「ただいま」〝朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は、灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。〟
刑務所で読んだ本の一節が不意に頭をよぎる。あれはたしか、太宰の女生徒だったか。何にせよ、存外的を射た表現かもしれない、などと、鈍りきった頭の片隅でどうでもいいことを思った。
鉛を敷き詰めたかのように低く重苦しい空から、糸雨(しう)のようにか細い朝陽がぽつぽつと降り注いでいる。いつの間にかまた夜が明けたらしい。どこか遠くで駅のホームベルが鳴り、始発電車が走り出す音がする。今日も今日とて、代わり映えのない、ひどくありきたりな一日が始まろうとしていた。
千冬が死んでから、これでもう三度目の朝だ。
この部屋に帰ってきた時のことはあまり覚えていない。ただ、気がついた時には千冬が最後に腰かけていた窓際に座って、大きすぎるガラスに頭をもたれたまま、ボロボロとみっともなく涙を流していた。
千冬がいなくなってしまったというのに、世界はそんなこと気にも留めず、残酷に、至極普段どおりに廻りつづけていた。それが悔しくて、千冬が好んで吸っていた煙草を灰皿の上でいたずらに煙らせたり、海に行く途中で流れた二年前のヒットソングを虚ろに口ずさんだりしたけれど、そうやって千冬がここにいた証を振りかざしてみたところで世界が振り向いてくれるはずもなく、むしろ俺が独りぼっちになってしまったのだという事実ばかりが余計に浮き彫りになって、どんどん置いてきぼりにされていくような気がした。
*
ぬかるんだ床の感触を、部屋に充満した硝煙と血のにおいを――真っ暗な足もとに転がった、空っぽの千冬を。今でも、嫌になるほど鮮明に思い出せる。
『28階』
夜、位置情報と同時に送られた簡素すぎるメッセージを一目見て、俺は、朝から感じつづけていた嫌な予感がいよいよ当たってしまうのだろうと直感した。送られたリンクをタップして開いてみると、すぐに表示された地図にストンとピンが落ちた。示されたのは、新宿のとあるビルだった。
『事前に調べていた建物の一つです。店の名前でソートすればすぐに出てきます』
『侵入経路と、非常用電源が稼働するまでのほんの一瞬ですが、電力供給を遮断するハッキング方法もまとめてあったはずです』
矢継ぎ早に送られてくる指示に従って、東卍が管轄している不動産リストをノートPCで開いた。早速、地図に表示された店の名前でソートをかけてみると、千冬の言うとおり、侵入経路を細かく示したビルのマップと、外部に依頼して秘密裏に開発していたハッキングアプリが載っていた。なぜ唐突にこんな指示を送ってきたのかは判然としないが、とにもかくにも緊急事態なのだろうという事だけは、用件だけを淡々と連ねた千冬のメッセージから察することができる。急いでジップファイルを解凍し、ハッキングアプリのインストールを開始する。その間にマップをスマホに転送して、なるべく現地で見返さなくても済むように侵入ルートを頭に叩き込んだ。
『俺とタケミっちだけ稀咲に呼び出されました』
バナーに表示されたメッセージを見て、心臓が止まりそうになった。慌ててトーク画面に飛び、「大丈夫なのか」と文字を打つ。送信ボタンを押したのとほぼ同時に、会話が更新された。
『タケミっちを救助してください』
『俺のことは諦めてください』
頭が、真っ白になる。
――今、なんて?
スマホを片手に持ったまま思考が停止する。見間違いであれと願いながら、送られた短いメッセージを何度も読み返す。が、いくら目で追い直しても、その内容が覆ることはなかった。愕然とする。何か返そうと震える指を画面に当ててみるも、言葉が何も出てこない。
『一虎くんが調べていた元黒龍組のフロント企業にガサが入ったらしいです。気をつけて』
『おそらく警察の暴走です。俺も詳しくは知らないので、詳細は橘刑事に聞いてください』
『最新の調査データは家を出る前にまとめておきました』
『隠し場所については以前に話した取り決め通りです』
『場所、覚えてますよね?』
まるで、今から何が起こるのかを最初から全部知っていたかのような冷静さだった。返事をしあぐねている間にも、ピコン、ピコン、と千冬から一方的なメッセージが次々に届いて止まない。大丈夫なのかと訊いた俺の問いかけが、返答を得られないままどんどん画面の上へと流れていく。それが、その質問への何よりの答えのように思えた。
『残したデータを使うかどうかは一虎くんに任せます』
『死んだ後もあなたの生き方を縛るような存在にはなりたくない』
「……おい、」
文字を打てない代わりに思わず声が出た。喉がカラカラに乾いている。指先は震えていて、かじかんだ時のように感覚がない。
『俺が死んだら、どうか自由に生きてくださいね』
『それが東卍を追い続けることでも、そうじゃなくても、それが一虎くんの選んだ生き方だったら、俺、あなたを恨んだりなんかしませんから』
「……っ、待てよ、なあ、」
ポンポンとリズムよく届いていたメッセージのペースが急速に落ちた。許される限りの時間で考えて、俺に最後の言葉を遺そうとしてくれているのだろうと、嫌でも分かった。
『この二年間、一虎くんが隣にいてくれて本当によかったです』
『あなたに会うまでずっと一人だった』
『だから一緒に戦ってくれる人がいることが、それが一虎くんだった事が、とても心強かったです』
「……やめろって、」
朝、海を発つ間際に、らしくもなく「ありがとうございました」と言っていたのを思い出す。その意図を今さら知って、涙が溢れて止まらなくなった。ゆらゆらと歪んだ視界に、『もう行かなきゃ』という文字がはっきりと浮かんだ。「ちふゆ、」と。震える唇が、呼び止めるように、無意識にアイツの名前を紡ぐ。
『さよなら、一虎くん』
「いやだ、……千冬、千冬っ!!!」
喉が焼き切れてしまいそうな声で叫んだ。届くはずがないと分かっているのに、叫ばずにはいられなかった。ハ、ハと息が上がった。インストールの進行状況は、まだ半分を少し過ぎたくらいだ。非正規且つ違法だから、かなりデータを食ってしまうのだと取引したハッカーが言っていた気がする。
インストール完了まで、ここでじっと耐えて待つことしかないのか。そんなの、まっぴらごめんだ。
アプリのダウンロードリンクをスマホに送る。ここで完了するのを待つよりも、移動中に取り込んだ方が効率的だ。外部の回線はなるべく使うなと釘を刺し続けてきた千冬との約束は破ることになるが、今は一刻を争う事態だ。そんな悠長なことを言っている場合ではない。
ソファに脱ぎ捨ててあったアウターを引っ掴む。ポケットには、千冬から預かった鍵が入ったままだ。
『お前も助ける』
『絶対に』
『だから待ってろ』
ようやく打てた文字を立て続けに三つ送信した。
だけど、既読がついたのは、最初の一つ目のメッセージだけだった。
千冬の車を拝借し、マップの指示どおり、監視カメラの死角で乗り捨てた。裏口にまわる。思いのほか見張りが多かったので、撒くよりも目につかない場所を進んだほうが早いと踏み、早々にエレベーターを諦めて非常用階段を駆け上がった。指定の階に着く。店の前にいる見張りはさすがに避けられないので、全員殴って気絶させた。警備の配置から推測するに、千冬たちはおそらく一番奥の客室にいる。扉の前に跪いて息を潜めた。部屋の中で千冬が何かを必死に叫んでいる。切羽詰まった声だった。分かってはいたけれど、状況は最悪としか思えない。
早く。早く助け出さなければ。きっと本当に取り返しのつかない事になってしまう。
汗ばんだ手でスマホを取り出した。ここに来る途中でなんとかダウンロードが完了したこのアプリは、ハック対象となる建物の情報を読み取らせることで機能するようになる。だから、このビルに入ったのと同時にロードを開始させたのだが、俺がずっと走って動きつづけていたせいか、ピントがずれて位置情報をうまく分析できなかったらしい。
55パーセント完了。64パーセント、76パーセント……。
プログレスバーが徐々に満たされていく。もどかしい。たったの一秒が、永遠のように長い。
83パーセント。90……93……99――。
残り、1パーセント。震える指をハッキング実行ボタンにかけた。
――その刹那。
パァン! と重たい銃声が響き渡った。
直後に、千冬の名前を呼ぶ悲痛な叫び声が聞こえた。瞬間、すべてを察してそこから動けなくなった。
目の前が真っ暗になった。耳鳴りがする。息が、出来ない。
〝助けられなかった。〟ただ、その事実だけがひたすらに頭を支配して、ぐちゃぐちゃに混ざり合った劇物みたいな感情に飲み込まれそうになる。
気がおかしくなりそうだった。コンマ一秒の差。あと少し、だったのに。声が聞こえるほど近くにいたのに。なのに、間に合わなかった。何も、出来なかった。
――『タケミっちを救助してください』
魂が抜けてしまった俺を奮い立たせるかのように、千冬が送ってきたメッセージが頭をよぎった。
これ以上考えるな。ここで千冬の最後の望みさえ叶えられなかったら、それこそ俺がここに来た意味が何もなくなってしまう。千冬の覚悟が、決意が、無駄になってしまう。
点滅している実行ボタンをタップすると、ガシャンと大きな音とともに照明がダウンした。足音を立てないようにして客室に足を踏み入れる。硝煙と血の臭いが鋭く鼻を刺した。誰の血かなんて、考えたくもなかった。部屋の中にいた男たちを一心不乱に蹴散らして、闇に慣れない目で、気配だけを頼りに進む。何やらイスに縛りつけられたまま藻掻いている影を見つけて、コイツが武道だと確信した。
「……担ぐぞ、声出すな」
冷たいフレームに手をかけて、イスごと持ち上げる。立ち去ろうとした足場に、重厚な絨毯の感触とは程遠いぬかるみがあった。ハッとして足もとを見下ろすと、夜目にも、赤黒い血の海が広がっているのが分かった。その上に横たわった死体を目にした瞬間、首を締めあげられたかのような息苦しさに襲われて声がつまった。
そこには、空っぽになり果てた千冬が転がっていた。
「……っ、」
潮風に遊ばれていた黒い癖っ毛。澄んだ空色の瞳。あどけなく笑っていた横顔。今朝見たばかりの千冬の顔が、冬霞のように瞼の裏に浮かぶ。
もう二度と、あの顔を見ることはできない。もう二度と、千冬に会うことはできない。
込み上げてくる嗚咽を喉で必死に押し殺した。強く嚙み締めた唇から鉄の味がする。視界が涙で覆われて前が見えなくなったが、暗くて端からよく見えていなかったので、どうだってよかった。
(……ごめん。ごめんな、千冬)
胸が張り裂けるような思いで目を逸らす。動きたくないと叫ぶ足を引きずるようにして、部屋を去った。
――「……ありがとうございました」
――『さよなら、一虎くん』
どうして。「ありがとう」も「さよなら」も、勝手に一人で納得して、一方的に押し付けてくるんだよ。
千冬が死ぬなんて縁起でもねえと思っていたけれど。それでも、こんな別れになるくらいだったら、きちんと最期を看取って、冷たくなった体に触れて。青白くなっていく肌を静かに眺めながら、「死に顔もきれいだな」なんて言いながらオマエの亡骸の隣でみっともなく泣けたほうが、よっぽど良かった。
*
あの後、結局俺は、千冬から最後に託された武道さえも救えなかった。体制を立て直そうと縋る思いで連絡を取った橘に、あっさり裏切られたからだ。
失意の底に沈むとは、今の俺みたいな状態のことを言うのだろうなと思う。
何もかもを壊し尽くして、それが本当は自分にとって欠けがえのないものだったと気づかされた十二年前のあの日とはまた違う。最初から大切だと分かっていたものを守ろうとして、千切れそうなくらい腕を伸ばして、なのに、指先が触れる寸前でそれが煙のようにふっと消えてしまうような。やり場のない絶望だった。どうすれば千冬を助けられたのか、どうすれば千冬の意志を守れたのか。空虚な頭でいくら考えてみたところで、答えはいつまでも見つけられないまま。時間だけが、いたずらに過ぎていく。
何が絶対に助けるだ。何が待ってろだ。何も。何一つ、守れなったくせに。
悔しくて、腹立たしくて、それからどうしようもなく悲しくて、この場に蹲ることしか出来なかった。胸の奥で、腹の底で、感情の渦が激しく巻き上がり続けている。もう二日間は泣きっぱなしだというのに、涙は枯れる気配がない。それどころか、自分だけが千冬と過ごした日々からどんどん遠ざかってしまっているのが分かって、時間が経つほどに、湧き上がってくる激情を塞き止められなくなっている気さえした。
「ミャア」
聞き慣れた鳴き声に沈みきっていた意識をそっと引き戻される。ガラスにもたれたままの頭をずるりと持ち上げて隣を見下ろすと、俺と同じように取り残されてしまった千冬の愛猫が、翠色のまんまるな目でじっとこちらを見つめていた。コイツはもう老猫だから、普段は一日のほとんどをリビングの隅っこで過ごしている。だからこうして部屋の中を歩きまわることはめったにない。わざわざ窓際にいる俺のところまで歩み寄ってくるのは相当に珍しく、きっと千冬が何日もこの部屋に帰ってこないことがよほど気がかりなのだろうなと察した。
「……ペケ、」
名前を呼んで、千冬がよくしていたみたいに手の甲で上品な毛並みを撫でてやった。千冬にされていた時はゴロゴロと喉を鳴らして嬉しそうにしていたくせに、俺がこうして真似してみてもむず痒そうに身をよじるばかりで全然気持ちよさそうにしてくれない。千冬いわく人懐こい性格をしているはずなのだが、一緒に住みはじめて二年が経った今でも、なぜか、ペケは俺にどことなく他人行儀なままだ。
顎の下を人差し指でくすぐってやる。にゃあん、ともうひと鳴きしたペケは、相変わらず俺を真っすぐに見据えたまま不思議そうに小首を傾げている。まるで「千冬はいつ帰ってくるの?」と訊いてきているようなその姿に、胸がちくりと痛んだ。
「……千冬はな、もう帰ってこねぇんだよ」
教えてやったところで、コイツに人の言葉なんて分かりやしないだろう。それでも、何も知らないまま健気に千冬の帰りを待ち続ける姿があまりにも可哀想で、口に出さずにはいられなかった。
「アイツ、今頃もう場地に会えてっかなぁ?」
唇を噛む。強がって吐いたはずの言葉に、心がますます強く締めつけられる。
「寂しいよな。……悲しいよな」
黒い毛玉を両手で抱き上げる。ニャッ、と驚いたような声をあげたペケが、手足をばたつかせながら宙を蹴っている。宥めるように、暴れつづける小さな体を腕の中におさめた。
「……会いてえなぁ」
同意を求めるような調子で呟いて、つやつやした黒い背中に顔を埋める。涙がペケの毛を濡らしていく。この、まるで体の一部を失ってしまったかのような喪失感を共有できる相手がいるとしたら、きっとペケだけだ。さすがに何かがおかしいと感づいたのか、ペケが腕の中でミュウ、と苦しそうに鳴いて、びしょびしょの俺の頬をペロペロと舐めた。
「なあ、会いてぇよ千冬……」
無意識にこぼれた願いは、誰かに聞き届けられるはずもなく、広い部屋に空しくこだまするだけだった。
部屋に静けさが戻ると、ざりざりと一生懸命に顔を舐めていたペケの動きが、不意にぴたりと止まった。ミィ、と高い声で鳴いたかと思えば、急に落ち着かない様子でもぞもぞと身じろぎしはじめ、するりと俺の腕から抜け出してしまった。再び空っぽになってしまった自分の手のひらを呆然と見つめる。その間にも、リビングのほうへ向かっていったペケは、どういうわけかしきりにミィミィと鳴いている。
「……ペケ?」
いったい何があったのだろうと、ペケが歩いて行った軌跡をゆるりと視線でたどる。すると、ちょうどソファが置いてあるあたりでゆらゆらとご機嫌に揺れる尻尾が目に映った。ペケはグルグルと喉を鳴らしながら、何もないはずの場所で八の字を描くようにちょこちょこと歩いて、何かに体を擦り付けるように緩慢に動いていた。まるで、そこに誰かがいるみたいに。
「――一虎くん、」
声がした。二度と聞けないと思っていた声。だけど、聞きたくてやまなかった声。最後に聞いてから、まだたったの二日しか経っていないはずなのに、ひどく懐かしく感じた。
息を呑む。ゆっくりと腰をあげて立ち上がった。一歩、また一歩。絶望とともにこの部屋に帰ってきてからずっと動けずにいた窓際を少しずつ離れ、嬉しそうな声を出すペケの隣に視線を落とした。じっと目を凝らす。無数に散らばる朝陽の粒が、がらんどうのはずのリビングで、何かを象ろうと集まっている。グレージュ色が、光に透けてうっすらと煌めいた。
どくん、と心臓が高鳴る。
「……ち、ふゆ?」
ゆっくり視線を上げてみると、そこにはたしかに千冬が立っていた。
最後に会った時と、何一つ変わらない格好をした千冬が。
「ただいま、一虎くん」
たったの四文字、この部屋で毎晩のように聞いた言葉を。へらりと曖昧に笑ってみせた千冬が、どこか泣きそうな声で口にした。
都合のいい夢でも見ているのだろうか。だけど心臓を鷲掴まれるようなこの胸の痛みは、夢にしてはあまりにも深く、鋭すぎる。
見開いた目から勝手にぼろぼろと涙が溢れ出した。嗚咽に邪魔されて声が出せなかった。今すぐにでも駆け寄って力いっぱい抱きしめたいのに、足が震えて、ただここに立ち尽くすことしか出来ない。ちふゆ、と拙く呼んだ名前は、果たしてちゃんと声になってくれただろうか。
「はは、ひでぇ顔」
「な……んで……、なんで、オマエが……」
悪戯な顔で軽口をたたくと、千冬はうわごとのような俺の問いを無視してゆっくりしゃがんだ。足元で嬉しそうに歩き回っているペケに視線を落として、「ただいま、ペケ」と優しく語りかけている。
「だって……オマエは、あのとき確かに……」
「……うん」
死んだはずだろと、その一言を言葉にすることが出来なかった。だって、今、俺の目の前にいるのは、紛れもなく本物の千冬だった。声も、仕草も、表情のひとつひとつも。俺が知っている千冬そのものだ。
屈んだ姿勢のまま、千冬がペケに向かってそっと手を伸ばす。けれど、チロリと舌を出して主人の指先を舐めようとしたペケは、何かに気がついたように首を傾げて、目の前に差し出された手にそろそろと顔を近づけた。小さな鼻がひくひくと小さく動く。千冬はそれを見てちょっぴり寂しそうに眉を下げると、何も言わずにペケの頭に手を翳した。
「死にましたよ。あの時、俺はたしかに稀咲に頭を撃ち抜かれて殺されました」
ペケの頭を撫でながら、千冬が淡々と答える。もしかして生きていたのか、と抱いたわずかな希望が、一瞬のうちに完全に消え去った。そうだよなと納得しつつも、謎は深まっていくばかりだ。夢じゃないっていうのなら、じゃあ、一体これは何なのだろう。
「……まさか、」
よく見てみると、触れられているはずのペケの黒い頭は、千冬の手をすっとすり抜けている。手のひらの輪郭が、心なしか光に透けてぼんやりしていた。
一つの仮説が頭をよぎる。空想的で現実離れした、それでも、今の状況から考えられる最適解だった。
「オマエ……ユーレイ、に、なっちまったの……?」
とつとつと尋ねると、千冬は黙ったままこっちを向いて、困ったように微笑んだ。静かな肯定だった。
「……なんでだよ、」
「さあ。……なんでなんでしょうね」
なんで、なんて白々しい。そんなの俺が一番よく分かっていた。絶対に助けるなんて言っておきながら、約束を果たせなかったから。千冬の大事なものを何一つ守ってやれなかったから。千冬の意志を継ぐ事が出来なかったから。千冬がこの世界に未練を残しているのだとしたら、それはきっと俺のせいだ。後ろめたい気持ちに押しつぶされそうになる。後悔しかない。謝りたいと心底思う。
だけど、それ以上に。
もう二度と会うこともできなかったはずの千冬がこの部屋に帰ってきてくれたことが、もう二度と話をすることも叶わなかったはずの千冬とこうして言葉を交わせていることが、ただ、どうしようもなく幸せだと。軽忽にもそう思ってしまっている俺は、やっぱり愚かなのだろうか。
ない雑ぜになった感情が、波のように押し寄せた。
「さあってオマエ……俺なんかに構ってる場合かよ! やっとあっちに行けるようになったんだろ!? ……はやく場地ンとこ、行ってやれって、」
「……そうしたいのは、山々だったんですけど」
名前も分からない感情が爆発して、衝動のままに叫んだ。千冬はそんな俺を一瞥すると、言葉を濁してから、何かを誤魔化すように苦笑いした。
「未練っつーか……心残り、なんスかね」
千冬が俺から目を逸らして、ひかえめに頭の後ろを掻きながら立ち上がる。普通なら聞こえるはずの、わしゃわしゃと髪を乱す音がしなかった。
「俺、一虎くんのことが心配でたまらなかったみたいで。こっちに追い返されちゃいました」
冗談みたいな調子で千冬が言う。眉を下げて笑うその顔にはひどく見覚えがあった。
いつもそうだ。千冬は、肝心な時に限って嘘をつくのが下手だった。
「だから、ここに居させてくれませんか。俺が、またあっちに戻れるようになるまでさ」
あちら側に行く方法が分からないのか、それとも思い当たる節があるのか。いずれにせよ、千冬が核心に触れることなく、何かを隠したまま話してきているのは明らかだった。
柔らかな朝の光が、千冬の半透明の体をすり抜けて屈折する。それが、千冬と俺がいるべき世界は違うのだと明確に示しているようで、浮足立っていた気持ちが、矯正されるように正しい方向へと引き戻されていくのを感じた。千冬を、きちんとあちら側に送り出さなくちゃいけない。この世界に心残りがあるのなら、俺が代わりに清算してやらなきゃいけない。
それが、死ぬ間際の千冬に何もしてやれなかった俺がしてやれる、せめてもの償いだ。
「……なあ、千冬」
重ねようと伸ばした手は、触れることなく透けた手のひらをすり抜けてしまった。それでも、ひやりと冷たい体温が指を伝ったような気がした。
「俺に、何ができる?」
どこか聞き覚えのあるフレーズに、千冬が一瞬動揺したように瞳を揺らす。けれどすぐに目を伏せると、フッと笑ってから、どこかふざけた調子で「そうですね、」と呟いた。
「……じゃあ、一緒にいてくれません? 俺が成仏できるまで」
静かに微笑みながらあの夜のワンシーンをなぞった千冬を見て、心の中で切に願う。
何を賭したっていい。どんな形だって構わない。
今度こそ、千冬を助けたい。