こちらのお客様からだ」
「…………ありがとう」
ありがとう! そうきたか。馬鹿笑いを飲み込むのに苦労する。まったくどういう育ち方をしたのだか、この男は時々妙な危うさを見せる。あるいは本当に危ういのは世界の方で、この男はそんな屑で不健全な世界とは違うところで生きているのかもしれなかった。どちらにしてもゾッとする。だからこそ、笑い飛ばしてやりたくなる。
がり、とつまみに出されたナッツを噛んで、ついでにもう一杯酒を頼むことにした。乾杯はやはりしない。それぞれにグラスを持ち上げ口へ運ぶ。こくりと上下する喉を盗み見て、にぃ、と唇が歪むのを、いい加減抑えることはできなかった。
「どうだ、はじめての味は美味かったか」
陽気な声だ。自分でもそれが分かって馬鹿みたいだなと思う。けれど男というのは、なんて言うと乱暴だが、なんであれはじめてを奪うのに心躍る生き物だ。神代一人がはじめてバーで飲むカクテル、それを選べたことに謎の高揚と充足を感じている。
「あんたと飲むんじゃなかったらな」
憎まれ口はいっそ可愛げだ。どれだけ去勢を張ろうとも、カクテルとセットの言葉では、彼の振るうメスのようにはすぱりと相手を切り裂けない。
「フン、素直じゃねぇな。だがそんな言い方じゃあ作り手に失礼だとは思わねぇか?」
「ム……まぁ、それもそうか」
くいとカウンターのなかに立つバーテンダーを示してやる。唐突に振られたそいつはそれでもシェイカーを置き控えめに微笑むだけだったが、対する神代一人は柳眉を歪めて真面目に頷いた。やはり危うい。なんだこいつ。
そしてこちらではなくバーテンダーに目を向けると、あらためて美味かった、と言ってかすかに分かる程度の笑みを見せる。ゆるむ口元より目元の方が印象的な、見る者を一瞬どきりとさせる笑み。横から見てもそれが分かる。とはいえそれでも相手はプロであるのでそれをすっと会釈ひとつで受け止めて、すみやかに仕事へ戻っていく。からからと、氷を出す涼やかな音がそれに続く。
「……で、話は」
グラスの細長い脚をつまんだまま、神代一人は熱のない声で蒸し返した。つまらない。つまらないが、その有り様は酔わせたらどうなるだろうと思わせる。白く見える肌がほんのり桜色に染まり、蕩けた瞳が眠たそうにゆるくまたたく。アルコールに濡れててらてらと光る唇が、何か言いたそうに開かれる。そうなった時の彼は、どんな温度で言葉を紡ぐのか。凛とした姿はそんな興味を抱かせた。
ああ、どうも、これはよくない。ぼりぼりと、ナッツを噛んで正気らしきものを繋ぎ止める。効果は絶大とは言えない。譲介のこと、一也のこと、聞きたいことはちゃんとある。それでも今はどうしても、この神代一人という男のことばかりが気になった。
「譲介は元気にしているか」
ただどうしたって会話の糸口となるのはこの名をおいて他にない。最低なのは承知の上で、罪を臓腑に染み込ますように酒を呷る。ミルクを感じるその味は、甘ったるくて仕方ない。
「お前にそれを聞く権利があると思うのか」
舌に残る甘さとは違い、肌に感じる空気はぴりりとする。だがそんなものを殺気だとはとても呼べない。それはもっと、痛々しい何かである。たとえば子を守る獣が威嚇のうなりをあげるような、攻撃的で、それでいてどこか怯えを隠した響きだった。
そのために、たとえ優しい顔をして近づいたところで噛みつかれる未来がすでに決まっている。だがそれを分かった上で踏み出せば、神代一人は噛みつこうとする寸前で、ほんのわずかに狼狽えた。
「それは愛か。それとも憐れみというやつか?」
「……何?」
「だからお前のその譲介に向ける過剰な庇護の源泉は、いったい何かと聞いている」
譲介の生い立ちからくる内面の歪みはある意味病理だとも呼べる。しかしその病理を医者として見ているだけならここまでの反応はしないだろう。これは明らかに身内へ向ける熱情だ。医者と患者の関係で、これほどの熱を見せられてたまるものか。
ここにはいない青年の、かつての険のある瞳を思い出す。この世すべてが憎いとばかりにフラフラしていた少年は、様々な出会いの果てに最後は自らの足で正しい道を選び取った。いや、光へと続く道、とでも言った方がいいだろう。正しさなんてものは結局は他人の物差しでしかない。あふれんばかりの光のなかなら間違いがないとは言い切れず、そこを考えることに意味はない。
それを目の前の男のいっそ凄絶なほどのうつくしい笑みを見て確信する。
「お前には分からんさ」
歌うように囁いて、神代一人はぐっと距離を詰めてくる。青く光を弾いた瞳は見る者を囚えて離さない。小さな村の美術品は、愛でられ拝まれ飾られて、日ごと夜ごとに村人の身体を切り刻む。それが正しい輪のなかであった肖像が、今目の前で人間の顔をしてすぅと目を細めてこちらを見つめていた。
「あの日譲介は泣いていたぞ」
断罪の言葉は耳に甘く、それでいて懺悔を赦さない硬質な響きを帯びている。すまない、悪かった、お前のためを思ってだ。もとよりそんなことを口にするつもりはなかったが、禁じられた言葉は胸のうちでくるくる回り、消えていく。
身勝手だ。そう詰る声は聞こえない。それは自分でも、至近距離でじっとこちらを睨めつけてくる男でもない、置き去りにされた子どもの声で聞こえなければならない罵倒に違いないからだ。ここは裁きの場ではない。
「だが、いいさ。俺はお前を赦さないが、だからといってあいつからお前を奪うことはできないのだ。お前が俺に手紙を寄越したあの時から、俺のやるべきことは決まっている。光に立つべきあいつのことを、影からそっと支えてやる。貴様もそれを俺に望んだんだろう。もともと俺の一族は、俺はずっとそういうものだった。今はたまたま表舞台に上がっているが、それはただ取れる選択肢がいくつもに増えただけのこと。本質は変わらない。あいつにとっての光はお前であって、俺ではない。だから俺にはあんたを遠ざけることはできない」
澄みきった声は清涼で、そこに汚泥のにおいはない。ただただ晴れやかな笑みに翳りはない。だが何を言っているんだこいつ、というのが正直なところだった。てんで話しについていけない。だから鼻先が触れ合いそうな距離にあってさえ、まだこの男は果てしなく遠いように感じる。
手を伸ばし、頬に触れて、分かりやすく嫌そうな声を聞いて安堵する。はたき落とされた手はじんと痛みに痺れるが、手のひらに残るぬくもりは秋の陽だまりを思い起こさせた。
露骨に不快を滲ませる表情は、その造形のうつくしさを引き立てる。それでもそれをうつくしいものであると認めた上で、やはり印象としては毛を逆立てた懐かない猫に近かった。
「あぁ? 何言ってんだ。違ぇだろ」
呆れをふんだんにまぶして言えば、神代一人はぴくりと眉を跳ね上げる。美人は怒った顔がいいとも言うが、そんなのは、ホテルの小洒落たバーでするようなものじゃない。ここはひとつ手本を見せてやる。甘く甘く、愛してるとでも囁くように、きらめく瞳を見つめて言ってやる。
「お前があいつにしてやるべきは、お前がしてほしかったことだろう」
「…………は?」
間の抜けた声。ゆるく開いた唇が、その表情を年相応より少しだけあどけないもののように見せる。
「そうだろう。オレが言うのもなんだがな、置いて行かれた子どもがしてほしかったことなんて、おめぇが誰より分かるはずだろう。なぁどうなんだ。優しく抱きしめてほしかったか? それとも恨み言を聞いてほしかったか。代わりになる愛を誰かに求めたか? むしろ世界を一緒に呪ってほしかったか」
畳み掛ける言葉に神代一人は答えない。ただ震える呼吸だけを感じられる。ふと、今さらではあるが、この空間では何か音楽が低く流れているのに気がついた。しっとりしたゆるいテンポのジャズの響き。曲名も、演奏者も何も分からない。ただ、今この沈黙を飾っているという一点だけで、それは稀代の名曲として優しく耳をくすぐった。
「いいや、違う、俺は……そんなことは望んでいない。してほしかったことなんて、そんなもの、俺にはない。なかったはず、なかったはずだ。そう、だって。俺は教えられていた。医術を、掟を、志を。俺が……俺だけが、俺こそがKを継ぐのだと。だから俺はやらなければならないことばかりで……、俺が、してほしかったことなんて」
にわかに混乱して揺れる瞳を間近に見る。今日一番の何だこいつ、がぽかりと胸に浮かんできた。危うさに、我知らず喉がごくりと鳴る。ほんの少しからかってやるつもりだった、その楽観は一度崩れて形を変えて再び歪に組み上がる。
青い光とジャズの旋律。渇いた喉に薄いアルコールを流し込む。あとに残るのは空のグラスと甘さだけ。
隣に座る、Kではない、神代一人をまっすぐに見て、手を伸ばす。持ち上げるように顎に触れてみても、今度ははたかれはしなかった。
「部屋に来るか」
「?」
「オレは今日ここのホテルに泊まるんだよ」
この席からは見えないが、時計の針はそろそろ真夜中へ向かっている。それはつまり、ガラスの靴を残して魔法が解けてしまう頃だ。すくい取り、飲み干すようにと差し向けたグラスのなかで陽の色をした液体が小さく波を立てる。
オレンジ、レモン、パイナップル。酔うはずのない可愛らしいカクテルは、シンデレラという名前を持っている。刻々と、魔法が解けるその先で、それは男の唇を甘く濡らす。