今夜きり 肌寒さに、ふと目が覚めた。
ぼんやりした視界いっぱいに艶のある黒が映る。静かな空間には、放置されたパソコンのシーク音だけがジリジリと遠慮がちに響いていた。フロアライトの心許ないオレンジに照らされた部屋は薄暗く、それは暗に、俺が今日も千冬の帰りを待っているうちに寝落ちてしまったことを物語っていた。
いったいどれくらい眠ってしまっていたのだろう。
お世辞にも寝心地がいいとは言えないソファからのっそり身を起こす。ひじ掛けに手をついて体重を支えると、ギシギシと革の生地が擦れる音がした。重厚で肌ざわりのいい絨毯も、裸足で踏めば当然冷たい。十一月も半ば。季節は秋なんてさっさと追い越して、もうすっかり冬の空気になってしまっていた。その証拠に、寝ている間、なんとか寒さに耐えようと無意識に丸めていた背中には、ジンジンと鈍い痛みが纏わりついたままだ。せめて上に何か羽織っておけばよかった、なんてどうしようもない後悔をしていると、追い討ちをかけるように冷たい夜風が吹いて、さあっと肌を撫でつけていった。
「……さみ、」
たまらず身震いする。こんなに寒いのに窓なんて開けたっけ。あいにく全く記憶にない。
ゆっくりと息を吸った。真夜中の都会の淀みと、初冬独特の澄んだ空気が、肺の中で一緒くたになって溶けていく。その中にふと、嗅ぎ慣れた匂いが微かに混じっていることに気がついた。乾いた葉とメンソールが、紙を巻き込みながら焼け焦げる、独特のほろ苦いにおい。千冬が好んで吸っているパーラメントの煙だ。
弾かれたように振り返ると、いつの間に帰ってきていたのか、グレージュのスーツを着たままの千冬がガラス張りの窓の側に座ってぼんやりと紫煙をくゆらせていた。伏せた睫毛の下で、濁った空色が人工的な夜景を見下ろしている。その所作があまりにも洗練されすぎていたので、薄着で寝ている俺を無視して窓を開けたことも、バルコニー以外で煙草を吸うなと言ってくるくせに自らそのルールを破っていることも、全部どうでもよくなってしまった。けれどいつも感じる美しさとは別に、何かどうしようもなく儚く、物悲しい雰囲気を感じてしまうのはどうしてだろうか。
胸騒ぎが、した。
「……ちふゆ?」
ソファから下りておそるおそる窓際へ進む。返事はなかった。寝起きの掠れた声で呼んだせいだろうか。だとしても、いつもの抜け目がない千冬なら、こんなわずかな声すらも必ず拾って反応していたはずだ。もっと近くまで歩み寄って、ふたたび「千冬、」と呼びかけてみる。すると、ぼうっとしていた千冬はようやくハッとして、我に返ったように俺を見上げた。
「……ああ、一虎くん」
本当に俺の気配に気がついていないようだった。ジャケットのポケットから取り出された携帯灰皿に、まだ長さのある煙草がぎゅうっと押し付けられる。その時、誤魔化すように顔を俯かせた千冬が鼻をスンと小さく啜ったのを、俺は聞き逃さなかった。たしかに、汚い仕事を引き受けてきた時の千冬はいつも気落ちして帰ってくる。でも、こんな風に泣いて帰ってきたことなんて、今までに一度もなかったはずだ。
「……おかえり」
どうすればいいのか分からなかった。逡巡したけれど、結局俺には、いつも通りに振る舞ってやる以外に何も思いつかない。
たったの四文字。街が寝静まった頃、この部屋で毎晩のように掛けてきた言葉。
それを聞くと、下を向いていた千冬はゆっくり顔を上げて、何も言わないままじっと俺の目を見つめた。何かを隠したがっているような、それでいて同じくらい何かを訴えたがっているような双眸は、涙の膜の下でゆらりと揺らめいて、それからその意図を読み解かれる前に、下りてきたまぶたに覆われて見えなくなってしまった。
「うん。……ただいま」
どこか嬉しそうに返してくる割に、その声は震えていて、聞いた事もないくらいに弱々しくて。
苦しくなった。ただ、もどかしかった。何があったのか、どんな言葉をかければいいのか。そんな簡単な事さえ最低限の言葉を交わさないと分かってやれない無力な自分が情けなくて、やるせなくて仕方ない。
「いつ帰ってきたんだよ」
少し迷ってから、片膝を立てて座る千冬の隣に、俺もそっと腰を下ろした。キンと冷えた大理石の床の冷気が、ぺたりとつけた足の裏を伝って一気に全身を駆けていく。千冬が、俺を見てすっと目を細めた。その後ろで、結露してガラスについていた雫が、音もなく滑り落ちていくのが見えた。
「ついさっきですよ。十分くらい前。……つーか一虎くん、アンタまたソファで寝落ちしたでしょ。俺のこと待たねえでいいからちゃんとベッドで寝ろって、いつも言ってるじゃないですか」
千冬が普段通りを装ってぎこちなく笑った。一瞬当たった肩が、まるで雨を受けたみたいに冷たい。
こんな時間になるまでここに帰ってくるのを躊躇していたのだろうと、なんとなく察しがついた。
「俺が待ちたくて待ってんだよ。嫌だった?」
ふっと視線を逸らして、なるべく素っ気なく尋ねる。ずるい訊き方をしていると思ったけれど、どんな返事をされるのかがなんとなく分かったような気がしたから、引き返して訂正する気にはならなかった。視界の端に、目を見開いて唇を噛む千冬がちらつく。吐き出した息が短く震えていた。
「……嫌じゃないですよ。嬉しいに決まってます」
小さくかぶりを振って予想通りの答えを寄越す千冬に、胸が締めつけられるように痛む。
一瞬触れただけの冷たい肩を引き寄せて、そのままこの腕できつく抱きしめてしまえたら。大丈夫だ、きっと近いうちにお前は報われるからと、そんな優しい気休めを無責任に言ってやれていたら良かった。
だけど、俺にそんな資格はない。あるわけがない。
だから、ひかえめに身を寄せて、冷え切った体にこうして俺のなけなしの体温を分けてやる。こんなんだけど、お前の隣には俺がいるから、って。このどうしようもない想いは、ちゃんとお前に伝わっているだろうか。吸い殻を持ったままの手に、そっと自分の手を重ねた。心のどこかで何もかもを諦めてしまったような目と、視線がぶつかる。
「……何があった?」
逃げられないように、その目をまっすぐに見据えた。きっとこんな風に訊いても、今日の千冬ははぐらかすだけで何も教えてくれやしないのだろう。だとしても訊かずにはいられなかった。このまま何もせず、今にも崩れ落ちてしまいそうなコイツを放っておくなんて、俺に出来るわけがない。
心当たりがいくつも脳裏をよぎった。また、人を陥れるような事をしてきたのかもしれない。それを、思わぬ形で改めて目の当たりにしてしまったとか。あるいはもっと残酷な――例えば、人を殺めるも同然の事に加担させられたのかもしれない。もしかして、とうとう千冬自ら手を下したのだろうか。その役割は普通三下の構成員が担うはずだが、稀咲が支配する今の東卍のことだ。いくら幹部補佐とはいえ、千冬にだって何をさせるか分かったものではない。可能性がないとは言い切れない話だ。
「……、」
黙りこくっていた千冬がわずかに唇を開いて、けれど声を発することなくすぐに引き結んでしまった。行き場を失った言葉が、深く吸い込まれた息とともに肺の底に沈んで、知られることなく消えていく。
「……別に何もないですよ。いつものやつです。こんなん、別に珍しくもないでしょ」
ぱっと目を逸らし、窓の向こうに広がる無機質な街を白々しく眺めながら、千冬はきわめて淡泊に答えてみせた。
――嘘だ。
本人はこの上なく完璧に演じているつもりなのだろう。だから、重ねた手が震えている事にも、ガラスに映った自分の顔が痛々しく歪んでいる事にも、きっと気づいていない。千冬は、基本的に自分の本音を気取らせないように振る舞うのが上手なやつだった。だけど、ごく稀に、その飄々とした態度がほころぶ瞬間があった。
肝心な時に限って、千冬は嘘をつくのが下手だった。
「俺にはそうは見えねえけど」
いつもの俺なら、気づかないふりをして目を瞑ってやっていたのかもしれない。でもどうしてか、今日だけはそんな気になれなかった。胸騒ぎが、どんどん酷くなっていっているように感じる。今回も見逃してもらえると思っていたらしい千冬が、核心をつかれて一瞬息をつまらせた。図星を突かれてぎくりと強張った表情が、鏡のような窓にしっかり映っている。
「……俺、アンタのそういう無駄に鋭いとこ、やっぱり苦手です」
「茶化して誤魔化そうとすんな」
ガラス越しに目が合った。いい加減に苛立って、いつになく強い口調でかぶせ気味に嚙みついた。この後に及んで濁そうとしてくる千冬にも、こいつが参っていることを知りながら何もできない自分にもひどく腹が立った。形容しがたい焦りが相まって息が上がりそうになる。深呼吸することでなんとか自分を落ち着かせてから、重ねていただけの手を強く握りしめた。
「……なあ、千冬。俺に何ができる?」
広い部屋に流れた重苦しい沈黙をやぶる。きちんと取り繕ったはずだったのに、俺の声は自分のものとは思えないほどに震えていて、怯えたような気配を孕んだままだった。
「何でもする。お前の為なら何だってするから……だから、俺にも何かさせてくれよ」
まるで懇願だ。千冬を助けたい一心で呼びかけたつもりが、これじゃあどっちが救いを求めている側なのか分からない。そっぽを向いていた千冬がこっちを振り返る。みっともない顔をした俺を見ると、千冬は口角をゆるりと上げてふっと息をこぼした。
「……そうですね。じゃあ、」
指を絡められて、そのままぎゅっと手を握り返された。俯きがちだった視線が、思案するように天井に向けられる。
「どっか、連れてってくれません?」
千冬はそう言って、どこか遠くを見つめるように目を細めた。千冬の代わりに自分の手を汚す覚悟さえしていた俺は、これっぽっちも予想していなかったその頼みに拍子抜けし、思わず固まってしまった。
ここまで憔悴しておきながら、決して手を貸してほしいわけではなく、日常から連れ出してほしいのだと、千冬は言う。それは、まるでこれ以上こっちに踏み込んでくるなと明確に拒絶されているようで傷ついたけれど、反面、俺が側にいることでコイツが少しは救われるのだと言われているようで。俺はそれが嬉しいと、素直に思った。
「……どっかって?」
訊くと、千冬はやわらかく微笑んでからそっと俺を見た。いつの間にポケットから出したのか、車とバイクの鍵をぶら下げたキーリングを目の前に翳される。飾りでついていた鈴が、俺の左耳のピアスとよく似た音色でリン、と小さく鳴った。
「どこでも。……なるべく遠くがいいッスね。ほんの少しの間だけ、全部忘れられるようなとこ」
「今から?」
「ダメですか?」
千冬の、悪戯に笑うこの顔が好きだった。こうされると俺が断れないのを分かった上でやってくるのだから質が悪い。いつしか完全にコイツに手懐けられてしまったなと、おかしくなる。
「……分かったよ。車出してくる」
差し出された鍵を受け取る。地下のガレージへ向かおうと腰を上げたら、不意に手首をつかまれた。振り返ると、千冬は黙って首を横に振ってから、たった一言、「バイク」とだけ呟いた。まるで子どもみたいな主張の仕方だったが、何を意図したいかを察するには、その単語一つで十分だった。
だが、繋いだままの千冬の手はまだ冷たい。それに、曇った窓ガラスを一瞥すれば外の寒さは容易に想像できるので、正直、バイクに乗るのは少し気後れする。
「いや……だって寒ィだろ、外」
「俺の為なら何でもしてくれんじゃねえの? だったら、寒いのくらい余裕で耐えられますよね」
即答できずに悩んでいると、さっき俺が口にした言葉をそっくりそのままなぞった千冬が、勝ち誇ったような顔でクスリと笑った。
「……バイクがいいんです。またケツ乗せてくれませんか? 誕生日ん時みたいにさ」
所詮、俺たちは利害が一致しただけの関係のはずだった。千冬は今でもそう思っているかもしれない。俺はコイツにとって都合のいい共犯者でも、使い捨ての駒でも何でも構わなかった。だけど、俺にとって千冬は。いつからなんて忘れてしまったけれど、唯一無二で、何よりも大切な存在だった。千冬が、凛然と気高い千冬であり続けられる為だったら、俺は何だってしてやりたかった。
かち合った双眸が、澄んだ朝空を映し出す海みたいに美しい。俺は、ゆらゆら揺蕩う青を見つめながら、連れて行くなら海にしようかと、そんな少しずれたことを一人で思ったりした。
*
マンションを後にして、真夜中の街に繰り出す。ひとたびバイクを吹かせば、この街のシンボルである東京タワーはみるみる小さくなっていき、首都高速を数十分も走った頃にはもうすっかり見えなくなってしまっていた。
一体どこでどうやって知ったのか、千冬が去年の誕生日にくれたのは、俺がガキの頃に乗っていたKH400(ケッチ)だった。今どき手に入れるどころか、見かけることもめったにないような旧車。そんなものをプレゼントされるだけでも十分驚いたのに、音楽を流せるようにわざわざスピーカーまでカスタムした状態で贈ってくるものだから、唖然として何も言えなくなってしまったのをよく覚えている。甲斐甲斐しい男だなと思った。そんな俺を見て、嫌味を言いながらも誇らしげににやついたあの日の千冬のことを、俺はきっとこのバイクに乗るたびに思い出してしまうのだろう。千冬を乗せて夜の東京を一晩中駆けた一年前のあの日はまだ夏の気配が色濃く残る秋のはじめで、こんなに寒くはなかったけれど、都会のくせに星がたくさん見えたり、車が少なくてやけに静まり返っていたりするところが、どことなく今日の空気に似ているような気がした。
時折、冷たい空気がヘルメットや服の隙間から入り込んで肌を鋭く刺してきたが、風を切って空いた道を颯爽と駆け抜けるのはやっぱり気分がよかった。加速に特化した車種なだけあって、その走りっぷりはたまに側を通過していく車にも引けを取らない。オイルが燃える微かなにおいと、ツーストローク特有の甲高いエンジン音。高揚する要素はすべて揃っていた。なのに心がどんより曇ったまま重たいのは、後ろに乗っている千冬が、あの日とは別人のように大人しいせいだ。
人差し指だけを伸ばして、メーターの前にカスタムされたオーディオの電源を入れる。唐突に再生された曲は、偶然にも二年前、刑務所まで迎えにきた千冬の車で流れていた曲だった。上の空で高架の向こうを眺めていた千冬が、ぴくりと反応して前を向く。サイドミラー越しに目が合った。
「懐かしい。……もう、二年も経ったんスね」
風に掻き消えてしまいそうな声で、千冬が呟く。ようやく笑みが浮かんだことに少しだけほっとして、「だな」と短く相槌を打つと、腰に巻きついていた腕にきゅっと力が込もった。隙間なくくっついた背中に体重が圧しかかり、風になびいた髪が首筋をくすぐる。
それきり、海に着くまで、千冬が何か話すことはなかった。
ハローどうも僕はここ、と。特徴的な曲の歌詞が、風の音に紛れて幾度もリフレインしていた。
*
東京の喧騒から離れることは、思っていたよりもずっと容易かった。
ナビゲーション通りに一時間半も走れば、吹きつけてくる風にはうっすらと潮の香りが混ざりはじめ、海沿いの道に入るとさらに匂いが濃くなった。目的地にたどり着いたものの、浜辺に下りるタイミングをいまいち掴めず、ひたすら道なりに進みつづける。夜の色に染まった真っ黒な海には、満月と、まばらに散らばった一等星の明かりだけが反射して、波に合わせてゆらゆらと揺蕩っていた。絶え間なく響くバイクのエンジン音に、寄せては返す波の音が重なる。
「……海、」
千冬の声がした。ぽつりと呟いた言葉が耳元に落っこちて、そのまま風に溶けていく。フ、と鼻で笑うような気配がした。ミラーを覗いてみると、案の定、ぼうっと海を眺める横顔が不敵に笑っている。
「前から思ってましたけど、一虎くんてさ、結構ロマンチストですよね」
からかうような声。それを言うなら千冬のほうがよっぽどだろうと思ったが、なんとなく、今日は噛みつくような気になれなかった。
「……るせえな。しょうがねえだろ、これくらいしか思いつかなかったんだから」
「いいじゃないですか。俺は好きですよ、――」
照れ隠しに悪態をつくと、千冬はフフ、と笑って、やけに素直な返事を寄越してくる。その後にも何か言ったようだったけれど、その声はちょうどやってきた対向車の音に掻き消されてしまったので、結局、言葉の続きを知ることは叶わなかった。きっと海を指しているのだろうと思いつつも、心のどこかで、俺のことだったらいいのにとこっそり期待してしまうのだから救いようがない。こんな時まで下心を殺しきれない自分の不誠実さに、ほとほと嫌気がさした。
「ね、一虎くん。あそこに停めてくださいよ。せっかくだから波打ち際まで行きましょう」
どこかはしゃいだような声で、千冬が一〇〇メートルほど前方を指さした。示されたほうを見遣れば、海岸へと続く石段がおあつらえ向きに伸びている。俺もさっきからタイミングをうかがっていたから都合がよかった。
階段の前にバイクを停める。エンジンを切ると、耳触りのよい純粋な波音だけがざわざわと鼓膜を揺らした。地図アプリをスワイプさせてホーム画面の時刻を確認してみると、意外にももう六時をまわった頃だった。あたりはまだ朝と呼ぶには暗く、気がつかないうちにこんなに日が短くなっていたのかと、季節の巡りの早さに少し驚く。でも、たしかに言われてみれば星の輝きはさっきと比べてだいぶ薄れていたし、分厚い雲も少しずつ紺から紫に染まりはじめている。夜明けの兆しは、音もなく、じわじわと着実に世界を包み出していた。それは美しくもあり、そして何か言葉にしがたい不気味さを孕んでいるようにも感じられた。
さっそく歩き出した千冬の後を追うように、俺もそそくさとバイクを下りた。コツ、コツ、と石の階段を踏みしめる高級な革靴の音は、残念だけどこの場にちっとも似合っていない。砂浜に足をつけた瞬間、不安定な地面に足をとられた千冬がぐらりとよろめいた。うおっ、と声を上げたので慌てて後ろから腕をつかんでやると、千冬はまったく懲りていない様子で「すいません」と言ってへらりと笑ってみせた。
いつもいつも、危なっかしくて見ていられない。
「すげえ、潮のにおいする」
砂浜の上をふかふかとおぼつかない足取りで進みながら、千冬が気持ちよさそうに深呼吸して、猫みたいにぐっと体を伸ばした。波とともにごうごうと吹き付ける風が、千冬の黒い癖っ毛を乱し、若干セットの崩れていた髪を余計にぐしゃぐしゃにしていく。黒い髪の毛を風にさらさらと弄ばれながら無邪気な声をあげる今の千冬は、常に隙がなくてきりりとしている普段の姿からは想像がつかないほど幼くて、まるではじめて海に来た少年のようだった。
「砂浜ってこんな黒かったでしたっけ」
「まだ暗いからじゃねえの」
「わ、見てくださいよ一虎くん! デッケー波!」
「聞いてねえじゃん」
たまに後ろを振り返っては、砂の上にどんどん増えていく靴底模様を見て、嬉しそうに笑う。
つま先の少し先でしゅわしゅわ弾けて戻っていくサイダーみたいな波を、名残惜しそうに目で追う。
そうやって隣で柄にもなくはしゃぐ千冬を見ていると自然に笑みがこぼれた。わざと呆れているような態度を取りながらも、本当はすごく嬉しかった。千冬がこうして飾らない姿を見せてくれると、なんだか自分がコイツにとってものすごく特別な存在になれている気がした。十分すぎるくらいに幸せだと思った。たとえ、それが錯覚だと分かっていたとしても。
「お、次に来る波デカそうですよ」
ぐるぐる思い悩んでいる俺をよそに、千冬は呑気にそう言ってさらに波打ち際に近寄った。夜目にも、そこの砂の色だけが濃くなっているのは明確だ。千冬もそれくらい気づいているはずなのにまるで躊躇がなかった。むしろスラックスの裾を少し持ち上げながら歩いているので、きっと端から濡れに行くつもりなのだろう。
「オイ、あんまそっち行ったら濡れんぞ」
耳を貸しやしないだろうと思いつつも、念のため忠告する。すると、すぐに「いいんですよ」と返事を寄越した千冬が、不意にくるりと俺のほうをを振り返って、にやっと悪い顔をした。
「つーか一虎くん、ノリ悪くないスか?」
「は……いや、ちょ、まっ!」
有無を言わせずガシッと腕をつかまれて、そのまま強い力で引かれる。突然のことに動揺して躱すことも叶わず、泥のようにぬかるんだ砂の上でバランスを崩し、前へ倒れこむようにしてよろけた。波打ち際に取り残された白い泡が、俺と千冬に踏まれて、ぐにゃりとマーブル模様を作る。直後、波がばしゃっと容赦なく打ち寄せて、冷たい水が飛沫をあげた。
「うっっわ!」
千冬の予想通りちゃんと大きかったそれは、俺の太ももまでしっかり濡らしてから、知らん顔で海に還って行ってしまった。ぐしょぐしょのズボンが肌に張りつく不快感から、あからさまに鬱陶しそうな声を出してしまったが、千冬は俺のことも、自分のスーツが濡れてしまったことも特に気にかけることなく、ただ手で腹を抑えてけらけらと愉快に笑い転げている。
「あはは、つめてぇーッ! 一虎くん俺より濡れてんじゃん!」
「テメーのせいだろうが! ふざけんなよ千冬!」
「ははっ!」
文句を言いながら服や指についた雫を振り払っていたが、破顔している千冬を見ているうちに俺もつられて笑ってしまった。こんな顔を見たら、何をされたって許せるような気がしてくるのだから不思議だ。
千冬の目が本当はこんなにきらきら澄み渡っていることも、目尻をくしゃっと下げて笑う顔がこんなにあどけないことも知らなかった。たまらなく愛おしい、と思う。知れば知るほど千冬に惹かれていって、そのたびに、自分が千冬の為に何もできないことを思い知る。心がぐちゃぐちゃに搔き乱されるのを止められなかった。それが、いつだってしんどかった。
ふと、光が見えた。眩しさに思わず目を薄めると、隣で、あ、と千冬の声がした。
「日、昇ってきましたよ」
海の色で満たされた瞳が、遠くの一点を見据えていた。言われて同じ方向を見てみると、真っ白な朝陽が少しずつ顔をのぞかせはじめて、それまで境界が曖昧だった水平線に、くっきりした線が浮かび上がっていた。めかし込んでいた夜空が、暗いヴェールを脱ぎ捨てて、気取らない朝の空に変わっていく。黒々としていた海は徐々に明るんでいき、生まれたての太陽の光が水面にきらきらと乱反射していた。空の色に合わせて、薄紫、オレンジ、水色、と次々にグラデーションしていく海はなんとも幻想的で、夜の世界でばかり生きている俺たち二人にはあまりにも眩しく、到底釣り合っていないように思えた。
それでも気がついた時には、「きれいだな」と、もう何年も使っていないような気がする台詞が口をついていた。「はい、」と間を置くことなく反応した千冬も、きっと同じようにほとんど無意識だったのだろう。
沈黙が流れた。波の合間に、お互いの呼吸の音が聴こえた。風が吹く。潮水に濡れたままの手が不意に触れて、どちらともなく小指同士を絡めた。身体の内側で、拍動がどんどん速くなっていった。その理由に気がつかないふりをしたくて、そっと目を閉じる。俺の心臓をこんな風に突き動かしている感情は、たぶん一つだけじゃない。幾重にも交差して、重なり合っている。とてもじゃないけど読み解ききれない。だから、心臓を握りつぶされるかのようなこの気持ちは、きっと、俺にはどうすることもできない。
「……なんか、駆け落ちみてえだなぁ」
ぽつ、と独り言のように落ちた声は、さっきとは打って変わったように小さくて、わずかに震えていた。ハッと隣を見る。ゆるく弧を描いた唇と、困ったように下がりきった眉。細められた目の中で煌めいているのは、きっと瞳に映った海ではなくて涙の膜だ。なんとも言えない表情をした千冬は、昇る朝日をじっと見つめたまま、決してそこから目を逸らさなかった。決して泣いてしまわないように耐えているのだと、嫌でも分かった。
――このまま、逃げちまおうか。
喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込んだ。そんなこと。俺から言うなんてできない。だって、俺は千冬に拾われた身で、コイツの手足でいるべきだから。
けど、たった一言。逃げ出してしまいたいと、千冬から言ってくれたとしたら。そしたら、俺は――。
「……千冬、」
「なんて。冗談ですよ、冗談」
何でもないようにけろっと笑って、千冬は繋いでいた手をぱっと離した。足元に広がる水溜まりを軽く蹴ってから、海に背を向けて進んでいく。波打ち際にぽつんと取り残された俺を振り返って、千冬が、薄オレンジ色に染まった顔でふにゃっと情けなく笑った。
「さ、そろそろ帰りましょっか」
「……もういいのか?」
「はい。仕事行くまでにまとめとかなきゃいけないモンがあるんで」
「そっか」
最後に打ち寄せた大きな波をもう一度足に受けてから、俺も千冬の後を追う。上着のポケットに手を突っ込んでバイクの鍵を探りながら、朝になって明るくなってもなお黒いままの砂浜を進んだ。下りてきた階段を、もう一度のぼる。
「……一虎くん、」
「ん?」
停めてからあまり時間の経っていないケッチに跨って、キーシリンダーに鍵を差す。クラッチを握って、そのまま回そうと指に力を込めた瞬間、とん、と背中に体温がもたれかかってきた。
「……ありがとうございました」
キキッと高い音が鳴る。機体が震えて、低いエンジン音が途切れることなく響きはじめた。
だけど、はっきり聞こえた。まるで、世界から、千冬の声以外の音がすべて消えたかのように。
「……なに、が」
「いえ。……何となくですよ。俺の我儘に付き合ってくれたから」
「……ンなこと、思うわけねえだろ」
不自然な礼の言い方だと思った。そもそも、後腐れのないように、なるべく互いに礼を言わないようにしましょうと普段から言っていたのは千冬のほうだ。
忘れかけていた胸騒ぎが蘇る。千冬は、今どんな顔をしているだろうか。サイドミラーを見ればすぐに分かる。なのに、なんだか急におそろしくなって、ミラーをのぞくことが出来なかった。
ブォン、とエンジンを空吹かせる。逃げるように、視線を前に向けた。
「……こんくらい、お前が来たい時にいくらでも連れてきてやる」
――あのとき。
オマエらしくもない「ありがとう」の真意に気がつけていたら。
海を発つ前、怖気づいたりせずに、サイドミラーに映ったオマエの顔をちゃんと見ていたら。
そうしたら、こんな未来にならずに済んでいたのだろうか。
何も聞かずに黙って寄り添うことを優しさと呼ぶのなら、優しくなんかなれなくてよかった。
また連れてきてやるなんて出来もしない約束をするくらいなら、駆け落ちみたいだなと笑ったオマエの手を奪って、そのまま誰にも見つからないようなところへ、連れ去ってしまえばよかった。
二〇一七年 十一月 十八日。出逢って二年目の冬。
この夜、松野千冬が死んだ。