まだ白紙 あの日、男は全てを奪われた。
顔も、仕事も、名誉も、地位も、権利も、人間関係も、人間としての生活も、人生の全てを一瞬で失ってしまった。
ジョナサン・オーンと名乗る男は、事故により世界から消失した。彼の証はすべて穴に蝕まれ、未だ地上に帰ってこない。
そうして生まれた穴だらけの怪物"スポット"と、穴に消えた男を同一だと結びつける証拠は、何一つ存在しなかった。
スポットには何も残らなかったし、穴以外何も持っていなかった。何も無かった。穴を埋める"何か"も、無かった。
ブラック・ホールは誰にも何処にも繋がらない。穴ぼこに埋まるパズルピースなど在りはしない。
ただひとりをのぞいて。
――あの日から、僕には君しかいなかった。
スパイダーマン。"スパイダーマンの宿敵"。
それしか残されていなかった。それだけは、穴を埋めてくれるはずだと確信した。生き延びるための糧にした。惰性で続くだけの真っ暗闇で、怪物はただただ夢想した。
だけど。
でも。
――でも、僕は、君にすべきじゃなかった。
◆◆◆
いきさつは省略。
かくしてスポットとスパイダーマンは、不注意で異次元に通ずる穴へ仲良く転がり落ちたのであった。
「いや此処どこスポット⁉」
「ヤバいこれ全然知らない次元――……!」
放り出された穴の先は上空、穴は一瞬で勝手に閉門、そして縺れ合う二人は絶叫及びそのまま落下。屋根にバウンドし外階段の手すりにヒットし、揃ってまともに着地の体勢をとれず、地面にしたたか体を打ちつけた。
両者は発生した痛みに悶えようとして、自由に体を動かせない状態だと気付く。スポットの黒色の斑点にスパイダーマンたるマイルスの頭やら細い両手足やらがあちこち突き出ているのだ。おまけに衝撃と混乱のせいかスポットの手足も穴により一部セルフバラバラ死体の如き有様であった。
「なんだよこれ! 出してよ!」
「そっちが突っ込んできたんだろ! ねえ僕の右手いまどこ⁉」
滅茶苦茶に絡まった奇々怪々なおよそ一体の塊はわあわあぎゃあぎゃあと揉めに揉めながら格闘する。やがてどうにか人間パズルを解体、無事に一人と一人の体を取り戻した。
マイルスはようやっと息を整え、周囲を見渡した。背の高い建造物に囲まれた、真昼の陽光も満足に届かない薄暗い路地だ。此処が人通りの少ない場所だと見做し、これなら誰にも見られていないはずと安堵する。……少年は残念ながら、先ほど突如落下してきた世にも恐ろしいぐちゃぐちゃの怪物をばっちり目撃した散歩中の住民が悲鳴を押し殺して一目散に逃げていった事実には思い当たらなかった。
「ああもう最悪だよスパイダーマン。君がいきなり後ろから体当たりしてきたせいで、どっかの世界に落っこちちゃったなんて。こんなの予定外だよ……」
「ご、ごめん。でもさ、たまたま君の穴へ様子を見に行ったらさ、君が次元の穴を覗こうとしてるように見えたから、何かやらかす前に止めなきゃって慌てて、躓いて、そのー、勢い余って」
「熱烈なハグを?」
「そう、勢い余ってハグを。ちがうそうじゃない。ねえスポット、マルチバースを無断で行き来するのは禁止って約束してたじゃないか。どうして……」
「失礼だな。その理不尽な言い付けは確かに守っていたよ。ぶっちゃけめんどうだけど守ってた」
「え……それ本当?」
「この期に及んで嘘ついてどうするんだよ。君がハグを仕掛ける直前、スパイダー・センスは反応してた? してなかっただろう?」
「う……」
マイルスは口中でもごもごと言い淀む。そこは思い返せば確かにスポットの言う通りであり、実際に早とちりであったと認めざるをえなかった。せめて冷静にウェブ・シューターを用いて何かしようとしていた宿敵の動きを封じればよかったのだ、とも。だが次に当然の疑問が浮かぶ。
「じゃあ、スポットは穴で何をやろうとしてたの?」
「仕様がないな、説明してあげよう。――此の度、"スパイダーマンの宿敵"としての振る舞いに疑念を抱いた僕は、僕以外の"ヒーローの宿敵"を参考にしようと閃いたんだ」
「なんて?」
「つまり僕は"君の宿敵"業 ぎょうのために、何処かの宇宙の知らないヒーローの知らない宿敵を観察したかったんだよ。別の宇宙にちょっかいかけようなんてこれっぽちも企んでない。目的はシンプルに覗き見! ただそれだけだった」
回答の真意をすぐには理解できなかったマイルスを置いて、スポットは大げさな身振り手振りで声高にすらすらと主張する。
「だいいち、君は君の宿敵をもう少し信頼してくれてもいいんじゃないかい? 君のいない世界で騒ぎを起こしたって、僕には何の意味も無い。"スパイダーマン"の君が追っかけてくれないんだからさ! ――なにそのあからさまにげんなりした態度は」
「うん、その通りげんなりしてるからね」
何処までも自己中心的な語りの要点をなんとか噛み砕いたマイルスは、細い腰に手を当てたポーズで本心から呆れてみせた。
「君はさ、君がたくさんのスパイダーマンに能力の濫用を警戒されてる身だってこと、真面目に考え直した方がいいよ」
「はあ? 濫用だって?」
「今日は反省するいい機会じゃないか。そのはた迷惑な思考回路も、またしても僕を面倒な展開に巻き込んだ行いも――」
「待て待て、君だけはそれ言える立場じゃないだろ」
聞き捨てならないスポットは一瞬でマイルスに詰め寄った。驚いてやや仰け反った少年をびしりと指差して、
「僕が何度も君に宛てたクレーム、忘れたとは言わせないよ。『スクールとヒーロー業を行き来する私用に宿敵の穴を使わせるのは止めてくれ』って!」
「そ、そんなに言われるほど頼ってない! たぶん! っていうか、今それどうでもいいよ!」
「いーや、どうでもよくない」
「どうでもいいって!」
「よくないってば! そうやって避けたい追及がきたらすぐ話し合いから逃げたがる癖、君のよくないところだぞ!」
「――そもそも今回は元はと言えば君が信用性ゼロなせいだ!」
「信用性ゼロってなんだよ! あと人を指差すな!」
「そっちが先に指差してきたじゃん! ゼロはゼロだ、君が信用ならない人間だってこと!」
「僕が信用ならない、だって? こんなに君の宿敵として日々努力してるのに⁇」
「それだよそれ! 君の日頃のそういう行いが大概ろくでもないから、だから僕は焦って君を止めようとした! 君が品行方正なヴィランだったら僕も覗き見をスルーしてたよ!」
「品行方正なヴィランはもうヴィランじゃないだろ⁈ あーあ、あれもこれも他人(ひと)のせいにするヒーローってどうかと思うね!」
「それ君にだけは言われたくないんだけど⁉ あれもこれも全部僕のせいにしてたくせに――」
「――ちょっといいかい、そこの二人?」
「もうっなに⁉」「なんだよもう‼」
指差し合い罵り合い売り言葉に買い言葉で噛みつき合い、ぎゃんぎゃんと甲高い声で言い争っていた二人は、無粋な第三者の呼びかけに同時に振り返った。そして同時に硬直してしまう。第三者の声の主含む警官複数人がいつの間にか近くに居て、二人に疑いの目を向けていたのだ。
「ここらで二人組の物騒な口論と、それから『白黒のぐちゃぐちゃした不気味な化け物が蠢いてる』って通報があってね。で、君たち、ここで何してたの」
「えー……と、あの~、僕たちは怪しいやつじゃなくて、その~……」
「あれだよあれ! 新天地に興奮しすぎて騒いじゃったんですよぉ、こっちの細っこいのが!」
「そうそうそれ! 田舎からはるばるやって来たばっかりで~! そっちの白くて黒いのが!」
動揺のあまりヘンテコなイントネーションで白々しく弁明する二人組に、警官連中はますます警戒を強めていく。
「その全身タイツは何かのコスプレ? ちょっと顔見せてもらえる? 名前と職業は?」
マスクの下の頬を引き攣らせて、乾いた笑いしか返せない全身スーツのマイルス。
誤魔化せないと察し、無言で背後に手を滑らせて穴を開けた全裸のスポット。
いきさつは明瞭。
かくしてスポットとマイルスは、警官共を撒くべく息ぴったりに穴の向こうへと身を突っ込んだのであった。
「すみませんごめんなさいさようなら!」「ばいばいお巡りさん、また来週~!」
◇◇◇
かつてマルチバースを未曽有の危機に陥れたスポットは、スパイダーマンとの死闘の果てに生還するも、大幅に弱体化してしまった。異次元に通ずる体は全盛期の禍々しい様相から比較的大人しい黒色の斑点に収まり、穴の能力は自在に扱える範囲がぐっと狭まった。
したがって、ブラックホールだらけの体がエネルギー不足……いわゆる穴不足に悩まされる日だってある。そのうえ、異なる世界を行き来する為には時と場合によって規格外に大量のエネルギーを消費する難儀な性質と成り果ててしまった。
ようするに。
「スポットは今まさに絶賛エネルギー不足で……、僕たち、穴を使って元の世界に帰るのは難しいってこと?」
「大体そういうこと。別次元に繋がる穴は、今日落っこちてきたヤツがここ最近で一度きりのせいいっぱいだったってわけ。そこらの空間や壁に穴開けるくらいなら、微々たるエネルギーで済むんだけどね」
「君のケツを蹴り入れてもダメ?」
「まぁおそらく僕が僕の穴から戻ってこれなくなるね。君の宿敵がケツどころかまるまる体ごとおじゃんだ」
「そこまで不便になってたんだ。まあまあやり合ってるのに気づかなかった」
「もっと宿敵に興味を持ってくれたまえ。……ああでも待てよ。君がご存知なかったのは僕がマルチバース旅行禁止命令を守っていた証拠でもあるのか。よし、褒めてくれていいぞスパイダーマン。健気で律儀な僕を褒めろ!」
「わかった、わかったってば。今回は僕の早とちりが悪かった……、いやでも褒めるようなことかなそれ。冷静に考えてみると覗き見も正直どうなの?」
「ええ~。君らだってあちこちの宇宙を覗いてるじゃないか。僕にだけとやかく言うのってずるくない?」
「ずるくない。いくらなんでもミゲルたちのパトロールを君の覗き見と一緒にしちゃダメだよ。目的が違いすぎる」
「そうかなあ」
「そうだよ。まったくもう……」
警官共に囲まれ、不要な騒ぎを恐れて逃走したヒーローとヴィラン。その後、二人はスイングと穴で不規則な移動を散々繰り返し、途中マイルスがつい通りすがりの困っている人を助けたりなんだりの寄り道の果てに、ようやく落ち着いて腰を下ろせる場所に辿り着いた。
街全体を一望できるほど高い高いタワーの天辺。一般人は本来侵入できず、地上と距離がかけ離れている故に何者かに人影をハッキリ目撃される心配も要らないはず――そのように二人は判断し、ひとまずの休憩所として許可無く遠慮無く利用中であった。
まあまあ窮屈な足場を横並びに座り込んだ二人の視界は、下方にビル群でごちゃごちゃと埋め尽くされた知らない街、前方にすっかりオレンジに染まった夕空。とくに感慨なく広がる風景は、この世界に異分子二人が落下してしまってから数時間は経過した事実を無情に突きつけていた。
「あとさー、天気や体調で制御が不安定になる日もあってさあ~。ほんっと我が身ながらよくわかんない穴だよ、未だに。は~あ……」
「相変わらず法則が意味不明なダークマターだね。まるで穴自体が生きてるみたい」
「おいおい、そういう笑えない冗談は――いや想像するとマジで怖いな。取り下げてくれスパイダーマン」
警官を撒いては逃げ、一般人を撒いては逃げを重ねた疲労でスポットは座って以降まともに動けずにいた。白黒の奇妙な図体はどうしても目立ってしまい、逃走劇に大変不向きである。悲しいかな、マイルスの透明化能力は隠密二人分には全く役に立たなかった。
「ともかく、今の僕はATMマシーン誘拐レベルの悪事しかできないと考えてね。よろしく」
「ふぇえひぃいえふぅえ」
「何言ってるのか全然わかんないよ口の中全部飲み込んでから喋ってくれる?」
「……んぐ、……ふう。"ATM"ね。マシーンはいらない……あと君、強盗失敗したじゃん、結局」
疲労困憊を隠せないスポットに対して、マイルスはまだ体力に十分な余裕があった。マスクを脱いで露わになった口で、会話の合間合間にホットドックをもぐもぐと頬張り、炭酸飲料をごくごくと飲み干すくらいには。まさに健康的で元気あり余る少年のヒーローを、そこそこの歳を重ねたヴィランは穴を活用して頬杖をつく白い腕に黒い濁りをじわじわと蠢かせて厭わしげに見遣る。シリアスな気分にそぐわないジャンクフードの濃い香りを漂わせる空気に辟易するあまり、アンバランスなまでに大きく歪な白黒の両手で白黒の頭部を抱えて背を丸め、「はあぁ」と盛大な溜息を吐いた。
「なんかテンション低くない? 逆に怖いよ。いつもはもっと喧しいのに」
「……呑気だね、スパイダーマン。僕たち、なかなかヤバいピンチの真っ只中なんだけど」
「えっ? そうなの?」
間食を平らげて小腹を満たしたマイルスは、じきに夜を迎える街を見下ろした。高所特有の特徴的な風を感じながら現状を俯瞰すると共に、これからについて思考を巡らせてみる。そして――「そんなに深刻にならなくてもいいんじゃない?」と、考えてみた結果を告げた。普段と変わらない張りのある声は、隣の暗澹たる様相を微塵も気にしていない。細い四肢で気負いなく軽快に立ち上がり、スポットに向き直って、
「このまま待っていれば、ミゲルたちが僕らを見つけてくれるよ。今日も明日も明後日も、スパイダー・ソサエティのみんなは真面目に目を光らせてるし。そしたら、スパイダーマンの誰かはこっちに駆けつけてくれる。ね? 万事解決だ」
「此処に落ちたのはあのクソ真面目マントの指示じゃなくて偶然だ。仮に君のホームで君の不在を素早く察知できたとして、こっちの僕らの反応も何時でも・必ず・速攻で捕捉できるはずだ~なんて、根拠なく楽観はできないなあ、僕は」
「それなら、この世界のスパイダーマンと合流すればスムーズに連絡が……、あれ? そういえばこの街、スパイダーマンいるのかな……」
「さあ? 知らないね。僕は穴に顔を出す前にスパイダー・タックルされて、この世界に転がり落ちちゃったわけだから。何一つ内情を確認できてないんだよね。そうなると君らのスパイダーバースとやらに引っ掛かるかどうかも怪しいんじゃない? ま、これ蜘蛛型なんちゃら専門外の一ヴィランによる雑感だけど」
「……やっぱりこれってヤバいピンチ?」
言い詰められたマイルスは一転、自信無さげな声音で眉間にしわを寄せ、小首をかしげた。しかし少年の仕草にスポットは大して心揺れやしない。これまでの短くも深い複雑な付き合いの経験上、少年にはまだ余裕があるとアッサリ見抜いたからだ。
「どうにかしようよ。このままじゃ、この知らない世界で異分子の僕と君がいつまでも二人きり、だ」
「あはは、それ最高」
「だろ? 最悪だ。何がなんでも帰らなくちゃ」
少年は朗らかに笑い、いまだ座り込んだままのスポットの肩をぽんぽんと叩いて励ました。そして言外にいい加減立ち上がるようにと片手を差し伸べる。
スポットはマイルスのやや気取った表情と生気漲 みなぎる手のひらを嫌々と見上げた。しばらく互いに無言。思案の最中、向き合う頭部の黒い穴がじわじわと小刻みに波打つ。と、次の瞬間、二人の間の何も無い空間に穴が生み出され、スポットは直接ではなく穴を介して救いの手を腕ごと粗暴に掴み、下へ、足元に向けて乱暴にぐいと引っ張った。不意うちの意地悪で体重のバランスを崩して下方によろけたマイルスを後目(しりめ)に、現行犯はのっぺりした白黒の大きな手をふいと放し、しれっと一人で立ち上がっていた。この大人げない大人にマイルスもいい加減慣れたもので、やれやれ困ったヤツだと両腕を上げて肩をすくめる父親譲りのジェスチャーでそれなりの不服をアピールした。