「うわ…。風、冷たいですね」
そう言って桂は首元に巻いていたマフラーに顔を埋めると「何か落ちてないかな」と砂浜をふらふらと歩き出した。
その後ろ姿に「そうね」と一言投げかけたが、きっと冬の海風に掻き消されて彼の耳には届かなかっただろう。
桂が高校を卒業して約一年が経つ。
半年ぶりに地元に帰ってきた桂のリクエストで二人は冬の海に足を運んでいた。
銀八は桂の後ろ姿越しに果てしなく広がる水平線を見つめる。
冬の澄んだ空はどこまでも青く綺麗だというのに、銀八の心中は曇天のごとく重い感情が燻り、まるで肺に冷水を注がれたかのような息苦しさに浅い溜息を零した。
ーーー最近、連絡寄越すこと少なくなったじゃん。学校忙しいの?
ーーーヅラ君。ちょっと顔だちが大人びてきたね
ーーーこのまえ神楽が学校に遊びにきたとき言ってたけどさ。お前、大学とバイト先で結構モテてるらしいじゃん
ーーーもしかして、先生より良い人見つけちゃった?
聞きたいことも茶化したいことも声にならず、頭の中でただただ無意味に問いかける。
揃いすぎた状況証拠に冬の海。
別れ話をするのに絶好のシチュエーションと条件が揃っているではないか。
ーー別れ話をする為に帰ってきたのか…
目の前が真っ暗になるような錯覚に、銀八はかたく目を瞑った。
*
高校卒業後、桂は国内でも有数の国立大学に進学すると同時に、高校の学生寮から大学の学生寮へと引っ越した。
卒業を間近に控え「先生に会えなくなるのが寂しいです」と泣きそうな顔をする桂に「会いたくなったら会える距離なんだから。そんな顔するな」と銀八は何度も桂を勇気づけた。
しかし社会人と大学一年生。
電車を乗り継げば週末にでも会える距離だと高を括っていたが、蓋を開いてみればなかなかお互いの都合がつかず、結局最後に会ったのは昨年の夏。
電話やメールで数多の言葉を交わしていても、いつしかお互いに相手の都合を伺うことも、自分のスケジュールを伝えることも少なくなっていた。
もっとも、新しい環境でめまぐるしい生活を送る桂にとって「寂しい」などと感傷に浸る暇もなかったのかもしれない。卒業後、桂が「寂しい」「会いたい」と弱音を口にすることはなかった。
卒業前はあんなに寂しがってくせに…。
銀八の知らない世界で元気に過ごしている恋人への安心よりも、寂しさと嫉妬が銀八の胸中を曇らせる。
毎日のように顔を合わせていた恋人に会えなくなって根をあげたのは銀八の方なのかもしれない。
*
「先生っ」
ふいに呼びかけられて、かたく瞑っていた目を開けた。
小走りに駆け寄って来た桂に、己の生徒だった頃の桂を重ねる。
ーーーあの頃から口を開けば先生、先生って。鬱陶しいと思う事もあったけど、今となればお前が俺を呼ぶ声すら甘くてほろ苦いよ。
「これ、先生の瞳の色みたいでしょ?」
そう言って桂が俺に差し出した手の平の中には赤いシーグラスが一つ。「見ててくださいね」と微笑むと、指先で摘んで空に翳してみせた。
陽の光を受け淡く輝くシーグラスを「ね?綺麗でしょ」と目を細めてじっと見つめる桂の横顔から目が離せない。
気づいたら赤いシーグラスを翳す桂の手に自分の手を重ねていた。
「…先生?」
驚いたように俺を覗きこむ桂の顔を真正面から見据え覚悟を決める。
俺の元から飛び立ちたいと言うならば手離してあげるしかないだろう。未知数の未来が待ち受けている桂に、草臥れた俺など相応しくないのだから。
「何か俺に話があるんじゃないの?」
なるべく自然に切り出したかったのに、僅かに声が上擦ってしまったことにコイツは気づくだろうか。
「何で…」
的中だったのだろう。
桂が琥珀色の瞳を目一杯に開いて俺を見つめ返す。
わかるよ。どんだけお前の事を考えてたと思ってんの?お前が考えることなんて手にとるように熟知してるってぇの。
先を促すように繋いだ手に力を込めれば、桂が息を飲むのが伝わってきた。
桂の手がじんわりと熱を持つ。
緊張するとすぐに手に汗を滲ませるのは桂のクセだ。
目を伏せ僅かに逡巡していた桂が意を決したように顔を上ると、俺に視線を合わせ口を開いた。
「先生…。俺が卒業してからもう一年が経ちますね」
「うん」
「俺、大学は楽しいけど、先生に会えない生活は寂しかったです」
「…うん」
僅かに声を震わせ桂が話しだし、俺は手を繋いだまま合槌を打つ。
今まで一言もそんなこと言わなかったじゃん。
寂しいと感じていたのが俺だけじゃなかった事に一抹の嬉しさを感じると共に、考えつくのは一つの結論。
遠距離恋愛によくある話だ。
会えない恋人に寂しさを募らせるより、いつでも会える恋人が欲しくなったのだろう。
「先生は寂しいとか…そんな女々しいこと思わないでしょうけど」
そんな事ないよ。毎日お前のこと考えてたよ。今更言っても困らせるだけだから言わないけど。
「だから、先生、お願いです」
桂が真剣な目で俺を射抜く。
繋いだ手に汗が滲む。
あぁ、ついにこの時が来たか。
桂の唇が別れの言葉を紡ぐのが怖くて思わず目を瞑る。
「俺と同棲してください」
……うん?
なんて?
想定外の言葉に思考が追いつかず眉をしかめた。
同棲?聞き間違えたのか、それとも都合の良い幻聴か。混乱する俺を置き去りに桂は真剣な表情でなおも続けた。
「俺、この一年間バイト頑張ってお金貯めました。家賃もちゃんと半分出せるようにこれからもバイト頑張りますから」
だから俺と同棲してくれませんか、と泣きそうな顔で桂が懇願したのだ。
聞き間違いでも幻聴でもなく。
俺と同棲して欲しいと。
✳︎
「ああーー」
身体中から力が抜け、思わず足元から砂浜に崩れ落ちた。繋いだままの手に引きずられた桂もバランスを崩してその場にしゃがみ込んだ。
盛大に勘違いした自分が恥ずかしい。
何が「お前のことは何でもわかるよ」だ。
ちっともわかってないじゃないか。
勝手に桂に対し不安と嫉妬を抱いて、勝手に冬の海の空気に飲まれて。
勝手にフラれると勘違いした。
「先生っ!あの、やっぱご迷惑ですか?」
あまりの恥ずかしさに俺が顔を上げられずにいると、尚も泣きそうな表情で桂が俺を覗きこむ。
先生、先生って。
あの頃と変わらない桂にこっちまで泣きそうになるのを眉間に力をいれて必死に堪える。
勘違いしたあげく泣き出すなんて恥ずかしすぎるではないか。
ぐちゃぐちゃの頭を整理するため大きく深呼吸をしてから桂に問いかける。
「最近ヅラ君からの連絡少ないなぁって思ってたんだけど」
ちらりと桂の顔を覗きこむと、困ったような表情で「すみません…。課題とバイトで毎日くたくたで…」と目を伏せた。
「寂しいとか…今までお前一言も言わなかったじゃん」
「だって…。そんなこと言ったら先生のこと困らせちゃうから」
そんな事で困るわけないじゃないか。
「忙しくても週末に帰ってくるくらいできたんじゃないの?」
途端、桂が口を噤んで顔を伏せた。
「……。だって」
「だって?」
「一度会っちゃうと、離れたく無くなっちゃうから…」
波の音に掻き消されそうな小さな声。
その答えがあまりにも「あの頃の桂」らしくて、鼻の奥がツンと痛くなる。
こいつは何も変わっていない。
俺が今でもこいつに心底惚れているのと同じで、何も変わっていなかったのだ。
「ヅラくん」
「ヅラじゃないです。かつ…」
桂の唇に自分の唇を重ねてお決まりの返事を塞ぎこむ。
人もまばらな冬の海とはいえ誰かに見られてるかもしれない。でもそんな事はどうでもいい。
唇を重ねる事で手っ取り早く年下の恋人「愛してる」と伝えたかった。
✳︎
大学2年の春。
進級とともに俺は学生寮を出て、恋人の銀八先生との同棲を始めた。
新居は俺の母校であり先生の勤務先でもある銀魂高校と、俺の通う大学の中間地点にあたる街の1LDKのアパートで、先生の頑な要望により鉄筋コンクリート製アパートの一階角部屋。(その理由が夜の営みの為によるものだと俺が知ったのは入居した後だった)
俺が同棲を願い出た日、先生は「今より早起きしないと遅刻しちゃうから毎朝起こしてね」って言っていたのに、先生は俺より早く起きて朝ごはんを用意してれる事もある。
家賃や光熱費も半分づつ出しあうって約束したのに、先生は俺が出したお金の半分を、こっそりと俺名義の口座に預金してくれている。
大学生になれば少しは先生に相応しい大人の男に近づけると思っていたのに現実はそんなに甘くないようだ。まだまだ俺は先生に守られてばかりだ。
だから先生。
いつか俺も先生のようにかっこいい大人になれるよう頑張るから。
そして俺が先生を守ってあげられるように強くなるから。
どうかそれまで、待っててくださいね。