履歴 スマートフォンのディスプレイに、着信履歴が一つ。庵歌姫。留守録はなし。五分もたたないうちに受信したメッセージが一つ、こちらも庵歌姫。
——間違えて電話しちゃってた。ごめん。気にしないで。
たったそれだけ。
任務を終えた五条が補助監督の待つ車に乗り込み、置き忘れていたスマートフォンを確認すると、まあ珍しく立て続けに連絡が入っていた。正確に言うなら、連絡のようになってしまったものを取り消してお詫びされた、という履歴が残っていた。目線をついと動かして、時間を確認する。メッセージの受信からは十分とたっていない。
庵が「間違え」たのは何か。例えば時間、手段、相手。
時間は宵の口。一般社会のビジネスならマナーだの勤務時間だのと言われるのかもしれないが、五条や庵は呪術師である。夜中や明け方に動いていることもざらなのだから、こんな時間に連絡したくらいでは今さら恐縮することもない。個人的なやりとりなら常識の範疇だろう。五条は庵との間にそんな遠慮が要るとは思わないが、庵の側は線引きをしていそうではある。
電話をするつもりもなく、電話ないしは連絡先のアプリを開くだろうか。メッセージならメッセージアプリが別にある。連絡手段を間違えたということは、すなわちアプリ選択の時点で間違えているということだ。さすがにそれで通話の発信まで気づかないことはないだろう。
連絡が五条宛てではなかったというのは、一番可能性が高いと思った。何しろ、庵からコミュニケーションを図ってくることが滅多にない。五条と庵が没交渉、音信不通、ということはなく、むしろ頻繁に電話なりメッセージなりのやりとりをしている。生徒の様子、東京と京都それぞれの現状、互いの近況。ただしそのほとんどが五条発信だった。ごく稀にある庵発のやりとりも、発端は「こないだアンタが言ってたアレだけど」といったもので、それまでに前提となるやりとりがある。今は五条が記憶する限り、庵との間に「こないだのアレ」は特にない。
ふむ、と一通りの思考を終えたころには、車は五条の自宅前に着いていた。多忙な特級呪術師も、今日のところはこれで御役御免である。
帰り着いた自宅で、改めてスマートフォンを手に取った。通話アプリを開いて着信履歴の名前をなぞるように触れれば、あっという間に発信画面に切り替わった。気の抜ける待機音をやり過ごしているうちに、ふと耳に届く音が開けたような感覚。繋がったなと思った瞬間、まずジャブを入れる。
「あっ間違えちゃったー」
『白々しい』
「いやあ、間違えたって何をかなって思って」
五条にしか見せない、ゆがむ庵の顔を思い描く。あんな表情をしておいて五条の言動にはしっかり応えてくるのだから、庵の嫌いという言葉も忌避するような仕草も、五条は真に受ける気になれない。今だって、電話の向こうは見えないのだから、嫌なら着信の一つや二つ無視できただろう。
『普通、間違えたんですね分かりましたってスルーするところだと思うんだけど』
「時間? 手段? 相手?」
庵の言い分を無視して先ほど検討した三つを並べ上げてみると、庵は何その三択と言った。そして答えることを躊躇するように黙り込む。急くものでもないので、五条は沈黙を伝えるスマートフォンを片手にもう片方の手で電気ケトルを取って、水を入れる。
ケトルに電源を入れてマグカップとココアパウダーを取り出したところで、はあ、と息をつく気配が五条の耳元に届いた。
『電話したこと自体』
「ダークホース。じゃあ何、電話するつもりないのにアプリ開いたってわけ?」
『履歴見てたのよ』
「履歴?」と五条が繰り返せば、庵は『通話履歴』と少し情報を付け加えた。
『ちょっと実家に電話する用があって。少し前に電話した覚えがあったから、履歴から電話すればいいかなと思ったんだけど』
庵はちょくちょく横着だ。指摘すると、うるさいと一喝された。事実だというのに。
牛乳を切らしていたのでココアパウダーにはお湯だけを注ぐ。砂糖を足すかは一口飲んでから決めることにして、スティックシュガーはひとつかみ分を箱から取り出すだけにとどめた。
『履歴ね、アンタの名前が並んでた。ずらっと』
遡るのも一苦労だったわよと庵が言う。そんなこと五条の知ったことではないが、痛快だなとは思った。庵のことだ、五条としか連絡をとっていないなどとは考えられない。それでも五条とのやりとりを埋没させるほどの相手はいないようだし、「ずらっと」と言わしめる程度には、五条は他を圧倒する履歴を庵の手元に残しているらしい。
きっと、改めて連絡先を検索したらいいなんて気づいても、一度思いついたアイディアを五条の存在に阻まれるのは悔しくて切り替えられなかったのだろう。あふれるほどの五条の名前の中から実家との通話履歴を探し出そうと躍起になる庵の姿など、想像するだにコミカルだ。直に見ることの叶わない距離が憎い。
『実家に電話してから、改めて履歴見てたときに指が滑って』
「発信しちゃったって? ナイスうっかり、歌姫」
ココアをかき混ぜながら、くくくと堪えきれずに笑いをこぼした。
『気にするなって書いたじゃない。こっちがちょっとうっかりしたくらいで、電話折り返すとか、はしゃがないでよ。余計に情けなくなる』
「はしゃぐでしょ。歌姫うっかり発信記念日ってカレンダーに付け足したいくらいだよ」
『馬鹿にして!』
ココアを一口飲む。砂糖はいらないなと、スティックシュガーの束を箱に戻した。
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