明白の花 唖然とした。
ポストにウェディングブーケがねじ込まれていたのだ。可憐な花々が上品なレースのリボンで束ねられたラウンドブーケ。それが自室のポストに荒々しく突き刺さっている。月明かりに照らされた純白の花弁が、黒々とした金属製の扉にミスマッチだ。だからだろうか。祝福の象徴であるはずのそれが打ち捨てられた生ゴミのように目に映った。
「というワケで来たのだ」
翌日、日も傾きはじめた時分。
御剣は、成歩堂の事務所を訪れていた。とはいえ、アポ無しの訪問ゆえに、目当ての成歩堂は不在である。留守を預かっていた真宵に世間話がてら用件を伝えていたわけだが。
「えーっと、どういうことですか? なるほどくんに相談しにきたってことです?」
御剣の唐突な語りぐさに、真宵は首を傾げる。
「やったのはおそらく成歩堂だ」
「ええっ、なるほどくんが犯人!?」
真宵は勢い余って机に迫り出す。手元の湯呑みで茶がちゃぷんと跳ねた。御剣はぎょっとしたが、真宵は興味深そうに御剣を見つめている。
「犯人」とはなんと大袈裟な響きだろう。しかし、多忙な御剣がわざわざ時間を捻出してこの事務所にやってきたのは、妙な胸騒ぎがあったからこそなのだ。
少しの躊躇の後、御剣はおずおずと口を開く。
「憶測の域を出ないが、状況から判断するに成歩堂の可能性が高い。だから、話をしにきたのだがな」
「元々、外出する予定だったみたいですよ」
「なにも引っ捕らえて吐かせてやろうというわけではないのだ。ただ、アレだ、こんな奇妙な行動を取った彼のことが、その」
「あ、心配なんですね」
「うム。そう、だな」
まごまごする大の大人を揶揄うこともなく、真宵はにっこりと笑う。
「それでわざわざ来てくれるなんて、やさしいですねえ」
「いや、う、う厶。何かあったのかと思ったのだが、今日の彼はいつもどおりだったか」
「変わりなく見えましたけどね。うーん」
杞憂だったか、と決まりが悪い。しかし、御剣だっていくつかの可能性を検討した上でここにいるのである。
と、考え込んでいた真宵がにわかに「そうだ!」と言って手を打つ。
「これからみつるぎ検事の家に行きましょう!」
「は、なに!?」
「調査ですよ、調査。事件は現場で起こってますからね」
「事件、というほどオオゴトではない」
「でも、さっき事務所入ってきてなるほどくんがいないって分かったとき、ほっとした顔してましたよね」
「う、う厶」
御剣は目を丸くしながら是と言う他なかった。この少女はただただ無邪気なようでいて敏い。
「なるほどくんの話を聞いちゃえばそれまでって気もしますけど、嘘つくかもしれないし」
「嘘?」
「なるほどくん、みつるぎ検事に関してはやたらにスナオじゃないからなあ」
真宵はため息とともに肩を竦めてみせる。真宵のぼやきがピンと来ず、御剣は眉をひそめて「そうだろうか」と唸っている。その様子に真宵はヤレヤレといったふうに眉を下げた。
「なんだかみつるぎ検事の方が心配になってきました」
「そんなにか」
「こりゃ参ったねってくらいには。ということで、行きましょうか」
「ム、まさかホンキで捜査などと言っているのかね」
「ホンキでガゼンヤル気ですよ! ホラ、行きますよ。荷物持ってください」
真宵は焦れたように立ち上がると、御剣に湯呑みを押し付ける。
「ちょっ、待ちたまえ!」
「お茶もちゃっちゃと飲んじゃってください、もったいないので! あ、まんじゅうはこのままいただくので無理しなくていいですよ」
「ぐっ、やめ、アツ!」
「ほら、水だ」
階段の最上段に腰掛けた真宵は、肩で息をしながらグラスを受け取り、一気に飲み干した。げっそりした顔にいささか生気が蘇る。
「い、いきかえったあ」
「それは何よりだ」
「み、みつるぎけんじはまいにち、これだけの階段を、上ったり下りたりして」
「う厶。デスクワークと車移動で運動不足に陥りがちだからな」
可能な限りエレベーターを使いたくない、というのが最たる理由ではあるが。真宵が恨めしげに御剣を見上げているので、御剣は日の落ちた空を遠い目で眺めておく。事務所を出たときは夜が迫る気配を感じる程度だったのだが、やはり冬の日は短い。
「帰りはエレベーターを使いたまえ」
「モチロンです」
最後に大きく咳き込んでから、真宵は手すりを支えにどうにか立ち上がった。
「それで。ここが現場のお家というわけですね」
「ああ」
「で、何をどこから調べましょうか。さ、さ。はじめちゃってください」
「厶。真宵くんが調べるのではないのかね」
「まあ、あたしは横からお助けが専門なので」
真宵はけろっと笑ってのける。このあっけらかんとした態度が御剣はどうにも嫌いにはなれない。呆れ混じりに頭を振ってから、腕を組む。
「事件とか捜査とかいう程のものではないが、まあいい。それでは、私がこの現場から導き出した結論を2つお伝えしておこう」
「結論?」
真宵は意外そうに復唱して、御剣に続きを促す。
「ひとつ。犯人は"あえて"私の部屋を選んだ。目に付いた部屋に、偶然花束をねじ込んだのではない。ふたつ。犯行が可能なのは成歩堂のみである」
「え、それってもう全部分かってるんじゃ」
首を捻った真宵に、御剣は静かに諭す。
「一切分からないことがあっただろう」
「あ。動機、ですか」
「その通りだ。せっかく御足労いただいたのだ。真宵くんには私の考えを聞いてもらいながら、犯人の行動の"意図"について考えてもらおうじゃないか」
「お。まかせてください」
「うム」
御剣は仰々しく頷く。革靴の音を響かせながら部屋の前に立ち、瞑目と共に逡巡する。
御剣としては、成歩堂がやったと確信している。問題はそこにある"意図"だ。最近はプライベートを共に過ごすことも増えた、無二の親友。ゆえに、普段から「彼からどう思われているのだろう」と考えることがないでもなかったが。荒れたブーケを見たとき、少なくともそれは平穏なものではないのだと察した。そうだ、あの奇妙な行動の背後に、自分の知らない成歩堂がいるようで怖い。
「それでは聞いてもらおうか。論理と推理が導き出した答えを」
振り返って真宵に向き合い、こめかみに人差し指を添える。なんとなく場が緊張した気がして、真宵は手をぎゅっと握り込む。御剣は、キッパリと口火を切った。
「さて、動機を考えるに先立って、明らかにするべきことがある。犯人はあえて私の部屋を選んだのか、たまたま通りがかりの家を選んだのか。その答えはそこにある」
「えっ」
御剣に指をさされ、真宵は思わず自分を見る。が、御剣はそのまま指先をくいっと下へと曲げた。
「後ろを見たまえ。キミが上ってきたソレを」
「あ」
真宵の後ろにはマンションの1階まで続く階段がある。その長さは先ほど真宵が身を持って知ったところだ。
「来ようとしないと来れない高さにあるから、たまたま通りがかったとは考えにくいってことですか」
「その通りだ」
「でも、同じ階の、たとえばお隣さんがやったのかもしれませんよ」
「その可能性を検討するには、エレベーターの位置を知ってもらう必要があるな」
「エレベーター?」
御剣が顎を上げて、遠くを見つめる仕草を取った。真宵は御剣のそばに駆け寄る。御剣の視線を追い、等間隔で扉が並ぶ廊下を見やれば、その最奥にエレベーターがあった。
「廊下の、反対側の端っこですね」
「そう。私の部屋はエレベーターから最も遠く、階段に最も近い角部屋なのだよ」
真宵はけげんな顔で御剣に問う。
「御剣検事はわざわざこの部屋を選んで住んでるんですよね」
「ああ。階段側の角部屋を選んだのだ。空き部屋の都合で少々高い部屋になったが」
「家賃が?」
「家賃も、だ」
「……やっぱりなるほどくんの家賃も払ったげてくださいよ」
「キミたちは私を貴族かなにかだと思っているのかね」
互いの呆れ顔を見つめ合う。一体真宵たちは御剣に対してに何の夢を抱いているのか。真宵はともかく、成歩堂は毎週のように御剣と食事を共にしていて、案外庶民的な御剣の金銭感覚を心得ているはずなのだが。
御剣は腕を組み、話を戻す。
「とにかくだ。考えてみたまえ。私の隣人がエレベーター側から自宅に向かうとき通りかかるのは私の部屋ではなく、反対側、エレベーターに近い部屋になる」
「確かに、そうですね」
「ゆえに"たまたま通りがかる"こと自体が考えにくい」
真宵が同意してくれたところに、御剣は畳み掛ける。
「この可能性を否定する根拠は、まだある。私の家にだけ"あるモノ"が存在するのだよ」
「ええ? うーん」
真宵は難しい顔で扉同士を見比べる。そして、御剣の背後にある"門"に目を留めた。
「あ、角部屋の前にだけ、小さい門があります」
「ポーチというのだがね。犯人は私の部屋の扉に触れるには、この門を開ける必要があった」
御剣が取っ手を下げ、格子状の門扉を押す。金属の擦れる音が廊下に響く。御剣が門扉を通ると、真宵も続く。閉めるときも、門扉はギィと音を鳴らした。大きい音ではないが、深夜であれば少々目立つかもしれない。
「些細ではあるが、今回のような行動を起こすとなれば、門1枚も心理的な障壁になりうる」
「ということはやっぱり、犯人はあえてみつるぎ検事の部屋を選んだ?」
「ああ」
御剣は他の部屋と同じ、黒い扉に手をつける。冬の空気を受けて、ひんやりしていた。
「部屋の位置、ポーチの存在を鑑みるに、犯人には何らかの理由があって、あえて私を狙ったと考えられるのだ」
御剣がそう結論づければ、真宵もふんふんと頷く。
確信を持っていたとはいうものの、真宵が的確に可能性を提示しつつ、相槌をはさんでくれるのは助かる。さすがは成歩堂の助手だ、と感心しつつ、あまりに手際よく可能性を潰していってしまうと、あっという間に"意図"と対峙させられそうで気後れもする。
「では、次の議題だ。犯行は誰に可能だったか」
「みつるぎ検事は、なるほどくんにだけはできたって考えてるんですよね」
真宵は不安げに尋ねる。
「ああ。というのも、このマンションにはオートロックがあるのだ。ロビーの自動ドアを開けるには、暗証番号を入力せねばならない」
「もしかして」
察しよく目を見開いた真宵に、御剣は頷いた。
「そうだ。成歩堂はその暗証番号知っている」
「じゃあ、なるほどくん一人でもこの部屋にたどり着けちゃうんですね」
一度は納得しかけたようだが、真宵は急に腑に落ちない顔で「でも」と呟く。その様子を見て、御剣は口許を引き締める。やはり、見逃してはくれなかったか。
「あの、ひとつ気になったんですけど」
「なんだろうか」
「それってここのマンションの住民なら誰でも可能ってことですよね。なるほどくんに"だけ"可能とは決め付けられないんじゃ」
「……マンションの住民とはほぼ交流がない。あえて私の部屋を狙ったということは顔見知りの犯行だろう」
「でもでも。御剣検事って、あっちこっちで恨みを買ってるじゃないですか」
「うっ」
"あっちこっち"は言い過ぎだが、その通り。御剣は眉を顰めたまま反論できない。
「そもそもブーケをポストにねじ込んだ意味がよく分からないんですし。それだけじゃ、絶対なるほどくんがやったとは言いきれないですよ」
つまりだ。「ほかに根拠があるのではないか」と上目遣いの瞳が問いかけてくる。
「それは」
思わず顔を逸らしたのが、かえって後ろめたいふうになってしまった。御剣自身、どうして口ごもっているのか分からない。隠さねばならないことではない。
どれもこれも、成歩堂のせいだ。信頼できる相棒だ、切磋琢磨するライバルだ、一緒にいて心安らぐ親友だ、無二の人だ。だからこそ、花束ひとつが不可解だってだけで、酷く落ち着かなくなる。暗くじっとりとしたもやがかかったように、昨日までの彼の顔が思い出せない。のうのうと息をしていたのは自分だけだったのか。だとしたら、口惜しい。
愚直に向き合うほどに、大袈裟に心が沈む。
「みつるぎ検事……」
ふと前を見れば、真宵は心配そうに御剣を覗き込んでいた。
「……ポストにブーケをねじ込むとは、どういった意図の行為だろう。主観で構わない。真宵くんはどう思うかね」
「え、うーん、そうですね。シャイな人からのプレゼントとか」
御剣の唐突な問いかけに、真宵は素直に答えた。
「その考え方が妥当だろう。だが、件の花束はポストの隙間に、手荒くねじ込まれていたのだ」
「そんなに痛ましい感じだったんですか」
「花が傷ついていなかったとはいえ、ラッピングは酷くクシャクシャだったからな。プレゼントには見えなかった」
「シャイかつ乱暴な人からのプレゼントかもしれませんよ」
真宵はにやりとした笑いを浮かべた。御剣の纏う重たい空気を少しでも晴らそうとしてくれているのだろう。御剣も苦笑してみせる。
「シャイな者はおおよそ繊細で丁寧なものだ」
「それは偏見ですよ、偏見。だってみつるぎ検事はしっかりシャイだけど、いつも法廷で台をバンバンと」
「あ、アレは叩くためにあるので構わないのだ」
言いくるめられそうになって、慌てて大雑把な弁明をする。真宵のこれは、気遣いではなく単に気ままなだけなのか。成歩堂含め、あの事務所の面々はプライベートの方が毒が効いている気がする。
「でも、みつるぎ検事が『うげっ』って思ったなら立派ないやがらせだと思いますよ」
「『うげっ』とはなっていない」
容疑者である親友への配慮ではなく、純粋な初印象として、あのブーケからは悪意を感じなかったし、嫌悪感も抱くこともなかった。とはいえ。
「……ただ、毒でも塗ってあるんじゃないかとかんぐってしまってな。念のため、素手では触っていない」
御剣とて神経質になりたいわけではないのでため息が出る。しかし、優秀さを僻まれて嫌がらせを受けたり、ゴシップ目当てで付き纏われたり、数多の事件に巻き込まれたり、人一倍トラブルだらけの人生だ。
「さすがのみつるぎ検事ももううっかり拾ったり、うっかり触ったりしないんですね」
「私がなんでもかんでも拾ったり、触ったりしてるかのような言い方はやめたまえ」
御剣は当惑を咳払いで誤魔化す。
「何にせよ。あれの目的は分からないようだな。プレゼントにしては乱雑で、いやがらせにしては中途半端だ。本当に毒が塗ってあれば話は別だが」
「もっとプレゼントっぽく置いてあった方が、みつるぎ検事も油断して手に取りますよね」
「……油断しないように心がける」
「なんだか、かえって気味が悪いですね」
毎日何気なく開け閉めしてる扉が、得体の知れない塊のように感じられる。真宵もため息をついて、扉を見つめる。その苦々しい横顔を眺めて、御剣は改めて思う。
一緒に頭を悩ませてくれている真宵に対して、隠しごとをするのは不義理である。持ちうる情報は全て明かすべきだ。そもそも、彼女は御剣を心配して、ここにきているのだから。
御剣は意を決して口を開く。
「……鍵が開いたのだ」
「え、鍵?」
真宵は虚をつかれて繰り返す。
「ちょうど床についたとき、ガチャリという音が聞こえた。何事だろうと玄関に向かうと既に人影はなく、ドアのポストにウェディングブーケがねじ込まれていた」
御剣は息を吐き出すと、努めて淡々とした声色を探る。深刻にはしたくなかった。
「これが成歩堂が犯人だと断定した理由だ。ヤツには、我が家の合鍵を渡してあるのだ」
「えっ、それって、え」
真宵は面食らって、目をぱちぱちさせる。喉元まで言葉が飛び出そうとして、引っ込めているといった感じだ。
こうなることを予想していた御剣は、顔の前で緩く手を振る。
「そのようなアレではない、決して」
「は、はあ、そうなんですね」
「私の家が現場に近いやらなんやらで転がり込んでくる日が続いたり、あとはワケあって食事を共にする日が増えたのもあってな」
「ええ……みつるぎ検事、防犯って言葉、知ってます?」
「私はあれであの男を信頼しているということだ」
真宵のじとっとした視線が頬に刺さる。御剣自身、ちょっとどうかとは思っていたのだ。
諸々の不安から逃げるように仕事にのめり込み、倒れたことがあった。法廷の外では案外あっさりとした男が、急に口うるさくなったのもそれからだったと記憶している。今となっては健康管理含めての仕事だと弁えているので、毎週部屋をチェックする必要もないのだが、なんとなくの習慣で度々部屋に招いている、というか上がりこまれている。
このような背景ゆえ、自分は少なくとも成歩堂から嫌われていない、むしろ友人として大切にされすぎているくらいだと、人間関係に卑屈な御剣ですら確信できていたのだが、ならばどうしてこんなことを——。
御剣の表情が曇ったところに、真宵がおずおずと声をかける。
「あたしも隠してたことがあるんです」
「なんだね」
意外な申し出に顔を上げれば、真宵は後ろめたそうな顔をしていた。
「なるほどくん、昨日大学の同級生の結婚式に行ってたんです」
「なんだと」
「本当になるほどくんがやったのか、どうしてやったのか分からなかったから黙ってたんです。でも、みつるぎ検事の話を聞いたら、多分なるほどくんがやったんだなって、そう思ったので。……黙ってて、ごめんなさい」
「成歩堂の犯行を裏付けるようで抵抗があったのだろう。むしろ、うム、感謝する」
真宵は「ありがとうございます」と小さく呟いた。
「ブーケトスのブーケって、女の人がもらうんですよね。そこらへんはよく分かんないですけど、きっと結婚式でもらったものなんだと思います」
「そうだな。その可能性が高い」
御剣の隠しごとも、真宵の隠しごとも個々では決して"証拠"とは言えない。こっそりと御剣の部屋の合鍵を作った何者かがいたのかもしれないし、花屋にブーケを発注することは誰にだってできる。しかし、偶然も重なると真実を指し示すことを御剣も真宵もよく知っていた。
「さて、おかげで犯人がはっきりした。あとは理由を問いただすだけだな」
御剣は扉に凭れ掛かる。
「結局、分からなくって、ごめんなさい」
真宵は装束の裾をきゅっと握る。
そう、肝心の"意図"が分かっていない。しかし、真宵がその責任を感じる必要は全くない。むしろ、真宵のおかげで御剣は随分と調子を取り戻すことができた。改めて感謝を述べた上で、事務所まで送り届けようと御剣が身を起こした瞬間、真宵は「あ!」と声を上げる。
「そうだ、そうですよ!」
「な、なんだ急に」
「分かりました! なるほどくんの考えてること、分かったんです!」
「それは、本当か!?」
「まあ、ほんのちょっとだけですけどね」
真宵は照れくさそうに手を揉む。
「なるほどくんは、鍵を開けたんですよね?」
「ああ。それは間違いない」
「だったら、なるほどくんは絶対、みつるぎ検事に会いにきたんですよ」
「う、ううむ。そう、なのか?」
すっきりしない表情の御剣に、真宵は自信ありげに言って聞かせる。
「だって。ポストにブーケをねじ込むだけなら、鍵は開けなくてもいいじゃないですか」
「た、確かに。全くその通りだ」
何を当たり前のことを見落としていたのだろう。ウェディングブーケの存在感に気を取られていたのか、成歩堂への思い入れが邪魔をしたのか。御剣は驚き呆れて目を見開く。
「だから、なるほどくんの目的は」
「ブーケをポストにねじ込むことではない。少なくとも、私に対面した上でなにかをしようとしていた?」
思考がクリアになって、よどみなく言葉が出てくる。真宵は真剣な瞳で、御剣の考えに是を唱える。
「感謝する、真宵くん。新しい可能性が掴めたようだ」
「みつるぎ検事と会って、何をするつもりだったのかは分からないまんまですけどね」
真宵は少し悔しそうに首を捻る。
「今度はそれを考えてみよう。そうだな。私に結婚式の愚痴でも零しにきたとか」
「やっぱり、みつるぎ検事にブーケをプレゼントしたかったとか」
「……キミはそれが好きだな」
「あたしとしてはこれがイチオシですね」
「根拠は?」
「それは言えないんですけど。あたしの口からは。口が裂けようと」
「まあ。その可能性はとても考えられないのだが。もしそうだとしたら、成歩堂は——」
その続きを導き出してしまう前に、御剣の言葉は止まる。ポーチの奥に、青いスーツが見えたから。
「やっぱりここにいたのか」
「なるほどくん」
「成歩堂、どうして」
息を呑んだ御剣と真宵とは対照的に、成歩堂は落ち着きはらって門扉を開く。
「どうしてもこうしてもないよ。事務所に戻ったら、留守を頼んでたはずの真宵ちゃんがいない。で、机には御剣お決まりの手土産」
事務所の机に置きっぱなしにした真宵もお気に入りの"とのさまんじゅう"のことである。言われるまでもない。やはり、今日はずっと頭の回転が鈍い。
「ま、それに。今日御剣が来るんじゃないかって思ってたんだよね」
「成歩堂、キミ、それは」
成歩堂の視線が躊躇いなく動く。緊張した呼吸のまま御剣がそれを追うと、たどりついたのはやはりふたりに挟まれた黒い扉だった。成歩堂は御剣の顔をちらっと見やると、肩をすくめてみせる。
「話をするべきだな」
「そんな顔してるね」
真宵は御剣と成歩堂の顔を見比べる。一瞬躊躇いの表情を見せたが、やむなしといったようにうんうん頷いた。
「じゃ、なるほどくん来ちゃったし、あたし帰るね。
なるほどくん、あんまりみつるぎ検事を困らせちゃダメだよ」
あっけらかんとした調子でそう言い放つ。成歩堂は「はいはい」とおざなりな返事をする。随分と慣れた調子だ。このふたりは普段からのらりくらりと言葉を交わしているのだろうか。しかし、勝手に事務所を離れた真宵を叱るようなことはなかったので、御剣はひとまず胸を撫で下ろす。
「みつるぎ検事は、もっとなるほどくんを困らせていいんだからね」
くるっと振り返って、御剣にも一言。意味を図りかねて眉を寄せた御剣に、真宵は意味ありげな笑みを浮かべる。
「まあ、多分大丈夫ってことですよ。……じゃあね!」
事務所まで送り届けるという御剣の申し出を断ると手を振り、廊下を駆けていった。足音が遠ざかって、場には重い沈黙が訪れる。
先に降参したのは御剣だった。
「とりあえず、上がれ。このまま話すのもなんだ」
「いや、ここでいいよ」
「しかし」
「入れない方がいい」
御剣の異議に、冷えた声が被せられる。目が合わない。しかし、拒絶されているとも思えない。成歩堂が御剣を拒むときは、一切の躊躇のない敵意をぶつけてくるのだ。
御剣の中で話をしなければならないという確信と共に、とある思いが頭をもたげる。真宵の残した一言。先程検討しかけた可能性。どろっとしたそれに足元を掬われぬように、御剣はあえて不遜な態度を取ることにした。
「では、せめて玄関で話そう。日が暮れてきた。私が寒いのだよ」
ずっと外で立ち話していたため、実際耳の先が冷えてして堪らなかった。
「分かったよ」
御剣は成歩堂を先に家に上げ、廊下の縁に座らせる。床に手を付き、胡座気味にだらっと膝を折り曲げている姿は、リラックスしているというより気力がない。鍵を閉めてから、御剣はドアを背にして仁王立ちした。
「……それで。これはなんだ。新手の嫌がらせか」
シューズラックの上に置いておいたブーケを手に取り、固い声を頭頂に投げかける。成歩堂は斜め下を見つめたまま動かない。
「違うよ」
「では、不器用なプレゼントとでもいうのか」
「違う」
はっきりと否定されて、御剣は強く目を閉じる。大丈夫だ。そう念じてから、鋭く追及を続ける。
「ならなんだ。ワケを言え」
成歩堂は息を吐くと、出し抜けに面を起こし、さっぱりとした笑いを浮かべた。でも、御剣にはその真っ黒な瞳ががらんどうに見える。ヒトが本能的に恐れる底なしで空っぽな黒。それをこの男は纏えてしまう。
「昨日、大学同期の結婚式があったんだ」
「ほう」
先程真宵から聞いた通りだったが、興味深そうに相槌を打っておいた。
「このブーケはそこでもらった。というか、押し付けられた」
「押し付けられた?」
「ブーケトスって普通女の子がもらうもんだろ。でも、コントロールが上手くいかなかったみたいで、ぼくのとこに落っこちてきちゃったんだよね」
「反射的に掴んでしまったと」
「そう。頭に落っこちたら痛そうだったし」
確かにブーケは案外重たいし、束ねられた茎で額を打ったらひとたまりもなさそうだ。
「それでアイツら、やり直せばいいのに、ぼくが独身で恋人もいないって知ってるからさ、このまま持って帰れって言って聞かなくって」
「確かにお節介かもしれないが、キミのことを心配しているのだろう」
「分かっちゃいるけどね。こればかりはありがた迷惑。相変わらず、惚れた腫れたが好きな連中だよ」
認めたくない。しかし事実として、成歩堂がため息混じりに吐いて捨てたのを見て、御剣の胸はキュッと痛んだ。
"連中"との付き合いが羨ましい。
捻り出した相槌のぎこちなさを、多分成歩堂は勘づいていない。恨めしそうに、御剣の手の中のブーケに視線を注いでいる。
「帰りの駅で捨てようかなって思ったんだけど、なんかさすがに新郎新婦に悪い気がしてさ」
「バチ当たりだろう」
「そうだな、どっちかって言うとそっちの気持ちが強かったかも。でも、飾るのも嫌だったんだよ、絶対」
御剣が今日聞いた中で、いちばん頑なな響きだった。
「どうしようかなって思ってたら、御剣ん家の最寄り駅に差し掛かって。気づいたら、電車を降りてた」
呆然としたままそう零す。その戸惑いは素顔だったのだろう。成歩堂は再びパッと笑顔を取り繕うと、口上のように滑らかに言葉を並べ立てた。
「足が進むままに御剣の部屋に辿り着いて、鍵を開けた。その音で急に正気に戻ったんだ。ぼく、どうしてここに来たんだよって。お前、今でも眠り浅いだろ。起こした思って、焦ってブーケをポストに突っ込んじゃったんだ。……それだけだよ。お騒がせして、ごめんな」
成歩堂はまだ本心を隠している。成歩堂の言葉と表情から、御剣はそう確信した。
「人騒がせなヤツめ」と怒鳴りつけて、「何でもなかった」と約束し合えば、来週からも成歩堂は御剣家を訪れて、締りのない顔をするのだろう。それは近頃の御剣にとって最も心安らぐ時間だった。でも、このまま帰せば、成歩堂はこの合鍵を置いていく。もう二度と、自ら御剣のエリアに踏みこまないに違いない。
受け止めきれるか分からない。それでも手放すのは嫌だ。そういう性分になったのはそもそも成歩堂のせいだろう、責任を取ってもらわなければならない。だから、真宵の置き土産を使う。
御剣は花束を手放すと、成歩堂の正面へと一歩進む。
「キミは、私に会いに来たのだ」
「決めつけるね」
「証拠は十分だろう」
「聞かない方がいいよ」
「さっきからそればかりだな」
「だって、そうだろ」
引き返せ、とゆらゆら切実な瞳が訴える。
しがみつかれているような心地だ。その腕を突っぱねるか。とんでもない。その腕に手を添えるか。甘えるな。御剣ならば、御剣と成歩堂ならば。
「みつる、ッうわ」
御剣は成歩堂の腕を引っ張りあげる。勢いで体勢を崩した成歩堂の胸ぐらを掴み、完全に退路を絶った。
「聞くべきか聞かないべきかは私が決める。先の言葉を借りるとすれば、その心遣いは"ありがた迷惑"だ。キサマはただ、言いたいことを言えばいい」
至近距離で目を合わせる。奥の奥まで入り込んで、全てを見通して、その上でこうやって叫んでいると分からせるため。射殺すくらいの願いで。
どくどくどく、と。どちらから伝わってきたのか判然としない血の音だけが、瞳を覗いた唯一の五感だった。
——ゆえにどのくらいこうしていたのか御剣には定かではない。しかし、にわかに視界が揺れ、強引に抱きすくめられる。突然のことに、握りこんでいた拳がふっと解けた。
「お前の家に行ったのは当然のことだった。このブーケが落っこちてきた瞬間から、お前のことしか考えてなかったから」
耳元でたどたどしく、言葉が紡がれる。
「あの、幸せを絵に描いたような空間全体がぼくの気持ちを否定してるみたいだった。否定どころか、そもそも存在しないって決めつけられてるようで。腹が立って、悔しくて、悲しくて。お前に誓ってこんなもん要らなかった。だから、ああした」
心底安心した。それから歓喜した。今日芽生えたあの感情を、殺さなくてもいいのだ。もっと聞かせてほしい。聞きたい。
「こうやって問い詰められるって、分かってただろう」
「うん。馬鹿だよな」
御剣は成歩堂の背を柔く叩く。成歩堂は腕の力を緩めると、おずおずと御剣から身を離した。想像していた通り、決まりの悪い顔をしている。
「でも、私はキミよりも馬鹿なのだ」
御剣はめいいっぱいいたずらっぽく目を細める。オマケに横柄に言ってのける。だって、これだけ厄介なマネをしてくれたのだ。こちらも少しくらいからかってやったって許されるだろう。
「だから、はっきり言ってくれないと分からん」
「へ、はあ?」
目を丸くした成歩堂に、心からムッとした。ヤボなヤツめ。
「もっと、はっきり、しっかり、言いたまえ。何を言いたいのか、まだよく分からんなあ」
「おま、御剣、お前なあ」
ここまで誇張してやればようやく理解したようで、成歩堂は顔を真っ赤にした。御剣が声に出して笑い飛ばせば、緊張が解けたのか成歩堂はへなへなと座り込む。
情けない。でも、それを好ましく思うのはなぜか。御剣にも示す義務がある。
「仕方ない。少しは甘やかしてやる。待っていろ」
靴を脱いで、ブーケを手に取り、部屋に上がる。成歩堂もきょろきょろしてから、御剣に付いてリビングに入った。
真宵に飲み水を用意する折、持ち込んでおいたそれの梱包を開ける。取り出したのは、ガラス製の花瓶だ。花束の丸いフォルムを活かすために、底が広く、口のところがキュッと狭まった形を選んだ。
キッチンで中を濯ぎ、綺麗な水で満たす。一気に重量が増したので、手を滑らさないように注意しながら、急ぎダイニングテーブルに置いた。
「御剣……?」
迷いのない動きに追いつけず、うろちょろしてる成歩堂を横目で認めて、頬を緩ませてから、御剣は次の準備に取り掛かる。
風呂場から洗面器を持ってきて、水を張る。ブーケのラッピングを丁寧に解いて、茎を水に浸けた。一緒に買ってきておいたハサミで、茎の先端を切り落としていく。
パチン、パチン、パチン。
その様子を、成歩堂がじっと見守っている。
「ほら、できた」
ラッピングに使われていたリボンを花瓶の口に巻いたら、完成だ。テーブルから距離をとって、丁重に生けたそれをしげしげと観賞する。
思った通り、完璧に可愛らしい。スタイリッシュな御剣の部屋には少々気の抜けたフォルムだが、御剣はだからこそ愛おしいと思った。
満足げに頷く御剣に対して、成歩堂は戸惑った表情のままだ。何か声をかけたそうに、百面相に興じてるのが御剣の視線の端に入り込む。ああ、もう本当に察しが悪い!
「キミなりの誓いなのだろう。なら、大切にさせてもらおうか」
そう言って、御剣は傍らの厚い肩に図々しい感じで頭を預ける。成歩堂は、心臓を掴まれたみたいに全身を緊張させてから、ゆっくりゆっくりと御剣を覗き込む。またも至近距離で目と目が合うけど、今度は甘やかな雰囲気に満ちていた。
「さあ、これでもまだ怖いか。ちなみに私はもうちっとも怖くないからな。先に言ってやってもいい」
「……御剣。ありがとう」
そうではないだろう、と叱る代わりに肩に体重をかけ直した。成歩堂は痛がる仕草を取ったものの、可笑しそうにくつくつ笑った。
すっかり全てが筒抜けだ。だから、やっと声に変えられたその言葉は、ともすれば聞き流してしまいそうなほど凪いでいた。
「でも、ありがとう。……だから、好きだ」
御剣の心臓が跳ねる。ついで、じんわりじんわりと熱が巡る。殊更、頬があつい。今日ほど己に血が流れている事実をありありと、かつ穏やかに実感した日はない。でも、これからは毎日がこうなのだ、いやそうであってほしいと願っている。
瞳を大変に右往左往させてから、御剣はどうにかこうにか声を出す。眉が厳しく寄せられた決死の形相で。
「ううむ。ど、どうも」
「お前、そこで照れるか」
「照れてなど」
「言葉にされると案外恥ずかしかったのな」
「う、うるさい!」
思わず口元をほころばせた成歩堂に、御剣は赤い顔のまま噛み付く。完全な八つ当たりなのに、成歩堂は緩んだ顔をするものだから、どんどん追い込まれる。とにかく、不味い。成歩堂を甘やかすのはやぶさかではないが、甘やかされるのは御免こうむる。だって、そんなの居心地がよすぎるに決まっている。
御剣は冷静さを取り戻すべく、頭をぶんぶん降ってから、事実確認に取り組んでみる。
「それはその、いわゆるそのような意味で好意なのだな」
「そうだよ。好きだよ」
「ぐっ」
事も無げに断言したのを聞いて、御剣は今度はピタッと動きを止める。それから唇をわななかせたかと思うと、いきなり振り返ってドカドカと部屋を出ていく。成歩堂は慌てて追いかけた。
「ちょっと、水を飲んでくる」
「冷蔵庫、目の前だって」
「自販機の水が飲みたい気分なのだ」
「どんな気分だよ」
「こんな気分だ!」
御剣は避難するかのように靴に足を捩じ込む。ドアノブに手をかけると、成歩堂に背を向けたまま静かに呟いた。
「……とにかく落ち着かせろ。不慣れなのだ」
「うん」
ガチャリと鍵の開く音がする。御剣は成歩堂へと振り返る。先程まで真っ暗だった成歩堂の瞳は、もう多色の欲を湛えている。御剣に何を言いたい、言われたい、したい、されたい。それが入れ混じった、希望の黒だった。
自分の存在が、ここまで成歩堂の顔を変えてしまう。御剣はその事実を、甘美で、愉快で、怖いこと思う。そして、己もまた成歩堂の一挙一動で世界の色がころころ移ろうのだから困ったものである。
成歩堂のせいで世界は地獄にも天国にもなってしまう。でもそれが良いのだ。想いを言葉にするということは、そのリスクを背負うことであり、覚悟なのだ。何者にも託してはいけない。今は明白な花が媒介している、それをもっと確かにしなくては。
何より心躍るのだ。真っ向から「好きだ」と言ってやったときの、成歩堂の顔を想像すると。
「ちゃんと私も誓ってやらねばならんからな。大人しく留守番していたまえ」
下手くそで、無邪気な笑顔がそう言い捨てて、ドアが閉まった。
冬の夜の澄んだ空気と成歩堂が取り残される。すっかり毒気を抜かれた成歩堂は、安堵のこもった長いため息をついた。
成歩堂はおもむろにリビングに戻る。
ダイニングテーブルには、白い花束が晴れやかに飾られていた。詫びるように、慈しむようにそっと花弁に触れて、成歩堂は御剣を待った。
その後。
プロポーズじみたキザな文言で愛を伝えてみせた御剣に、うっかり成歩堂が吹き出してしまったせいで、もう一波乱起きるのだが、それもそれで幸せな一幕なのかもしれない。