しょせん前借りひとつだけ、お願いがあります。
「なに」
疑わしそうな視線でこちらをじっと伺う彼は僕の要求を警戒しているのが丸わかりで、僕より年上とはいえ、1歳しか違わないという事実を証明している仕草が微笑ましい。
大人になりきれない幼い者の仕草だ。愚直で露骨でその癖僕のことを見くびっているからこそ無防備な反応。僕が彼を害すことはないと、酷いことをするわけがないと信じている。こちらの脳内なんかお構いなしに。ああ、なんて傲慢なひと。かってに他人の心を決めつけるだなんて。
「1日だけ、あなたの声を貸してください」
「は?」
「なんです?ご不満ですか」
「いや、てっきり難題を押し付けられるかと」
もじもじと両手をまるめて、口籠った彼はどこか安堵したようだった。『ちょっと』無理をしたら叶えられるくらいの要求をされるとは考えていたらしいけれど、僕の提案に拍子抜けしたのだろう。
隙だらけだ。そして僕はその隙きこそを狙っていた。つけ入るには充分な隙間を。
「いいよ」
「ほんとうに?」
「あ、詐欺とかいかがわしいことに使わなければ!」
「ふふふ、心配ならば契約書にしますか?」
「え、いや、そこまではしなくてもいいけど」
「ですが、悲しいことに僕は信用されていないのでしょう?」
気落ちした表情を作って顔を伏せ、目に掛かった髪の合間から、彼の様子を眺める。するとイデアさんが眉をさげ、瞳を曇らせ、優しい部分を傷めているのが察せられた。
ああ愛しい。そして甘い。
もし彼が何らかのキーを声紋認証に設定していたら、彼の声を借りた僕が姿を隠して誰かの悪口を言ったら……たかが声。されど声。他にもいくつだって悪用法は思いつく。きっと『そのあたり』くらいは想定しているだろうに、彼は僕とのか細い繋がりを惜しんで、みずからの個性の一片を差し出すのだ。
なんて健気なんだろう
髪のさきに灯った感情を読まれていることにすら気づいていない。僕がずっと感じている焦れったさにも気づいていない。純粋で鈍感で、僕のことをわかっていない。まるで理解できていない。
「そんなこと、ない、よ」
「ふふふ、嬉しい。では、いまから明日の今くらいまでお借りします」
「う、うん」
「では、いただきます」
ユニーク魔法で作成した契約書にサインをねだり、ムラのある筆圧の名前が記された途端、彼の喉元に蛸の足が巻きついた。彼には見えない僕の一部だ。それは愛撫するかのごとく首筋を這い、吸盤をあの肌に擦りつけ、先端で喉仏を掻いた。いや、ごとく、ではない。愛撫そのものだ。彼には見えなくてよかった。なぜならそれは
「ぁ、ーぅ、ぅ、ぃ?」
「なんでもないですよ」
悪い魔女みたいな僕を、心配そうに見つめた彼に微笑みかけ、オルトさんに事情を説明しておくと伝えると、自分の端末から発信したほうが良いと、メッセージ画面を使って説得され、頷く。
ふたりで1つの端末を覗き込んで文面を書いていたものだから必然的に距離は縮まり、彼の髪が僕の頬から肩口までを火照らせた。メッセージを送信した直後で密接距離にあったことにハッとして、慌てて離れてしまった彼に苦笑し、僕は鏡舎まで一緒にと誘う。すると、彼は恥ずかしそうにしつつ端末を胸元に抱き、コクリと首肯した。
「声を奪われるって、どんな気分ですか?」
廊下を歩いている途中、つい尋ねた僕にイデアさんが目を見開くと、またメッセージ画面に返事を打ち込む。そういえば、十年前のライトノベルにこんなキャラクターが居たな。声を出せなくて、タブレットやスマホで言葉をやり取りする妖精。あの本を貸してくれたのもイデアさんだった。
「喋るのが面倒だったから、不便じゃないってたかをくくってたけど」
「でしょうね」
「君と話せないのって、ふしぎだ」
「おや、てっきりせいせいしたとでも」
「君とは同じ空間にいるのも、喋るのがラクだったから。つまり日常の動作を遮られてるのがなんだか」
「さみしい、ですか?」
「は」
「おっと」
ポンッとイデアさんの毛先が爆ぜて火の粉が舞いあがった
「違いますし寂しいとかそんなわけなくてああえっとほらきみがヘンなこというから混乱して」
「すぐ人のせいにするのは、あなたの悪い癖ですよ」
「っ!ぅぅぁっい」
「ふふふ」
母音と唇の動き、それから文字数でおおよそ返事を判断しながら会話をしていく。自分で仕掛けたこととはいえ、彼が不安を感じていない点にほっとしていると、いつの間にか鏡舎についていた。
「また明日、イデアさん」
「最悪」
「え」
「そんな甘い声で僕の名前呼ばないでよ」
「あまくなんて」
「自分の声だから余計ムカつく」
自分の声だからとは
「僕本来の声だったらどうですか?」
「の、ノーコメント!」
踵を返して鏡に飛び込んでしまった彼の背中を見送り、僕も自寮へもどる。
「……つれない人だ」
どうにか平素を保っていた頬が、テリトリーに戻った途端にだらりと緩むのが自分でもわかった。廊下に他の影がないことを確かめ、脚をせかせかと動かし、自室へ入ると鍵をしっかりと掛け、防音の結界を張って、スマホのボイスレコーダーをオンにする。
「すき、すきだよ。アズール」
僕も
「だいすき」
ええ、知っています
「どこにも行かないで、ずっと一緒にいて」
ああ、ちがう。
「連れてって」
これだ
「僕の手を引いて」
そう、僕が引っ張って行かなければ
「ずっと、離さないで」
ええ、ええ。そのつもりです。
聞きたかった言葉を連ねて、悦に浸る姿を浅ましいと言わずになんと呼ぶのか。けれど、あと少しのところで我慢を強いられている状況で、まだ彼の身に触れてすらいないのだから、そこだけは自分を評価したい。
あんなに露骨に僕に惚れている癖に、まだ彼は恋心を自覚していないなんてふざけた話だ。
もしかすると、この恋が実るまであと何年かかかるかも知れない。けれど、あの人は自分が納得するまで迷って傷つかないと自覚できないひとだから。もう少しだけは我慢してあげましょう。
ほら、僕は慈悲深いですから。
「愛してますので」
ほらね、声の使い方ってこんな方法だってあるんですよ。