『ウマ娘には、才能が開花し、体が急激に成長する本格化という期間が存在する。本格化を迎えたウマ娘は選抜レースへと出走、トレーナーと契約を結び、トゥインクルシリーズを目指す。しかし、本格化の訪れはウマ娘それぞれで』
「ねぇ、ルドルフ。授業も終わったし、走りに行こうよ」
背後から名前を呼ばれて、滑らせるペンを止めた。透き通った芯のある声、振り向くまでもなく、気付けば彼女は私の前に立っていた。
「シービー。……すまない、日直日誌をまとめなければ」
「え!日誌なんて、授業中にちゃっと書いとくものじゃないの?」
「……授業中は、授業を受ける時間だが?」
「ひっ、相変わらず真面目だねぇ……じゃ、マルゼンは?」
シービーは私の返事に苦い顔を見せて、今度は隣の席で頬杖をつくマルゼンスキーに声をかける。
「うーん、あたしも、今日はパスかなぁ」
「えぇ!?ちょっと2人共!」
頼みのスーパーカーも乗り気でないと分かると、彼女はあからさまに肩を落とした。不満げな瞳は十秒程こちらを見つめ、やがて渋々、といった様子で前の席の椅子が引かれる。
「行かないのか?」
「……気が乗らなくなった。1人で走る気分じゃなかったし。ルドルフが終わるまで待つよ」
「そうか、すまないな」
シービーは私の机に肘をつき、背もたれを抱えてこちら向きに座る。その尻尾は退屈そうに揺れていた。
「1限の内容とか、放課後に書いたらもう忘れちゃってない?」
「そんな訳ないだろう。しっかりとノートにも残している」
「……本格化、ねぇ。こんなの入学の頃から散々聞いてるしなぁ」
「ほう……その割には随分楽しそうだったがな?ああ、そうか。夢の世界はさぞ魅力的だったろう」
「な、え、見てたの!?」
シービーの居眠りを揶揄いながら、ちらりと、隣席のマルゼンスキーに目を遣った。彼女は、私達のやりとりに時折笑い声を漏らしながら、また思い詰めたように視線を落とす。心ここに在らず、といったところか。
近頃の彼女は、暫くこの調子だ。私はそれに気付いていて、理由にも心当たりがあるけれど……未だに聞くことが出来ずにいた。いや、聞く隙を与えてもらえない、と言った方が正しいか。
向けていた視線に気付いたのか、シービーは止まっていた私のペンをとり、日誌の余白に何かを書き始めた。
『あのこと、聞いた?』……書かれた文字に、小さく首を振る。『アタシも』と返事を書いてすぐ、シービーはそれを黒く塗りつぶしてしまった。何をしているのか、気を取られている隙に、いつの間にか日誌は手元から離れていた。
「マルゼン、見て!黒猫〜!」
「あははっ、シービーちゃん、絵上手いのね」
私から奪ったそれを、まるで子供のように得意げに掲げて。マルゼンスキーもまた、無邪気に笑った。一瞬戻った瞳の輝きに、見惚れてしまっているのに気付いて、慌てて頭を振る。
「……シービー、返してくれ。それに、日誌に落書きは――」
「いいじゃない。皆結構イラストとか描いてるんだし。ルドルフは堅いんだから、こう、可愛らしさというかさ」
「ねぇ、あたしも落書きしていい?ルドルフ?」
「全く、君達は……」
◇
気付けば、余白のほとんどが落書きで埋められてしまっていた。次のページまで絵しりとりを続けようとするシービーを制して、教室を出る。がらがらと引き戸を閉めて、大きな溜息が自然と肺から漏れ出た。これを今から提出するのだと思うと、足が重い。
……けれど、どこか安心している自分がいるのは、久しぶりに心から楽しそうな彼女の様子が見られたから、だろうか。
彼女――マルゼンスキーは、クラスの中でも飛び抜けて本格化が早かった。元々の身体能力の高さも相まって、レースでの彼女の走りは、正にスーパーカーという二つ名に相応しい。エンジンが違うと言わざるを得ない規格外の走りで、デビューから5連勝をあげた彼女は、クラシックの最有力候補、いや、もはや誰もが三冠を取る事を確信するほどだった、けれど。
シービーは今頃、彼女に聞いているのだろう。なぜクラシックに出ないのか、と。
大方見当がつくその問いの返答を考えながら、階段の踊り場で足を止めた。先生への説明を整理するため……というのは後付けで、窓の外に、グラウンドを駆ける多くのウマ娘たちの姿が目に入ったからだった。
「……競い合う、ライバルか」
それが、自らが出した結論かは分からない。ただ、目に入った景色を言葉にしただけかもしれない。けれどその景色は確かに、腹の奥に得体の知れない、苦い感情を生み落とすのだ。それは悲嘆、情愛、失望、憧憬、焦燥、拒絶、期待――きっとそのどれかで、あるいは全てで、どれも違う。
答えを得るためには、向き合わなければいけないのだと、根拠もなくそう思う。あの怪物が笑顔に隠した本心を暴けば、この感情が何という名前か、知ることができるはずだなどと、無責任に考えて。
戻ってきた教室の扉は開いていた。見える人影は1つだけ。明るい茶色の髪は差込む夕日を受けてさらに輝き、黒いリボンが蝶のように翅を揺らしていた。
1歩足を踏み入れ、その背中に声を掛けようとした瞬間。いつの間にか振り向いていた彼女と目が合っていた。
「お帰りなさい、ルドルフ」
「ああ。……シービーは?」
「……ちょっと用事を思い出したとかで、先に行っちゃったわ」
愛嬌のある笑顔を浮かべて、マルゼンスキーが答える。その言葉の前には、ほんの一瞬だが、何か隠していると察するに十分すぎるほどの間があった。
「日誌、先生に何か言われた?」
「ん……ああ。中々に苦言を呈されたが、シービーと君の名前を出したら納得してもらえたよ」
「ふふっ、それはごめんなさいね」
「反省していないだろう、全く」
溜息混じりに漏らすと、彼女は手を口元に当てて、楽しそうに笑う。相変わらず、本音を隠すのが上手いなと半分感心して、隣の机に腰を掛けた。
「ところで君は、ここにいていいのか?」
「んー、そろそろ帰ろうかしら」
そう言いながらも、帰り支度をする様子はない。座ったまま、宙に浮かせた脚をぷらぷらと揺らして、時々踵が床に擦れる音だけが微かに響いた。
静けさの中で、ただ自身の心臓の音が、煩い。今日この時を逃せばきっと、二度とこんな機会は、怪物の本性を明かす機会は訪れない。それなのに。
「マルゼンスキー。……シービーとも、話したかもしれないが」
「ええ」
――私を捉えた怪物の瞳に、魅入られてしまった。恐怖か、聞けない。『これ以上踏み込むな』と、そう耳元で囁かれているようで。首を絞められて、息が出来ない、声が詰まる、そんな錯覚をした。
「もう、そんなに熱い視線を向けられると、いくらあたしでも困っちゃうわ」
「……っ、すまない、そんなつもりは」
「ふふっ、意外ね。ルドルフって、もっと猛獣みたいにガツガツくるタイプだと思ってた」
気づかぬ間に、先程の異様な雰囲気は形を潜めている。乱れた呼吸を取り繕うように微笑む私を、マルゼンスキーは高い声で笑って、ふっと息をついた。
「分からなかったの。誰もが語る夢も、三冠への憧れも。……あたしには背負えないな、って。だから、決めたの」
それが、求めていた問いの答えだと気付くのに少しの時間を要したのは、彼女がただ淡々と、まるで下らない世間話のように語り始めたから。
「それは……つまり、君は他者のために、夢を諦めた、ということか?」
「前提が違うわよ、ルドルフ。あたしは走るのが楽しいだけ。……目標とか、夢なんてないの。なんて、大層な夢を持つあなたに話したら、笑われちゃうかもだけど」
冗談めいた言い方でも、とても笑うことなどできなかった。
「あたしが出なければ、他の誰かが夢を見られるんだもの。……言ったでしょ?あたしは走れればそれでいい。舞台なんて気にしない」
「……だから、君が我慢すればいいと?」
返事はない。マルゼンスキーは、困ったように視線を落とす。つまり、その通りだということだ。
けれど、彼女の走りたいという思いは、レースが好きだという気持ちは、紛れも無く本物だ。それに優劣など、無いはずなのに。
……ああ、まただ。腹の奥から、苦い感情が込み上げてくる。それに任せて声を荒げて、全てを吐き出してしまいそうになるのを、奥歯を噛み締めて、呑み込んで。
「……私の夢は、全てのウマ娘が幸せになれる世界を創造することだ」
「ええ、知ってるわ」
「その夢には、勿論君も含まれている。……私は、君が寂しそうに走る姿は、見たくない」
思わず乗り出していた自身の前に、彼女の手が差し出される。幼子を嗜めるように、人差し指が、私の唇に当てられていた。
「全く、あなたもまだまだ未熟ね?皆を導く存在になるんでしょ?ダメよ、そんな私情を挟んじゃ」
「……私情、か」
「あなただって、経験あるでしょう?自分の存在が、誰かの不幸になること」
「ああ。……私のせいでターフを去ったウマ娘は、何人もいただろう」
「なら、あたしだけ特別扱いしちゃいけないわ。あなたが見て見ぬ振りをしてきたウマ娘ちゃんたちと同じように……あたしのことも、切り捨てなくちゃ」
受けた言葉をただ繰り返して、その先が続かないのは、図星だったからか。
痛いほど、理解している。私が心地公明たる皇帝であるならば、彼女の選択を肯定するべきなのだ。マルゼンスキーが出走を表明すれば、多くの者が三冠の栄光を諦めるだろう。これまでの様に、回避するウマ娘も少なくないかもしれない。……彼女の勝利は、それほどまでに絶対的だから。
彼女が決め、納得しているのなら、それでいいじゃないか。多くのウマ娘が夢を見ることが出来る。全てのウマ娘が幸せになる世界に、近付く、はず。
この思いが矛盾していること、自らが1番理解している、けれど、それでも。
例え、君が望まなくとも。何人の夢を壊してでも。私は、クラシックの舞台で走るマルゼンスキーが見たい、などと。
「もう。そんな顔しないで、ルドルフ。……あなたは、もっと素直にあたしの考えを受け入れてくれると思ってたのに」
言えるわけがない。未熟な私が、私情に満ちた無責任な願いを押し付けるなど烏滸がましいにも程がある。
「……ああ、そうするつもりだ。君の考えを否定するつもりなど――」
「うん、されても変えないから」
マルゼンスキーは笑顔を崩さず、困ったように肩をすくめた。
「その言い方からするに、シービーは随分と駄々をこねたようだな」
「うーん、そうね」
「あたしは大丈夫よ。2人に、気を遣わせちゃってごめんね」
気付けば、爪の跡がくっきり残るほど、強く拳を握り込んでいた。芯から湧き上がり、身体中を巡るその正体に、やっと
――怒りだ。
何もできない無力な自分への。そして、彼女を失望させた者たちへの、無意味な、怒りだ。
『私なら、君を楽しませてみせる』『
本格化していない私がそんな事を口にするのは、傲慢が過ぎると理解していたから……唇を固く縛って、その言葉を呑み込んだ。
「マルゼンスキー」
「私は、君に約束しよう」
「……ふふっ、どうしたの突然」
「君が本気で走りたくなるレースを、私が作る」
「私は君の言う通り、まだ未熟だ。現に、本格化も訪れていない。君の心を晴らす方法を、私は知らない」
「……ええ」
「だが、約束する。君がまた心から楽しめるレースを……私がライバルとして、叶えよう」
「そこまで言ってもらえるなんて、あたし、とってもあなたに大切にされちゃってるわね」
「……何を。これはただ、自分の望みだ。……本気の君と戦ってこそ、私の力は証明される。それまでに、走るのをやめてもらっては困るからな」
「そう。……じゃあ、待ってるわね。最高のレースができる日を。あたしを楽しませて?未来の三冠ウマ娘さん」
「三冠、か。……君が出走していたら、分からないよ」
1人になった教室に、独り言が響いた。溢れそうになる涙を堪えて、喉の奥がじりじりと痛む。……結局、その貼り付けたような笑顔の下にある本音は、何も明かしてくれなかった。
「友人、失格だな……私は」
「キミも、マルゼンにフラれちゃったのかい?」