氷笑卿と雛の君 あの愚かな弟子は、赤子ほどに年の離れた人間を夫(つま)に娶ったのだという。
ハンターロナルド、赤き吸血鬼退治人。ドラルクが選んだという100以上に齢の離れた幼な妻は、我々にとっては天敵のような存在だったのだが。
師であるノースディンにとって、そこはさほど問題では無かった。
かつてほど、人と吸血鬼は敵対状態にあるわけでもなし。どれほど技術が発展しようと、吸血鬼が人間単体に恐れを抱くことはない。
ただ、親愛なるドラウスの、こ憎たらしい息子が、100年以上齢の離れた人間を恋愛対象に見る性癖だったことに、手にしたティーカップを揺らすくらいには動揺してみせて……。
そして、転化したという夫(つま)が、御真祖様の血の良いとこよりどりハッピーセットになった衝撃で、精神が幼児退化したという情報に困惑を示した。
「だから、ちょっと彼を預かってくれないか?」
氷笑卿と呼ばれる古き血の吸血鬼は、いつもより深刻な声で自分を呼び出した朋友の顔をじっと見つめる。
栃木の山奥にあるドラウスの別荘、その薔薇園を望む一室にて。
「何故?」
悲壮感溢れるドラウスからの説明で、だいたいの事件のあらましは理解した。ドラルクが、人間を伴侶として転化させたと……、それは分かった。だがそれでどうして、問題の伴侶を、自分が預からなければならない流れになるのだろうか。
咎める口調で問いかければ、ドラウスの目にじわりと涙の粒が湧き上がる。
「ドラルクはミラさんと一緒に書類関係作成しないし、私は彼のご家族と色々お話合いをしないといけなくてだな……、え──ん、その場のテンションで転化しちゃったせいで、色々と後手後手になっちゃったんだ──! 助けてノースディン!!」
「………、」
氷笑卿は読んで字の通り、氷の如き男である。けれど、敬愛する友から懇願されれば、彼の望みを叶えるために水面下でバタ足をすることも厭わない。
そう、ノースディンはどうしたって……、ドラウスの泣き顔に弱かった。
ゆえに、ノースディンは、ドラウスに手を引かれてやってきた、自分が知るよりもずっと稚い顔をした青年とじっと視線を合わせる。
「──!」
ノースディンの眼差しに、かつて青かった双眸を、仄かに紫がかった赤へと変えた男は、びくりと怯えるように肩を震わせてドラウスの背に隠れようとする。転化の衝撃で幼児退化したという青年は、その精神は本当に子どものようになってしまっているようで。
目線もいつもより低いことから、背幅も精神の引きずられて僅かに低くなっているようだった。
これは、本当に幼な妻だなと、心の中で呟きながら。
そっと、手を差し出せば、青年は不安そうにドラウスを見る。
「大丈夫だ、ロナルド」
「……、……ん、」
ドラウスに促されて、おずおずと前に出てきた青年の。銀の髪を、ノースディンはそっと指先で掬い上げて。
まるで、子猫でもあやすように、その髪をくしゃくしゃと撫でてやった。……、すると、ぴくりと最初は身を強ばらせたものの、ノースの指使いの心地よさに、だんだんと身体を弛緩させていく。
「ロナルド、」
ノースディンは、ゆるゆると、嬉しそうに目を細めた青年の名を呼んだ。
「ドラルクの可愛らしい花嫁よ」
「ドラルク……、どこ……?」
番となった弟子の名を告げれば、本能で求めているのだろう。不安そうに、視線をさ迷わせてドラルクを探すビクトール。その顎に、そっと指先を添わせて。
ノースディンは少しだけ、魅了を放った。
「彼は今忙しくしている。だから、私と一緒に迎えを待つんだ」
心を縛るわけではない、ただ、傍に居なければいけないという暗示。僅かに与えた制約は、しっかりと幼い心に絡んだらしい。
こてりと、ロナルドが首を傾げる。
「──、あんたは?」
「ノースディン」
「……、………、」
尋ねられた時、沈黙したのは、芽生えた悪戯心ゆえに。ノースディンは、くつりと喉を鳴らすと、そっとロナルドの頬を擽りながら。
「ノースディン師匠(せんせい)と呼ぶように」
睦言を囁くように告げれば、幼い吸血鬼は心地よさそうに目を細めながら。
「……、ん、せんせい」
そう言って、嬉しそうにノースディンに抱き着いた。魅了の効果もあり、完全にノースディンを庇護者だと受け入れたのだろう。本来、ノースディンは男に甘えられるのはあまり好まないのだが。
「──、ドラウス、」
「あぁ、だからだ」
ノースディンが名を呼べば、友は額を抑えて小さく頷いた。きっと、此処に連れてくるまでにも苦労があったのだろう……。それを察せるほどに、この『幼な妻』は無防備だった。
転化したロナルドからは制御しきれていない魅了の力が零れていて、それは柔らかな光のようなオーラとなって全身から放たれている。
こんな爆弾、人間はおろか、低級の吸血鬼さえ引き寄せてしまう。欲されて、奪われれば、なにをされるか分からない。
これは、夜闇が薄れた時代に生まれていい代物では無いと。原初の夜の濃密さと、人を惑わす魅力を宿した若き雛の君は。
「ノースディンせんせい、いいかおりがする」
自らの危険性を知らぬまま、氷笑卿の胸元で綻ぶように笑った。──、そこには、ブラッドジャムのように甘いチャームが籠っていたが、古き血の男が擽られるのは庇護欲の方。
「……、ドラルクより、素直でいいか」
そう言って、ノースディンは、猫を愛でるようにロナルドの顎を擽った。幼い心となったロナルドは、その愛撫にくふくふと笑いながらいっそう嬉しそうにノースディンに抱き着く。
「いいだろうドラウス、私が雛の君の面倒を見てやろう」
「サースディン!! ありがとう、持つべきものは親友だ!!」
その言葉に、ドラウスは安堵の表情を浮かべた。友の前でぱちりと両手を合わせて、すぐさまに蝙蝠へと姿を変えて飛び去って行く。──、嗚呼、友の言葉こそ、ノースディンにとってはチャームだなと。
独り言ちるノースディンを、新たな竜の一族となった青年が不思議そうに見上げた。
★★★
キラキラ、キラキラ、氷の粉が夜闇に舞う。
薔薇が咲き誇る秋の夜空に雪が降る……、深紅の薔薇に降り積もる白は美しく、雪はそのまま赤い色彩を氷の中へと閉じ込めていく。
「せんせい!」
凍り付いた薔薇を一輪、手折った青年が、輝かんばかりの笑みを浮かべて戻ってきた。
裸身に、大人用の白いシャツだけを着た姿は無防備で、白い素足がすらりと伸びている。
「あげる!」
妖しい魅力の美童から、凍り付いた神秘的な薔薇差し出されて、ノースディンは表面上嬉しそうに笑ってみせた。……、心の中では苦い渋面なのだが、そんな顔をして、また力を暴走されては堪らない。
「ありがとう」
そう言えば、ロナルドは嬉しそうに笑うと。再び氷を纏いながら、薔薇園の方に駆けていった……。そう、完全に、ノースディンと同じ能力を使いこなして、竜の一族の幼な妻は羚羊のように庭園を駆け回る。
とんでもないモノを生みだしやがってと、ノースディンは脳内でドラルクを罵った。
転化したロナルドは、言うなれば『真祖返り』と呼ぶべき状態だった。
ぐずり泣いた子どもの放った衝撃波で、別荘の一室が一つ吹き飛べば誰だって狼狽える。
念動力、石化に魅了、氷や、きっと焔だって……。無意識にあらゆる能力の片鱗を覗かせたロナルドの、その凄まじい能力の一部に自身のチャームで制限をかけたノースディンは。
今宵もまた、凍てつく薔薇園を眺めながら、表面上は涼しい顔で紅茶を嗜んでいた。
これは、喧騒の中の、僅かな休息だ。
凍り付いた薔薇をテーブルに置いて、ノースディンは小さく息を付く。
やんちゃにして無垢な幼な妻は、あまりにも眩く、周囲に毒を振り撒きすぎる。
そも、退治人ロナルドという存在は、そもそもが人間達の憧れの象徴だったのだ。
ゆえに、吸血鬼化したという噂は、どれほど隠そうと煙のように広がっていき……。我欲のままに『吸血鬼ロナルド』を手に入れようと昼夜問わず、無礼な客人が訪れる。
今も、ほら。
ノースディンはゆっくりと、席を立った。
「ロナルド、」
そうして、近くで遊んでいた青年を呼び寄せる。小鳥のように腕の中に舞い戻る竜の妻は、不思議そうに険しい表情のノースディンの顔を見上げている。
「せんせい?」
柔らかに、無垢に、呼びかけてくる雛の君。ノースディンは唇の前で人差し指を立てて、シーっと小さく囁いた。
「目を瞑って、耳を塞いでいなさい」
雛鳥は、親を慕うように。ノースディンの言いつけを守り、目を閉じて両手で耳を塞ぐ。
その様子を見つめると、彼の師匠(せんせい)は彼を己のマントの下に包みこむ。
「さて、」
薔薇園に足を踏み入れた、息の荒い侵入者が──、畏怖を抱いて足を止める。
吸血鬼化したロナルドの噂を聞きつけて、彼を手にせんとしたならず者は。古き血の吸血鬼の凄まじい眼光を前に、本能的な恐怖を抱いて身を竦ませた。
「我が弟子の細君に、何の用かな?」
そうやって、今日もまた……、屋敷の外に、氷の柱が一つできる……。
吸血鬼ドラルクの稚い花嫁。麗しき雛の君は、今宵もまた氷笑卿の庇護を受けていた。