ワレモノ、ワスレモノ それらは、良く熟れたラムラの実の如く。
歯触りはザクロか、香りはミルラのようであったか。
あとに残るのはスラーと同じ舌触り─────、いいや、いいや。
【初めて喰らった神の、その味など忘れ果てた】
初めにクリシュナを、それから、彼に殉じた者たちを。次にヴァーユを、ハヌマーンを、ドゥルガーを、スーリヤを……。肚に馴染めば、次はトリムーティを、次いで妃の中から必要な神性を。
食らって───、喰らって───、くらって。
始まりは原初的な方法で、次第に鯨飲するかの如く。舌に当たるはずだった心の臓の味を知らずとも、我が身にはこの渇望に屈服して集積したシャクティで満ちている。
もはや、デーヴァもデーヴィーも無し、あとは創生の世を待つばかり。
─────、否。
足りぬものがある、この肚に喰らわねばならぬ権能。
すでに私は、イーシュヴィラであれど。
されど、私は【すべてを与える者】にまだにあらず。
我が望んだ善き世界を成す、廻らすには力が足りず。
これは───、必定である。
善き世界を創る為に、私は私にとって最も偉大だった【神】を統合することを望む。
黄金の麦穂を撫でながら、風が吹いて行く。
生まれた時からある景色だった。
己が乳飲児である頃から、実りの時期になると、地平は黄金の麦穂で色づいていた。麦穂は朝は陽を浴びて黄金に、夜は月を浴びて光り輝く。願うことは、この景色が久遠であること。豊かな実りが踏みにじられることも、黒き大地に血が流れることもない久遠の世界。そこに住まう人々は善良で、試練があろうとも善性を失うことがなく……。
ゆりかごで眠る赤子が許される世界、信仰と共に死に安息を見出せる世界。一時の荒れ野に風が荒ぶとも。されども、彩りは失われず。魂は輪廻をめぐり、枯れて、芽吹き、枯れて、芽吹く……。
私は、そんな……、報いのある世界が創りたい。
「だから、力を貸して頂けませんか………?」
いいや、私ならば創ることができると。それが慢心であったか、衝動によるものだったか。それらは、噛み砕いた友の心音と共に、既に決意の味へと変わり。後に引けぬ罪を成したがゆえに、もはや罰を恐れることはない。
罰せるものも、報いるものも、こののちは私となるのだから。
なれば、もはやこれは蛮行でも愚行でもあらじ。私という神の、羽化を成すための悪行。
────、そして、善行。
故に、語り掛けた神を正面に見据え、私はもう一度静謐に問う。
「ご理解を………、インドラ神」
きっとこれが最後になる、祈るべきモノへの誓願は。
「やだね」
指弾の如き速さで一蹴され、私は僅かな惜別の念と共に、割れた空の下に立つデーヴァの姿を仰ぎ見た。
雷鳴とヴァジュラを纏い、天を眼の色にして。私とは異なる、灰白の髪を風に揺らす神は。
「アルジュナ、アルジュナよ……。───、大莫迦者め」
私が名として与えられた音を二度紡ぎ、私が一度も言われなかった言葉を手向ける。
「ブラフマーも、ヴィシュヌも、既にその肚の中か」
「そうですね」
「だが、馴染み切ってはいない……。引き返せるぞ」
「そうですか」
「アルジュナ、」
「はい、」
「………、お前の夢は、あまりにも、極下が過ぎる」
それが、最後の言の葉となった。
「そうでしょうか?」
言いながら、私は我が身に得た権能を振う。相手とするは、山の翼を絶つ刃、聖戦の骨から造りし金剛。
暴風は雷に裂かる、炎もまた然り。されども、シヴァは我が身のうちに、空がいかに広大であろうとも、それを統べる宙もまた我が肚に。神々の王の権能は、果たしてトリムーティに抗するのか。斃した神の屍は多くとも、武勇神と謳われるモノに挑むのは初めてだった。
正面に立つことなど許されぬ、伏して拝すべき偉大なる神。悪龍から水を開放した神、神々を率いてアスラを滅した王。
雷を纏い、嵐を纏い、振う刃は鋭く、その一撃は重く……。
神の雷は肌を焦がし、我が肉を割り、我が骨を砕き………。
されど、我が身に流れる血はなく。ラトナの如き有様に、インドラの眼は僅かに憤る。
このモノを肚に収めれば、我が肉はナヴァ・ラトナの如き様相になりえるやもしれぬと。
引き延ばした結弦を弾きながら、ニーラの化身を見やる。
果たして、この偉大なる王が私に下るとするならば。
それらは、良く熟れたラムラの実の如くか。
歯触りはザクロか、香りはミルラのようであろうか。
あとに残るのはスラーと同じ舌触り─────、いいや、いいや。
「っ………、アルジュナ!!」
「!?」
雷鳴が爆ぜた、それは雨と共に顕れて、天と地を結ぶ楔。大地に息吹を与える、アルジュナがいま最も欲する権能。
その刃に貫かれ、意識が飛んだのは一瞬のこと。その間に神の姿は我が間合いにあり、弓を引く者としては致命的な距離のなかで、ヴァジュラを構えたその腕が、心臓に向けて切っ先を繰り出そうとする。
「ぁ、」
零した吐息と共に、走馬灯の如く駆け抜けた光景がある。
【人の子が、腕の中に抱かれている】
【それは、白い色彩を纏う】
【黒い眼と、黒い髪の】
─────、誰だ?
泡沫のごとき何者かの記録、それはアルジュナが集積した権能に共鳴した、何者かの記憶だったのだろう。我が身のうちで繰り返してきた些末な事象を棄て、アルジュナは伸ばした右手を一度二度曲げ伸ばしした。
未だ人たるアルジュナの、正面に立つのは偉大なる【神】だったモノ。
それはアルジュナという人間に血肉を分けた、父と呼ぶべき縁をもつモノ
────、血肉。
アルジュナは、己の真正面からの反撃によって空いた風穴を確かめる。人間であれば即死である一撃は、神の胸部を確かに穿って……。
疑問が湧く……。あの時振るわれたインドラの槍は、この身を砕くには十分な攻撃であったはずで。
結果として、我が身は壮健であり、インドラの消滅は始まっている。
ならば、その神性を喰らいつくせば……。
「 」
私は、
「 」
羽化、
「 」
する。
確かに交錯した双眸、私を見つめていた眼差しがひとつ。
その命を奪った者に向けるには、それは穏やかで、なぜかとても────。
消えゆく腕が私に伸ばされて、撫でて、閉じ込めて。
その温度を、感じることもなく。遺されたモノさえもはや 理解ることはなく。
過ぎ去った。
残されたのは、黄金の麦穂。平らに続く黄金の地平と、境目を同じくする紺碧の空。
風は慈しむように、大地を撫で。花はどこまでも芳しく、実りは瑞々しいまでもたわわに……。
此処には、久遠の景色がある。豊かな実りが踏みにじられることも、黒き大地に血が流れることもない久遠の世界。そこに住まう人々は善良で、試練があろうとも善性を失うことがなく……。
ゆりかごで眠る赤子が許される世界、信仰と共に死に安息を見出せる世界。一時の荒れ野に風が荒ぶとも。されども、彩りは失われず。魂は輪廻をめぐり、枯れて、芽吹き、枯れて、芽吹く……。
そんな……、報いのある世界が創ることのできる。
神たる、アルジュナは─────、白く染まった長い髪をなびかせて。
雨の名残のようなほんの僅かな困惑が、そこに在ったことさえ忘れながら。
廻向と共に、コロリと棄てた。