兄の表像 テニス部には入らなかった。
テニスはやったことがあったけれど、前の土地にいた頃兄をマネして遊び程度にかじったくらいで、とてもこの学校でやる気にはならなかった。全国大会常連校、おまけに現在二連覇中。レギュラーとなれば学校中に名が知れて、ちょっとした有名人だ。部員募集のポスターには初心者歓迎の文字があるが、あれは嘘だ。厳密に言えば歓迎していないわけではないのかもしれないが、初心者はあの部に残らせてもらえない。だって、こんなにでかい学校なのに、うちのテニス部は全学年合わせたって60人もいないのだ。
俺は結局陸上部を選んだのだが、それはほとんど未経験者ばっかりだという文句が決め手だった。元々運動神経は悪い方ではなかったから、走るだけならそこそここなせるだろうと思った。席が前後で仲良くなったクラスのナカムラも誘って入部して、ほどほどに部活を楽しめていた。対して兄は随分部活に熱心で、毎日くたくたになって帰ってくる。俺はそこまでの情熱は持てなさそうだった。
練習で使ったミニハードルやラダーを拾い集めながら、今日出た英語の課題のことを考える。今の単元をまるまる訳してこい、という退屈なわりに時間ばかりかかる内容で、片付けも着替えも適当に済ませてさっさと帰ってしまいたかった。
ふと見ると、フェンスの向こうのテニスコートにはまだまだ人が残っている。手前には数名の女子が固まって時折きゃあきゃあ声を上げており、ああレギュラーの誰かが試合をしているんだろうなあと察せられた。ナカムラが両手に三角コーンを持って駆け寄ってくる。
「なに見てんの?テニ部?」
「うん。なんか盛り上がっとるんよ」
「あれなー、紅白戦やってんだってさ。これ運んだら見に行こ」
「えー、ええけど」
ナカムラもうちの学校の生徒らしく、テニス部のことは随分気になるようだった。早く行こうと急かす声に従って道具を雑に放り投げて倉庫から戻り、テニスコートを覗くと、女子のきゃあきゃあが誰に向けた歓声だったのかすぐにわかった。夕方の朱い太陽に痩せた背中が照らされている。芥子色に黒いラインのジャージの上に、ひとつに括った傷んだ白髪。
仁王雅治。立海大附属中3年、男子硬式テニス部、レギュラー。
俺の兄。
***
中学に上がって驚いたこと、それは兄が意外にも女子から人気があるということだった。家では毛玉だらけのスウェットに姉のお古のヘアバンドで過ごしているような、田舎のヤンキー崩れみたいな人間が、どうやら「ミステリアスなイケメン」なんだそうだ。
目立つ苗字だから、俺が兄の弟であることはすぐに気づかれる。気づかれるとどうなるかというと、女子に捕まって兄の話をさせられる。今日もそうだ。
「仁王くんってさあ、仁王先輩の弟なんだよね?」
話したことのないクラスメイトだった。確か、吹奏楽部のワタナベさんとソノカワさん。ワタナベさんの方は声が大きくて仕切りたがりで、クラスの女子の中でも目立っていた。ソノカワさんはそのワタナベさんといつも一緒にいる人。兄の話をするのは気は進まないが、女子と接点ができるのは正直、優越感というかなんというか、そういう気分になるので嫌いではなかった。
「そうだけど」
「ね、仁王先輩って家だとどんななの」
「どうって、普通…普通にしとるよ」
「普通ってどんな感じ?」
「知らんよ、兄貴、大体ひとりで部屋におるし。なんで?」
だってさあ、と言いながらワタナベさんは俺の前の席に座った。ソノカワさんの方は、俺の机の隣に立つ。兄の話は続くらしい。
「かっこいいじゃん、何しててもそれっぽくてさ」
なんかオシャレだし、ちょっと悪いこととか知ってそう、ミステリアス、汗とかかかなさそう、テニスもなんかすごいんでしょ。2人はきゃっきゃっとはしゃぎながら兄のことを褒めちぎる。家で見る兄の奇行の数々を思い浮かべると、いよいよ女子のことが理解できなくなる。この子達は兄が床に這いつくばってクワガタの形態模写をしてるのを見ても同じことを言えるのだろうか?
「兄貴の何がそんなにええのか、俺にはわからんけどなあ。ほんまただの変な奴よ」
部屋着の兄の写真を見せようと思ったのだが、チャイムが鳴ったので会話はそれで打ち切られてしまった。画面に表示された兄の写真は頭にヘアバンドを着け限界まで引き上げたスエットパンツに黒いタンクトップをインした姿のもので、ふざけて撮ったものにしろ、どう見たってかっこよくはないだろうと思った。
程なくして数学担当の教師が教室に入ってきて、大して面白くもない雑談を始めた。それを聞き流しながら俺は、そういえばワタナベさんたちは兄について話す時にテニスのことをオマケみたいに扱っていたな、と考えていた。シャープペンの芯を出して、出して、出して、折る。パキッ。その音が予想外に響いてしまって、慌てて辺りを見回したが、誰もそんなこと気にしていないようだった。
***
今晩は両親共に残業で帰りが遅くなると連絡があった。こういう日は夕飯は自力で調達になる。姉は彼氏に会いに行ったので、おそらくそのまま食べてくるだろう。兄はもうしばらくは帰ってこないだろうから、俺ひとりだ。わざわざ自分ひとりのために作るのも面倒で、コンビニで適当に済ませることにした。
兄は大体帰りが遅い。うちのテニス部は毎日真っ暗になるまで練習だから、そもそも学校を出るのが19時過ぎになるらしい。そこからあっちこっち寄り道したり、時には夕飯を済ませてきたり、帰ってきたとしてもまたすぐ出かけて行ったりと、補導スレスレの時間に平気で外をうろついているのでこちらとしてはやや心配になる。そんなつまらないことで大会出場の権利を奪われでもしたらどうするのかと思うのだが、それを知られるのも癪なので絶対に言わないことに決めていた。
自分の分だけ買って来ればいいか、と思いながら玄関で靴を履いていると、珍しいことにもう兄が帰ってきた。
「ただいまァ」
そう言う兄は見るからにくたびれていた。まだ20時にもならないのに、今日は寄り道する体力のかけらすら残らなかったのだろう、だらだら靴を脱いで俺の横に滑り込んできた。狭い玄関でまったく迷惑だ。
「おかえり。コンビニ行くけど何か要るもんある?」
「いやあ、ええわ。もう飯も食えん、あーゲロ吐きそ」
そういって俺の肩を捕まえて頭の上で嘔吐するフリをする兄を見て、やっぱりモテるようには思えなかった。近づくとわかるが普通に汗臭いし、髪はボサボサに乱れている。どう考えてもミステリアスではない。どちらかと言うとボロ雑巾だ。イケメンかどうかは、ずっとこの顔を見続けてきた俺には判断し難いものがあるが、目つきは悪いし痩せっぽちだ。
「やめろやきったねえ」
兄の腕を押しのけて立ち上がる。
「もう大分暗いき、気ぃつけろよ」
「わかっとる、何なん今日うっといわ」
暗いから気をつけろなどどの口が言うのか、ふざけた白髪野郎は後ろに放っておいて玄関のドアに手をかける。
ふと兄が脱いだシューズが目に入った。
もとの色が白かグレーかわからないくらい汚れていた。
***
思い返せば俺が立海の受験を決めたのに大した理由はなかった。新しい家から自転車で通える距離であることと、上手くすれば高校大学で一般受験をパスできるのがうまい、それだけ。部活への参加は実質強制だと聞いていたからそこだけがネックだったが、兄と同じくテニス部に入ろうかとぼんやり考えていた。テニスがしたかったからではない。兄のお古があるから一から道具を揃えなくても済むのがいいなと思っただけだ。全くの未経験ではないし、運動神経はそこそこ良い方だから、いくら強豪とはいえ部活について行くだけならやっていける自信はあった。実際、兄だって中学に上がって最初の1年間は毎日綽々たる様子だったのだ。
しかしだんだん話は変わってきた。兄は2年生の春の終わりくらいから、帰ってきては毎晩みたいに嘔吐するようになったのだ。全身日焼けで赤くなって痛そうだったし、肘や膝の生傷も絶えなかった。向こうの土地にいた頃、クラブチームの練習から帰ってきた兄はいつも余裕そうにヘラヘラ笑っていて、上級生に勝ったのどうのと話してくれるその手足には傷も痣もなかったのに。目に見えて消耗してゆく姿が心配だった。全国レベルの中では兄の実力なんか埋もれてしまって、体力も足りなくて、もうコテンパンなのかもしれない、と本気で思っていた。あんまり毎日ボロボロなものだから、そんなになってまでやることなのかと兄に尋ねたことがある。
「しんどくないん?なんでそんな頑張りよん、ずっとケガしよるじゃろ、お兄」
テニスの何がそこまで兄を突き動かすのかわからなかった。その時の俺にとっては足首にぐるぐる巻きにされたテーピングからはみ出た鬱血の青紫の痛々しさの方が大事で、たかが部活なんかのために怪我するなんて勿体無いと思ったのだ。
兄は一瞬吃驚したような顔をして、それから一度鼻を鳴らしてこう言った。
「半端はつまらん」
目をギラギラさせながらニヤッと笑うその姿を見て、俺の「やっていける自信」は塵となって吹き飛んだ。兄のその顔は立海のテニス部というのがどんな環境なのかを察するに十分だった。楽しい、の意味がまるで違う。怪我も嘔吐も、強くなるためならば大した問題じゃないのだ。それが俺には到底理解できなくて、おっかなくて、むやみにかっこよかった。俺みたいにとりあえずの気持ちで身を置くような人間がいてはその覚悟みたいなものを濁らせてしまうんだろうな、とも思った。だからテニス部には入らなかった。
無事合格した立海で見た兄は家でのやつれっぷりは何なのかと疑いたくなるほど飄々としていて、努めてそういう振る舞いを心掛けているようにも見えた。制服やユニフォームの下の四肢はつるんと無傷でまっさらで、ガリガリの胴もカーディガンやユニフォームのサイズでうまく誤魔化されている。俺のよく知るテニスバカとは別の人間がそこにいた。
ついでに言うと、何の演出なのか知らないが向こうに住んでいた頃よりも方言が大袈裟になっていて、それは正直気色悪かった。
***
6月に入って最初の土曜日、ナカムラの誘いを断りきれずテニス部の練習試合を冷やかしに行った。東京の学校がわざわざウチまで来たそうだ。学校のない日は完全オフの我々陸上部からすれば、土曜日なのにわざわざこんなところまでご苦労なこと、と思う。
「ちょうどじゃん!」
ほら、と腕を引っ張るナカムラに促されてフェンス越しに覗いたテニスコートには見慣れた白髪の背中が見えて、頼むからこっちに気づくなよと祈った。もちろん応援しているけれど、それを知られたくはないのだ。
ボールを打ち合う音が夏のはじめの空に抜けてゆく。お相手の学校も全国常連だというからきっとレベルの高い試合をしているんだろうが、ゲーム展開がどうなっているかなんかまるでわからなかった。あっちへ行ってこっちへ返ってを繰り返す蛍光イエローを目で追うだけで精いっぱいだ。もう俺は兄と打ち合うことすらままならないだろうな。最後にネットを挟んで兄を見たのはいつだったか、あの頃テニスは俺たち2人にとって楽しいお遊びの一つだった。勝てば嬉しくて負ければ悔しい、でも家路に着く頃にはそのどちらの気持ちもだんだん薄れて、次の日になればすっかり消える。そうやって同じボールを打ち合っていたはずなのに、兄はいつの間にか変わっていた。テニスに、違うものを見ていた。ついていこうにも、それが何なのかどうしたって見つけられなくて、俺は自然とラケットを手放してフェンスのこっち側に立つようになっていた。
「オニーサン、余裕じゃん。かっけえな」
涼しい顔のまま遊ぶみたいにラケットを振る兄を見て、ナカムラが興奮気味に言ってきた。確かに 余裕そうに見えたし、実際その通りなんだろうが、それだけじゃないんだぜ。そう言ってやりたかったけれどやめた。知られなくていいことだ。兄の普段の態度を思えば尚更。
コートチェンジの時、対面の形になった兄とフェンス越しに目が合った。俺を見つけた兄は意外そうに目を見開いてから、いつかと同じようにニヤッと笑った。それからラケットを手のひらの中でくるくる回して、こっちに向かって突き刺して見せた。その目が真昼の日差しにギラッと光る。それは俺のよく知っている兄の表情だった。