みずからの足元に跪いて、無防備にさらされたラインハルトのつまさきにくちづける男を見下ろして、ラインハルトはなんとも言いがたい表情を浮かべた。
すでに見慣れてしまった寝台に腰を掛けたまま、相手の長い黒髪が地面を這うのを眺める。
妙なことになったものだ。もとは体調不良で休んだ同僚のかわりに原稿を受け取りに来ただけだというのに、なぜだか私以外には原稿は渡さないと作家が言い出し、気が付いたら部署替えが行われて今に至っている。
原稿を渡す条件も回を重ねるごとにエスカレートしていた。
くるぶしやふとももに押し付けられる唇。唾液のあとを残しながら這い上がっていく舌。この家をたずねた際に着ていた服は、シャツを残してすでに脱がされていた。押されるがまま寝台に沈み込む。
仕事だからといって、ここまで許す必要があるかというとないのだが、さりとて抵抗する理由もない。こんなものを欲しがることは理解ができないが、まあ欲しいというのならくれてやればいい。
そんなことがあったのが昨夜のことだ。
朝焼けのまぶしさに目を細めつつ、まだ布団の中で丸まっている男が眠っているのを確認する。すやすやと実に満足げに眠っている男の頬を意趣返しに引っ張って、すぐさま無意味なことをしてしまったとひとり首をふる。
ラインハルトは床に散らされた自身の服を拾い集めて袖を通した。片手に原稿をもって、シャツのボタンを閉じつつ、廊下に通じる扉を押し開いて、そうして珍しく固まった。
こどもがいる。朝食の用意でもするつもりだったのか、廊下の先にあるダイニングで開きっぱなしの冷蔵庫の前に立っていた。驚いた様子でラインハルトのほうを振り返って、ぽかんと口をあけている。こどもは背後でまだ眠っている男によく似ていた。ラインハルトはちらりと背後に視線をやって、苦虫を数匹まとめてかみつぶした表情を浮かべた。こどもがいるなら早く言えと脳裡で舌を打つ。まあ、勝手に家族などいないと思い込んでいたのはこちらなので、あの男のせいばかりにするのも違うか。
前が開いたままのシャツのボタンを素早く留め、意図的になんでもないようにふるまった。
「挨拶が遅れてすまない。私は……お父上の仕事の知り合いで、原稿を受け取りに来たんだ」
アピールするように、手中の原稿が入った紙袋を揺らして見せる。ラインハルトが担当している作家は、なんのこだわりがあるのか、手書きを好んでいた。現物が手元にあるのは不幸中の幸いと言えるだろうか。だとしてもこんな早朝から? と思われてしまいそうだが。
こどもから返ってきたのは珍妙なものを見る視線だった。
「あー、うん……どうも……はじめまして……?」
のそのそと頷いたこどもの背後、冷蔵庫の中身をうっかりと視認してしまったラインハルトは、ますます渋い表情になった。
冷蔵庫の中にろくな食べ物はない様子だった。
きゅうと音が鳴る。そうっとこどもが気まずげに腹をおさえた。
複雑にからみあった感情をすべて飲み込んで、ラインハルトは原稿をひとまず原稿が入った袋を置いた。
さいわい財布の中身は充分あった。
ちかくのコンビニで買ってきたものをこどもに食べさせつつ、ラインハルトはなにをしているんだ私はとちいさくため息をつく。
ダイニングテーブルを挟んだむこうで、もっしゃもっしゃと食べ物を口のなかに押し込んでいるこどもが、それに気が付いてちらりとラインハルトを見上げた。足を組んで背もたれに寄り掛かったまま、ラインハルトはそれに気にするなと首をよこにふった。
いますぐまだ自室で寝こけている男をたたき起こしたい気持ちと、面倒なことになりそうなので藪蛇をつつかずにこのまま帰りたい気持ちがあった。