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    ake_rakke

    @ake_rakke

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    ake_rakke

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    【ルドWebオンリー楽しかったです!】

    気に入ってたのでやっぱり公開します。

    木更津の要望で2人で千葉の海を見にいくヤナキサです。
    柳沢くんって面倒見の良さが変な方向に行ってずっと淳のこと考えてそうだ。

    ##ヤナキサ
    ##勝利に集いし我ら

    薄明に瑠璃を見る淳の提案はいつも急だ。今回もそれぞれが布団に入ってさあ寝ようというところで突然「海行かない?」と言ってきたのだった。木曜の夜だった。寝入り端の心地よいまどろみをそんな気侭なお誘いによって遮られ意識を揺り起こされてしまった俺としては正直遺憾ではあったのだが、このところ淳がぼんやり遠くの空を眺めてばかりいることを思い出して、できるだけいつも通りの調子で返事をしようと努めた。
    「どこの海、いつ」
    「うちの海、週末」
    「今週末?」
    「今週末」
    急に何を、と毒づきたくなる一方で、一緒に海に行くことでいつもの調子が取り戻せるのならば千葉でもどこでもいくらだって付き合ってやりたいとも思った。最近の淳は、確かにそこにいるのに、どこにもいなかった。教室に部室に、スクール、それから寮の俺たちの部屋。そのどこにいても、心をどこかに置き忘れたまま、淳の体だけが今まで通りの行動を上手になぞっている、そんな感じだった。出会った頃に少し似ていた。
    「日帰り?」
    「泊まり……僕ん家、嫌じゃなければ」
    迷惑じゃないのなら、と答えると、うちは基本的にウェルカム体制だよと返ってきた。初めてお邪魔するのが泊まりかと思うと少し気が引けたけれど、淳がそうしたいと言うのなら俺は望む通りにしてやりたいのだ。
    「じゃあ決まりね。おやすみ」
    その割、おやすみを言う声にちっとも嬉しそうな色はなくて、俺は自分の力の及ばなさにひそかにため息をついてから目を閉じた。



    明る金曜日、俺たちはスクールから帰るなり外泊届けを提出して、夜のうちから出かけていった。てっきり明日の朝に出発するのだと思っていたのだが、スクールから帰る電車の中で淳が「今日は晩ごはん諦めるつもりでいてね」と言ってきたのだ。
    「朝には向こうにいなきゃ、せっかく行っても意味がないから」
    いつものほほえみをどこへ忘れてきたのやら、俺の目をじっと見る淳は見慣れない無表情だった。電車の揺れに合わせて現れては消える夕焼けのストライプがその顔を照らすけれど、瞳に色はなかった。塗りつぶしたみたいにのっぺり黒くて、いくら覗いても何にも見つからない。こんなに真っ直ぐ見つめられているのに、そこに俺がうつっているのかもわからなかった。千葉へ向かう電車の中でも、隣に座っているのに少し離れたところにいるような感覚だった。どんどん暗くなる窓の外と、増えたり減ったりする乗客。俺たちはふたり並んで静かにそれらを眺めていた。東京が遠ざかるにつれて淳の口数が減ってゆくのでどうしたものかと思ったが、いっそ自分も黙ってみたら案外居心地が良いというか、気まずさが無くて、沈黙に身を委ねることにした。聞いたこともない駅名のアナウンスを聞き流しながら淳の隣でぼんやりする時間は結構良かった。しかし3回目の乗り換えの時、ホームで電車を待ちながら困った顔で「疲れた?」と聞いてきたので、もしかすると淳の方は不安だったのかもしれない。こんな顔させるなら色々しゃべっているんだった。申し訳無さから口数が増える。
    「疲れてはいないけど、緊張してきただーね」
    「何にさ」
    「ご挨拶?…あ!手土産なんも用意してないだーね!」
    「いらないと思うけどなあ」
    淳は笑いはしなかったけれど、不安そうな表情は拭えたのでほっとした。

    淳の家の最寄りだという無人駅で電車を降りる頃には22時を回ろうというところだった。年季の入ったアルミの引き戸を開けて外へ出ると、潮のにおいがむっと鼻をついた。暗がりの奥から絶えず波の音がしている。駅に面した道路は防波堤に沿って真っ直ぐ伸びていて、ポツポツと置かれた街灯の煤けた橙色がぼんやり灯っている他にほとんど明かりはなかった。
    「思ってたより田舎でしょ」
    携帯で時間を確認しながら独り言のように呟く。癖のない髪に街灯の弱い光が反射して、同じ橙色の輪が浮かんでいた。その下の表情は、影になってまるで見えない。
    「行こ。僕ん家、歩いて15分とかだから」
    「近いのか遠いのか微妙だーね」
    「歩ける範囲だよ」
    噛み合っているようないないような会話の後、淳は黙って歩き出したので、俺も同じく黙ってその後ろをついていった。堤防が途切れて防風林に切り替わるその隙間から覗き見た海は、真っ黒い波の表面を月明かりにてらてらさせながら穏やかに揺れていた。
    住宅の合間を縫うようにしながらゆるやかな勾配を上る。車の気配も無いので2人で車道のど真ん中を歩いた。角を曲がるたび、波の音がだんだん遠くなってゆく。新しい家とそうでない家と、小さい公園。止まれの標識。ここは海抜4.7メートルです。輪郭の錆びたカーブミラーにうっすら写った俺たちは、自意識よりガキっぽくて、小さかった。ふとうしろを振り返る。あの黒い波はもうどこにも見えなくなっていた。それでも夜は静かで、波の音だけはかすかにここまで届いていた。どこにでもありそうな碁盤目状の住宅街だったけれど、夜中に道路の真ん中に立っていると、迷路の中にいるみたいだ。
    「柳沢!」
    呼ばれた方へ向き直る。簡単な門のある家の前に淳は立っていた。躊躇いなくインターフォンを押すとこちらを振り返る。
    「近かったでしょ」
    そこが淳の実家だった。白くて洋風の作りで、芝生の敷かれた庭と、玄関のドアの横に構えられたシャッター付きのガレージが印象的だった。
    わざわざ門を開けに外まで出てきてくれた淳のお母さんは、夜遅い訪問にも関わらずにこやかに迎えてくれた。促されるまま洗面所へ通されて手洗いをしていると、後ろから淳とお母さんの話す声がうっすら聞こえてくる。「駅に着いたらお迎えの連絡くれるって言ってなかった?」「携帯充電切れてたの」「淳が良くても柳沢くんが危ないんだから」「大丈夫だよ、てかお腹すいた」ルドルフで見せる態度よりずいぶんぶっきらぼうで可笑しかった。淳でも親の前ではこんなふうになるんだ。からかってやろうかと思ったけれど、そこでまた俺はぼうっと遠くを見つめる淳の無表情を思い出して、今じゃないなと思い直した。今そんなことをしても、たぶん淳は笑ってくれない。


    「おかえり淳」
    背後からかけられた声に振り返ると、長い髪を一つにまとめた、淳と同じ顔の人間が立っていた。なるほどこれがあの亮か!何度か通話している横から首やら口を突っ込んで話したことはあったのだが、いざ実際に顔を見るのは初めてで、実在したんだなあと不思議な感動すら覚えた。さっぱりと整った顔だちはコピーしたようにそっくりだが、淳よりも気の強そうな目つきをしている。思っていたより簡単に見分けがつきそうだった。
    「ただいま亮」
    「いつまでいんの?みんなには会ってく?」
    「時間があればね。でも明日の夕方には帰るよ」
    「……帰って来たんだろ、今」
    恨めしそうな声を残して淳の兄貴は階段を登って自室へ引っ込んでいった。てっきり俺にも一言二言なにか吹っかけてくるだろうと身構えていたのだが、一瞬目線を寄越しただけでその他には何もなかった。拍子抜けだと思っていると、
    「人見知りしてんだよ。喋ったことあるのにね」
    俺の心を見透かしたように淳がそう言ってきたので、俺は密かにワオ、と思うのだった。
    それから風呂を借りて、夜食におにぎりまでいただいて、俺たちはおしゃべりもそこそこに床についた。淳の部屋は予想に反して1人部屋だった。てっきり双子の兄貴と一緒なのだとばかり思っていたが、それを言ったら「面白いこと言うね」と顔をしかめてみせた。
    「俺と同室なのは平気なのに」
    「柳沢は亮じゃないでしょ。わかんないかなあ」
    ぎゅっと寄せられた眉根がこれ以上つついてくるなと語っていた。仲がいい割に、淳は亮とセット扱いされるのを嫌がることがある。そのくせ、似ていないと言われれば機嫌を損ねるのだから、よくわからない。兄弟すらいない俺には想像することもできないが、双子というのはどこもそういうものなのだろうか。近すぎるってのも色々あるわけよ。電気を消してくれた淳が呟いたその言葉が暗くなった部屋に落っこちて、居心地悪そうにどこかに消えた。聞こえないふりをした。淳が俺の返事を求めているのかどうかもわからなかったから。
    「跨ぐよ」
    「はいよ」
    床に敷かれた布団の中で丸くなる。宣言通り俺の上を跨いでいった淳がベッドに潜ったことがシーツの擦れる音で分かった。淳は何も喋らなくて、俺は俺で何を喋ったらいいかわからなくて、無言のままでいた。いつもなら考えなくとも口から出てくる軽口が今は不思議と何にも思い浮かばなかった。おやすみを言いそびれたままだったけれど沈黙を破る勇気もなくて、淳の寝息が聞こえてくるまで秒針の音を聞いていた。

    「やなぎさわ、やなぎさわ、ねえ」
    肩を揺すられる感覚に目を覚ますと、よく耳に馴染んだ声が真上から降ってきた。淳の声は角がまるくて、低く穏やかに響くので、寝起きの頭にも優しかった。半年以上寝起きを共にしているというのに初めて知ることだった。
    「いま何時…」
    「4時ちょい前。ねえ起きてよ、海行くよ」
    淡い青色のカーテンの向こうはまだ暗い。日の出より早起きをしたのなんていつぶりだろうか、それより淳、ひとりでこんな早起きができるやつだったのか。ならば毎朝俺に起こされている寝汚い男は誰なんだ。日頃の仕返しとばかりに思い切りあくびをしたが、淳はいつの間にかクローゼットに頭をつっこんでなにやらゴソゴソやっており、こちらを見てすらいなかった。もうすっかり身支度を済ませているようで、それを見て、そういえば着替えを持ってきていなかったことを思い出す。
    「着替えたら出るよ。何でもいい?」
    淳はまた俺の考えていることを見通したようなタイミングでそう言ってきた。寝巻きは何だって構わないと淳が実家に置き去りにしていたTシャツを借りたが、外に出るのならばそれなりに見られる格好をしたい。自分の前身頃一面に筆文字風のフォントでデカデカとプリントされた六角魂の三文字を撫でながら、嫌な予感に目が泳ぐ。
    「俺昨日と同じ服でもいいかな…」
    「なんでよ、僕の貸すよ。無地ならいいでしょ」
    淳はそう言いながら衣装ケースから引っ張り出した黒いTシャツを投げてよこした。生地が少しよれているが、いたってシンプルな、ごくふつうの物だった。淳が衣服に頓着しないたちなのはよく知っているし、反対に、俺が結構服飾好きなことを淳もよく知ってくれている。きっと自分の手持ちの中から俺が嫌がらなさそうな1枚を選んでくれたのだろう。その気持ちを嬉しく感じながら受け取ったTシャツを広げると、着ていない服のにおい、仕舞い込まれた布の埃っぽいにおいがした。淳が実家を離れてからの月日がそこに表れていて、それはそっくりそのまま俺と淳が一緒に過ごした時間でもある。
    「……ちゃんと洗ってからしまってあるよ」
    俺がなかなか袖を通そうとしないのをどう受け取ったのか、心外だとばかりに口を尖らせた。
    「そんなこと疑ってないだーね!ただ、」
    「ただ?」
    「…こんなの持ってたんかーって思っただけ」
    さっき思ったことを素直に言うのも照れくさくて、適当に誤魔化した。淳は腑に落ちていない様子だったがそれ以上何も追求してくることはなく、なんでもいいけど早く行こ、と布団を剥いで俺を急かした。
    淳の家族を起こさないようそっと階段を降り、慎重にドアを開けて外へ出る。淳の地元は夜も朝も優しい潮風が吹いていて、空気がしっとりして柔らかいように感じた。その所為か、日の出前の青い空気の冷たさも穏やかな気がする。知らない土地なのに妙な居心地の良さがあった。地元と同じく海があるからだろうか、と思ったが、日本海と太平洋では正反対だし、そもそも俺の地元はそこそこ内陸寄りで特に海に親しみながら育ったわけではないので、これはこじつけだ。
    「なんかいいな、海辺の街って感じだーね」
    「そう?自転車なんかすぐ錆びて大変だよ、ほら」
    言いながらガレージの奥からカラカラと引っ張り出してきた自転車は、淳がこっちの中学に通っていた頃の愛車だそうだ。もとのシルバーがわからないくらいあちこち赤茶けていた。荷台もあるにはあるが、錆に侵食されて表面の塗装がぼろぼろに剥がれ落ちてしまっている。
    「じゃ、乗って。行くよ」
    その錆びた荷台をポンと叩くと淳はそう言った。淳の背中にしがみつくのはなんだか気が引けて、それは俺たちの対等さみたいなものが揺らぐような気がしたからで、迷った挙句俺はサドルのふちを握ることにした。支えてもらうのは何か違うと思った。錆が付着しているのか、サドルの裏側もザラザラして砂っぽかった。
    俺が荷台に乗ったことを確認すると、淳はまた、行くよ、と告げて脚に力を込める。ぐん、と自転車が進み始めた。自分と比べていくらか華奢だと思っていた体は、漕ぎ始めこそふらつきはしたが、しっかり俺たち2人分の重さを支えて海へと運んでみせた。坂道を下る。自転車がスピードに乗るほどに、風が頬を叩く。ろくにセットもせず横に流しただけの前髪が暴れるみたいにたなびいた。淳の漕ぐ自転車の後ろに乗るなんて想像したこともなかった。俺たちが二人で乗るなら俺が漕ぐ方だと当然のように思っていたのだ。でも案外、淳の後ろも違和感はなかった。Tシャツの薄い生地の下で肩甲骨や背中の筋肉が動くのがわかる。見知った背中なのに、いつもよりずっと近くにあって、それだけで特別だった。帰りは俺が漕ごう。くすぐったい不思議な居心地の良さを淳にも味わわせてやりたい。
    まだ薄暗い中を自転車で進む。俺たちだけが今日を始めていた。世界に俺と淳の2人っきりになってしまったみたいだ。遠くで何か海鳥の鳴くのが聞こえる。その他には、どこまでも追いかけてくる波の音と、俺たちを乗せた自転車の軋む音。淳がペダルを一漕ぎするのに合わせて甲高い悲鳴をあげて、今にも壊れてしまいそうなものだったが、不安はなかった。
    「なあ、俺、重くない?」
    「余裕!」
    意外な大声が返ってきて驚いた。ちょっと元気になったのかとも思ったけれど、背中しか見えなくては何も読み取れない。いま淳、どんな顔してるんだろう。笑っていると嬉しいけれど、たぶんそんなことは無いんだろうな。
    「淳ぃ」
    「うん?」
    「なんでもないだーね」
    昨日降りた駅の前のまっすぐな道に合流すると、遠くにうっすら車のライトが見えて、俺たちだけの世界はそこであっけなく終わってしまった。


    てっきり砂浜へ連れて行かれるものとばかり思っていたが、たどり着いた先はコンクリートとブロックできれいに整備された海岸だった。道路との間に背の低い粗末なフェンスが設置されて、形だけ区切られている。すぐ側のガードレールに自転車を立てかけて置き去りにすると、淳は慣れた様子でそのフェンスを乗り越えて、俺なんかお構いなしに海の方へ歩いて行ってしまったので、慌てて追いかける。足元には平たくて茶色い虫のような生き物が長い触覚を揺らしながらうじゃうじゃしていて、俺はひそかにヒュッと息を呑んだ。サンダルとハーフパンツでは心許なくてまごまごしていると、呆れたような困ったような声が飛んできた。
    「それフナムシ。こっちが動けば勝手に逃げるし、噛んだりしないから大丈夫だよ」
    言うとおりに足を踏み出してみると、フナムシは確かに散るように俺から離れていったが、少しじっとしているとまたあっという間に足元でひしめくものだから、俺は大袈裟に足を踏み鳴らして淳の後をついていった。側から見たらだいぶ滑稽だったと思う。淳は時々俺の方を振り返りながら、それでも何も喋らずに真っ直ぐ海の方へ歩いてゆく。静かな淳っていうのは妙に雰囲気があって、いつも俺と軽口を叩きながら悪ふざけに笑っている人間とは別人のようだった。氷の貴公子。転校してきたばかりの頃に女子たちにこっそりつけられていたあだ名をふと思い出した。こんなガサツな人間のどこが貴公子なものかと腑に落ちないでいたのだが、なるほど、今ならそんな風に呼びたくなる気持ちも少しわかる気がした。
    まだ薄暗い中、沖へ伸びる防波堤の上を縦に並んで歩く。淳が足を前に出すたびにフナムシが方々に逃げ惑いテトラポッドの隙間に吸い込まれてゆく。俺はその様子を後ろから黙って見ていた。千葉へ来てから淳はずっと俺に背中ばかり見せている。
    「何も聞かないんだね、柳沢って。こんなとこまで連れてこられてるのに」
    防波堤の先端までたどり着くと淳は、俯いたままちょっとばつの悪そうな声でそう呟いた。
    「…聞いてほしかったんか?」
    話したかったら話すだろうと思っていたし、俺の納得いく理由がなくたって淳のやりたいようにさせるつもりだったから、聞く必要がなかったのだ。そう伝えると淳はこちらを振り返って面食らったような顔をした。長い前髪の向こうに大袈裟な瞬き。それから自分のつま先を見つめて、今度は海の方を見て、意を決したように息を吐く。
    「柳沢と一緒に海が見たいと思ったんだよ」
    そう言いながら、俺のTシャツの裾を摘んで、少し引っ張って、そっと放した。放すくらいなら最初からそんなことしなきゃいいのに、というより、そうしたいなら掴んだままでいりゃあいいのに。日頃のマイペースでミーイズムめいた振る舞いと今の殊勝な態度があんまりちぐはぐで、これは、と思った。ふと見ると今度は自分の服の裾を堪えるみたいにきゅっと握っている。そのまま放っておくのはとても耐えられなくて、健気なその手を捕まえて握った。衝動。うわあ、俺、何やっちゃってんだろう。きもいかな。さすがに引かれたかもしれん。俺の心配とは反対に、淳はちいさく「わ」と言っただけで嫌がるそぶりもなく、そのままでいてくれた。
    「……こないだ見たら、知らないうちにオジイのラケットのガットが切れてたの。それ見たらなんかさ、ガーンってきちゃって。もうあっちは使わないって決めてたんだけど、それでも結構ショックで、千葉でやってきたこととか、そういうのが消えちゃうって思って…」
    泣いちゃったんだよね、やばくない?一呼吸おいてから、淳は自嘲気味にそう言った。いつのことだろう、気づきもしなかった。その時慰めてやりたかったけれど、淳はそうされたくなかったから俺の知らないところでこっそり泣いたんだろう。それでもやっぱり気づいてやりたかったと思うのは傲慢だろうか。
    「最近は大丈夫だったんだけどなあ」
    ひやっとしていた淳の体温と指の輪郭が、俺の手の中でぼやけていく。
    「…こっちいた頃もたまに、亮と自分がごっちゃになるみたいなことが結構あってさ。そういう時よく来てたんだ、ここ。日が昇るときれいなんだよ」
    ひとりで朝の海を眺めていると自分のことがよくわかる気がしたのだ、と淳は話した。俺の知らない、幼い淳がひとりでこの防波堤に立ち尽くす様子を想像すると、苦しいような悲しいようなたまらない気持ちになる。めちゃくちゃを言うと、その時も隣にいてやりたかった。再び黙ってしまった淳の手を握りなおすと、弱い力で返してくれた。
    「だからさ、柳沢と一緒に見たらどう思うのかなって」
    「だからって?」
    「柳沢と一緒にいる時の僕は、僕だけだから」
    言っている意味がわかるようでわからなくて、何と返すべきか、頭の中に色々言葉を並べてみたけれど良いものが見つからない。ただ、そのままそうかって受け取ってはいけないことだけは確かだった。俺の所在によって淳のアイデンティティが揺らぐなんてことは、違う。波の音が俺たちの沈黙を埋めてくれる。
    「淳はもとから、淳だけだろ…」
    結局それしか言えなかったし、淳は軽く首を振っただけで返事をしなかった。話したいのはここまでらしい。
    「そろそろだ」
    そう言うと淳はしずかに自由な方の左腕を持ち上げて、沖の方へ向けて伸ばした。白い指の差す方へ顔を向けると、水平線の境、空のふちが向こうから少しずつ白んでくるのが見えた。日が昇る。朝日が水平線に反射して一閃、金色の帯になっておれたちの目を刺す。視界が真っ白になる。眩しさにたまらず目を瞑れば、まぶたを透かして血潮の赤色が見えた。手庇に隠れて淳の方を盗み見ると、両眼を開いて遠く海のむこうをまっすぐに見つめていた。瞬きすら忘れているように見えた。黒いはずのその瞳が陽の光を吸いこんで琥珀の色に変わっている。人間の眼は水晶でできている。小さい頃に読んだ図鑑と、先週授業で開いた生物の教科書を思い出した。あれは本当だったのだ。電車の中で見た、瞳孔と虹彩の境のわからないほど真っ黒な淳の目が、透きとおってつやつや光っていた。
    きっともとの目の色が深いから、この突き刺すような光線を真正面から受け止めることができるのだ。淳はこれまで何度、この朝日を見てきたのだろうか。俺には見ることのできないたくさんの光を、淳は知っている。その数の分だけ、自分のことを見つめてきたのだ。足元にはまっすぐな影が黒くはっきり伸びていた。
    次第に光の鋭さは勢いを失い、色も赤みを帯びてゆき、見事な朝焼けとなった。淳はようやく、こちらへ向き直って、そうして表情を綻ばせた。
    「きれいだったでしょ」
    頬にまつ毛の影が落ちている。
    「きれいだった」
    淳と同じものはきっと見ていないけれど、きれいだったのは嘘ではない。
    「で、淳は。どうだった?」
    「変わんなかった!」
    おかしそうに破顔して淳はそう言った。ずいぶん久しぶりに笑っている顔を見た気がした。
    「でもたぶん、僕って僕なのかも、っては思った。どこで何やってても」
    相変わらず要領を得ない言葉だったが、本人の中では何かが腑に落ちたらしかった。俺が淳のことを眺めている間、淳は何を考えていたのだろう。時間にしたら5分もなかっただろうに、淳の顔からはさっきまでの沈んだ色は消えて、すっかりいつも通りだった。繋いだままだった手を放す。
    これまで俺は求められるまま与え、頼られるままに応じて、淳のことは俺が支えてやらなきゃとまで思っていたけれど、ちょっと自惚れが過ぎていた。淳は元々ひとりで立っていられる奴なのだ。よく思い返せば、ルドルフに来てすぐの頃からそうだった。観月の理不尽なんか気にも止めずに、自分のやりたいままにラケットを振る姿が軽やかで眩しかった。自分でいるためのしなやかさみたいなものを、あの頃には既に持っていた。それはこの海で今日みたいな朝を積み重ねて、少しずつ身につけていったものだったのだろう。それがわかったからもうなにも聞かなくて良いと思った。
    「付き合ってくれてありがとう、柳沢」
    何もしてないと笑ってやると、手え繋いでくれてたじゃん、と恥ずかしげもなく言ってのけた。
    「柳沢って案外きざだよね」
    「あれは淳が心細そうだったからだーね」
    「うん、そうなんだよ、だから嬉しかった。ありがとう」
    淳はこんな時でもまっすぐこちらを見つめてくる。つまらない意地やプライドなんかがなくて、自分の気持ちのありのままを素直に認めてしまえる強さが、淳にはあるのだ。透明な瞳は今度は波の色を反射して青くきらきらひかっている。さっき並んで見た時よりずいぶん優しくなった朝日に包まれて、そこに淳が立っている。教室で、部室で、寮の俺たちの部屋で、そしてテニスコートで、俺の隣にいるいつもの淳。淳がちゃんとそこにいる。そのことが自分でも不思議なほど嬉しかった。淳は、笑っている方がいい。物憂げに瞳を翳らせるのも様になっていたけれど、やわく微笑む丸い頬が、くすくす笑ってきれいな弧を描くその口元が、俺は結構好きなのだと、初めて気がついた。


    ゆっくり帰りたくて、自転車は押して歩くことにした。淳を乗せて走りたい気持ちも消えたわけではなかったが、それはまた今度でいいだろう。今はふたりで話がしたかった。
    淳は雪をまともに見たことが無いという。
    「たまに降ることはあったと思うけど、積もった記憶はないなあ。小さい頃にあったかな?」
    首をかしげて斜め上の空を見ながら、淳はうーん、と喉の奧でうなった。何かを思いだそうとするときの癖だった。
    「柳沢のとこは結構降るの雪」
    「冬の間に何回かドカッと降って積もることはあったかな。でもそんなにだーね」
    「積もるってどれくらい?」
    「膝とか?」
    それを聞くと淳は雪遊びし放題だとはしゃいで見せた。地元の冬を思い出す。朝起きると鼻の頭が冷たくて、この冷え方はもしかして、とカーテンを開けると真っ白で、そういう日は不思議と清々しく目が覚めた。
    「じゃあスキー場なんか行ったら、淳、嬉しくてぶっ倒れるだーね」
    「雪いっぱい?」
    「地平線までぜんぶ」
    小学校を卒業するまでは毎年両親にスキーに連れて行ってもらっていた。木に積もった雪をさらうせいで風がきらきらすることとか、雪に落ちる影の青色とか、ゴンドラから見つけたキツネか何かの小さな足跡とか、気にもとめていなかったはずの風景が蘇る。それら全部、真っ白に光っていた。雪の思い出は全部明るくて眩しい。淳はきっと雪の中でも目を開けていられるんだろう。その横顔を見たいと思った。一面の銀色に乱反射する陽の光を浴びた時、淳の瞳は何色になるんだろう。俺のスキー用のゴーグルはミラータイプだった。
    「すごいね、いつか連れてってよ」
    機嫌良さそうにくすくす笑う顔が朝日に照らされて、淳自身が光っているみたいに見えた。それがやけにきれいで、たまらなくなってしまって、ごまかすみたいに肩同士をぶつけたら揃ってバランスを崩して自転車ごと転びかけて、ふたりで笑った。








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    ake_rakke

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    「どこの海、いつ」
    「うちの海、週末」
    「今週末?」
    「今週末」
    急に何を、と毒づきたくなる一方で、一緒に海に行くことでいつもの調子が取り戻せるのならば千葉でもどこでもいくらだって付き合ってやりたいとも思った。最近の淳は、確かにそこにいるのに、どこにもいなかった。教室に部室に、スクール、それから寮の俺たちの部屋。そのどこにいても、心をどこかに置き忘れたまま、淳の体だけが今まで通りの行動を上手になぞっている、そんな感じだった。出会った頃に少し似ていた。
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