やっとの思いでマンションに辿り着くと、俺は地下ガレージに車を乗り捨て、エレベーターへと跛行した。感覚のない指で行先階ボタンを押すと、そこにべっとりと血がついた。ガレージにもエントランスにも、ぼたぼたと垂れた血でシミが出来てしまったに違いない。が、あいにく、そんな事を気にかけられるような余裕なんて到底なかった。撃たれた二箇所以外、体の感覚なんてとっくになくなっている。視界が白んでぼんやりする。口の中に広がる血のにおいで噎せて、そこではじめて、自分がたまに呼吸することさえ忘れそうになっていることに気がついた。俺の意識を保ち続けているのは、ただ強い執念と、希望だけだ。
いつも通り、暗証番号を打ち込んでドアのロックを解除する。肘でドアノブを下げ、扉の隙間に無理やり肩をねじ込んで部屋に入った。途端、ついに力尽きて、ばたりと勢いよく玄関に倒れ込んだ。
「一虎くん……?」
千冬の声がした。物凄い音を聞きつけて奥から出てきたのだろう。ただ名前を呼ばれただけなのに、声を聞いただけでひどく安心して泣きそうになった。眩暈に耐えて顔を上げる。
「……千冬、」
大切でたまらない名前を紡いだ。ただいま、と頑張って笑ってみたけれど、久しぶりに声を発した反動でゲホ、ゲホ、と湿った咳が止まらなくなった。口いっぱいに鉄の味が広がる。きれいな大理石の玄関が、たちまち赤い血に染まった。千冬が息を呑むのが分かった。
「なっ……、撃たれたんですか!?」
明らかに動揺した千冬が、慌てて、倒れた俺の側に駆けつける。冷たい感触が肩に触れてすり抜けていった。千冬の呼気が触れる。冷静さを失った呼吸に、微かな嗚咽が混じっていた。ああ、情けねえな。俺は、千冬が死んだ後も、ずっと頼りないままだ。
「……証、拠……、ぶん捕ってきた……」
「ッ、喋んねえでください!!」
安心させてやりたくて、血まみれの手でUSB端末を突っ込んでいた尻ポケットを探った。そしたら、ものすごい剣幕で怒られた。怖ェなあ。千冬はいつも穏やかだったけれど、一度だけ、場地のことでくよくよしている俺に本気でキレた事があった。あの時も、今と同じくらい怖かった気がする。けど、知らねえだろ。あの時、俺はやっぱりオマエが好きだなと思ったんだ。なあ千冬。俺はオマエの、そうやって他人のために心の底から怒れる、真っ直ぐで、優しくて、カッケェところが、一等に好きだ。
「血、が……血が止まんねえ……病院……違う、止血……早く、……早くしねえと……!」
千冬が震えている。声も、唇も、手も、一目見て分かってしまうほどに。頭の中で整理しきらないうちから口に出しているせいか、拙く、要領を得ないような喋り方だ。らしくない。こんなに激しく取り乱した千冬、初めて見た。
さっきから、千冬の手が、撃たれたところに何度も触れてくる。だけど、いくら血を止めようと力いっぱい手のひらを押し付けてみても、いくら肉に埋まった銃弾を取り除こうと傷口を押し摘まんでみても、輪郭が曖昧な半透明の手は、やっぱり何もできないまま俺の体を掻い潜っていくだけだった。
「クソ……ッ、クソ!」
千冬が、音もなく地面を叩いた。爪が剥がれてしまいそうな強さで床を引っ搔いて、握った拳を悔しそうに震わせる。
「なんで……っ、なんでこんな時さえ、何もできねえんだよ……!」
焦燥したように唇を噛むのが見えた。目から溢れ出した涙がぼろぼろと体に降ってくる。冷たくも温かくもないそれは、肌に触れた瞬間、温度を持たない雪のようにすっと消えていってしまった。優しい。激しい雨に打たれてきた俺には、冷たいはずの千冬の温度も、実体を持たない形ばかりの涙も、信じられないほど心地よかった。
「……だ、いじょ、ぶ、だから」
床に押し付けられたまま震えていた拳に、そっと右手を重ねた。さっきポケットを探って見つけたデータ端末を見せて、口角を精一杯持ち上げる。
「これさえ、橘に……、サツに渡せれば……」
「ッ、ダメです! 動かないでください!」
這いつくばって、玄関とフロアの段差を掴んでから、ぐっと体に力を入れた。なんとか立ち上がってみたけれど、まともに歩くことさえ出来ない。千冬の顔を見たらなんだか安心して、緊張でピンと張り詰めていた糸が一気に緩んでしまった。
「ハハ、あー……疲れ、ちまった……なんか……スッゲェねみぃ、ような……」
眩暈がする。目の前が真っ暗だ。音が遠のいていく。あんなに痛かった傷も、今は感覚がない。体の記憶だけを頼りに、壁を伝って部屋の奥を目指す。今にも意識が飛びそうだった。
「病院……、病院行きましょ……このままじゃ死んじまう……っ、ねえ、しっかりしてくださいよ一虎くん、一虎くんってば!」
寝室に辿り着く。耳鳴りに混じって、ずっと、絶叫に近いような千冬の声がぼんやりと聞こえてくる。
「……ちふゆ、」
返事の代わりに、掠れた声でぽつりと千冬の名前を呼んだ。
「オマエ……これで、ちゃんと場地、ンとこ、行け……る……?」
無意識に、そんなことを訊いていた。答えを聞く前に、体がベッドに崩れ落ちる。どくどくと脈打つ血管に合わせて、傷口から血液が流れて、ベッドに染みていくのが分かった。
「一虎くん!! 一虎くん!!!」
薄れていく意識の端で、必死に泣き叫ぶ千冬の声が聞こえた。
大丈夫。疲れたから、ちょっと寝るだけ。そう伝えたつもりだけど、果たしてちゃんと言葉になってくれただろうか。