なれそめ魈鍾①「鍾離先生、恋人でも作ったら?」
公子の提案に鍾離は目をしばたたかせた。
それは旅の途中、ひと時の会食、何気ない会話の中で起こった。
すべての契約を終わらせる契約、を結んだ岩王帝君。璃月を離れ、鍾離という凡人として生きる道を選んだ彼は、契約を伴わない生を謳歌している。しているものの、この頃は少々持て余していた。いくら凡人になったとはいえ、神としての記憶や生き方はそう簡単に矯正されるものではない。それゆえに彼は思い悩んでおり、打ち解けた者たちとの柔らかい空気の中でなめらかになった舌が、「もっと凡人らしいことをしたい」と漏らしたのである。
――ことから、冒頭の提案につながる。
「いやいやいや、おかしいだろ!」
最初にツッコミという名の反応をしたのはパイモンだった。次いで旅人も「さすがに話が飛躍してるんじゃない?」と呆れた顔でフォークを揺らす。もっともな反応だろう。確かに恋愛は凡人らしい行為と感情の最たる物と言っても過言ではなかろうが、神の座を退いたばかりの鍾離には至極難題であることは、彼を知る者ならば皆、想像に易い。
「ふむ……」
しかし、当の鍾離は顎に手を当ててさすり、思案げに息を零した。
「懸想か。それは考えたことがなかった」
彼は至って真面目な表情でそう言った。だろうねぇ、と公子が軽快な相づちを打つ。
「神は恋をしないのか?」
小首を傾げてそう問うたのはパイモンである。鍾離は一瞬の間を置いて微笑み、首をゆるく振った。
「しないわけではないが、俺は経験がない」
契約の神に情がなかったわけではない。しかし旧い友らとの別れを経験し、それを重ねてゆけばどんな巨岩であろうとも摩耗する。ゆえに、近年は一歩引いた距離の関係ばかり築いてきた、と鍾離は続けた。
「ならちょうどいいじゃないか。踏み入った関係を新たに築くのはいい刺激になるだろう?」
「色めいた話なのに公子が言うと物騒な話にしか聞こえないのはなんでだろう……」
旅人と公子の軽口の隣で、鍾離は小さく呟いた。
「踏み入ってみる、か……」
その声色には様々な思惑や感情が入り交じっており、その場にいる誰にも読み取ることができなかった。
「でも恋人ってそんな簡単にできるものなのか?」
「そうだねぇ、俺は恋なんて興味ないけど、鍾離先生の恋人探しには興味があるから、探索するなら協力してもいいよ?」
「素材探しみたいな軽さで言ってるぞ……」
「そんなことはない。危地に潜む強靱な魔物を斃さなければ手に入らない、貴重な素材程度には考えているさ。何せ鍾離先生の恋人だからね」
「やっぱり戦う気迫しか感じられない……」
面白おかしく話を進める三人を微笑ましく横目に見ながら、鍾離は、敢えてそれまで向けずにいたのであろう方へ視線を投げた。
そしてここまでずっと沈黙を貫き気配すら消していたこちらへ問い掛ける。
「魈、お前はどう思う?」
訊かれても困る。
それは魈の偽りない本音であり、唯一脳髄から絞り出せる返答であったが、さすがに敬愛する主君相手に即答できる返事ではなかった。なんのために気配を消していたのか、察せぬ彼ではなかろうに。
三人もその存在を思い出したかのように目を見開いて魈に注目し、一気に視線を集めることになった気まずさと不愉快さで目を眇める。
鍾離が興味を抱いている以上、魈は否定も拒絶もない。ただ、想像ができなかった。これまで契約の神として、どんな事態においても契約を優先し、時には無慈悲だと糾弾されるようなおこないまで躊躇なく遂行してきた彼が、恋とは。
だが今の彼は神にあらず、すべての契約も終えて自由を得た身である。そう考えれば公子の提案は的を射ていると言えるだろう。
それでも魈は、三人に同調することは躊躇われた。
「お答えしかねます」
魈は率直に答えた。
「我にも経験がないゆえ」
――これもまた、偽りない本音である。
人間たちは世俗から離れた存在として彼らを見ているようだが、仙人とて恋情は持っている。ただ生きる時間が長いゆえにか生殖本能が薄い。特に、人間は庇護する対象として見ていたり同等の生物として認めていない者も多く存在しているため、伝説や寓話として後世に残ってしまうほどに頻度が少ないのだ。
しかしその反動か元からの習性か、一度持った恋情は異常に執着心が強く、離れることを拒み一生添い遂げる誓いを立てたり、強すぎるゆえになのか、深みに嵌る前に捨てたり殺したりと嗜虐的に扱う事態もあった。
魈はそんな彼らを数千年、見てきた。見てきた上で、「恋情とは、契約の国にそぐわぬ下らぬ感情だ」と唾棄している。
恋情とは摩耗が齎す激情に近い。己を律せず、理性が感情の濁流に飲み込まれ流され、最終的に水底に沈んで息絶えるモノだ。
魈にはそのような感情など不要である。無論、今後も持つことはないだろう。魈はこの一生を、かつて岩神と結んだ契約に従って生きると決めているのだから。
だから、公子が「恋人でも作ったら?」と先ほど言葉を発した瞬間、魈は沸き上がりそうになった怒りを必死に腹の中で鎮めた。
これまで幾度となく「情」のせいで裏切られてきた神に、情の中でも特に重い情を持てなどと。数千年仕え、その背を見てきた魈が「恋をしろ」という提案に賛同ができるわけないだろう。
「そうか」
魈の胸中を推し量っているのか、あるいはまったく別のことを考えているのか、鍾離は再び思案げに手を顎に添えた。
本当は、公子の下らぬ提言になど乗らないでほしい。そんな我侭を臓腑の中で押し殺して、魈は鍾離の判断を待つ。他の三人も漂う空気の重さに気づいたようで言葉を発することはなく、しばらく沈黙が続いた。
小川のせせらぎと、色づいた葉の乾いた葉擦れの音が小さな円卓を包む。
沈黙を破ったのは、誰の声でもなかった。
バシャンと音を立てて魚が飛び水が跳ね、同時に強い風が吹いて葉がバラバラと舞った。
皆が皆、それまでの沈黙から我に返ったかのように、瞠目する。魈も例外ではなく、また、鍾離も同様であった。しかし鍾離だけが、その瞳に何か強い意志と閃きを宿していたのである。
それが何であるかを誰かが問う前に、鍾離は眼差しを魈に向けた。そして、まるで契約を持ちかけるかのような声音で宣ったのである。
「では魈、俺の恋人になってくれないか」
それは、誰がどう聞いても納得できぬであろうほどに突拍子もない告白だった。
魈だけでなく、他の三人も口を半開きにして固まり、誰も言葉を発することはできなかった。鍾離だけが小首を傾げ、自分の言動に何かおかしいところがあったのかと訝しげにしている。
肯定の代わりに、たっぷりの秒数を溜め込んだのちにパイモンが絶叫を上げた。
○
望舒旅館の最上階。
テラスに用意された卓と椅子。
昼下がりのぬるい風を頬に受けながら、魈は、苦虫を噛み潰したような、あるいは奥歯に物が挟まったような表情で視線を卓に落とした。目下には杏仁豆腐。そして、目前には敬愛の元主が、いた。
なぜ鍾離がこの場に、という問いには自ら即答できる。そう、先日、魈が鍾離の恋人になってしまったからだ。なぜ恋人に、という問いの解も記憶に確りと残っている、が、上手く纏めることは難しい。
あの日、鍾離が魈を恋人に指名した、旅人たち一行は大混乱に陥った。旅人は目を見開いて岩のように固まり、パイモンは絶叫しながらそこら中を飛び回り、そもそもの元凶であるタルタリヤは腹をかかえて爆笑し始めた。
そして魈はというと、思い出せない。
自分がその時どんな顔をしたのか、それどころか何を思っていたのかすら思い出せない。
唯一覚えていることは己の肉声のみだ。
――鍾離様が、我を望まれるのであれば。
魈はそう答えた。
魈の答えに鍾離は目尻を下げたのだ。
「経験はないが知識なら多少ある」
鍾離は淡々と言いながら、杏仁豆腐を一匙掬った。
優美な所作で口に含み、目を閉じて味を堪能する。
遅れて魈も同じように杏仁豆腐を食し始めた。鍾離の言葉が恋人関係のことを指していることは理解できたが、その知識がこの杏仁豆腐とどう関わるのかまでは理解できず、相づちも打てない。
「恋人はこのように同じ卓で食事をし、睦まじく語らい合うのだ」
「……成程」
成程と言いながら、魈には「睦まじく語らい合う」がどういった会話になるのか想像できない。敬愛する鍾離が相手だからか、いや、それ以前に魈はこれまで誰かと親密に語らった経験が乏しい。遠い過去にあったような気がするが、舌に乗せた途端に崩れてしまう。魈は杏仁豆腐を嚥下した。
鍾離は複雑な表情を隠せない魈の顔を見ながら、眉尻を下げた。
「旅人とはどうだ? まさかお前が手を貸してくれるとは思わなかったが」
「奇縁です。璃月の地を矢鱈に荒らされても困るゆえ、なれば近くで見張っていた方が良いと」
「そうか、お前らしい」
鍾離は微笑み、また一匙掬った。
魈の杏仁豆腐はいつもどおりの素朴な見た目と味だが、鍾離が食している杏仁豆腐には黄色いソースがかかっている。おそらく何かの果実を使っているのだろうと推測し、そのソースができるまでの工程を想像して魈は辟易した。が、鍾離が口に運んでいるのを見るとその不快感も和らぐのが不思議だった。
匙から糖蜜が一粒滴る。見届けてから鍾離は口を開く。整った白い歯、赤い口腔、滑らかな舌が覗き、だがすぐに匙を食んで消えた。一つひとつが美しかった。
鍾離と目が合い、反射的に魈は目を逸らした。無意識に鍾離のことを凝視してしまっていたらしい。なんだか居たたまれない気持ちで肺に苦しさを覚える。そんな魈の異常に気づいているのかいないのか、鍾離は耳飾りを揺らした。
「欲しいのか?」
何を欲していると思われているのか、魈は一瞬だけ判断ができなかった。しかしすぐに杏仁豆腐のことだと気づいて首を振る。
「い、っいえ」
「遠慮することはない」
恋人なのだから、と鍾離は嬉しそうに言いながらもう一匙掬い、魈の前に差し出した。
――なぜ、こちらに差し出されたのか。
「口を開けてくれるか?」
あり得ぬ。
魈は、己の内側が爆発したような衝撃を感じた。鍾離が食している物を横取りするなど岩王帝君に仕えた身として断じて許されない。それも鍾離の手ずから口に含むなど。だが鍾離がせっかく差し出してくれたものを無碍に断ることもまた不敬ではなかろうか。
魈は逡巡し、ややあって、鍾離の意に沿い己を許さぬ道を選んだ。
意を決して口に入れると、慣れた杏仁豆腐の味わいから、果実ソースの爽やかな甘酸っぱさが口内に広がる。
それは不思議な味だった。夢のようで、しかし夢とは違う、奇妙な寂しさを感じる。
「美味いだろう?」
そう言って笑みを見せる鍾離に、魈は頷くことしかできなかった。胸の内から溢れそうな、あるいは暴れそうな何かがあることを、魈はこのとき自覚した。
○
夢から醒めた時のことを、魈はよく夢に見る。
身体の自由を奪われ、操られるままに殺戮を繰り返した日々の唐突な終わり。血と塵に塗れ黒ずんだ死にかけの夜叉に躊躇いなく差し伸べられた、堅い手のひらを、魈は瞬きの時を経た今でも鮮明に記憶している。決して忘れぬよう、何度も夢に見るくらいに。
「魈」
なので今、鍾離から手を差し伸べられた時、魈はまず自分の手のひらを確認してしまった。
このような汚いモノが彼に触れていいのかと反射的に考えてしまったからだ。それを鍾離は別の意味に捉えたのか、薄く苦く笑った。
「嫌か?」
「いえ、そのようなことは」
魈はすぐさま我に返り、まだ頭に残る夢の残滓を散らして手を伸ばす。それでもどう触れていいか戸惑う指先を、あの時と同じく導くように彼の手が握った。
互いに手袋越しではあったが、鍾離の手は記憶にあるものよりも幾分柔らかく感じた。それはただ自分の記憶が彼を美化していただけなのか、あるいは彼がもう帝君ではないことを意味しているのか、――魈に判じることはできない。
恋人は二人で様々な場所を散策するものだ、と鍾離は言った。そして今日連れてこられたのは軽策荘である。
当然魈も見知った土地であり、さらには旅人の探索にも何度も付き合わされたので、スライムの出現場所から花を摘める穴場まで無駄に知り尽くしてしまった。鍾離も言わずもがな、である。
あまり、意味のあるおこないには思えなかった。しかし意見することなどできるはずもなく、魈は鍾離の少し後ろを、手を引かれるようにして共に歩いた。
雄大な岩山。広がる色鮮やかな棚田。滝から隅々へと行き渡る水路の煌めき。人々にとっては郷愁を誘う風景だが、魈にとってはまだ真新しい景色に思えた。記憶にある軽策荘は、未だかつてこの地を支配していた魔神を想起させる。鍾離にとっては尚更であろう。
「のどかだな」
しかし鍾離は慈しむようにそう零した。
澄んだ空気が広がり、柔らかい風が徒に髪を揺らし、――けだるい。
微睡みの中にあるような不快感すら覚えるほどだった。魈が棲む世界とは大きく違う。目眩を起こしそうな中を、ゆったりと、だが颯爽と歩んでいく鍾離の背中を見つめることで、魈は居たたまれない苦みを堪えた。
道中、鍾離は様々なものに目を向け、凝らし、感じ入っていた。振る舞いが優雅であるためそうは見えないが、はしゃぐ幼子のようであった。その柔い表情を見ると、魈はまた、胸の辺りが痛むような、息がしづらくなるような苦しさに襲われる。
夢で見た鍾離――岩王帝君はそのような表情を見せなかった。意志の強く揺るがぬ瞳で魈を定め、問うてきた。
『契約を、交わす意思はあるか』
魔神に支配され、心を潰され精神を穢され数多の罪を犯した魈にとって、契約は救済だった。縋るような思いで魈は岩王帝君に契約を誓ったのだ。今後どんな苦痛に苛まれようとこの誓いを決して裏切らないと己に課した。だから業障の苦しみも、変遷していく世の儚さにも魈は耐えることができた。
だが、今の鍾離に契約はない。
すべて終わらせた彼の手にも背にも、残るものはない。
当然、魈と交わした契約も。
魈は鍾離の手を強く握った。
振り向く鍾離の呆けた、どこかあどけなさすら見える顔を見て、魈はさらに胸の痛みを強く感じた。近づきたいのに、近くにいるのに、遠く思えた。近づきたいなどと、岩神に想ったことはなかったというのに。
魈には、鍾離が何を望んでいるのか分からない。契約を終えた我らが、なぜ新たな関係を築こうとしているのか。
「我は、……恋人とは、何なのでしょう」
凡人となった彼と、どう向き合えば良いのか。